物語がつまった宝箱
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近所にできた大型ショッピングモールに客をとられ、シャッターが目立つようになったラブリ商店街。そこにはいつも、アイリッシュ・セッターのブックという犬がいた。特定の家を持たず、住人みんなに可愛がられているブックは、まるで人間の気持ちがわかっているような不思議な犬だった。

  • さようなら、ブック(3) 2014年10月1日更新
 ブックは昏々(こんこん)と眠り続けた。このまま逝ってしまうんじゃないかと思った。ただ、それはそれでいいのかもと考えもした。
 小学生のとき祖父がすい臓がんで亡くなった。がんは骨にも転移して恐ろしく痛いらしく、寝返りを打っただけでも叫んでいた。最期まで痛みにのた打ち回って死んでいくのを、幼いわたしは目の当たりにしてしまった。だから、ブックが眠るようにしてこの世界から旅立つなら、それはそれで望ましいことだと思うのだ。
 パン屋を臨時休業した雪広と、ブックのそばに腰を下ろして見守った。ブックは横になったままぴくりとも動かない。寝息も静かで、生きているか死んでいるかさえわからず、ときどきブックの心臓に手を当てて確かめた。もう青木君に宣告されたタイムリミットの二日は過ぎつつあった。ブックは頑張っていた。
 夕方の四時を回ったころだ。ブックが立ち上がった。また急にひっくり返るのでは。わたしと雪広は手を差し伸べつつ、ブックを囲んだ。当のブックはそんなわたしたちなど気にも留めず、入口のガラスサッシへと歩いていく。
「どこ行くの、ブック。今日はもうお外に行かないで、ゆっくり眠ってなさい」
 ブックは外を見たまま動かない。どうしても外に出たいらしい。
 出してやると、しんどそうな様子でふらつきながら進んでいく。ブックは先ほど倒れた月極め駐車場の方向へ向かっていく。
「ねえ、ブック。どうしたいの。なにかしたいことでもあるの」
 尋ねつつも、わたしの頭の中には悲しい疑問が渦巻いていた。ブックの脳はもはやきちんと働いていないのでは。徘徊の状態なのでは。
「あ」
 急に雪広が立ち止まって声を上げる。
「どうしたの」
「ブックがなにをしたいのか、おれ、わかったよ」
「なに」
「車に乗りたいんだよ」
 雪広の口から漏れた「車」という言葉に、ブックは立ち止まってゆらゆらと尻尾を振った。ブックの前に回りこみ、頭を撫でつつ尋ねる。
「車なのね、ブック。車に乗りたいのね」
 ブックは目を細め、さらに尻尾を振った。そうか、だからブックは月極め駐車場に向かっていたのか。いつも乗せてあげていた雪広の車が止まる駐車場へ。
 なぜかわからないけれど、ブックは車に乗るのが大好きだった。隙あらば乗ろうとする。ラブリ商店街の住人が車のドアを、ちょっとのあいだだけでも開けていたら勝手に乗ってしまう。宅配便やクリーニング屋の車だって乗った。ブックが車に乗らないように気をつけること。ラブリ商店街ではお互いに気をつけ合った。
 不可解なのは、車に乗ってしまえばそれでもう満足らしく、車内で丸くなって眠り始めてしまうことだった。雪広の車に何度も乗せてあげたけれど、興奮するでもなく、窓から外を見るでもなく、すぐに眠った。
 寝るだけなのになぜ車に乗りたがるのか。ラブリ商店街の人たちも理由がわからなくて推論を重ねた。
「乗るとどこか楽しいところに連れていってもらえると思ってるんじゃないかな」
「置いてけぼりがいやなんでしょう」
「車の揺れが昼寝に最適なんだろ」
 結局わからずじまいで、ドライブが好きだという曖昧な結論に落ち着いていた。
「ねえ、雪広。車の鍵を取ってきてくれる?」
「ブックを乗せるのか」
 わたしは強く頷いた。すべてはブックが望むように。ブック様の御心のままに。わたしはいまから起こることをすべて覚えておこうと思った。彼が旅立つ最後の瞬間までを、目をそらさずに見つめようと心に決めた。そう決めないと走って逃げてしまいそうな弱い気持ちが胸にあった。
 雪広が車の鍵を持ってきた。鍵の束の音が聞こえたのか、ブックはまた尻尾を振った。ブックはどんなに深く寝入っていても、鍵の束の音が聞こえたら飛び起きた。耳が遠くなったいまもこうして反応するなんて、鍵の束の音は特別なのかもしれない。
