物語がつまった宝箱
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  • 第一回 2016年1月5日更新
十月一日
 講義も始まったので、正月に挫折した日記を再開する。
「四畳半日記―この偉大でない日々」と大学ノートの表紙に記す。
 大学生の日々を記録するにあたり、「大学ノート」ほどふさわしい道具はあるまい。検索できないのは不便だが、破廉恥な想い出をスピーディに検索できたところで何になろうか。秋の夜長にひとり再読し、恥ずべき記憶の不意打ちにソッと頬を赤らめてこそ、「日記」という概念は完成するのだ。いずれ名を成したアカツキにはこの日記を適宜編集して、『松本清弘自伝』を執筆する予定である。この偉大でない日々が正当化されるその日まで私は日記を書く。
 今日は大雨の中を大学へ出かけていった。いきなり講義が始まったものだから眠くてたまらぬ。大学側に配慮を求めたい。1コマ目の有機化学、眠る。2コマ目の生命圏概論、眠る。昼食は生協で天ぷらうどんを食べる。3コマ目の英語は先生が姿を見せず、眠る。4コマ目のスペイン語では、なめらかなスペイン語の響きが私を心地よい眠りの国へ運び去らんとす。大学とは巨大な催眠機構であるか。おやすみなさい。
 夜は日本宗教史論のレポートを書き、日記を書いた。

十月二日
 昨夜は深夜三時まで動作の不安定なノートパソコンに向かい、一心不乱にレポートを書いた。これを提出できなければ労苦が水泡に帰すので、1コマ目の日本宗教史論には這うようにして出かけていった。昨日のだらしなさを反省し、2コマ目の物理学基礎は目をこじあけて臨む。
 午後の講義が皆無とて吉田山をさまよう私には、いま何一つやるべきことがない。「自由万歳!天下無敵!」と呟いていたら、家賃を払い忘れていたことを思い出す。
 あわてて吉田山を浄土寺方面へ駆けくだり、通い帳と家賃を持ってアパートの裏手にある大家さんの豪邸を訪ねる。大家さんはお金持ちの老嬢で、家賃を払いにいくと通い帳に判子を捺し、必ず缶珈琲を一本くれる。「何かあったら、いつでも相談にいらっしゃい」と言われる。玄関先にキンモクセイの甘い香りが流れてきて、「秋ですねえ」と呟いていると、猛烈な睡魔におそわれた。下宿に戻ってグースカ眠り、起きると日は暮れていた。安売り弁当を買ってきて夕食。節約。
 夜はひっそりと静まり返った四畳半にて読書。
 この愛すべき、何もない日々よ! 入学以来一年半の無益な戦いの結果、私は大学生活の本質を悟った。すなわち「空」である。しかしこの何もない日々もじっくり噛みしめると、薩摩の銘菓「軽羹(かるかん)」のごとき上品な甘みが感じられよう。この大学ノートがそんな日々の記録で埋め尽くされたとき、どんな大金を積んだところで手に入らない唯一無二の書物となる。
 しっとりと甘くてエロティックな軽羹が食べたい。しかし缶珈琲で我慢する。

十月三日
 今朝は十時に起床。朝食はココア。
 日本宗教史論との過酷な戦いを最後に、愛用のノートパソコンが偉大なる沈黙期に入った。桃色動画を溜めこみすぎたせいか、先月末からベーコンエッグが焼けそうなぐらい発熱することがしばしばあって、宗教史論のレポートも爆発炎上覚悟で執筆したのである。心配していたことが現実となった。桃色動画コレクションの安否が気遣われる。
 今日は何をしていたのかまるで思い出せない。
 この日記にも飽きてきたなり。正月に始めた日記も三日坊主であったなり。
 しかし明日は研究会のミーティングがあるから、いくらか書くこともあるだろう。珠子さんにも会えるので楽しみである。そういえば珠子さんは軽羹に似ている。色が白くて、日本的な風情があり、小さくて丸みをおびている。軽羹が食べたい(いやらしい意味ではなく)。
 夕暮れ時になって急にやる気を起こし、自転車で白川通を北上してラーメンを食べにいく。

