物語がつまった宝箱
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近所にできた大型ショッピングモールに客をとられ、シャッターが目立つようになったラブリ商店街。そこにはいつも、アイリッシュ・セッターのブックという犬がいた。特定の家を持たず、住人みんなに可愛がられているブックは、まるで人間の気持ちがわかっているような不思議な犬だった。

  • さようなら、ブック(2) 2014年9月1日更新
 わたしがブックを迎え入れてからの四年間で、商店街も変わった。シャッターが下りっぱなしだった店舗のうち、四つが取り壊され、コインパーキングとなった。店舗を人に貸して使い方やテナント料などの金銭で揉めるより、コインパーキングにして収入を得たほうがいいと考えたらしい。
 新たに参入してきた店もある。おしゃれなカフェだ。キッチンカーで移動カフェをやっていた若い夫婦が、店舗を持ちたくてたどり着いたのがテナント料の安いこの商店街だった。蕎麦屋もできた。蕎麦打ちはもちろんのこと、つけ合わせの野菜や器まですべて自分で作るというこだわりの店主だ。もともとこの商店街の出身だという。浅草の有名な蕎麦屋で修業していたが、独立して店を構えたくて帰ってきたのだそうだ。
 雪広もパン屋マルコ・ポーロの営業を再開させた。再開にあたってほうぼうから五百万円もの借金をした。一度閉店したときに業務用オーブンやミキサーやパイ生地ローラーなどを売り払ってしまったからだ。しかし、客足は順調なようで予定ではあと六年で返せそうだとか。
 そして、わたしはわたしでギャラリー青をオープンさせた。それもこれもブックのおかげだ。
 雪広が前の奥さんと離婚するのと同時に閉店してしまったマルコ・ポーロを、自らと向き合うことで営業再開まで漕ぎつけたように、わたしはずっと描けなかった絵の制作と向き合うことにした。
 ぽつぽつとながら絵は描けるようになってきている。けれど残念ながら、わたしの絵はほとんど売れてない。
 ところが人生なにが幸いするかわからないもので、制作の傍ら手すさびで描いた漫画をブログに載せてみたら面白いと評判になり、出版社からも声がかかってコミックエッセイとして刊行することになった。来月、二冊目が出る。
 内容はブックを主人公にしたもの。商店街を勝手に散歩する犬ブックが、出くわしたものに人間の言葉でツッコミを入れていく。タイトルは恥ずかしながら、『商店街のブック様』だ。
「ブック様のことを西陽さんはかわいく描いていないからいいんですよ。普通、動物もののエッセイ漫画って、自分の家の犬や猫がかわいいという話に結局なってしまうんです。我が子をかわいがるみたいに。でも、西陽さんとブック様のあいだには、面白い距離があるんですよね。信頼し合っているんだけど、べったりじゃないというか」
 出版社の担当さんはそんなことを言っていた。そりゃそうだ。ブックはもともと商店街の犬。いっしょに暮らしているから家族だけれど、みんなの犬を責任もって預からせてもらっているという気持ちがある。
 ともかく、コミックエッセイがそこそこ売れたおかげで、ギャラリー青はオープンできた。元の豆腐屋のオーナーがやさしい人で保証金はゼロ。店舗つき賃貸でありながら月々十万円の賃貸料で済んでいる。いまはコミックエッセイと一週間二万円のギャラリーレンタル料で、改装費を支払っているところだ。
 面白いことに、コミックエッセイでブック様と仲のよいパン屋の店主を登場させたら、漫画を読んでパンを買いに来る人が現れるようになった。おしゃれカフェや蕎麦屋も同じ理由でやってくる人がいるという。カフェのご夫婦や蕎麦屋の店主も、仲良くなったあと漫画に登場してもらったのだ。
