物語がつまった宝箱
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近所にできた大型ショッピングモールに客をとられ、シャッターが目立つようになったラブリ商店街。そこにはいつも、アイリッシュ・セッターのブックという犬がいた。特定の家を持たず、住人みんなに可愛がられているブックは、まるで人間の気持ちがわかっているような不思議な犬だった。

  • 空でつながる日(2) 2014年12月1日更新
 犬はそれから一週間後に三雲君の家にやってきた。保健所から引き出してもらったあと、小泉さんの友人であるボランティアの女性が一時預かり、病院へ連れていって健康診断を受けさせたり、体を洗ってもらったりした。去勢手術も受けた。抜糸まで一週間かかるので、三雲君の家に来るまで期間があったのだ。
 秋分の日を過ぎて、どんどん陽が落ちるのが早くなっていく。夕方の五時半には日没の時間を迎えてしまう。そうした暗い夕方に待望の犬はやってきた。
 ボランティアからの電話の連絡内容を、三雲君は逐一報告してくれていた。やってくる犬は推定五歳くらい。餌をよく食べ少しずつ太ってきている。頭のいい子で室内ではおしっこをしない。散歩をすればおとなしくリードを持つ人間の横を歩く。ほかの犬や猫にもやさしく、吠えたのを聞いたことがない。
「すんごくいい子なんですって!」
 報告してくる三雲君はいつも大興奮だった。迎え入れる日が近づくにつれ、どんどん無邪気になっていく。商店街でわしを見つけては駆けてきて、ときには手をつないでくれたりした。
 犬がやってくる日取りが決まったとき、三雲君から名前をつけてほしいと頼まれた。名づけ名人であることを母親の小泉さんから聞いたようだった。
 しかしながら、漢字による人名は得意だが横文字はとんと苦手だ。そもそも英語が苦手だ。しゃれた名前をつけるセンスもない。
 一応、ラブリ商店街の名前も頼まれてつけた。このあたりはさまざまな店舗が集まっているひと区画だったがつながりがなかった。そこで商店街を名乗り、連帯していこうとなったとき、名づけを任されたのだ。かれこれ二十年前のことだ。
 ぶらりとやってこられるように。かわいい印象の街となるように。そんなこじつけでラブリ商店街とつけた。苦肉の策だったがこの名前はおおいに受け入れられた。
 その後、犬や猫などペットの名づけも頼まれるようになった。みんなかわいらしい横文字の名前を望んでいた。もっとも苦手な名づけだ。しかたがないのでそのまま名づけた。肉屋の柴犬はミート君になった。化粧品屋のロシアンブルーはルージュちゃん。カメラ屋のオカメインコにはピント君。これまた苦肉の策だったのに、商売に結びついた名前をつけたことで大変喜んでくれて評判となった。ペットとの結びつきを感じてうれしいらしい。なのでいまは万事同じ法則で名づけることにしている。
 そういえば数年前、戸田さんの家にやってきたゴールデン・レトリーバーに、ミルクの名を提案したが却下されてしまった。あれは残念だった。かつて戸田さんの家が営んでいた牛乳販売店のいい名残りになると思ったのだが。
 さて、問題は三雲君の家にやってくる犬の名づけだ。商売をやっているなら法則通り名づければいいが、三雲君の家は一般家庭だ。そうもいかない。
 結局、名づけ方の法則を打ち明けたうえで、どんな名前にしたらいいか三雲君に尋ねた。三雲君は逆に質問してきた。
「ラブリ商店街にあったらいいな、と思うお店を元にしてつけてもらってもいいですか」
「あったらいいなと思うお店?」
「ぼく、本屋があったらいいなと思って」
 ラブリ商店街にはさまざまな店舗があって買い物はたいてい商店街で事足りる。だが、残念ながら書店がなかった。商店街の会長として常々物足りなく感じていたことだ。
「三雲君は本が好きなのか」
「うん。それに本屋があれば、お母さんの本も置いてもらえるのになって思って」
「おや? いつの間にお母さんは小説家になったんだい」
 小泉さんがラブリ商店街のはずれにある新築アパートから、うちの辻アパートに引っ越してきたのが二年前。離婚後、家賃の安いこちらへ三雲君と移ってきたのだ。契約したときの話ではスーパーマーケットのパート社員をやっていたはず。
「小説家じゃないんです」
 三雲君とは辻アパートの集合ポストの前で立ち話をしていたのだが、そばにいた小泉さんが慌てて話に入ってきた。
「小説家じゃなくて翻訳家になったんです。児童文学を中心にいまお仕事をしているんです」
「翻訳家?」
「主婦だったころに翻訳の学校に通い始めて、三雲が生まれたくらいに翻訳家としてデビューできて、最近やっと翻訳だけで食べられるようになったんです」
 なるほど合点が行った。どうして三雲君が語彙も豊富でしっかりとした会話ができるのか。