十月四日
 今朝は十時半までグウスカ眠る。朝食は黒糖パン二個と紅茶。
 本日は午後から怪奇研究会のミーティングがあったので大学へ出かける。
 幽霊部員の集合体に近い、組織として半死半生の研究会だが、十一月の学園祭には同人誌を出す。今日はその打ち合わせで、珍しく十人以上の会員が集まった。とはいっても、石川珠子さんが驚異的な手腕でブルドーザーのように事務的作業を片付けてしまい、ほかの会員は当日の設営と売り子ぐらいしかやることがないのだ。昨年はもったいぶってなかなか原稿を書かなかった後藤先輩も、珠子さんの執拗な催促に屈服したようである。私は「ツングースカ大爆発」について適当に書いてお茶を濁したが、珠子さんは「うわー、これは濁ったお茶だわー、締切守ればいいってもんじゃないわー」と棒読みのような口調で感想を述べた。志の高い人なのである。
 ミーティング後、珠子さんがバイトの前に軽く食べにいくというので、「ではいっしょに行こう」ということになったが、耳ざとく聞きつけてきた後藤先輩も合流することになって心底ウザイ。
 今出川通の喫茶店にて、珠子さんが構想中の壮大な論文について話を聞く。後藤先輩は「分かる分かる」と頻繁に相槌を打つが、珠子さんの偉大な理論が先輩ごときに分かってたまるものか。夕方になると、珠子さんは錦林車庫の近くにある古書店「緑雨堂」へバイトに出かけた。
 後藤先輩が「秋は人恋しくなる季節だよねー」と言って下宿に転がりこんできた。
 この後藤さんという三回生は、学問もせずにのうのうと暮らし、五臓六腑に満遍なく栄養がいきわたっていそうな色つやの良さで、イヤらしい黒縁眼鏡をかけている。黒縁眼鏡をここまで猥褻(わいせつ)に感じさせる人を他に知らない。ノートパソコンが壊れた話をすると、先輩は「小人閑居して猥褻動画しか見ない」と言い放つ。図星だったので何も言い返せぬ。悔しいので、テレビ台の裏側で埃をかぶっていた地獄のように不味いウィスキーを飲ませる。
 安物のウィスキーで悪酔いした先輩が「猥褻なものはないかー」と押し入れを漁り始めた。したいようにさせておいたら、先輩は押し入れの隅から一冊の大学ノートを引っ張りだしてきた。表紙に「四畳半日記」と書かれているのでギョッとしたが、よく見ると私の字ではない。この四畳半の前住人の置き土産であろう。よくそんなものが残っていたものだ。
 先輩は寝転がってそのノートを読みふけり、なかなか帰らない。「そろそろ出ていってください」と言うと、「このノートをくれたら帰ってもいい」と言うので、喜んで進呈する。
 先輩が帰ってから、黒糖パンの残りを食べて眠る。

