物語がつまった宝箱
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  • 6 平成9年(1997年) 2018年4月15日更新
  自宅近くのデンタルクリニックの待合室にあるソファに座り、壁の時計へ目を向けた。
  予約した午後三時から十五分が経っている。
  昨日歯の詰め物が取れてしまい今日の予約を取った。土曜日なので混んでいると事前に聞かされていた通り、待合室には五人の患者でソファはすべて埋まっている。
  六、七歳ぐらいの男の子が立ち上がった。鼻歌を歌いながら、僕の前にある雑誌のラックまで進み覗(のぞ)き込む。両手をポケットに入れたまま並んでいる雑誌をしばしチェックした後、鼻歌を歌いながらソファに戻った。
  どうしてそんなに余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)なのだろう。大人の僕が治療を前にしてびくびくしているというのに、子どものほうが平気な様子なのが不思議だ。もっと恐怖に慄(おのの)いている時ではないのか。まるで優良企業の取締役のような余裕を身に纏(まと)っているのが解(げ)せない。
  名前を呼ばれて診察台に座った。女医からは何度も「リラックスしましょう」と声を掛けられ、終わった時には女性スタッフから「よく頑張りました」とお褒(ほ)めの言葉を掛けられた。
  クリニックを出た時携帯電話が鳴った。
  画面に出ている名前を確認してから電話を耳にあてた。「もしもし、姉ちゃん?」
「うん。守(まもる)?」
「あぁ」
「…………」
「姉ちゃん? どうかした?」
「……助けて欲しい」
「えっ? どうした?」僕は驚いて尋ねた。
「助けて欲しい。ごめん、守」
「なんだよ、どうしたんだよ。ちゃんと話せよ」
 姉ちゃんの話は要領を得なかった。とにかく明日そっちに行くと告げ電話を切った。
 通りを渡り一つ目の角を右に曲がる。狭い道を二十メートルほど歩き自宅マンションに到着した。
 向かいのマンションの一階にある印刷会社が扉を大きく開けていて、ライトバンに荷物を運び入れている。
 二年前の二十九歳の時に結婚し、同時期にこのマンションで暮らし始めた。築年数が二十年を超えていて、駅から十分の割に家賃が安かったので選んだ部屋だった。
 ダイニングテーブルに着いていた妻の菜々子(ななこ)に向けて「ただいま」と言った。
「お帰り。どうだった? 痛かった?」菜々子が聞いてきた。
「あっ、忘れてた」手を頬(ほお)に当てた。「麻酔で痛くはなかったんだがあの音がさ、怖いよな」
「忘れるぐらいなら、苦手なデンタルクリニックを克服できたってことなんじゃないの?」
「いや、ちょっと他の事に気を取られてただけだ。克服できたってわけじゃない。姉ちゃんから電話があってさ、なんだかよくわからないんだが緊急事態っぽいんだ。明日姉ちゃんのところに行ってくるよ。だから約束してたモデルルーム見学には行けない。本当にごめん。一週間ずらしてくれ」
「お姉さんって、まだ私が会ったことがないりか子さん?」
「その姉ちゃん」僕は頷(うなず)く。
「なにがあったのかしら?」
「わからない。だがというか、だから行って来るよ。ごめん」
「…………」
「前にさ、緊急事態だから来てくれって姉ちゃんに電話したことがあるんだよ。理由を言わずにね。姉ちゃんさ、すっ飛んで来てくれたんだ。他の人にとっちゃたいしたことじゃないよな、目的地まで移動するなんてさ。だが姉ちゃんにとっては物凄(ものすご)く大変なんだ。社会への適応力が八歳の子どもレベルだからね。それでも必死で来てくれたんだ。僕の緊急事態だからって。だからさ、今度は僕が行かないと。菜々子との約束をキャンセルして申し訳ないが、来週にしてくれ」
