物語がつまった宝箱
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  • 1 昭和54年(1979)年 2018年2月1日更新
「お前はまっとうに生きろ」と父ちゃんは言った。
 それは二年前の春のことで僕は小学六年生だった。父ちゃんと母ちゃんは離婚することになったと聞かされた翌日だ。僕はボストンバッグに服を詰め込む父ちゃんを呆然と見つめていた。すると今気が付いたといったように急に僕を見上げて言ったのだ。「お前はまっとうに生きろ」と。その時母ちゃんはたまたまなのか、わざとなのか、仕事に行っていて家にはいなかった。そして父ちゃんはボストンバッグ二つと姉ちゃんを連れて出て行った。
 電車が速度を落としていき、駅員がもうすぐ駅に到着すると告げた。
 僕は立ち上がりドアの前に移動する。しばらくして電車が止まると、開いたドアから降りた。
 蝉(せみ)の泣き声が一気に耳に入ってきた。
 ホームは高架上にあって街を見下ろせた。遠くに山が見えて畑が広がっている。その景色の中に工事をしている場所が三つあった。右の方には団地がきれいに並んでいる。昭和五十四年のありふれた景色だった。
 改札を出たところでポケットからメモを取り出した。そのメモを見ながら歩き出す。商店街を進んでいる時額の汗を腕で拭(ぬぐ)った。
 夏休みが始まった日から突然気温が高くなり、この二週間ずっと暑い日が続いている。
 商店街には肉屋があって、魚屋があって、お茶屋があって、煎餅(せんべい)屋があった。その商店街がぷつんと終わるのは、大きな通りと交差する場所だった。
 一週間前突然父ちゃんから入った電話で教わった通り、大通りを右に折れた。三つ目の信号を右に曲がって、建物を一、二、三と数えながら進む。六個目に父ちゃんが言っていたさつき荘があり、その前で足を止めた。
 なんで来ちゃったんだろう。母ちゃんに内緒で父ちゃんに会うなんて……でも母ちゃんからは、父ちゃんと姉ちゃんに会うなとは言われてない。貴弘(たかひろ)の話じゃ、僕には父ちゃんに会う権利があるらしいし。だけど……なんかすっごく悪いことをしているような気がしてしょうがない。これはマズいって思いで胸が一杯だ。どうしても会いたかったってわけじゃなかったのに。待ちに待った夏休みだったけど、始まってみたらなにもすることがなくて、暇だったせいかな。このために僕は母ちゃんにたくさん嘘を吐いた。貴弘の別荘に泊めて貰うという設定にしたからだ。なにか聞かれる度に僕はドッキドキだった。明日帰ったら、またたくさんの嘘を吐かなくてはいけないと思うと気が重い。
 さつき荘は二階建てで奥に向かって部屋が並んでいる。通りに面した一番手前の部屋の窓が開いていて、水色のタオルケットが干してあった。
 一階の奥へと進む。コンクリートの通路を歩き、どん詰まりの部屋の前で止まった。ドアの横に貼ってある小池(こいけ)と書かれた紙をしばし見つめた。少ししてからその下にあるブザーを押した。
 でもそれに手応(てごた)えはなく、ブザーの音が部屋に響いている様子もない。
 ドアの横の小さな窓が開いている。網戸の向こうには、黄色の食器用洗剤容器とクレンザーがあった。
 拳でドアを叩いた。しばらく待ってもなんの反応もなくて、何度も叩く。ふと叩くのを止めてノブを?(つか)んだ。
 その時突然物凄い力で押し返された。
 開いたドアの向こうに父ちゃんがいた。
「おっ」と父ちゃんが声を上げた。「守(まもる)だったのか、さっきからドンドンやってたのは。さっさと入ってくりゃいいもんを、なにをやってんだと思ってたよ。ま、いいさ。入れよ」
「ドンドンって、なんの返事もしないからだよ。だから聞こえないのかと思って何度も叩いたんだ。聞こえてたなら返事してよ。ブザーも鳴らしたんだよ。壊れてるんじゃない?」
「ブザー?」目を丸くした。「そんな洒落(しゃれ)たもんがうちにあったのか?」
「小池って書いてある紙の下にあるよ」
「そうか。まぁ、いいやな。それを言いに来たんじゃないんだろ。入れ入れ」
 僕は三和土(たたき)でコンバースを脱いだ。
 すぐの台所は二畳くらいでテーブルが一つあった。そこには炊飯器と小さなテレビが並んでいる。二つの部屋のうち左の方は襖(ふすま)が閉まっていた。
 右の部屋から父ちゃんが言った。「背伸びたな」
「あぁ、うん」
 父ちゃんは敷きっ放しだった布団を半分に畳んだ。それを部屋の隅に足で押しやると、壁際にあった小卓を中央まで引き摺(ず)って動かした。
 その部屋は六畳で扇風機が首を振っている。壁の上の方にある桟に針金ハンガーが三個引っ掛けられていて、そのすべてに手拭いが掛かっていた。部屋の奥にある窓の向こうは小さな物干し台になっていたが、そこにはなにも干されていなかった。
 父ちゃんが畳を指差す。「まぁ、座れや」
 僕は父ちゃんの向かいに座り鞄を横に置いた。
 急に父ちゃんが立ち上がり扇風機を持ち上げる。
 それを父ちゃんが僕の隣に移した時、青い羽根が一瞬止まった。それから数秒後に再び回転を始めた。
「母ちゃんは」と父ちゃんが話し出した。「元気か? 相変わらずご立派か?」