 翻訳業は元の外国語の理解力より、日本語の表現力が秀でていないと駄目だと聞いたことがある。原文をただただ忠実に翻訳するだけでは駄目。物語を理解して、その物語の世界を把握して、そのうえでもっとも適切な日本語による表現を選ぶセンスが必要なのだそうだ。
 つまるところ、三雲君は言葉が大切にされている環境で育ったのだろう。本もたくさん読んでいるに違いない。
「本屋を元にした名前をつけるならひとつしかないなあ。わかるかな、三雲君」
 にやりと笑いかけると、三雲君は笑顔で頷いた。
「ブックだね」
「正解」
 小泉さんも楽しげに微笑んでいた。
 我が家と辻アパートは隣合わせで、アパートの裏手に駐車場がある。そこへブックを乗せた大きなワンボックスカーが到着した。
 車から降ろされたブックは、落ち着いた様子で周囲を見回した。写真で想像していたよりも小さい。ちんまりというふうだ。シャンプーしてもらったおかげか毛並みは美しい。ただ、やはり異様に痩せている。痛々しいほどだ。
 初対面のせいか緊張した三雲君がおずおずとブックに近づいていく。驚かさないようにゆっくりと動き、ブックの顎の下へそっと手を伸ばした。犬との触れ合い方については本を読んで学んでおいたという。頭を撫でようと犬の頭上へいきなり手を差し出すのは、犬を怖がらせるのでよくないのだそうだ。
「辻さんだって自分より大きな人に急に頭を触られそうになったら、びっくりしちゃうでしょう」
 なかなか上手なたとえを使って三雲君は説明してくれた。
 三雲君はブックの顎下をやさしく撫でる。安心させてやろうというのだろう。
「君はこれからブックという名前になるんだよ。こちらの辻さんが名前をつけてくれたんだ。それで、ぼくとお母さんが君の家族になるの。君はこの部屋で暮らしていくんだよ。よろしくね」
 ブックはまだ状況がのみこめていないらしく、きょとんした目で三雲君を見上げた。警戒はしていない。三雲君の手は顎下から後頭部へゆっくりと移った。やさしく撫でてやる。ブックは心地いいらしく、うっとりと目を閉じた。
 朝の散歩は五時スタート。毎朝二〇一号室の前まで迎えに行ってやった。朝の四時には目覚めてしまうこちらとしては、もっと早い時間でもいいくらいだ。三雲君はたいそう眠そうに目をこすりながら外へ出てきた。
「おはようございます」
 続いて出てきたブックは散歩がうれしいのか、弾むように歩いている。最後に出てきた小泉さんが「よろしくお願いいたします」と頭を下げる。やはり眠たげだ。
 いまの時分、日の出時刻は五時半。外は薄闇に包まれている。でも、暗いうちに朝の散歩は済ませること。辻アパートでブックを飼っていい代わりに出した条件から、早朝の散歩となった。
 その条件とは、こうだ。
「半年のあいだでいいから、近所の人たちに知られずにブックを飼ってくれんかな。ラブリ商店街の人たちにも言わないでほしいんだよ」
 情けないことにラブリ商店街の住人の目が気になって、そんな条件を三雲君に出した。それというのも半年前にひと騒動あったためだ。
 半年前、辻アパートの一〇三号室に薄葉さんというタクシー運転手が住んでいた。薄葉さんから申し出があったのだ。柴犬を飼いたい、と。聞けば薄葉さんのお姉さんが次から次へと犬を飼ってしまう人で、そのなかで一匹の柴犬がほかの犬たちとどうしても折り合いが悪く、譲り受けることになったのだという。
 しかし、あのときも規約を盾に申し出を突っぱねた。薄葉さんは柴犬を譲り受ける約束をすでに交わしてしまっていて、飼うことのできない辻アパートを出ていくことになったのだった。
 薄葉さんの捨てぜりふは、いまでも思い出すたびに胸がえぐられる。
「あんたが奪ったもの、大きいからな! 一生覚えておけよ!」
 いったいなにを奪ったというのか。薄葉さんの住居や生活のことを言っていたのか。でもそうであったなら、そんな回りくどい言い方をするだろうか。
 捨てぜりふの意味を吟味したくて、居酒屋で店主相手に話をしていると、同じカウンターに座っていた美容室すずらんの柴田さんが口を挟んできた。三十代半ばのすずらんの店長だ。
「それって柴犬の命を奪ったって言ってんのよ。どこでも飼えなくなった柴犬を保健所にでも連れてって処分するつもりなのよ」
「けれど、処分するなら薄葉さんは出ていく必要はないんじゃないかな」
「辻さんところのアパートに住んでるかぎり、処分した柴犬を思い出しちゃうから引っ越したんじゃないの?」
 薄葉さんとは、柴犬を飼っていいか、いけないかで、さんざん揉めた。強い言葉で罵られたこともある。柴犬うんぬんではなく、関係がこじれたせいで居心地が悪く、腹を立てて出ていったのかもしれない。
 だが、柴田さんが主張した柴犬の処分の話はどうにも心に引っかかった。薄葉さんはゴミの出し方や真夜中の大音量のテレビ観賞などで、ほかの住人と揉めていた。注意しても反省も謝罪もなし。正直言えば、厄介な人だった。そして、薄気味悪いところもあった。おかしな考えを起こして、殺処分してしまう可能性も捨てきれなかったのだ。