十月五日
 本日は真面目な学徒として大学へ趣く。
 生協で「前日のフライのあまりもの」が安かったので食べたら、油ぎとぎとで丸一日気分が悪く、おかげでその後は何も食べずに済んだ。食費を浮かせるには良い手法である。
 午前中の講義が終わってから、3コマ目があいていたので自転車を走らせて白川通をくだり、緑雨堂へ行ってみた。珠子さんが軽羹的な奥ゆかしさを湛(たた)えて店番をしていた。
 緑雨堂は白川通に面した小さなビルの一階にある古書店である。薄暗い洞窟のような店舗の奥に、『泉鏡花全集』やら『国木田独歩全集』で構築された要塞のような精算台があって、ちょこなんと珠子さんが腰掛けている。かたわらには飴色になった木製のカードボックスが置かれている。古書店のバイト料は雀の涙ほどだが、そのかわり店内の本は自由に読んでよく、店主が使わなくなったカードとカードボックスも使い放題らしい。彼女はこのような環境に身をおいて、独自の研究をちゃくちゃくと進めているのである。えらいのである。
 ポットから湯を注いで作った即席おしるこをいただいて、しばし歓談する。富山にある彼女の実家には「開かずの間」があったという話を聞く。その幼少時の経験と、『竹取物語』との出会いが、珠子さんの異世界への憧れに火をつけたという。「異世界の気配はどこにだってあるよ」と彼女は言った。「この書店の奥には裏口があるらしいんだけど、本に埋もれてるし、使う必要がないから、店主だって裏口の存在を忘れてる。まるで異世界につながってるような気がする」と言う。店の奥は薄暗くごちゃごちゃして、裏口は見えない。開けてみたくないかと訊いてみると、彼女は「いつかね」とニヤリとした。
 4コマ目をサボって彼女と異世界について論じようと思っていたが、間の悪いことに後藤先輩が現れた。「やっぱりここにいた。俺の予想通り」とニヤニヤしているのが不快である。
 百円均一台の『ノストラダムスの大予言』を買って退散する。
 スペイン語に出たあと、調べ物をするために附属図書館へ行ったが、ソファでうつらうつらする。ハッと気がつくと、かたわらにまた後藤先輩がいて、「予想通り」と言われる。なにゆえ行く先々に現れるのか。俺に惚れているのか。「つきまとわないでください」と言って逃げだす。
 わけもなく夜の町を自転車で走る。北大路通沿いにある古書店に立ち寄って、マンガを買うべきか買わざるべきかそれが問題だと悩んでいると、母親から電話があって、「名月だから空を見ろ」と言われた。たしかに今宵は満月で、賀茂大橋を渡るとき雲の切れ間から美しい月がのぞいた。かぐや姫が帰っていきそうな、神秘的な月だった。昼間に聞いた珠子さんの話を思いだした。
 夜は『ノストラダムスの大予言』を読む。

十月六日
 今日は不愉快なできごとがあった。例によって後藤先輩がらみである。
 午前中の2コマは数学基礎だった。前期のテスト結果を思うと気が重くなるが、それでも頑張って出席を続けている俺を讃えるがよい。昼食は学部の友人たちといっしょに今出川通の喫茶店でめんたいこスパゲティを食べる。そのとき後藤先輩が店にいて、私のほうを見てにやにやしていた。
 午後は物理化学の講義が終わってから附属図書館へ行き、ソファに座って『ノストラダムスの大予言』の続きを読みふける。二十一世紀の現代において、二十世紀末に世界が終わるという予言の本を夢中で読むほど無益なことがあろうか。しかし考えてみれば、すでに世界が終わっている可能性も否定できない。この偉大でない日々こそ、ノストラダムスが予言した「世界の終わり」かもしれないのだ。「このままチンタラポンタラ終わっていくとしたらヤバイな」と思わざるを得ない。
「ノストラダムスより興味深い予言の書があるよ」
 声をかけられて顔を上げると、隣のソファにまたしても後藤先輩がいた。
「ちょっと待ってください。どうしてつきまとうんですか?」
「秘密はこの『四畳半日記』にある」
 先輩が掲げてみせたのは、先日私の下宿の押し入れから発掘された大学ノートである。
 そのノートには、我が四畳半に暮らした学生の平凡な日常が記載されている。先輩がここ二日ほど調査した結果によれば、大筋においてその記述は私の日常にぴったり一致しているという。にわかには信じられない話であり、しかも後藤先輩が言うのだから信憑性はかけらもない。
 馬鹿にするのもたいがいにしてくださいと言うと、先輩はノートを開いて突きつけてきた。
 その頁は十月五日、すなわち昨日の日付である。たしかにノートの記述は不気味なほど私の日常に一致している。生協のフライの余りものを食べて気分が悪くなったことから、午後に古書店へ出かけていって店番の女性と話したこと、附属図書館へ出かけて居眠りしたこと、夜になって町を自転車で走ったこと、月を眺めて『竹取物語』に思いを馳せたことまで書いてある。もはや私の日記といってもいい。先輩の偽造とも思えない。奇怪である。
 私が思わず手を伸ばすと、先輩はサッとノートを引っこめた。
「読みたいなら対価を払っておくれよ。一日分、五千円也」
 腐れ大学生の平凡きわまる一日を知るために五千円とは法外である。
 呆れ返ったので相手にしないでいると、先輩はソファに悠々とふんぞりかえって、大学ノートをぱらぱらとめくり始めた。四畳半日記は十月一日に始まって十七日で終わるという。明日以降をすべて買い取っても五万五千円、未来が知れるなら安いものだと主張する。
「これから想像を絶する出来事が起こるよ、くわばらくわばらー」
 不安を煽(あお)って買わせる手口にちがいない。まるで悪徳商人である。
 無視して立ち去ろうとすると、先輩はノート一頁分のコピーを渡してきた。「お試し版」だから無料で明日の分だけくれてやるというのである。下宿に戻って読んだが、偉大さのかけらもない日記で、面白くもなんともない。くしゃくしゃに丸めて投げ捨ててしまった。