 車は中古のファミリータイプのワンボックスカー。最後部の広いラゲッジスペースには、ブックの車用ベッドが設置してある。以前はブックも横のスライドドアを開けてやれば、軽やかに乗りこんだ。今日はわたしが抱いて乗りこむ。
 雪広が運転席に座り、わたしはブックのベッドの傍らで正座を崩した。雪広がエンジンをかけると、ブックがうつ伏せのまま大きなため息をついた。
「いまのため息、聞こえた?」
 座席越しに雪広に尋ねる。
「うん」
「なんのため息だろう」
「やけに深いため息だったね」
「安堵の息って感じもしたよね」
「どうしても乗りたかったってことなんじゃないかな」
 でも、なぜ。死力を振り絞ってまで車に乗りたいのか、理由がわからない。ドライブが好きというだけで、これだけ必死になれるだろうか。
 雪広が車を出そうとギアを入れたときだ。外からドアがノックされた。見るとミルクママがいる。莉菜ちゃんもいる。空き地に集まる犬たちの飼い主や、ラブリ商店街の住人もいた。
「どうしたんですか」
 窓を開けて尋ねる。ミルクママが代表して答えた。
「夕方の犬の散歩に行こうとしたら、西陽ちゃんたちが車に乗るのが見えたから、ブックちゃんになにかあったんじゃないかって慌てて来たのよ」
 車を囲む人垣から占い師の三日月さんが出てきた。三日月さんの旦那さんは生前、ブックの面倒を最もよく見てくれた人だった。恐る恐る三日月さんが訊いてくる。
「もしかして、ブックはもう?」
「大丈夫です。ずっと目は閉じたままだけど」
「いまから病院かい?」
「いえ、ドライブです」
「ドライブ?」
「ええ、ブックの大好きなドライブ」
 当然、ラブリ商店街の人たちはブックが車に乗ることが大好きだと知っている。
「ブックが最後のドライブに行きたいみたいで、必死に車のところまで来たので乗せてあげようって」
「じゃあ、わたしも行く」
 莉菜ちゃんが手を挙げた。ミルクママがたしなめる。
「こら、莉菜。遊びに行くんじゃないのよ」
「ぼくも行きたいです。もちろん、真面目な気持ちで」
 美容室すずらんの息子、薫風君だ。高校卒業後、美容師の専門学校へ行き、青山の美容室で働いていたけれど、二十五歳になったのを機に帰ってきた。いまはすずらんで働いている。
「いいよね、ブック!」
 薫風君が車内に向かって呼びかける。耳の遠いブックのために大きな声だ。ブックはうつ伏せのまま尻尾を左右に振った。薫風君は中学生のころ、まだ若かったブックとさんざんボール投げをして遊んでやっていたそうだ。
 ほかにも何人もドライブに同行したいと名乗り出てくれたが、車に乗りきらない。なので、最初に名乗り出てくれたふたりと、ミルクママ、三日月さんに乗ってもらうことになった。
 ブックを呼ぶ声がひっきりなしに響く中、雪広はそろそろと車を出した。新青梅街道に出て、西へと向かう。国道十六号線とぶつかったら南へ進路を取る。横田基地を反時計回りにぐるりと走り、立川の北部を経由してラブリ商店街へ戻ってくるコースだ。
 二列目のシートに座ったミルクママと莉菜ちゃんと薫風君が、後ろを振り向いて最後部にいるわたしとブックを見下ろす。
「ほら、ブック。みんな来てくれたよ。いっしょだよ」
 撫でながら言うと、ブックは尻尾を振った。
「本当に来てよかったのかな」
 莉菜ちゃんが母親であるミルクママにたしなめられたこともあって、ママの目を気にしている。わたしは言ってやる。
「大丈夫、大丈夫。ブックはいつもみんなの中心にいた子でしょ。にぎやかなほうが好きなはずだよ。湿っぽくなるのはやめておいてやろうよ」
 国道十六号線に出て南へ向かい、福生(ふっさ)を抜ける。夕日を背負って車は走った。
「前はよくこの道をブックとドライブしたんだよ。ね?」
 ハンドルを握る雪広に語りかける。
「そうだったね」
「そのおかげでわたしたちくっついたようなものだったもんね。たくさんドライブして、たくさんお話をして」
 助手席に座る三日月さんが振り返った。
「そうだったのかい。雪広には占いでいろいろアドバイスしてやったっていうのに、ドライブの報告なんてあたしは一度も受けてないよ」
「あはは、すみません」
 雪広が申し訳なさそうに頭を掻く。
「まどろっこしい男のくせに、抜け目ないところもあるんだよね、あんたは」