「元気だよ」
「そうか。守はどうだ。元気か?」
「あぁ、まぁ元気」
「その変な声はどうした?」
「変な声って……変声期なんだよ」
「変声期ってのは声変わりのことか? そうか、声変わりか。守もそんな年になったんだな。大人への階段をー、上ってるんだねー」と父ちゃんが節を付けて歌うように言った。
「茶化さないでよ」
「茶化したいねぇ。これを茶化さないでどうするよ」にやついた顔をした。「先週の電話でもそんな変な声してたな、そういや。電話機の調子が悪いのかと思ってたが違ったんだな。声変わりかぁ。少年と青年の途中をせいぜい楽しめ。一生のうちたった一回だからな。いいじゃないか、変な声。すぐに変な声じゃなくなっちゃうぞ」
「なんだよそれ」
「変な声の少年は腹は減ってるか?」
「だから茶化すなって。家で食べてきたから腹は減ってない」
急に父ちゃんが声を潜(ひそ)めた。「母ちゃんには内緒か?」
「うん」頷いた。「友達の別荘に泊まりに行くってことになってる」
「そうか」
 父ちゃんは窓の方へにじり寄ると、ピース缶に手を伸ばし蓋(ふた)を開けた。タバコを一本取り出しライターで火を点ける。目を細めてゆっくり吸い込むと、勢いよく鼻から煙を吹き出した。
 父ちゃんは白いランニングとステテコ姿で、それは二年前までよく見ていた格好だった。
「あっ」父ちゃんが畳の上のカップラーメンを持ち上げた。「昨夜食おうと思って湯を入れたのに、酔っぱらってたから眠っちまったんだ」蓋を捲(めく)った。「食えるかな?」
「そんなの食うなよ」
「そうか?」
 隣の部屋の襖が開く音がした。
 僕は上半身を大きく後ろに捻(ひね)った。
 姉ちゃんが台所を突っ切る。そして水道の栓を捻りコップに注いだ水を飲む。くるりと身体を回した時僕と目が合った。
「守?」と言うと姉ちゃんが近付いて来た。「守だ。守だよ、父ちゃん」
「そうなんだ」父ちゃんが答える。「守だ」
 姉ちゃんが僕の頭に手を置いた。「元気?」
「まぁ、元気。姉ちゃんは?」
「その変な声はどうしたの?」
 うんざりして僕は「変声期だから」と説明した。
 三つ上の姉ちゃんは、上下とも黄色い水玉柄のパジャマを着ていてピエロみたいだった。
 姉ちゃんは僕の横にあぐらを掻(か)いて座った。それから大きな口を開けてあくびをする。
 そして「お腹空いた」と姉ちゃんが言った。
 父ちゃんがカップラーメンを持ち上げる。「これ食うか? 湯を入れたのが昨夜だったから伸びきってるが、味は変わらんだろう」
 カップラーメンを受け取った姉ちゃんが、蓋を開けて中を覗き込む。「スプーンの方がいいみたいだね」
 卓の上のマグカップに差さっているスプーンに手を伸ばす姉ちゃんに、僕は聞いた。「それ食うの?」
「うん」
「ほかにないの? 食べるものなんにもないの?」
「わかんないけど。いいよ、これで」
 覗(のぞ)き込んだカップの中には、茶色いものが大量に詰まっていた。スープを吸った麺は不気味なほど太くなっている。
 姉ちゃんはスプーンで麺が変形したものを掬(すく)い上げると、口に運んだ。もう一度。さらにもう一度。
 なにも言わずに食べ続ける姉ちゃんに僕は「旨(うま)い?」と聞く。
「いや。不味(まず)いね」
「それでも食うんだ?」
「うん」
 三つ上の姉ちゃんは昔からちょっと変わっていた。姉ちゃんも背が伸びたようだし、ちょっと痩せたようにも見えるけど、ズレているところは二年前のままだった。父ちゃんも変わっているので、二人と一緒にいると僕は混乱してしまうことがよくあった。そんな時には母ちゃんに助けを求めた。すると母ちゃんは「守の感覚の方が普通で、考え方も正しいんだよ」と言ってくれた。それで少しほっとするのだけど、なぜかいつもその後で寂しくなった。
 小学生の時担任が変わる度「小池りか子の弟か?」と必ず聞かれた。「そうだ」と答えると皆心配そうな顔をした。でもしばらくすると「お姉ちゃんとは違って弟は普通」と言われるのだった。同じことはクラス替えの度に、同級生の親たちとの間でも起こった。普通だと言われると良かったと思うのだけど、同時に普通でしかない自分にちょっとがっかりした。
 完食した姉ちゃんがトンと卓にカップを置いた。「将棋したい」
「えっ?」と僕は聞き返す。
 父ちゃんが大声で「将棋したいか?」と言って立ち上がった。「そうか。将棋したいか。よっしゃ。行こう」
 父ちゃんと姉ちゃんはあっという間に着替えを済ませた。二人と一緒にアパートを出た僕がどこへ行くのかと尋ねると、父ちゃんが「将棋だ。将棋」と嬉しそうに答えた。
 僕と姉ちゃんに将棋を教えてくれたのは父ちゃんだった。父ちゃんは昔工場で働いていた時、毎日昼休みに職場仲間と将棋を指していたらしい。
 商店街にあるレイコ美容室の横に狭い階段があった。その階段で二階に上がるとドアがあり、そこに「やまて将棋サロン」と書かれた紙が貼られていた。中は床から十センチほどの高さのところに二十枚ぐらいの畳が敷かれていて、十人程度の男たちが将棋盤を挟んで対局している。
 父ちゃんは僕と姉ちゃんに「ちょっと待ってろ」と言うと畳に上がった。
