物語がつまった宝箱
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近所にできた大型ショッピングモールに客をとられ、シャッターが目立つようになったラブリ商店街。そこにはいつも、アイリッシュ・セッターのブックという犬がいた。特定の家を持たず、住人みんなに可愛がられているブックは、まるで人間の気持ちがわかっているような不思議な犬だった。

  • 空でつながる日(3) 2015年1月5日更新
 半年が過ぎた。体重がほぼ二十キロとなったブックは見違えるほど立派になった。たっぷりと運動させているので細身ながらも筋肉質。頭は小さく、顔つきは凛々しい。若松さんが言うようにサラブレッドの雰囲気をまとっている。
 ブックを連れていると「きれいなわんちゃんですね」とよく話しかけられた。三雲君は愛犬を褒められて、「ありがとうございます」と照れた表情で返事をするのが常だった。
 また、ブックは頭のいい子だった。まだ一歳の若い犬だ。いたずらはする。しかし、三雲君か小泉さんが一度でも「ノー」と叱れば二度としなかった。小泉さんのサンダルを噛んで壊したが、叱られてからは物をいっさい壊さなくなった。テーブルの上の人間のご飯のにおいを嗅いだのも一度だけ。人間のベッドにのぼったのも、野良猫に飛びかかろうとしたのも一度だけ。
 三雲君の家に来たときは、お手もお座りもできなかったが、いまや完璧だ。きっと人間の言葉もある程度わかっているのだろう。「おしっこ」と言えばおしっこをしに行く。「水」と言えば水を飲む。「車」と言えばわしの車に乗りこもうとした。
 もちろん、ここまでブックが賢く立派に育ったのは三雲君の功績だ。
「ブック、待て」
 三雲君がそう言い置いて百メートルほど離れる。ブックは指示を守って微動だにしない。
「ブック、おいで!」
 ぱん、とひとつ三雲君が手を叩くと、ブックは矢のように飛んでいく。そして、三雲君の目の前でぴたりとお座りするのだ。
 体のしっかりしてきたブックは、もはや三雲君と同じ体重だと言う。三雲君はまだまだ成長中のブックを正面からしっかりと抱きしめる。ブックは長い毛の生えた尻尾をぶんぶんと振った。
 三雲君が「ブック!」と叫んで駆け出せば、ブックはぴょんと伸び上がり、華麗にジャンプを決めてから追いかける。当然、ブックのほうが速い。だが、ブックは三雲君の足の速さに合わせてスピードを落とし、じゃれつくようにスキップをする。それはまるで三雲君の周りでダンスを踊っているかのようだった。
 車で出かけるたびに広い場所で思いっきり遊べるため、ブックは車に乗るのが好きになった。「おやつ」の言葉よりも「車」の言葉のほうが、うれしさのあまり尻尾を激しく振る。また、小泉さんが自分の車に乗せて、三雲君の水泳教室や学習塾の送り迎えに同行させることもあった。三雲君と合流したのちに、広い公園に出かけるのだ。わしも何度か同行したが、三雲君が車に乗りこんでくるときのブックの歓迎ぶりといったらなかった。狭い車の中で身悶えせんばかりに喜ぶ。その様子を見てみんなで笑ったものだった。
 きれいな顔立ちをした三雲君と、麗しい犬に成長しつつあるブックが遊んでいる様子を眺めていると、美しい絵画を見ているかのような気分になった。なにより三雲君がブックを愛しているのが見て取れる。ブックが三雲君を愛しているのも見て取れる。
「相思相愛って感じじゃない?」
 すずらんの柴田さんが微笑ましそうに言う。しかし、わしはすぐにうんと頷けない。
 ある日、車にブックを乗せて出かけようとしたら、柴田さんに見つかってしまったのだ。車には三雲くんも小泉さんもいた。それを見た柴田さんが噂話の格好のネタを見つけたとばかりに、満面の笑みを浮かべた。