「私も行こうかな」菜々子が言った。
「えっ?」
「ずっと会いたいって思ってたし。緊急事態なんだったら嫁の私も行くべきじゃない?」
「そ、それはどうかな。菜々子が行く必要があるとは思わないな。まずはさ、僕が行って話を聞いてさ、それからだよ」
「会わせたくない?」
「会わせたくないってことはないよ。全然違う。そういうんじゃない」
 恥ずかしいんだ。姉だと紹介するのは。僕はすっかり慣れているから、姉ちゃんの奇行もしょうがねぇなとやり過ごせるが、普通の人はそうはいかない。驚いた顔や呆(あき)れたといった顔をして姉ちゃんを見る。その視線が耐えられない。子どもの頃は僕も同類と思われるのが恐怖だった。大人になって、そうした思いは随分(ずいぶん)と小さくなったとはいうものの、菜々子の顔に驚きや呆れといったものが浮かぶのは嫌だ。姉ちゃんを嫌いではないんだが。優しいところがあるし、僕の普通のところを認めてくれたりするし……だがやっぱり姉だと紹介するのには抵抗感がある。できればそうしたことは避けたい。姉ちゃんは僕にとって……時に羨(うらや)ましく、時に妬(ねた)ましく、時に面倒な存在だから。
 僕は冷蔵庫を開けポット型浄水器を取り出した。グラスに水を注ぎすぐにそれを冷蔵庫に戻した。水を飲みながらキッチンを出ると、バチンと菜々子と目が合う。ごくりと水を呑み込んだ。
 菜々子が口を開いた。「守が困ってるみたいだから、お義姉(ねえ)さんに会うのは今度にしてあげる」
「困ってはいないよ」
「いつかは会わせてね、お義姉さんにもお義父さんにも」
「まぁ、そのうち機会があればね」
「そんなに嫌なの?」
「嫌というか、なんというか……ちょっと変わってるから。何度か話したことあるだろ、姉ちゃんと父ちゃんのエピソード。人から話を聞くぶんには面白いかもしれないが、肉親だと全然面白くないから」
「守はさぁ、家族に完璧さを求め過ぎてない?」菜々子が言った。
「えっ?」
「完璧な人と一緒にいたらきっと息が詰まると思うな。私はそう。不完全な人と一緒にいるほうが楽だし、楽しいもの」
「…………」
「未熟な者が集まってすったもんだするのよ。そういうのを含めて人生なのよ」
「僕は……そんな風には思えなくてね。そんな風に思えたらいいのにと思うよ」
「思ってるわよ、きっと。ただそれを認めたくないだけなんじゃない? お義姉さんの話をしている時の守からは、お義姉さんへの愛情を感じたもの」菜々子が微笑む。
「嘘だよ」
「本当よ。屈折してはいるけど、ちゃんと愛情をもってるじゃない」
「なんか……今日の菜々子はおかしいよ。僕を動揺させないでくれよ。とにかく荷造りするわ」ダイニングルームを出た。
 飛行場に着いたのは日曜の午前十時だった。バスでターミナル駅まで移動し、そこからタクシーに乗った。ここら辺だと運転手に告げられて降りた。
 目印だと言われていた無人の交番を見つけ、その横の狭い路地に入る。しばらく行くと、道の右側に同じ外観の五階建てのアパートが四つ並んでいた。一番奥のアパートの入口横の壁面には、K町第四公団棟と書かれたプレートが掛けられていた。
 僕は二〇六号室のチャイムを押した。
 少ししてドアが細く開いた。そこに姉ちゃんがいた。
 姉ちゃんの顔色は悪く目の下には隈(くま)が浮いている。
 2LDKの室内は悲惨な状態だった。部屋には物があふれ床は見えない。ダイニングテーブルの上にも椅子(いす)の上にも、物が載っている。混乱の極みだった。
 僕は右の部屋のベビーベッドに気が付き、足元に注意しながら向かう。
 姉ちゃんの息子、純(じゅん)がすやすやと眠っていた。
 ほっとして振り返ると姉ちゃんがぽつんと立っていた。
 姉ちゃんはうな垂れていたが突如(とつじょ)顔を上げると「なにか飲むよね」と言った。そして器用に色んな物を避けながらキッチンへ向かう。
