物語がつまった宝箱
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  • 1 昭和54年(1979年) 2018年2月1日更新
「お前はまっとうに生きろ」と父ちゃんは言った。
 それは二年前の春のことで僕は小学六年生だった。父ちゃんと母ちゃんは離婚することになったと聞かされた翌日だ。僕はボストンバッグに服を詰め込む父ちゃんを呆然と見つめていた。すると今気が付いたといったように急に僕を見上げて言ったのだ。「お前はまっとうに生きろ」と。その時母ちゃんはたまたまなのか、わざとなのか、仕事に行っていて家にはいなかった。そして父ちゃんはボストンバッグ二つと姉ちゃんを連れて出て行った。
 電車が速度を落としていき、駅員がもうすぐ駅に到着すると告げた。
 僕は立ち上がりドアの前に移動する。しばらくして電車が止まると、開いたドアから降りた。
 蝉(せみ)の泣き声が一気に耳に入ってきた。
 ホームは高架上にあって街を見下ろせた。遠くに山が見えて畑が広がっている。その景色の中に工事をしている場所が三つあった。右の方には団地がきれいに並んでいる。昭和五十四年のありふれた景色だった。
 改札を出たところでポケットからメモを取り出した。そのメモを見ながら歩き出す。商店街を進んでいる時額の汗を腕で拭(ぬぐ)った。
 夏休みが始まった日から突然気温が高くなり、この二週間ずっと暑い日が続いている。
 商店街には肉屋があって、魚屋があって、お茶屋があって、煎餅(せんべい)屋があった。その商店街がぷつんと終わるのは、大きな通りと交差する場所だった。
 一週間前突然父ちゃんから入った電話で教わった通り、大通りを右に折れた。三つ目の信号を右に曲がって、建物を一、二、三と数えながら進む。六個目に父ちゃんが言っていたさつき荘があり、その前で足を止めた。
 なんで来ちゃったんだろう。母ちゃんに内緒で父ちゃんに会うなんて……でも母ちゃんからは、父ちゃんと姉ちゃんに会うなとは言われてない。貴弘(たかひろ)の話じゃ、僕には父ちゃんに会う権利があるらしいし。だけど……なんかすっごく悪いことをしているような気がしてしょうがない。これはマズいって思いで胸が一杯だ。どうしても会いたかったってわけじゃなかったのに。待ちに待った夏休みだったけど、始まってみたらなにもすることがなくて、暇だったせいかな。このために僕は母ちゃんにたくさん嘘を吐いた。貴弘の別荘に泊めて貰うという設定にしたからだ。なにか聞かれる度に僕はドッキドキだった。明日帰ったら、またたくさんの嘘を吐かなくてはいけないと思うと気が重い。
 さつき荘は二階建てで奥に向かって部屋が並んでいる。通りに面した一番手前の部屋の窓が開いていて、水色のタオルケットが干してあった。
 一階の奥へと進む。コンクリートの通路を歩き、どん詰まりの部屋の前で止まった。ドアの横に貼ってある小池(こいけ)と書かれた紙をしばし見つめた。少ししてからその下にあるブザーを押した。
 でもそれに手応(てごた)えはなく、ブザーの音が部屋に響いている様子もない。
 ドアの横の小さな窓が開いている。網戸の向こうには、黄色の食器用洗剤容器とクレンザーがあった。
 拳でドアを叩いた。しばらく待ってもなんの反応もなくて、何度も叩く。ふと叩くのを止めてノブを摑(つか)んだ。
 その時突然物凄い力で押し返された。
 開いたドアの向こうに父ちゃんがいた。
「おっ」と父ちゃんが声を上げた。「守(まもる)だったのか、さっきからドンドンやってたのは。さっさと入ってくりゃいいもんを、なにをやってんだと思ってたよ。ま、いいさ。入れよ」
「ドンドンって、なんの返事もしないからだよ。だから聞こえないのかと思って何度も叩いたんだ。聞こえてたなら返事してよ。ブザーも鳴らしたんだよ。壊れてるんじゃない?」
「ブザー?」目を丸くした。「そんな洒落(しゃれ)たもんがうちにあったのか?」
「小池って書いてある紙の下にあるよ」
「そうか。まぁ、いいやな。それを言いに来たんじゃないんだろ。入れ入れ」
 僕は三和土(たたき)でコンバースを脱いだ。
 すぐの台所は二畳くらいでテーブルが一つあった。そこには炊飯器と小さなテレビが並んでいる。二つの部屋のうち左の方は襖(ふすま)が閉まっていた。