「え、会長と小泉さんってそういう関係なんですか? 不適切な関係ってやつ? あ、でも会長は奥さんを亡くされていますし、小泉さんもおひとりですし、問題はないんですよね。へえ、そうですか!」
 はしゃぐ柴田さんを一喝して黙らせた。老いらくの恋だのなんだのと、また変な噂を流されたら困ってしまう。特にブックの件は黙っていてもらわねばならない。隠して飼っていることを説明し、仲間になってもらったうえで釘を刺した。
「いいかい、柴田さん。あんたは口が軽すぎる。いつかその口の軽さは災いを呼ぶぞ。ただ、その口の軽さは生涯きっと治らんだろうな。しかし、ブックの件だけはなにがあっても他人に言ってはならん。ほかは目をつぶってやるがブックの件だけは駄目だ。薄葉さんの柴犬の話のようにみんなに広めたら、容赦せんからな」
 柴田さんは渋々ながら、一生ブックについては口外しないと約束してくれた。どこまで信用したらいいかはわからないが。
 とにもかくにも、三雲君とブックの相思相愛ぶりは、見ていて心動かされるものがあった。小泉さんの話によれば、家では起きているときも寝ているときもいっしょだという。べったりとくっついて、まるで仲の良い兄弟のようだと。
 ただ、あまりにも仲が良すぎて、心配になることもあった。ブックは必ず三雲君より先に天国へ旅立つ。そうしたとき立ち直れないんじゃないか、と。だから、夕方のいつもの散歩で、とっぷりと暮れた街並みを歩いているとき、余計なお世話だとわかっていたが、夕闇にまぎれて三雲君に尋ねてみた。
「ブックはね、犬の年齢だとまだ一歳だが人間の年齢として数えてみれば、十六歳なんだよ。犬のほうがどんどん先に歳を取ってしまう。ブックがおじいちゃんになって、空に旅立つのも早いんだよ。それでも、三雲君は大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
 けろりと三雲君が答える。
「寂しくないかい」
「寂しいよ。きっとすごく泣く。だけど大丈夫」
「なぜ」
「ぼくは待ってるよ。ブックが生まれ変わってくるまで、この街で百年でも二百年でも待ってるよ」
 わはは、とわしはつい笑ってしまった。生まれ変わりがあるかなんてわからない。人間が百年も二百年も生きられるはずがない。しかし、そうした大きな心持ちでブックに接しているとわかって、なんだかうれしくなってしまったのだ。
「四月になったらブックをこっそり飼うのはやめにしよう。アパートの人たちもみんな説得したからな」
「みんな怒ってなかった?」
「大丈夫。三雲君のママにはないしょだが、家賃をちょっとだけ安くすることで、みんなオーケーしてくれたからな」
「ということはもう明るいときからブックとラブリ商店街を散歩できるわけだよね?」
「そういうことだ。きっと三雲君とブックは大人気になるぞ」
 ふたりの、いや、ひとりと一匹のラブリーな様子は商店街の人々を魅了することだろう。
「ぼくね、ブックっていい名前だなって最近よく思うんだ」
「どうした、いまごろ」
「だって本屋さんが元になってブックって名前になったでしょ。そういう本屋さんみたいに人が集まる犬になってくれるかもしれないなって」
「きっとこれからみんなブックのところへ集まってくるよ。いい子だし、美しい子だし」
「提案があります!」
 すぐそばにいるというのに、三雲君は大きな声で手を真っ直ぐに挙げて言う。
「なんだい」
「四月の最初の散歩のとき、辻さんもいっしょに商店街に行きましょう」
「いいぞ」
 指切りげんまんをした。三雲君の指はひんやりとしていて、とても小さかった。