 僕はベビーベッドから離れ、ダイニングテーブルの側まで移動した。
 姉ちゃんがキッチンの中をうろうろする。「飲み物飲み物」と呟(つぶや)きながら冷蔵庫を開けて、すぐに閉じた。それからあちこちの戸棚を開け始める。そうやってインスタントコーヒーの瓶(びん)を取り出し、カウンターに置いた。水道の栓を捻(ひね)るとマグカップの中に食器洗剤を垂らし、中にスポンジを入れて洗い出す。洗い終わると、マグカップをシンクの中で上下に激しく振った。そしてそれをカウンターに置いた。インスタントコーヒーの蓋(ふた)を開けスプーンで掬(すく)おうとしたが、粉が固まっていたようで、スプーンを握り直し中を突き刺し始める。そうやって崩した粉を掬ってマグカップに入れた。ポットの下に置き上部を押すと、パスッと間抜けな音がするだけで湯は出ない。ポットを持ち上げてシンクの中に置き、中に水を入れた。ポットを戻してマグネットプラグを挿(さ)した。そして一つ息を吐いた。
 僕は小声で尋ねる。「僕はなにをすればいい?」
「えっと、湯が沸くのを待って。それから、そうだ、座って。どこでもいいから。置いてあるものはどけちゃって」
 椅子の上の服とおもちゃを隣に移して腰掛けた。「なにをすればいいかと聞いたのは、どうやったら姉ちゃんを助けられるのかってことだよ」
「あぁ、そっか、そっちか」額に手をあてた。
「そんなでかい声で、純君起きないか?」
「純? 大丈夫。人の声だとどれだけ大きくても全然寝てる。機械の音だと結構小さくても起きちゃったりするけど、人の声は平気みたい」
「そうか」僕は普通の声の大きさで言った。「森枝(もりえだ)さんはこの状態でよくなにも言わないな」
「言ってた。言ってたよ。でも私ちゃんとできなくてね。それで愛想を尽かされた。離婚したんだ」
「そうなの? いつ?」
「一年前」
「なんですぐに知らせないんだよ」
「……連絡しにくくて」
「なんで?」僕は尋ねた。
「守は応援してくれてたから。心配しながらも応援してくれたのに、やっぱり別れることになって合わせる顔がないというか……」
「姉ちゃんと純君がこんな状態でよく出て行けるよな、森枝さんも」
「もう限界だって」
「えっ?」
「もう限界だって言ってた」姉ちゃんが肩を竦(すく)める。「それで出て行った」
「生活費はどうしてるの? 森枝さんから?」
 首を左右に振った。「生活保護を受けてる。月に一回役所の人が来て、色々アドバイスくれるんだけど……できないんだよ。家計簿をつけるよう言われたんだ。そうするとどこに無駄があるかわかるようになるからって。でもできなくってさ。純はすぐ泣くし、食事を用意しなくちゃいけないし、オムツを替えなきゃいけないし。片付けようと思ってるんだよ。でもやってる途中で、洗濯しなくちゃいけないことを思い出して、それに買い物にも行かなくちゃいけなくて――どれからやったらいいかわからなくて、呆然としているうちに翌日になってる。毎月生活保護費が出る一週間前から、お財布にはお金がほとんど残ってなくて心細いんだけど、今月はお金が振り込まれるまで二週間以上あるのに、もうお金が残り少なくなってて……どうしたらいいかわからなくって。どうして今月はこんなことになったのか――それで守に電話しちゃったんだ。ごめん。お金を貸して欲しい。一度には返せないから、生活保護費が出た日に毎月少しずつ守の口座に振り込むよ。弟に借金を頼む情けない姉ちゃんでごめん」
「僕に頭下げたりすんなよ。貸すよ。だが役所の人が言うように家計簿をつけないと、どうして今月はこうなったのかわからないだろ。わからないままだと、来月また同じことになるんじゃないのか? 買い物した時レシートは必ず貰(もら)ってる?」
「多分」