 僕と姉ちゃんは壁際の椅子に並んで座った。
 姉ちゃんは前傾姿勢で男たちを見つめる。そして時々足首までの長いスカートに、両方の掌(てのひら)を擦り付けるようにした。
 姉ちゃんは将棋が好きで強かった。大きなハンディを貰っても、僕はまったく姉ちゃんに勝てなかった。普通は将棋盤に互いに二十枚ずつの駒を並べて、スタートする。これに倣って僕が二十枚から始めるのに対して、姉ちゃんは王将一枚だけという最大級のハンディをつけて対局する。それなのに僕は姉ちゃんに勝てなかった。僕が小学五年生の時姉ちゃんは言った。守は弱過ぎて対局してもつまんないと。僕は泣いた。その時横にいた父ちゃんは、僕を慰(なぐさ)めてはくれなかった。それどころか父ちゃんは嬉しそうな顔で「りか子は強いからなぁ」と言って、僕をさらに哀しくさせた。
 正面の壁に掛けられた大きな時計が午前十一時半を指している。
 僕は立ち上がり部屋の左隅にあるトイレに入った。用を済ませてトイレから出た時、尻のポケットから財布を取り出す父ちゃんが目に入った。
 父ちゃんは財布から一万円札を一枚抜いて畳に置いた。もう一枚。さらにもう一枚。父ちゃんは向かいの男の顔をじっと見つめながら、一万円札を次々に出していく。
五万円になったところで向かいの男が頷いた。男はセカンドバッグから鰐革(わにがわ)の財布を取り出し、そこから五万円を抜いて、父ちゃんが出した札に重ねた。
十万円を父ちゃんはひとまとめにしてクリップで留める。それを折り畳んで自分のシャツの胸ポケットに入れた。
そして大きな声で「りか子」と呼びかけた。「将棋できるぞ」
 出入り口近くの将棋盤を挟んで、姉ちゃんと鰐革の財布の男が向かい合った。姉ちゃんが先攻になった。
姉ちゃんが歩を前に動かす。鰐革の男が王将を斜め前に置いた。次に姉ちゃんは角を摘(つま)み上げると左斜め方向に進めた。途端に鰐革の男が目を丸くした。
二人の将棋盤の周囲を五、六人の男たちが取り囲んでいる。そのうちの一人が首を捻ってから腕を組んだ。
姉ちゃんは遊ぶつもりなのだと僕は理解した。
将棋は相手の王将を取れば勝つゲームだ。たくさんの戦い方があるが、序盤は自分の王将を守るよう駒で砦(とりで)を作ることが多い。まずは守りを固めてから、駒の取り合いの中盤戦に進むのが普通の流れだった。でも姉ちゃんはいきなり攻めることがあった。近所にあった将棋クラブで、姉ちゃんのこの気儘(きまま)な戦法で、たくさんの人が混乱したままあっという間に負けるのを何度も見てきた。そんな時の姉ちゃんは勝負しているというよりも、遊んでいるようだった。
 僕は姉ちゃんに目を向けた。
 目がきらきらと輝いている。
 たちまち僕は苦い気持ちになる。姉ちゃんには将棋がある。将棋の天才だった。父ちゃんも母ちゃんも、近所の人たちも、姉ちゃんの将棋の才能を褒(ほ)めた。ちょっと変わっているけど、将棋が強いから特別な人って感じになっているのだ。でも僕は勉強も運動も、音楽も美術も全部普通で、性格も普通だと言われていた。これじゃ僕に光は当たらない。姉ちゃんは将棋を指している時は光が当たる。でも僕にはそういう瞬間がなかった。それは哀しい。そのうち僕が輝けるようなものと出合えるのかな。だったらいいけど。僕にも特別ななにかがあって欲しい。小池りか子の弟としてじゃなくて、普通の僕がちゃんと皆の記憶に刻まれるようになりたい。
 壁の時計が午後〇時半を指す頃には、盤上には鰐革の男の悲鳴が溢(あふ)れるようになった。姉ちゃんに追い詰められて、鰐革の男の王将は逃げ回る。
 少しして姉ちゃんがにやっとした。
 姉ちゃんが勝ちを確信したのだろう。
 こんな風に対局中に姉ちゃんがにやっとするのは、王将が取れるまでの手をすべて読み切れた時だった。姉ちゃん自身はそうやって笑ってしまうことに気が付いていない。
 姉ちゃんが鰐革の男の王将の前に金をパチンと打ち下ろした。
 すぐに観戦していた男の一人が驚いたような目で姉ちゃんを見る。
 鰐革の男はじっと盤を睨む。首を小さく左右に振って、それまで以上に前傾姿勢になって盤を見つめた。やがてその肩がすっと下がった。そして頭を下げると「負けました」と言った。
「凄いね、どうもこりゃ」とさっきとは別の男が興奮した様子で呟く。
 父ちゃんが「ま、こんなもんですわ」と誇らしげに言い、姉ちゃんに向かって「どうする? もう一局やるか?」と聞いた。
 姉ちゃんはゆっくり首を左右に振る。「もういい。お腹空いた」
「そうか」父ちゃんは頷くと、皆に向かって「それじゃ、今日はこれで」と告げた。
 鰐革の男が言った。「感想戦は?」
 父ちゃんが自分の顔の前で手を左右に動かした。「娘は感想戦が苦手なもんで」
 鰐革の男が不満そうな声を上げ、周りの男たちも同じような声を上げた。
 感想戦とは対局を終えた後で、実際に戦った二人がその対局を振り返ることだ。これによって相手の戦略がどういうものだったかがはっきりする。良かった手や悪かった手がわかると、互いのレベルを上げると言われてもいる。でも姉ちゃんは感想戦が嫌いだった。振り返ったり、分析したり、検討したりすることに興味がないようだった。前にどうして感想戦をしてくれないのかと聞いた時、そう感じたから動かしただけなのに、理由を聞かれても困るんだよと言っていた。