 当然、主人公のブックに会いに来る人もいた。土日ともなれば、二、三組やってきた。大分から東京へ出張に来たついでに会いに来たサラリーマンまでいた。いつのまにかブック様は全国に知られる存在になっていたのだ。
 心配はあった。コミックエッセイでブックをブック様として面白おかしく脚色して描きすぎたかも。実際に会いに来た人たちが、もはやほとんど散歩もしない老犬を見て、がっかりするかも。わたしは若かりしころのブックをモデルとして、お話を作っていたのだ。
 しかし、ブックに会いに来た人たちは、本物のブックを見てもがっかりなんてしなかった。ブックにはもう愛想よく客をもてなすだけの体力はない。犬特有のスマイルだって浮かべない。それでも、とにかく本物のブックに会えればいいと、みんな笑顔でブックを撫で、帰っていった。
 ブックに会いに来て、カフェに寄り、パンを買い、蕎麦を食べて帰る。そんなコースを楽しんでくれる人がいつしか増えていった。都合のいいことにコインパーキングが四つもできて駐車場に困らない。なにより、マルコ・ポーロにしても、カフェにしても、蕎麦屋にしても、味はいいし、雰囲気や店員の人柄もいい。ファミリーレストランやファストフード店で食事するくらいなら、ラブリ商店街でなにかを食べよう。そのほうがセンスのいいデートコースだ。そんな声を耳にするようになった。
 また、ラブリ商店街を衰退させた原因であるショッピングモールが隣町にあることも、いまや強みとなった。多くの人たちがそのショッピングモールへ車で出かける。その帰りにラブリ商店街へ立ち寄るというわけだ。
 商店街には以前から引き続き営業している美容室すずらんや、これまた復活した占いの店である三日月もある。ぎっちりあった店舗が間引かれ、ちょうどいい具合にコインパーキングができ、立ち寄りやすい商店街へと変わってきた。わたしがここへ帰ってきた五年前とは全然違う。あのころの荒れ果てたやばい状態から、商店街は蘇生しつつある。
「ブックのおかげだよ」
 ラブリ商店街の人々が口々に言う。商店街のマスコット的存在だったブックは、いまやシンボルだ。
「西陽ちゃんが漫画に描いてくれたおかげなんだけどね、そもそもは」
 雪広はわたしの功績として褒めてくれる。でも、わたしは本当に手すさびにブックの日々を描いただけ。ブックがいなかったら、わたしはコミックエッセイなど出版することはなかった。やはり、ブックがいたからこそ。
 朝日を浴びてブックの影はメインストリートにまっすぐ長く伸びている。背中や耳のあたりの長い被毛が朝の涼やかな風にそよそよと揺れている。
「ブックが変えた街だよ」
 後頭部をやさしく撫でてやった。ブックは満足したのか街並みから視線をそらすと、よろけながら方向転換をした。まだ行きたいところがあるらしい。

 歩みはさらに遅くなった。よろよろから、じりじりへ。ふいにブックが足を止めた。うなだれてしまっていて、鼻が地面につきそうだ。息が荒い。一歩踏み出すだけでも、しんどい状態のようだった。
「もうこれ以上の散歩はまずいかもしれないよ」
 雪広が見ていられないとばかりにわたしに訴える。わたしもどうしたらいいのか、わからない。青木君からはブックに残された時間は少ないと宣告された。それでも一時間でも一秒でも長く生きていてほしい。
 ただ、ブックを安静にしておけばそれでいいのかといえばわからない。軽くなったブックを抱きかかえ、ギャラリーに戻って寝かせておくことはたやすい。一時間でも一秒でも延命することになる。
 けれど、ブックが望むだろうか。長いこと家さえ定めず、自由気ままに生きてきたブックが、そうした最期を望むだろうか。
「ブックの好きにさせてやろうよ」
 気づいたらわたしはそう言っていた。
 最期の瞬間まで犬らしく。ブックらしく。そうあるために選択はブックにさせてあげたい。
 雪広はわたしの目をじっと見つめたあと、ゆっくりと頷いた。雪広の目は涙に濡れていた。わたしの視界も涙で歪んだ。