 もう五年前のことだが、三日月さんに背中を押されて、わたしに告白しようとした日があったらしい。大雪が降った次の日のことだ。だけれど、雪広は自信がなくてなにも言わなかったらしいのだ。
「彼、いろいろ頑張ってたんですよ」
 わたしはちょっと意地悪な口調で三日月さんに報告する。
「頑張ってた?」
「わたしを誘いたくて偶然出くわさないかと商店街をぶらぶらしたり、わたしのブログのコメント欄に丁寧なメッセージを書いてくれたり。そうそう、ブックもよく出汁(だし)に使われてたんです」
「出汁?」
「仕事から車で帰ってきたら、ブックにドライブへ行きたいから車に乗せろってせがまれたので、せっかくだからいっしょに行きませんかって」
 三日月さんが雪広の肩口を叩く。
「あんた、ブックに頼るなんてほんと情けない男だねえ。ブックに感謝しなさいよ。それから、いっしょになってくれた西陽ちゃんにも」
「もちろん、感謝してますよお」
 雪広が情けない声を出したので、ミルクママたちから笑い声が起こった。
 わたしと雪広の馴れ初めにブックがいたように、ミルクママの家族にも、薫風君にも、三日月さんにも、ブックとの思い出話があった。自然とそれを順番に披露することになった。
 みんな誰しもブックとの物語があるのだろう。ラブリ商店街で暮らす人は誰しも。ブックはそれらの物語に懐かしげに耳を傾けているかのようだった。ときどき耳がぴくりと上がるのだ。
 日が暮れていき、車内が暗くなり、手元のブックが見えなくなってくる。わたしはブックを撫で続け、その体温と心音を感じた。見えない分だけ、ブックの毛ざわりや痩せた骨格を指先で繊細に感じた。撫で続けたので、わたしの手のひらからもブックの獣っぽいにおいが漂うようになった。
 薫風君の思い出話で、車内が笑い声で満ちる。彼の話が終わったら、みんなに告げようと思った。
 ブックが静かに息を引き取ったことを。
 撫でていたら鼻から穏やかな息を吐いた。それが最期だった。本当に、すっと眠るように逝ったので、ブック自身も死んだことに気づいていないんじゃないだろうか。それくらい安らかな最期だった。
 完璧じゃないの、ブック。完璧な旅立ち方じゃないの。大好きな車に乗って、みんなに囲まれて。
 もう呼び戻すことはしない。車内の暗がりの中で目を凝らしてみれば、ブックは満足げな表情で眠っていた。痩せこけた亡骸だけれど、厳かな美しさをわたしは感じた。最後まで犬らしく、健やかな心のまま旅立った。わたしは涙を流しながら、誇らしくてしかたなかった。
 ありがとうね、ブック。あなたは本当に不思議な犬だったよ。飼い主もわからない、正確な年齢も不詳、名前の由来もみんな知らない。でも、誰もがあなたを大好きで、見かければ集まりたくなって、たくさんの思い出という名の物語を残してくれた。
 どこから来たのかもわからない。そして、どこへ行こうとしていたのかもわからない。けれど、それがブックらしいといえばブックらしいよね。
 きっとブックは車に乗ればたどり着けると信じている場所があったのだと思う。それはブックがどうしても行きたかった場所。どこであるかはわたしたちにはわかりようがない。
 でも、車に乗せてやることで、安心して旅立たせてあげることができた。その手助けをしてあげることができた。いまは老いて不自由となった体から抜け出て、たどり着きたかった場所へ一目散に走っているんじゃないかな。
 魂の入れ物となってしまったブックの体を、わたしはぎゅっと抱きしめた。まだ温かいうちにたくさん抱きしめたかった。
 さようなら、ブック。
 いつかわたしもそちらの世界へ行く。そのときは真っ直ぐに駆けて迎えに来てほしい。ただ、もう少しこちらの世界でやるべきことをやってからにするね。だから、先へ行っているブックには、こう言ってもいいんだよね。
 いってらっしゃい、ブック。
 必ずまた会えるよ。

(つづく)  次回は2014年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 関口尚

    2002年『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。07年『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。『君に舞い降りる白』『シグナル』『はとの神様』など著書多数。