 しかし、ブックの存在が大っぴらになることはなかった。三雲君とブックのラブリーな姿を商店街で見ることもなかった。
 あのときのことを思い出そうとすると、あやふやな映像しか浮かんでこない。わざと記憶しないようにしていたんじゃないかと思ったりする。
 大きな事故だった。春休み中の三雲君と小泉さんは、ブックの散歩をわしに任せて小泉さんの実家である福島へ向かっていた。小泉さんの車は一車線しかない高速道路を走っていた。後ろからやってきた大型トラックが居眠り運転で、小泉さんの車に突っこんだのだった。
 葬儀は小泉さんの実家で行われた。車両火災が発生したと聞いていたが、小泉さんも三雲君もきれいな顔をしていた。わしは妻の美也子を亡くしたときよりも泣いた。美也子は癌だったので準備期間があった。覚悟ができていた。いや、それだけじゃないな。わしは三雲君と小泉さんとそしてブックとの日々を心底愛していた。なだらかに終わるとばかり思っていた自分の人生に、かけがえのない宝物をもらったように思えていた。
 福島からの帰り、夜空には袈裟斬りにあったかのような月が浮かんでいた。あのころの記憶は曖昧なのに、その月ばかりはよく覚えている。

 残されたブックはうちで預かることになった。しかし、家に入れると気でもおかしくなったかのように暴れた。外へ出せと吠えてドアに体当たりをする。いたしかたなく外で飼うことにしたが、つないでいる鎖を引きちぎって脱走を繰り返した。向かう先は必ず辻アパートの二〇一号室の前。その姿を見て、わしも若松さんもそして柴田さんまで涙した。
 それからほどなく辻アパートでボヤ騒ぎがあった。改修するべきか迷ったが、築三十年のよれよれのアパートゆえに取り壊すことになった。ブックのために残してやりたかった。だが、もう三雲君と小泉さんはいないのだとわからせるために、アパートを取り壊すべきと考えた。
 やがてブックはラブリ商店街をさまようようになった。三雲君と小泉さんを探して。
 ブックは賢く、美しい。住人と揉めることなど一度もなかった。それどころか誰からもかわいがられた。ブックが行く先には人だかりができた。子供たちもブックが大好きだった。
 いつからか忘れたがブックは止まっている車に乗りたがるようになった。商店街の住人たちは不思議がったが、ブックはこう考えていたはずだ。
 車に乗っていけば三雲君のところへ行けるはず。会えるはず。
 ブックを車に乗せてかつて行った公園やドッグランに連れていった。もう会えないことをわからせるためにだ。ブックは三雲君をずっと探していた。帰ってくるとひどくがっかりした様子で車を降りた。それでも、無差別に車に乗りたがった。今回は会えなかったが、いつか三雲君のもとにたどり着けると信じているようだった。
 あまりにも不憫で、ブックの背中を撫でながらわしは言った。
「なあ、ブック。もう三雲君はいないんだよ。死んでしまったんだ。あの空に行ってしまったんだよ」
 青空を指差すとブックはその先を差した方角を見つめた。わしに振り返る。そして、明るくひと吠えした。わしにはこう言ったように聞こえた。
「三雲君が生まれ変わってくるまで、この街で百年でも二百年でも待ってるよ」
 わしはブックが三雲君を待ち続けるかぎり、見守ってやることにした。もちろん、わしの命の続くかぎりだが。尽きたときはきっと空でいっしょになれるだろう。わしも三雲君もブックも。

 三雲君が生まれた日と同じような、八月の暑い日の夜のことだ。いつものように午前四時に目を覚まして庭先を見る。ブックは寝床を商店街内で転々としていたが、うちの庭先で眠ることが多かった。
 日の出前の暗がりの中を真っ赤なスポーツカーが走っていった。狭い商店街だというのにかなりのスピードだ。その後ろを走っていく影があった。ブックだ。気になってサンダル履きで外に出た。
 車のライトに照らされて、ブックとひとりの女性が立っていた。あれは沢井西陽だ。自分が命名した子のひとり。朝帰りだろうか、早朝から出かけるのだろうか。西陽はブックを抱きしめていた。しかもずいぶん長い時間、いとおしそうに。
 西陽がラブリ商店街の南側にある空き地で、ブックと遊んでやっているのをよく見かける。ブックは少しずつこの商店街の住人と、わしが思いもしなかったような絆を築きつつあるのかもしれない。
 ブックに人が集まりつつあるよ、三雲君。君が望んだ通り、本屋に人が集まるみたいに。君の望みは君がいなくなっても、ブックが叶えてくれているよ。
 あくびが出る。もうひと寝できそうだ。ブックや西陽に気づかれぬように、そっと家に戻る。空を見上げると夜が明ける一瞬前の美しい群青色が広がっていた。

(完) ご愛読ありがとうございました。この作品は、『ブックのいた街』と改題し好評発売中です。

著者プロフィール

  • 関口尚

    2002年『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。07年『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。『君に舞い降りる白』『シグナル』『はとの神様』など著書多数。