 ともかく、薄葉さんの柴犬事件は相当後味の悪い一件だった。さらに揉めた経緯や薄葉さんの捨てぜりふを、柴田さんが商店街中に吹聴して回り、誰もが知るところとなってしまったのもいただけなかった。柴田さんは噂好きの面倒なご婦人なのだ。揉めごとはひっそりと収束させたかったのに。
 よって三雲君の家にブックを迎えるにあたって、商店街の住人の目が気になってしかたなかった。なぜ柴犬には許可を与えず、ブックはいいのか、筋の通った説明ができない。ブックに許可を与えたのはひとえに三雲君の純真さに心を動かされたからだが、宗旨変えした負い目があった。
 ブックを迎えるうえで、辻アパートの住人たちへの説明責任もある。大型犬を飼ってもいいことにしました、と簡単に規約変更を告げるのはいかがなものか。住人の中には大きな犬の吠える声が耐えられないという人もいるだろう。
 説明して、規約を変えていく。その準備に半年は必要だと思った。もちろん、柴犬の一件のほとぼりが冷めるまでの期間が欲しかった。だから、三雲君と小泉さんにはブックの存在を知られないようにしてほしいと頼んだのだ。朝の散歩は五時の暗いうちに。夕方は六時過ぎの日が落ちてから。幸いなことに小泉さんは翻訳業という自宅での仕事なので、ブックが騒いだりしないか一日中監視することができた。
 小泉さんによれば、ブックは日がな一日与えられた寝床で寝ているのだそうだ。起きるのは水を飲むときくらい。
「たっぷりと運動させてやれば、あとは畳一畳で飼えるんじゃないかな。けれども、本当にたっぷりと運動をさせてやるんだよ」
 これは焼き鳥屋鳥信の店長、若松さんの弁だ。三雲君と小泉さんにこっそり飼えと指示だけしておくのは気が引けて、ラブリ商店街で犬に詳しい若松さんにだけ、今回の成り行きを打ち明けたのだ。
「こりゃ、アイリッシュ・セッターだね。猟犬だよ。猟の途中でご主人とはぐれちまったのかなあ。でも、実際に猟犬として使っている人はあんまりいないと思うんだがな。え、千葉で保護されたのか。うーん、わからんねえ。千葉はけっこう猟をやるところだから。きっともっと大きくなるよ。オスだから三十キロくらいになるんじゃねえかな。うん? 五歳くらいって言われたのか。いやいや違うよ。顔つきも遊び方も幼いし、もっと若いよ。歯が真っ白だろ? まだ一歳くらいだよ」
 さすが若松さん、詳しいだけあってブックの素性をだいたいながら特定してくれた。年齢は一歳くらいという説で落ち着き、三雲君の家に来た日が誕生日となった。
 たっぷりと運動させなくてはならない。広い公園や空き地でボール拾いでもさせてやりたい。しかし、商店街の近隣で遊べばブックを飼っていることがばれてしまう。三雲君と相談して、こっそりとブックを車に乗せて連れ出し、隣町の公園やドッグランで遊ぶようになった。
 たとえば土日の昼間、アパート裏手の駐車場に我が家のワンボックスタイプの軽自動車で乗りつける。周囲をよく確認してから、車のリアハッチを開け、ブックを乗りこませる。助手席には三雲君。商店街の人たちに見つからないように、県道に出るまでは座席を倒して隠れてもらっておく。だんだん本当に共犯関係になっていくようで、わしも年甲斐もなく楽しかった。
 おかしかったのは小泉さんも同行するときだ。これまた後部座席に隠れてもらう。よもや七十歳を超えてこんな逃避行の気分を味わえようとは。
 よく行ったのは立川の昭和記念公園だ。広大な原っぱがあり、ブックにボール投げをして遊んだ。狭山湖のそばの運動場にも行ったし、埼玉県まで遠出して航空記念公園にも行った。
 ブックは一ヶ月に一・五キロの割合で体重を増やした。浮いて見えた肋骨はやがて見えなくなり、腰回りにも肉がついて腰骨は目立たなくなった。
 三ヶ月が過ぎたころには毛がみんな生え替わったのか、美しい赤茶色の長い毛をたなびかせて走るようになった。
「まるで馬みたいだな」
 いっしょにブックとの遠出につき合った若松さんが、優雅に走るブックを見て驚きの声を上げた。若松さんはブックの存在を奥さんの三日月さんにも話さずにないしょにしてくれていた。若松さんもまた三雲君の仲間となったのだ。大人も子供も関係ない、ブックを中心とした仲間。

(つづく)  次回は2015年1月5日更新予定です。

著者プロフィール

  • 関口尚

    2002年『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。07年『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。『君に舞い降りる白』『シグナル』『はとの神様』など著書多数。