 右の部屋から父ちゃんが言った。「背伸びたな」
「あぁ、うん」
 父ちゃんは敷きっ放しだった布団を半分に畳んだ。それを部屋の隅に足で押しやると、壁際にあった小卓を中央まで引き摺(ず)って動かした。
 その部屋は六畳で扇風機が首を振っている。壁の上の方にある桟に針金ハンガーが三個引っ掛けられていて、そのすべてに手拭いが掛かっていた。部屋の奥にある窓の向こうは小さな物干し台になっていたが、そこにはなにも干されていなかった。
 父ちゃんが畳を指差す。「まぁ、座れや」
 僕は父ちゃんの向かいに座り鞄を横に置いた。
 急に父ちゃんが立ち上がり扇風機を持ち上げる。
 それを父ちゃんが僕の隣に移した時、青い羽根が一瞬止まった。それから数秒後に再び回転を始めた。
「母ちゃんは」と父ちゃんが話し出した。「元気か? 相変わらずご立派か?」
「元気だよ」
「そうか。守はどうだ。元気か?」
「あぁ、まぁ元気」
「その変な声はどうした?」
「変な声って……変声期なんだよ」
「変声期ってのは声変わりのことか? そうか、声変わりか。守もそんな年になったんだな。大人への階段をー、上ってるんだねー」と父ちゃんが節を付けて歌うように言った。
「茶化さないでよ」
「茶化したいねぇ。これを茶化さないでどうするよ」にやついた顔をした。「先週の電話でもそんな変な声してたな、そういや。電話機の調子が悪いのかと思ってたが違ったんだな。声変わりかぁ。少年と青年の途中をせいぜい楽しめ。一生のうちたった一回だからな。いいじゃないか、変な声。すぐに変な声じゃなくなっちゃうぞ」
「なんだよそれ」
「変な声の少年は腹は減ってるか?」
「だから茶化すなって。家で食べてきたから腹は減ってない」
急に父ちゃんが声を潜(ひそ)めた。「母ちゃんには内緒か?」
「うん」頷いた。「友達の別荘に泊まりに行くってことになってる」
「そうか」
 父ちゃんは窓の方へにじり寄ると、ピース缶に手を伸ばし蓋(ふた)を開けた。タバコを一本取り出しライターで火を点ける。目を細めてゆっくり吸い込むと、勢いよく鼻から煙を吹き出した。
 父ちゃんは白いランニングとステテコ姿で、それは二年前までよく見ていた格好だった。
「あっ」父ちゃんが畳の上のカップラーメンを持ち上げた。「昨夜食おうと思って湯を入れたのに、酔っぱらってたから眠っちまったんだ」蓋を捲(めく)った。「食えるかな?」
「そんなの食うなよ」
「そうか?」
 隣の部屋の襖が開く音がした。
 僕は上半身を大きく後ろに捻(ひね)った。
 姉ちゃんが台所を突っ切る。そして水道の栓を捻りコップに注いだ水を飲む。くるりと身体を回した時僕と目が合った。
「守?」と言うと姉ちゃんが近付いて来た。「守だ。守だよ、父ちゃん」
「そうなんだ」父ちゃんが答える。「守だ」
 姉ちゃんが僕の頭に手を置いた。「元気?」
「まぁ、元気。姉ちゃんは?」
「その変な声はどうしたの?」
 うんざりして僕は「変声期だから」と説明した。
 三つ上の姉ちゃんは、上下とも黄色い水玉柄のパジャマを着ていてピエロみたいだった。
 姉ちゃんは僕の横にあぐらを掻(か)いて座った。それから大きな口を開けてあくびをする。
 そして「お腹空いた」と姉ちゃんが言った。
 父ちゃんがカップラーメンを持ち上げる。「これ食うか? 湯を入れたのが昨夜だったから伸びきってるが、味は変わらんだろう」
 カップラーメンを受け取った姉ちゃんが、蓋を開けて中を覗き込む。「スプーンの方がいいみたいだね」
 卓の上のマグカップに差さっているスプーンに手を伸ばす姉ちゃんに、僕は聞いた。「それ食うの?」
「うん」
「ほかにないの? 食べるものなんにもないの?」
「わかんないけど。いいよ、これで」
 覗(のぞ)き込んだカップの中には、茶色いものが大量に詰まっていた。スープを吸った麺は不気味なほど太くなっている。
 姉ちゃんはスプーンで麺が変形したものを掬(すく)い上げると、口に運んだ。もう一度。さらにもう一度。
 なにも言わずに食べ続ける姉ちゃんに僕は「旨(うま)い?」と聞く。
「いや。不味(まず)いね」
「それでも食うんだ?」
「うん」