 ブックがまた歩き出す。使命感に駆られるかのように前へ進む。若いころだったら五秒で駆け抜けた空き地までの道を、十分もかけてふらふらと歩いた。
 空き地の下草は朝露に濡れて輝いていた。太陽が昇れば昇るほど、空は青く色づいていく。ブックは空き地へ入ってすぐ立ち止まった。これ以上は進めないといったふうだった。ぼんやりと空き地を眺めている。
「見納めと思っているのかな」
 隣に立つ雪広が小声で訊いてくる。
「見回りかもよ」
 ラブリ商店街はブックの街。この南側の空き地はブックの王国。元気だったころは隈なく歩き、においをつけて回っていた。ほかの犬がつけていったにおいを嗅ぎ、その犬が元気にやっているか、チェックもしていたかもしれない。
「ブックちゃん!」
 背後から声がして、振り返るとミルクママが立っていた。朝のゴミ出しに来たようだった。真っ白な中型のミックス犬であるミルクを飼っているから、ミルクママと呼ばれている。
「ブックちゃん、立てるの?」
 ミルクママが目を丸くする。ブックの容態はこの空き地へ犬の散歩に来る仲間には、逐一伝えてあった。一週間もブックが立ち上がらないことも、余命が一日か二日と宣告されたことも。
「今朝、久々に立ち上がったんです。自分でここまでやってきたんですよ。最後の見回りかもしれないです」
 わたしの最後の見回りという言葉に、ミルクママは静かに頷いた。かつてミルクママの家ではニキというゴールデン・レトリーバーを飼っていたそうだ。美しい子で、ブックのガールフレンドだったらしい。そのニキを看取った経験があるので、最後の見回りというわたしの言葉を重く、そして大切に受け止めてくれたようだった。
「ちょっと待ってて」
 ミルクママはそう言うと、携帯電話を取り出してメールを打ち出した。何件も送っている。そのうち商店街から莉菜ちゃんが駆けてきた。成人式を来年迎えるというミルクママの娘さんだ。莉菜ちゃんの手にはミルクのリードが握られている。真っ白な中型の雑種の女の子。今年で十歳になる。
「ブック!」
 莉菜ちゃんはばたばたと走ってくる。手からミルクのリードを放す。ミルクは一段とスピードを上げてブックに駆け寄った。うれしそうにブックの周りを跳ね回る。
 お、なんだミルクか。
 ブックはそんな顔をして、でもそのまま前を向いた。ミルクがブックの口の横を舐める。これは敬愛を表す犬のしぐさなのだそうだ。
 ミルクはいまやブックの跡をついで、空き地のリーダーに納まっている。新入りがやってくれば一喝して犬の縦社会があることを教え、いやな犬でなければたくさん遊んでやる。新入りは子犬が多い。その子犬に対してミルクは腹を見せて寝転がり、じゃれつかせる。かつてブックがミルクにしてあげていたことだった。
 犬が吠える声が聞こえ、振り返るとトイプードルのピノが飼い主と走ってくる。大型の和犬の雑種であるジョンもやってきた。ミルクママが飼い主たちに連絡してくれたようだった。
 いつもこの空き地で遊んでいる犬たちが続々とやってくる。チワワのチワ太、黒柴の杏、ケアンテリアのミッキー、ポインターのゾーイ、イングリッシュ・スプリンガー・スパニエルのケリー、フレンチ・ブルドッグの廉太郎。いつのまにかわたしも犬に詳しくなったものだ。ブックと暮らすことで、ほかの犬と触れ合う機会が多くなり、気づくと知識が増えていた。
 やってきた犬たちはみんな大喜びでブックに駆け寄った。ブックの口の横を我先にと舐める。ブックはゆるやかに尻尾を振った。空き地にブックと散歩に来たときは、いつも見ていた光景だ。ブックがやってくると、みんな集まってくる。みんなブックが大好きなのだ。