そもそも姉ちゃんには戦略なんてないのかもしれない。本能のまま指しているだけ。姉ちゃんはただ勝負が好きで、ヒリヒリするような世界にいたいだけなんじゃないかと思う。
「そういう訳なんで」と父ちゃんは言って、自分の胸ポケットを手でぽんぽんと叩いた。「毎度おおきに」
 僕らは将棋サロンを出て商店街の一軒の店に入った。ショーケースには団子やあんみつの食品サンプルが並んでいたが、店の壁にはラーメンやうどん、稲荷(いなり)寿司といったメニューも貼られていて、食事もできるようだった。
 店内には僕らのほかに三組の客がいた。テーブルの隅にはおみくじ付きの灰皿がある。姉ちゃんと僕が並んで座り、向かいに父ちゃんが着いた。
 灰皿を手元に引き寄せて父ちゃんが口を開いた。「りか子が腹空いてるって言うからここに来たが、向こうにも色々食うもんはあるからな。そっちでも食えるぞ」
「向こうってどこ?」と僕は聞いた。
「競艇場だ」
「えっ? これから競艇場に行くの?」
「軍資金が入ったからな。俺はうどんと稲荷寿司のセットにするわ。りか子は?」
「海苔(のり)巻きセットと豆大福」
「守は?」と父ちゃんに聞かれたので、「ラーメン」と答えた。
 注文を済ませた父ちゃんはショートピースに火を点けた。「学校はどうだ? 毎日行ってるのか?」
「そりゃあ行くさ」僕は答える。
「毎日か?」
「だから行ってるって。毎日学校があるんだから、毎日行くよ」
「すっげぇなぁ、お前は。ちゃんとしてる。なぁ、りか子」
 姉ちゃんが頷いた。「守は偉いね」
「なに言ってんだよ」僕は声を上げる。「偉くもなんともないよ。馬鹿にしてるんだろ」
「馬鹿になんかしてないさ」父ちゃんが否定した。「毎日学校に行く守を尊敬してるんだ。ちゃんと早起きして、制服着て、同じ時間に家を出て、学校に行くんだろ。そんで硬い椅子に座って授業を受けるんだ。それは凄いことだ」
「そんなこと誰だってやってる。姉ちゃんだって高校行ってるだろ」僕は言った。
「ダメだったよ。一週間しか行けなかった」と姉ちゃんが答えた。
「えっ?」僕はびっくりして聞き返した。「高校行ってないの? そうなの? それ母ちゃん知ってる?」
「いつだったか……母ちゃんから電話があった時に話した」
「母ちゃんなんて言ってた?」
「あんたって子はって。それだけ。後は長いため息の音が聞こえてきてたかな」
「そんだけ? 高校行けとか、怒られなかったの?」
「怒ってたのかな?」姉ちゃんが首を捻る。「わかんない」
「高校行ってないんなら働いてんの?」
「働く?」目を丸くした。「そんなこと思い付きもしなかったな」
「……父ちゃんは? 父ちゃんは働いてんだよね。運送会社で。毎日早起きして会社に行ってんだろ? 今日はたまたま休みなんだよね?」
 父ちゃんは親指を自分の首の前で右から左へすっと動かした。「クビになった」
「……それじゃあ……次の働き口を探してるところなの?」
「まぁ、そうだな」
 女性店員が料理を運んで来た。
 僕は割り箸を割る。レンゲでスープを啜(すす)り隣に顔を向けると、姉ちゃんが大きな口を開けて大福に齧(かじ)り付いていた。
「そっちから?」と僕が聞くと、唇を白くした姉ちゃんが「なにが?」と返してきたので、「なんでもない」と答えた。
 店に四人連れが入って来て隣のテーブルに着いた。
 僕はグラスに手を伸ばし水を飲む。
 父ちゃんがうどんを勇ましく啜る。ずずずっと大きな音をさせて吸い込み、頬(ほお)をぱんぱんに膨(ふく)らませてから咀嚼(そしゃく)した。
「あなたの食べ方は汚らしい」と母ちゃんが突然言い出したのは、僕が小学五年生の時だった。それは家族四人で夕飯を食べていた時だったと思う。父ちゃんが味噌汁をずずっと啜った時、母ちゃんが言ったのだ。父ちゃんは「そうか?」と軽く言っただけで、それまでと同じ食べ方を続けた。しばらくして、母ちゃんがぴしゃっと自分の箸を卓に叩きつけた。そして「私がなにを言ってもあなたは変えようとしない」と大きな声を上げた。僕はびっくりして凍りついた。でも父ちゃんは「そんなことに目くじらを立てんなよ。おまんまの食べ方なんざ急に変えられないもんだぜ」と反論した。すると「変えようと努力したみたいな言い方しないで」と母ちゃんが言い、「おやおや、今日の母ちゃんは機嫌が悪いな。病院でなにかあったのか?」と父ちゃんが返した。マズいと僕は思った。このままだといつものようになってしまうと心配した。母ちゃんが怒って、父ちゃんはなんとも思ってなくて、それで母ちゃんはどんどん怒っていく――そんな日が増えていた。でもその日は違った。母ちゃんは自分のお茶碗や湯呑みを盆に載せて立ち上がった。それから台所のテーブルに移り、そこで一人で食事を始めた。僕はどうしていいかわからなくて尻がもぞもぞした。僕は音を立てないよう精一杯注意して食事をした。
「守」と父ちゃんに呼びかけられて顔を上げた。
「りか子が眠りたいようだから、守は俺の隣に移れ」と父ちゃんが言った。