 三つ上の姉ちゃんは昔からちょっと変わっていた。姉ちゃんも背が伸びたようだし、ちょっと痩せたようにも見えるけど、ズレているところは二年前のままだった。父ちゃんも変わっているので、二人と一緒にいると僕は混乱してしまうことがよくあった。そんな時には母ちゃんに助けを求めた。すると母ちゃんは「守の感覚の方が普通で、考え方も正しいんだよ」と言ってくれた。それで少しほっとするのだけど、なぜかいつもその後で寂しくなった。
 小学生の時担任が変わる度「小池りか子の弟か?」と必ず聞かれた。「そうだ」と答えると皆心配そうな顔をした。でもしばらくすると「お姉ちゃんとは違って弟は普通」と言われるのだった。同じことはクラス替えの度に、同級生の親たちとの間でも起こった。普通だと言われると良かったと思うのだけど、同時に普通でしかない自分にちょっとがっかりした。
 完食した姉ちゃんがトンと卓にカップを置いた。「将棋したい」
「えっ?」と僕は聞き返す。
 父ちゃんが大声で「将棋したいか?」と言って立ち上がった。「そうか。将棋したいか。よっしゃ。行こう」
 父ちゃんと姉ちゃんはあっという間に着替えを済ませた。二人と一緒にアパートを出た僕がどこへ行くのかと尋ねると、父ちゃんが「将棋だ。将棋」と嬉しそうに答えた。
 僕と姉ちゃんに将棋を教えてくれたのは父ちゃんだった。父ちゃんは昔工場で働いていた時、毎日昼休みに職場仲間と将棋を指していたらしい。
 商店街にあるレイコ美容室の横に狭い階段があった。その階段で二階に上がるとドアがあり、そこに「やまて将棋サロン」と書かれた紙が貼られていた。中は床から十センチほどの高さのところに二十枚ぐらいの畳が敷かれていて、十人程度の男たちが将棋盤を挟んで対局している。
 父ちゃんは僕と姉ちゃんに「ちょっと待ってろ」と言うと畳に上がった。
 僕と姉ちゃんは壁際の椅子に並んで座った。
 姉ちゃんは前傾姿勢で男たちを見つめる。そして時々足首までの長いスカートに、両方の掌(てのひら)を擦り付けるようにした。
 姉ちゃんは将棋が好きで強かった。大きなハンディを貰っても、僕はまったく姉ちゃんに勝てなかった。普通は将棋盤に互いに二十枚ずつの駒を並べて、スタートする。これに倣って僕が二十枚から始めるのに対して、姉ちゃんは王将一枚だけという最大級のハンディをつけて対局する。それなのに僕は姉ちゃんに勝てなかった。僕が小学五年生の時姉ちゃんは言った。守は弱過ぎて対局してもつまんないと。僕は泣いた。その時横にいた父ちゃんは、僕を慰(なぐさ)めてはくれなかった。それどころか父ちゃんは嬉しそうな顔で「りか子は強いからなぁ」と言って、僕をさらに哀しくさせた。
 正面の壁に掛けられた大きな時計が午前十一時半を指している。
 僕は立ち上がり部屋の左隅にあるトイレに入った。用を済ませてトイレから出た時、尻のポケットから財布を取り出す父ちゃんが目に入った。
 父ちゃんは財布から一万円札を一枚抜いて畳に置いた。もう一枚。さらにもう一枚。父ちゃんは向かいの男の顔をじっと見つめながら、一万円札を次々に出していく。
五万円になったところで向かいの男が頷いた。男はセカンドバッグから鰐革(わにがわ)の財布を取り出し、そこから五万円を抜いて、父ちゃんが出した札に重ねた。
十万円を父ちゃんはひとまとめにしてクリップで留める。それを折り畳んで自分のシャツの胸ポケットに入れた。
そして大きな声で「りか子」と呼びかけた。「将棋できるぞ」
 出入り口近くの将棋盤を挟んで、姉ちゃんと鰐革の財布の男が向かい合った。姉ちゃんが先攻になった。
姉ちゃんが歩を前に動かす。鰐革の男が王将を斜め前に置いた。次に姉ちゃんは角を摘(つま)み上げると左斜め方向に進めた。途端に鰐革の男が目を丸くした。
二人の将棋盤の周囲を五、六人の男たちが取り囲んでいる。そのうちの一人が首を捻ってから腕を組んだ。
姉ちゃんは遊ぶつもりなのだと僕は理解した。
将棋は相手の王将を取れば勝つゲームだ。たくさんの戦い方があるが、序盤は自分の王将を守るよう駒で砦(とりで)を作ることが多い。まずは守りを固めてから、駒の取り合いの中盤戦に進むのが普通の流れだった。でも姉ちゃんはいきなり攻めることがあった。近所にあった将棋クラブで、姉ちゃんのこの気儘(きまま)な戦法で、たくさんの人が混乱したままあっという間に負けるのを何度も見てきた。そんな時の姉ちゃんは勝負しているというよりも、遊んでいるようだった。