 わたしはまた泣いてしまう。骨と皮ばかりになったブックを、みんなこうして慕ってくれている。若々しくて優美なころを知っているわたしは、老いたブックに対して痛々しさを感じることが多かった。でも、そんな感情を持つのは人間だけなのだ。美醜にとらわれる自分に恥ずかしくなりながら、慕ってくれる犬たちの情愛の深さに涙が出た。
隣に立つ雪広が、犬たちに囲まれるブックを見ながら言う。
「本当に不思議な犬だよ、ブックは。みんなを惹きつける魅力があるんだろうな。すぐに集まってくるもんな」
 集まるのは犬だけではないのかもしれない。ほかの犬の飼い主も、凛々しくて、聡明で、明るいブックが大好きで、ブックを見かけると笑顔になって集まってきたものだった。わたしはこの街に帰ってきてからの五年間についてしか知らないけれど、ブックが向かうところには必ず人が集まり、犬も集まった。
 みんなを集める不思議な犬、ブック。ラブリ商店街に客を集めたのも、漫画の元ネタとなったブックがいたからこそ。きっとブックはみんなを集める犬なのだ。
 ブックを取り囲んでいた犬たちが、左右に分かれて道を作った。ブックが空き地の入口に立つわたしと雪広に向かって歩き出したからだ。
「空き地はもういいの?」
 尋ねるとブックは顔を上げ、わたしをじっと見た。表情は浮かんでいない。でも瞳が澄んで見えた。
 もういいよ、西陽。行こうよ。
 ブックはよたよたと歩き出した。ギャラリー青の方向へ進んでいく。ほかの犬たちは追ってこない。立ち尽くしたり、お座りしたりしながら、ブックとわたしたちへ視線を送ってきていた。
 もうこれでお別れなんだ。さようならなんだ。犬たちは悟っているかのようだった。
 犬には死の概念がないという。だから死の恐怖もないと聞いた。
 けれど、わたしは思う。犬たちに死の概念はなくたって、別れの悲しみはあるだろう。別れの寂しさだって知っているはずだ。人間のように再会の約束を交わさない犬だからこそ、別れの悲しさや寂しさは人間の何百倍も深いかもしれない。
 そして、深い悲しみや寂しさを知っているからこそ、別れに鋭敏であるかもしれない。その鋭敏さをもって、今日のブックとの別れも、ただの別れではないと察知したんじゃないだろうか。
 クーン、クーンと最も幼いピノが鳴いた。ブックが最後に遊び相手になってやった子だ。
 ブックは振り返らない。ふらふらしながら進んでいく。もはや振り返る余力もないようだった。
 やがてブックはギャラリー青も通りすぎ、さらに歩いていこうとする。ギャラリーを通りすぎたとき、わたしと雪広は顔を見合わせた。きっと彼もわたしと同じことを考えたと思う。ブックは意識が混濁してしまっていて、帰るべき場所もわかっていないんじゃないだろうか。
「ブック。どこへ行くの。おうちはここだよ」
 呼び止めたのにブックは歩みを止めない。意識がないのに、やみくもに歩いているのでは。ブックはひとブロック通りすぎ、月極め駐車場の手前まで歩いた。
 急によろめく。どさりと横に倒れた。
「ブック!」
 叫んで走った。抱きかかえると息が荒い。ブック、ブックと耳元で呼びかける。ブックは目を閉じたまま、口からだらりと舌を出した。体温はさらに低くなっていた。ブックの体の機能が止まりつつあるのを、まざまざと感じた。
 抱き上げてギャラリー青に戻り、犬用ベッドに横たえた。空き地から成り行きを見守っていたミルクママたちも駆けつける。みんなでブックの名前を何度も呼びかけた。

(つづく)  次回は2014年10月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 関口尚

    2002年『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。07年『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。『君に舞い降りる白』『シグナル』『はとの神様』など著書多数。