 顔を隣に向けると姉ちゃんの首が前に傾(かし)いでいた。
 僕はラーメンが載った盆を前に滑らせて父ちゃんの隣に移動し、空いたところに姉ちゃんの盆をずらす。そうしてできたテーブルの空間に姉ちゃんの上半身が傾いていき、やがて突っ伏した。
 僕は言った。「姉ちゃんは今もなんだね。食べてる途中に寝ちゃうの」
「あぁ。守はしないな」
「普通しないんだよ」
「そうか?」
「そうだよ」僕はラーメンを音をさせないで啜る。「早く仕事見つかるといいね」
「仕事って?」
「父ちゃんの仕事だよ。探してるんだろ?」
「あぁ……まぁ、ゆっくりとな」
「ゆっくり探すんで大丈夫なの?」僕は質問した。
「まぁ、なんとかなるもんだからな。こっちはぼちぼちやってるが、守はどうだ? まっとうに生きてるか?」
「まっとうかどうかはわからないけど、普通に中学生やってるよ。地味にね。母ちゃんは婦長になった」
「婦長さんか。患者を叱って歩いてるんだろうな。目に浮かぶよ。俺が知り合った頃の母ちゃんはまだ新人看護婦だったが、それでもよく叱られたんだよ。あんまり色々言ってくっから、こりゃあ俺に気があるなとわかってさ。それでちょいと粉をかけたら――」
父ちゃんの話を遮(さえぎ)った。「そういう話いいから」
「いいのか?」
「いいよ。そんな恥ずかしい話息子にすんなよ」
「別に恥ずかしくないがな」
「こっちが恥ずかしいんだよ」
 父ちゃんは笑って僕の背中を二度叩いた。
 姉ちゃんは二十分後に目を覚まし、なにも言わずに食事を再開した。姉ちゃんが食べ終わると店を出た。駅前からバスに乗り、競艇場に着いたのは午後二時半だった。
 正面にゲートがあり、係員が入場者のチケットを確認している。右の方には入場券売り場があり、そこの前に人の列ができていた。ゲート前の広場に敷かれたコンクリートが、陽を反射して眩(まぶ)しいほど光っている。そしてゲートの向こうの景色がゆらゆらと動いているように見えた。
「ここで待ってろ」と言って父ちゃんは入場券売り場の列に向かった。父ちゃんの番になると、胸ポケットから札を取り出して窓口の係員に渡した。
 僕は姉ちゃんに顔を向ける。
 姉ちゃんは両手を庇(ひさし)のようにして目の上に当てていた。それからゲートの方を見ながら大きなあくびをした。
 戻って来た父ちゃんが言った。「これ、入場券な。これで守は絵日記に書けるな」
「えっ? どういうこと?」
「夏休みの宿題だよ。絵日記あるんだろ? それに今日は父ちゃんと姉ちゃんと競艇場に行きましたと書けるだろ」
「絵日記の宿題があったのは小学生の時だけ。うちの中学じゃ絵日記の宿題なんてないよ。もしあったとしたって、競艇場に行ったなんて書いちゃマズいでしょ」
「そうか?」
「そうだよ。もしかしてそれで僕に連絡してきたの? それが理由?」
父ちゃんが頷いた。「思い出したんだよ。夏休みの絵日記の宿題に守が苦労してたのをさ。ま、いいじゃないか、日記を書かなくていいならそれで。ボートは楽しいぞ。さ、行くぞ」
 僕らはゲートを通って中に入った。慣れた様子で歩く父ちゃんに、姉ちゃんと僕は続いた。
 通路に沿って売店が並んでいる。ホットドッグや焼き鳥などの店のほかに、リンゴ飴(あめ)を売っている店もあって祭りの出店のようだった。そうした売店が終わったところに、電話ボックスが二十基ほど並んでいた。 
父ちゃんが観覧席の方へ進んだ。そして前から二列目の空いていた席に座る。
 僕と姉ちゃんがその隣に並ぶと、父ちゃんが水面へ遠い目を向け「今日の風は右から左だな」と呟いた。
それから「ちょっくら準備してくっから」と楽しそうに言うと、父ちゃんは観覧席から離れて行った。
 前の席には、カンカン帽を被ったオジサンが二人分の席を一人で独占している。そのテーブルには、カップ酒とスルメの袋があった。その開いた口からは一本のスルメが飛び出している。
「ちょっとトイレ行ってくる」と姉ちゃんに声を掛けてから僕は立ち上がった。
 観覧席の階段を上りきると右に進んだ。公衆電話の前に来ると辺りを窺(うかが)って、父ちゃんの姿が近くにないことを確認する。それから扉に手を掛けた。中に入ると財布を広げる。十円玉と百円玉をそれぞれ積み上げて台に並べ、黄色の受話器を握った。でも気持ちの準備ができてないと気付いた僕は、すぐに受話器を戻した。そして小声で練習を始める。母ちゃん? 僕。貴弘の別荘に着いたとこ。大丈夫。心配することなんてないから。それじゃね。息を吸いゆっくり吐き出す。それから再び受話器を握った。
 プルルルー、プルルルー。呼び出し音が続く。七回目で繋がった。
「はい。久本(ひさもと)です」
「母ちゃん? 僕。貴弘の別荘に着いたとこ」
「そう。それならどうして公衆電話から掛けてきてるの?」
「えっ? なんで?」
「なんでって別荘なんでしょ。電話機ぐらいあるでしょうに、わざわざ公衆電話機から掛けてきてるからよ」
「…………」
母ちゃんが言う。「電話が繋がった時コインが落ちる音がしたもの」
「えっとね、別荘に着いて人がたくさんいる所に移動したんだ。祭りしてて屋台とかあって、そういうの貴弘と」