「だったら出してよ。僕がちょっと計算してみるから。いや、その前にちょっとこの部屋を片付けよう。まずはそうしよう」
 僕はコンビニに行って段ボール箱を貰ってくると、そこに『残す物』『捨てる物』と書いた。部屋にある物を分別して段ボール箱に入れていき、大事だと思われる書類などは手元に溜(た)めていった。ベビーベッドがあるほうの部屋を片付け終えると、隣の部屋に移った。
 そこは八畳程度の広さで、シングルベッドが一つ壁際に置いてあった。そこで寝てはいないようで、たくさんの物が積み重なっている。
 僕は屈(かが)んで部屋の隅にある物に手を伸ばした。そして捨てるほうの段ボール箱に入れる。床にある物に手を伸ばした時、その少し左に将棋盤を見つける。周りにある物をどかして将棋盤を引っ張り出した。
 マグネット式の将棋盤で二つ折りになっている。開くとその内側にプラスチックのケースが二つあり、そこに駒が入っていた。
 いつ買ったのだろう。三年前荷造りを手伝った時この将棋盤はなかったから、こっちに越してきてから買ったのだろうか。急に胸に痛みを感じた。涙が出そうになる。哀しくて遣(や)る瀬(せ)無くてどうしようもない。腰の力が抜けて思わずその場に座り込んだ。無理だったんだよな、姉ちゃんに子育てなんて。そうだよな。最初っからわかってたことだったのに、僕はそれに目を背(そむ)けて頑張れよと送り出した。酷(ひど)いよな、僕。姉ちゃんが勝負師の顔で将棋を指していた頃が、凄く遠い日のことのように思える。姉ちゃんになにを求めてたんだろうな。どうしてこんなに哀しいのかわからないよ。菜々子が言うように、僕は姉ちゃんに完璧さを求めていたのだろうか。
僕はぐっと目に力を入れて涙が零(こぼ)れないようにした。将棋盤を持って立ち上がった。ベッドの上の物を動かして平らなスペースを作る。そこに将棋盤を置いた。
「姉ちゃん、将棋しよう」僕は声を掛けた。
「えっ?」顔を上げた。
 ケースを開けて中の駒を盤に置いていく。「姉ちゃんは王将一枚な」
 ふわっと立ち上がりベッドの側までやってきて、盤を見下ろした。「……将棋するの?」
「ほら、適当に座る場所見つけてよ」
「片付けは?」姉ちゃんが言った。
「後でいいじゃないか」
 その時隣の部屋から泣き声が聞こえてきた。
 姉ちゃんがすぐに部屋を出て行った。
 駒を並べ終えた僕は改めて部屋を眺める。
 シェードの中に収まる円形の電球の一部が黒くなっている。スイッチの紐(ひも)には別の紐が結ばれて、それは床から二十センチ程度の高さまで垂れ下がっていた。壁際に置かれた棚には、十二時十五分で止まったままの時計がある。その隣にはクリームが入ったニベアの青い缶があった。
 それは隣の部屋にもあり、姉ちゃんは残す物の段ボール箱に入れていた。それは子どもの頃家のあちこちでも見かけた。脱衣所やキッチン、リビングにその青い缶はあった。皆通り掛かりにその蓋を捻(ひね)って中の白いクリームを指で掬い、手や顔に塗ったものだった。
 姉ちゃんが純を抱いて戻って来た。そして僕の横に立つと、いきなり純を押し付けてきた。
 僕は純を受け取り腕に抱く。
 姉ちゃんは棚から青い缶を取り出すと蓋を開けた。指でクリームを掬い自分の手の甲にのせた。缶を戻すと甲のクリームに指を付け、それを純の両頬にちょんちょんとのせて移した。そして自分の甲同士を擦り合わせてクリームをのばし塗る。
 僕は純の頬のクリームに指をあて、そっと撫(な)でるように動かして塗りのばす。
 純が笑った。
「純君病気じゃないのか?」僕は尋ねる。
「なんで?」
「結構温かい」
「あぁ、最初私も思った。子どもって温かいんだよ。だからそんなもん」
「そうなんだ。あっ、僕を見て笑った」僕は告げた。
「気が合いそうで良かったよ。純は役所の人が嫌いでね。役所の人が抱くと頭を激しく左右に振って全身で嫌がってね、耳を覆いたくなるほどの大音量で泣くんだ。嫌なことを言う人だってわかるのかね? 毎回なんだよ。不思議だよね」