 僕は姉ちゃんに目を向けた。
 目がきらきらと輝いている。
 たちまち僕は苦い気持ちになる。姉ちゃんには将棋がある。将棋の天才だった。父ちゃんも母ちゃんも、近所の人たちも、姉ちゃんの将棋の才能を褒(ほ)めた。ちょっと変わっているけど、将棋が強いから特別な人って感じになっているのだ。でも僕は勉強も運動も、音楽も美術も全部普通で、性格も普通だと言われていた。これじゃ僕に光は当たらない。姉ちゃんは将棋を指している時は光が当たる。でも僕にはそういう瞬間がなかった。それは哀しい。そのうち僕が輝けるようなものと出合えるのかな。だったらいいけど。僕にも特別ななにかがあって欲しい。小池りか子の弟としてじゃなくて、普通の僕がちゃんと皆の記憶に刻まれるようになりたい。
 壁の時計が午後〇時半を指す頃には、盤上には鰐革の男の悲鳴が溢(あふ)れるようになった。姉ちゃんに追い詰められて、鰐革の男の王将は逃げ回る。
 少しして姉ちゃんがにやっとした。
 姉ちゃんが勝ちを確信したのだろう。
 こんな風に対局中に姉ちゃんがにやっとするのは、王将が取れるまでの手をすべて読み切れた時だった。姉ちゃん自身はそうやって笑ってしまうことに気が付いていない。
 姉ちゃんが鰐革の男の王将の前に金をパチンと打ち下ろした。
 すぐに観戦していた男の一人が驚いたような目で姉ちゃんを見る。
 鰐革の男はじっと盤を睨む。首を小さく左右に振って、それまで以上に前傾姿勢になって盤を見つめた。やがてその肩がすっと下がった。そして頭を下げると「負けました」と言った。
「凄いね、どうもこりゃ」とさっきとは別の男が興奮した様子で呟く。
 父ちゃんが「ま、こんなもんですわ」と誇らしげに言い、姉ちゃんに向かって「どうする? もう一局やるか?」と聞いた。
 姉ちゃんはゆっくり首を左右に振る。「もういい。お腹空いた」
「そうか」父ちゃんは頷くと、皆に向かって「それじゃ、今日はこれで」と告げた。
 鰐革の男が言った。「感想戦は?」
 父ちゃんが自分の顔の前で手を左右に動かした。「娘は感想戦が苦手なもんで」
 鰐革の男が不満そうな声を上げ、周りの男たちも同じような声を上げた。
 感想戦とは対局を終えた後で、実際に戦った二人がその対局を振り返ることだ。これによって相手の戦略がどういうものだったかがはっきりする。良かった手や悪かった手がわかると、互いのレベルを上げると言われてもいる。でも姉ちゃんは感想戦が嫌いだった。振り返ったり、分析したり、検討したりすることに興味がないようだった。前にどうして感想戦をしてくれないのかと聞いた時、そう感じたから動かしただけなのに、理由を聞かれても困るんだよと言っていた。
そもそも姉ちゃんには戦略なんてないのかもしれない。本能のまま指しているだけ。姉ちゃんはただ勝負が好きで、ヒリヒリするような世界にいたいだけなんじゃないかと思う。
「そういう訳なんで」と父ちゃんは言って、自分の胸ポケットを手でぽんぽんと叩いた。「毎度おおきに」
 僕らは将棋サロンを出て商店街の一軒の店に入った。ショーケースには団子やあんみつの食品サンプルが並んでいたが、店の壁にはラーメンやうどん、稲荷(いなり)寿司といったメニューも貼られていて、食事もできるようだった。
 店内には僕らのほかに三組の客がいた。テーブルの隅にはおみくじ付きの灰皿がある。姉ちゃんと僕が並んで座り、向かいに父ちゃんが着いた。
 灰皿を手元に引き寄せて父ちゃんが口を開いた。「りか子が腹空いてるって言うからここに来たが、向こうにも色々食うもんはあるからな。そっちでも食えるぞ」
「向こうってどこ?」と僕は聞いた。
「競艇場だ」
「えっ? これから競艇場に行くの?」

(つづく)

続きは9月中旬刊行予定『僕は金になる』でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年東京都生まれ。大妻女子大学卒。会社員、フリーライターを経て、2003年『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。著書に『恋愛検定』(祥伝社文庫刊)など多数。