「そうなの。貴弘君と代わって」
「えっ?」
「お礼を言いたいから」
「そ、そんなのは帰ってからでいいじゃん。今隣にいないし。屋台に買いに行ってるから。待ってる間に電話する約束だったのを思い出したからしただけなんだしさ。そういうことだから。じゃ、切るよ」
「楽しむのはいいけど、周りの人に迷惑を掛けないようにね」
「うん。わかった。じゃあね」
 受話器を戻した僕は、思わず電話機に凭(もた)れ掛かった。それからドキドキしていた胸に手を当てる。
 危なかった。別荘にいるようなことを言っておきながら、公衆電話はまずかった。もっと細かいところまで考えて練習しておくべきだった。嘘を吐くのは大変だ。
 公衆電話ボックスを出て席に戻ると、姉ちゃんはぼんやりと遠くの景色を眺めていた。
「ここ、よく来るの?」と僕は姉ちゃんに聞いた。
「そうだね。週に二、三回ぐらいかな」
「父ちゃんは本気で仕事探してる?」
「仕事? 父ちゃんが? さぁ」首を捻った。
「やっぱり」一瞬迷ったけど口にした。「姉ちゃんに賭け将棋をさせて、それで儲(もう)けた金で暮らしてるんじゃないの? さっきの店の食事代も、ここの入場券も、これからやるギャンブルも、全部姉ちゃんが将棋で勝って、それで儲けた金から出してるんだよね?」
「そうだろうね」
「だろうねってどういうことだよ。それで姉ちゃんはいいの?」
「私は将棋をしたい時に将棋ができたら幸せなんだよね。だから今幸せだね」姉ちゃんが答える。
「……幸せなんだ。不安になったりしないの?」
「不安に? どうして?」
「どうしてって……いやぁ、だったらいいけど。将棋してる時どんな気持ちなの?」
「将棋してる時?」
「そう。なんか姉ちゃん将棋盤の前に座った途端、別人みたいになるから。どんな気分でやってんのかと思って」
 姉ちゃんは凄く真剣な顔でテーブルを見つめてから口を開いた。「楽しくってしょうがないって感じだね。興奮してるし。後いろんなことを考えているから忙しい」
「忙しいの?」
「そう。頭の中が忙しい。それも楽しいんだけどね。最高に面白いゲームじゃん。盤の前に座ったら二十枚の駒と一緒に戦い始めるでしょ。でもその味方を取られたり増やしたりして、戦力はどんどん変わる。変わる度に一番いい戦法を考えて、敵の出方を予想して王将を狙う。戦力が落ちても王将さえ取れば勝てるところとか――とにかく全部が面白いじゃん」
「さっきの対局に戦法なんてあった?」
「ん?」
「気儘に遊んでたろ。最初から勝てると思って、真面目にやらずに指したいところに指してたろ」
 姉ちゃんがにやっとした。「あのジジイとは何度か対局したことがあって、弱いとわかってたからね。真面目にやったらこっちはつまらないんだよ」
「将棋の時だけは飽きないんだね、姉ちゃんは」
「そうだね。守は? 守が楽しいのはなにしてる時?」
「……特にない」
「嘘だぁ」
「いや、本当に。強いて挙げれば友達と遊んでる時だけど、楽しくてしょうがないってほどじゃないし、バスケットボール部じゃベンチだし。たまに試合に出られる時はちょっと嬉しいけど、それは一瞬で終わっちゃって、上手くやらなきゃって気持ちになって、失敗したらどうしようってドキドキし出して全然楽しくない。どっちかっていうと、もう早くベンチに戻してくれって気持ちもあったりするしね」
 じっと僕を見つめて「大変だねぇ」と姉ちゃんは言った。
 馬鹿にしてんだろ。どうせ僕は普通だし、気持ちが弱いし、心配性だよ。姉ちゃんに僕の気持ちなんてわかりっこない。気儘で好き勝手に生きている姉ちゃんには。誰もが姉ちゃんみたいに好き放題にできるわけじゃない。人と違うのは怖いしできれば避けたい。でも……姉ちゃんがちょっと羨(うらや)ましかったりもする。姉ちゃんみたいな性格だったら、小さいことでくよくよせずに毎日気楽に過ごせそうだから。父ちゃんが姉ちゃんと暮らすのを選んだのは、僕とじゃ普通過ぎてつまらないと考えたのかな。離婚する時、父ちゃんが姉ちゃんを選んだ理由を僕は聞いていない。母ちゃんには聞き辛くてこれまで尋ねたことはなかった。理由を知りたい気持ちと、知りたくない気持ちの両方がある。
 父ちゃんが戻って来た。
 父ちゃんが僕たちの前のテーブルに置いたトレーには、ラムネの瓶が二本と紙コップに入ったビールがあった。
 脇に挟んでいた新聞を父ちゃんが広げる。
 ハイテンションで父ちゃんが言った。「守の好きな色は何色だ?」
「色? 別にないよ」
「それじゃ困るんだよ。あるだろ、気が付いたら選んでるって色が。それが好きな色だ」
「じゃあ、青かな」
「青か、そうか。青から張るかな」
 観覧席の屋根から下げられている大きな画面に、スタート地点らしき映像が映し出された。ボートには誰も乗っていなくて、水際にある階段状の斜面をスタッフらしき人が走っている。
 顔を左に向けて姉ちゃんを見ると、テーブルに片肘を突き漫画本を広げていた。