「嫌なことを言うの?」
 頷いた。「お母さんが生活を整えるまでの間、一時的にお子さんを施設に預けてみてはいかがですかって言うんだ。私の生活は整ってはいないけどさ、純がらみだったらなんとかやってるんだよ。食べさせたり、オムツ替えたり、お風呂に入れたり、洗濯だって。でも役所の人はできてないって思ってる。保健婦さんも純は健康だって言ってくれたんだよ。嫌なんだよ、施設に預けるのは。ちゃんと世話ができてないように見えるかもしれないけど、私にとって純は宝なんだ。いつもより早くお金が足りなくなってしまったのを役所の人に相談したら、今度こそ純を持って行かれてしまうんじゃないかと怖くなってさ。それで守に連絡したんだ」
「父ちゃんに連絡は?」
姉ちゃんが首を左右に振る。「してない」
「ずっと?」
「ずっと」
「母ちゃんには?」
「母ちゃんからは時々ベビー服が送られてくる。私からは連絡してない」
「そうか」僕は金を動かした。
「どうしてだよ」
「なにが?」
「こっちは王将一枚なんだからどんどん攻めてきなよ。どうして自分の王将を守る陣形を作ろうとしてるんだよ」
「姉ちゃんは一枚だってすいすいこっちの陣地に入って来て、ガンガン攻めてくるからだよ。しっかり守りを固めておきたいんだ」
「わかったよ。好きにすればいい」
 守りを固めている途中で、姉ちゃんの王将が僕の陣地深くまでやってきた。そこで僕は攻めに転じて王将を追いかける。姉ちゃんの王将はそれをするりとかわした。しかし姉ちゃんは王将一枚で、僕は二十枚のすべての駒を持っている。子どもの頃とは違う。姉ちゃんが上手に逃げても他の駒で追える。最大級のハンディを貰った僕は、姉ちゃんと互角に戦う。
 ふと僕は顔を上げた。
 姉ちゃんが楽しそうに将棋盤を見つめていた。
 ふいに子どもの頃の一日が思い浮かぶ。あれは夏休みだった。家族で海に出かけた。浜辺も海も大混雑だった。僕の浮き輪を摑(つか)んでいるのが母ちゃんの時は、安心してぷかぷか浮いていられたが、父ちゃんに交代した時には手を離すのではないかと不安になった。浜から遠ざかろうとする父ちゃんに、もっと浜の近くがいいと訴えた。男じゃねぇなぁと父ちゃんは言った。姉ちゃんは海が汚いと言い、また砂浜を歩くのも気持ち悪いとビニールシートの上から動かなかった。レンタルしたパラソルの下で姉ちゃんは海を睨(にら)んでいた。昼時になって砂浜を歩きたくないと言う姉ちゃんを父ちゃんが背負って、皆で海の家に行った。注文を済ませて料理を待っている時、店の隅にトランプやオセロゲームが置いてあるのを見つけた。将棋盤もあった。姉ちゃん一人に対して、父ちゃんと僕の二人がチームになった。父ちゃんの膝(ひざ)の上に僕は座り、僕らの番になると二人で小声で話し合い次の手を考えた。ハンディを付けていたのか、付けていたとしたら何枚分の差だったのかは覚えていない。ただ姉ちゃんがその時も強かったことは記憶している。そしてその日初めて姉ちゃんが楽しそうに見えたことも。確か母ちゃんは「ここまで来て将棋する?」と呆れ顔だった。結局どっちが勝ったのかははっきりしない。覚えているのはむっとする暑さと、強い日差しと、板間に敷かれた茣蓙(ござ)の感触、父ちゃんの体温、姉ちゃんの瞳の輝き――。
「ママ」純が僕を見て言った。
「ママはあっち」僕は姉ちゃんを指差す。「僕は守叔父さん」
「ママ」純が繰り返した。
「守叔父さんだって」
 純が僕の膝の上で立ち上がり胸に摑まってくる。そして膝を曲げてから、小さくジャンプするようにして身体を伸ばす。これを何度も繰り返した。
 僕は両腕で純の身体を支え、身体が伸びる時少し持ち上げるようにした。
 すると純がキャキャッと笑い声を上げる。