十月七日
 本日未明、季節はずれの蚊の襲撃をうけた。純真な大学生たちの穢(けが)れなき血を、思うさま吸いまくってきた歴戦の猛者(もさ)にちがいない。敵ながらアッパレなやつだが、我が四畳半という聖域に闖入(ちんにゅう)したのが運の尽きであった。討ち果たした掌をそのまま静かに合掌する午前五時。南無。
 寝直して起きると十一時になっており、万年床で「わーおう!」と絶叫した。2コマ目は専門科目の講義であって、出席しなければまずかったのである。季節はずれの蚊のせいだ。そのとき、最近同じような出来事があったような気がしたが、いわゆるデジャヴだろうと思って気にしないことにする。
 大学へ出かけて生協でサンドイッチを買って食べ、3コマ目の講義にはきちんと出た。4コマ目の英語にも出た。英語にもっと身を入れなければならぬ。グローバルな時代に置いてけぼりにされると焦燥を感じつつ、きわめてローカルな四畳半へ戻っていく。帰途スーパーに立ち寄り、米を二キロ、ふりかけ、チキンラーメン五個セット、サンマの蒲焼きの缶詰、インスタントの味噌汁を購入する。
 なんというしょうもない一日であることか。下宿に戻り、サンマの蒲焼きをおかずにメシをもりもり食べているとき、またしてもデジャヴが襲ってきた。俺は以前にも、「なんというしょうもない一日であることか」と呟きながら、サンマの蒲焼きをおかずにメシをもりもり食べていた気がするぞ――。
 思い浮かんだのが、昨日先輩に押しつけられた四畳半日記のコピーである。丸めたやつを広げてみると、明け方の蚊の襲来から侘しい夕食まで、この偉大さのかけらもない一日がことごとく予言されていた。わざわざ予言する値打ちもない一日であることはともかくとして、この不気味なまでの一致はなにゆえか。ふだん物事に動じない私も茫然とせざるを得ない。
 そのとき狙いすましたかのように先輩から電話がかかってきた。明日の午後に緑雨堂で会おうと言われた。「いやです」と言下に断ると、先輩は「君が来ることを僕は知ってる。一切は四畳半日記に予言されているのです、おほほほほ」と気味の悪いことを言って電話を切った。
 明日は決して緑雨堂に近づくまい。

(つづく) 次回は2016年2月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 森見登美彦

    2003年『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。07年『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞を受賞。10年『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞を受賞。著書に『新釈走れメロス 他四篇』などがある。