 どれくらい前だったかはっきりしないが、まだ姉ちゃんが小学生の頃だった。下校中、道の端にあぐらを掻く赤いランドセルを背負った子を見つけた。道に座って漫画を読んでいるそれが姉ちゃんだと気付き、僕は走り寄った。なにしてんのと聞くと、歩くのに飽きたのでここで漫画を読んでいると姉ちゃんは答えた。僕は辺りを見回して、誰にも見られていないのを確認してから「家はすぐそこじゃないか、後ちょっとなんだから頑張れよ」と言った。姉ちゃんは「頑張らない」と答え、先に帰ってと続けた。僕は一人で家に戻った。母ちゃんに姉ちゃんのことを話すと、すぐに迎えに行った。しばらくして戻ってきた母ちゃんの背中には、姉ちゃんがいた。歩くよう説得したけど言うことを聞かなかったので、おんぶするしかなかったと怒っていた。叱られている最中に姉ちゃんは居眠りを始めて、さらに母ちゃんを怒らせた。
 僕は顔を正面に戻した。
 水面がきらきらと光って眩しい。
 僕はラムネに手を伸ばし瓶に口をつける。
 ゴムの味がした。


 ドアを開けた途端自分の家の匂いがした。下駄箱の上の皿に鍵を置きスニーカーを脱ぐ。細い廊下を進み鞄をダイニングの床に置いた。茶の間の窓を開けて風を入れた。
 母ちゃんと僕が暮らしているのは3DKのアパートだった。私鉄の最寄り駅まで十五分ほどのところにある。
 窓の先には小さなベランダがあり、母ちゃんが育てているサボテンの鉢が二つ並んでいる。
 ダイニングに戻り扇風機のスイッチを足の親指で押した。それから両手を上げて背中を伸ばす。そして冷蔵庫の扉を開けた。僕の好物のジャガイモと挽(ひ)き肉の煮物が、大皿に入っているのに気付く。扉を閉めてその上の冷凍室の扉を開けた。あずきバーを発見し「おっ」と思わず声を出す。袋を裂いてすぐに銜(くわ)えた。流しの端にある小さな時計に目を向けた。
 午後四時。母ちゃんが帰って来るまで後一時間。
 僕は洗濯物を取り込むことにする。
 あずきバーを銜えたまま網戸を開けて、ベランダに出た。竿(さお)から外した洗濯物を畳の上に放っていく。それから洗濯ばさみがたくさん付いているハンガーを持ち上げた。それをすでに重なっている洗濯物の上部まで移動させると、洗濯ばさみを端から外していく。
 洗濯物の上に洗濯物が降る。
 洗濯物をすべて取り込んでから畳み始めた。
母ちゃんの靴下を二枚合わせて丸めた時、急に不安になって立ち上がった。ダイニングの鞄からノートを取り出して、洗濯物の前に戻った。あぐらを掻きノートを広げる。
そこには予想した母ちゃんとの会話が書かれていた。父ちゃんたちのアパートから戻る電車内で考えてメモしたものだ。
昨日競艇場から母ちゃんに電話した時は、予定通りの会話にならず焦った。嘘を吐く時は、もっと緻密(ちみつ)に物語を作っておかなくてはいけないと知った。
何度も書き直して練り上げた貴弘との二日間のアリバイに、今一度目を通す。銜えていたあずきバーを口から離して手に持ち、目を瞑(つむ)った。それから暗記した物語を呟く。完璧に覚えたことを確認して一つ頷いた。
貴弘は嘘が上手い。天才的だった。あれは学校帰りに貴弘とパン屋に寄り道した日だった。部活がない日には、そうやって貴弘と過ごすことが多かった。パン屋から出て歩いていると、貴弘の家の前にタクシーが停まっているのが見えた。貴弘は突然僕の腕を?むと「俺はバスケ部だからな」と言った。僕は聞き返したが貴弘は答えず、タクシーに向かって進んだ。そのタクシーから女の人が降りた。大きなサングラスをしていた。その人は「お帰り」と言い、貴弘は「ただいま」と答えた。それは貴弘の母ちゃんだった。貴弘の母ちゃんは「お友達?」と聞いてきて、貴弘は僕を紹介した。俺と同じバスケ部の守だと。貴弘はバスケ部ではない。部活にはなにも入っていないのに、さらっと嘘を吐いた。貴弘の母ちゃんが「練習だったの?」と言うと、「そう。今日も疲れたよな?」と貴弘は僕に話し掛けてきた。僕は軽いパニックを起こしながら二度頷いた。翌日貴弘から聞いた話では、声楽家の母ちゃんはリサイタルに出るため外国に行っていることが多く、日本には滅多にいないらしい。一緒にタクシーに乗っていたのが貴弘の父ちゃんで、母ちゃんのマネージャーをしているから、やっぱり日本にはいないことが多いという。小さい頃からやらされていたピアノやバイオリンのレッスンを止める理由が必要で、スポーツに夢中ということにしたと言っていた。バスケットボールはなんとなく思い付いたからだそうだ。そうした貴弘の嘘に、お手伝いさんは合わせてくれるので全然楽勝だという。簡単そうに嘘を吐ける貴弘がなんだか大人に思えた。
母ちゃんの洗濯物は部屋の隅に重ねて、自分のを部屋に運ぶ。
玄関に一番近いのが僕の部屋だった。元々は姉ちゃんの部屋だったこの六畳には、窓がない。左に押入れがあり、その隣にはジッパーで扉を開閉するビニール製の洋服箪笥(だんす)があった。部屋の右隅には勉強机があり、その横には机と同じ高さの扇風機が置いてある。
足の親指で扇風機のスイッチを押したが動かない。もう一度押してオフにしてから、また親指でスイッチを押した。それでも動き出さなくて、扇風機の頭を手でぴしゃりと叩く。ふとコードの先を見ると、プラグがコンセントに入っていなかった。「なんだよ」と呟いてプラグを差し込む。回り出した羽根の前に顔を近付け、風を思いっきり浴びた。
それから宿題のドリル帳を机に広げたけど、全然集中できなくてすぐに止めた。漫画雑誌と机の時計を交互に見ながら時々深呼吸をして、落ち着けと自分に言い聞かせた。
ガチャ。玄関ドアのロックが外れた音がした。
午後五時五分。
僕は一気に緊張して漫画雑誌を閉じる。急いで立ち上がり漫画雑誌を本棚に戻した。机に戻りドリル帳を広げる。
背後から母ちゃんの声がした。「ただいま」
 首だけ捻って「お帰り」と僕は答えた。
 部屋の出入り口に立つ母ちゃんが不思議そうな顔をした。「なにしてんの?」
「なにって勉強。宿題のドリルだよ」
「あらまぁ感心だこと。別荘はどうだった?」
「楽しかったよ」
「そう。それは良かった。お腹空いてる?」
「あぁ……えっと、うん。そんなでもないかな」僕は答える。
「なによ。空いてるの? 空いてないの?」
「あずきバー食べたから。夕飯が遅くなっても大丈夫だよ」
「そう」と言うと母ちゃんは去って行った。
 夕飯ができたと言う母ちゃんの声が聞こえてきたのは、午後六時半だった。
 僕は胸に手を当て深呼吸をしてから部屋を出る。ダイニングテーブルに並んでいる皿を、僕は両手に持った。それを茶の間の卓に運ぶ。
それから何往復かしてすべてを運び終わると、僕と母ちゃんはいつものように向かい合って座った。
左方向の壁の前にテレビがある。男性アナウンサーがニュースを読んでいる。
「昨夜はなにを食べたの?」母ちゃんが聞いてきた。
「カレーライス」
「二人で作ったの?」
「違う。別荘の近くの店で食べたんだ」
「そう。お小遣い足りたの?」
「うん」僕は頷いた。
「中学二年生の男の子二人はなにを喋るの?」
「えっ?」
「お母さんは女だから、男の子二人はいったいなにを喋るんだろうと思って」
「なにって……色々だよ」
「色々かぁ。あらこれ、チンが足りないわね。もうちょっと温めるわ」
 春頃に初めて電子レンジを買った母ちゃんは、世界で一番の発明品だと言って、とても気に入っている。「チンすればいいのよ」とか「チンできないんじゃダメね」とよく口にする。
 母ちゃんがジャガイモと挽き肉の煮物の大皿を持って立ち上がった。
 僕はテレビに顔を向けた。
 冷凍庫の製氷皿で作るシャーベットの紹介をしている。
「お待たせ」と言って母ちゃんが大皿を卓に置いた。「昨日はお祭りだって言ってたけど、雨降ってなかったの?」
「……」白飯を?み込んだ。
「昨日このテレビでやってたのよ。たまたまG町から中継してて、天気予報の人傘さしてたわ」
 マズい。僕の心臓は飛び跳ねた。天気の話になるとは思わなかった。どうしよう。どうやったら辻褄(つじつま)を合わせられるんだろう。貴弘のような嘘の才能があったらいいのに。落ち着け。落ち着け。まだバレたわけじゃない。上手く取り繕うんだ。貴弘の別荘に行ってなかったら、どこに行ったのかということになってしまう。それはダメだ。もしかすると……最初っから、父ちゃんと姉ちゃんに会いに行くと言っていたら、こんなに苦しい思いをしなくて済んだのかな。いや、やっぱり母ちゃんにそんなこと僕は言えなかった。僕は凄く酷(ひど)いことを母ちゃんにしたのかな。焦っているのと同時に哀しいのはなんでかな。あー。どうしよう。なんで昨日に限って中継なんてしたんだよ。参ったなぁ。早くなにか言わないと。なにかあるんじゃないかと母ちゃんに疑われてしまう。
 僕はスプーンでジャガイモを掬った。それを自分の小皿に取り、スプーンを大皿に戻す。
「別荘の近くじゃ降ってなかったよ」僕は大き目のジャガイモを口に入れて、ほとんど噛まずに飲み下そうとした。
「ぐっ」僕は苦しくなって胸を叩く。
「ちょっと大丈夫?」と母ちゃんが心配そうな声を上げた。
 涙で滲(にじ)んでぼやけた母ちゃんの顔を見ているうち、いっそこのまま自分の息を止められたら楽になるという考えが浮かぶ。
 でもその考えは一瞬で、すぐに僕は湯呑みの茶を喉に流し込んだ。
 しばらくしてぎゅるっと胃が動いた気がした直後に、息が一気に楽になった。
 思わず「ふうっ」と息を吐き出した。
母ちゃんが笑いながら言った。「そんなに慌てて食べなくたってたくさんあるのに」
「うん」
「急いで食べるのは健康に良くないのよ。ちゃんとゆっくり噛んで少しずつ食べるのがいいの」
「わかった」
 母ちゃんは味噌汁の椀を持ち上げると口を付けた。それから顔をテレビに向けた。
 僕はキュウリに箸を伸ばした。ゆっくり食べながら母ちゃんの様子を窺う。
 母ちゃんは画面に映し出される火事の様子に夢中になっている。
 これで別荘の話は終わったのだろうか。もう母ちゃんに嘘を吐かなくて済むのか? どれもいつものメニューなのに、味が全然わからないのは何故だろう。

(つづく) 次回は2018年2月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年東京都生まれ。大妻女子大学卒。会社員、フリーライターを経て、2003年『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。著書に『恋愛検定』(祥伝社文庫刊)など多数。