 僕は再び姉ちゃんに目を向けた。
 姉ちゃんは昔のように瞳を輝かせて駒を見つめていた。
 翌日僕は会社に電話を掛けて体調不良だと嘘を吐(つ)き、休みを取った。姉ちゃんのアパートの近くにあったコンビニで地図を買い、レンタカーで一人隣の県に向かった。四十分ほど走り到着したのは、三年前に姉ちゃんが父ちゃんと暮らしていた街だった。入りたかった駐車場には満車の札が出ていたので、次に見つけた駐車場に車を入れた。目当ての駐車場と連結している商業ビルに入った。フロアの隅にある通路を進み、自動ドアを二つ抜けた先が駐車場だった。
 歩き出すとすぐ人の話し声が聞こえてきた。
 しかし人の姿はなく、螺旋(らせん)状に作られた駐車場にはずらっと車が並んでいるだけだった。
 歩行者用に引かれた白線の間を下りる。「小池(こいけ)さん、あなたいったいいくつなの」と下から声がして僕は足を止めた。それからそろりそろりと下っていき声の主を探す。二人の男の姿が見えた瞬間一歩戻った。そして足を半歩分前に出し首だけをさらに前に伸ばした。
僕と同じ年格好の男が言う。「何度も同じこと言わせんでよ。出勤時間も休憩時間も、会社が決めたルールは守らんと。少ない人数でシフトを組んで二十四時間営業しとるんやけん、小池さんが好(す)いたごとすると、ほかのスタッフが迷惑するけん。それからさ、給料が安いだの仕事がキツいだのお客さんに愚痴(ぐち)るのやめときんしゃい。お客さんにそんなこと言ってどげんするとね。なんがしたいとね。愚痴られたうえにいかにも嫌々といった感じで対応されるって、クレームが入っとるんよね。そういう非常識な行為はやめてくれんね? その年でほかに働き口なんかなかろうと思うけん、温情でクビにせんで我慢してきたけどもう限界やけん。あと一回やけんね。今度遅刻や長い休憩を取ったりしたらクビ。よかね? クレームが入ってもそれでアウトやけん。わかった?」
父ちゃんが頷いた。「はい」
「はいじゃなかろうもん。申し訳ありませんでした。今後注意いたしますと言うとよ、こういう時は。そげなことも教えんとできんとね。年くっとる癖に常識なさ過ぎやないと」
「…………」
 後方から走行音がした。
 振り返ると二台の車がゆっくりと下ってくるのが見えた。僕はその場で二台の車が通り過ぎるのを見送る。ふと顔を戻すと上がって来た父ちゃんと目が合った。
 父ちゃんは驚いた顔で足を止めた。ばつの悪そうな表情を一瞬浮かべたが、すぐに陽気な声で「久しぶり」と言った。
 僕らは駐車場を出て、二つ隣の店の前に設置されていた自動販売機で缶コーヒーを買い、ガードレールに並んで尻を載せた。父ちゃんの駐車場での勤めは今日は上がりだそうで、アパートに帰って寝るだけだと言う。三年ぶりに見る父ちゃんは髪が薄くなっていた。父ちゃんはピースを吸い続け、僕は缶コーヒーを飲み続けた。
 長い沈黙を破ったのは父ちゃんだった。「元気にしてるのか?」
「僕はまぁそうだね。元気だよ」
「嫁さんは――菜々子さんだっけ? 菜々子さんもか?」
「あぁ、元気」
「仕事は頑張ってるか?」
「あぁ、そうだね」
 父ちゃんが何度も頷いた。「それはなによりだ。父ちゃんが願っていた通り、守がまっとうでいてくれて嬉しいよ。働くってのは大変なことだからな。守は父ちゃんの自慢の息子だ」
 たちまち切なさに襲われる。駐車場で怒られている父ちゃんを見ていた時は、恥ずかしかった。そう思ったのを後悔しているのはどうしてだろう。男が言っていたように父ちゃんは非常識な人だ。父ちゃんのような部下がいたら上司は苦労させられる。だがと思う。ああいう言い方はないんじゃないのかと。男の言い分は百パーセント正しい。そうわかっているのだが。結婚前菜々子に父ちゃんと会いたいと言われた時、僕は拒否した。どうしてと聞かれて、どうしてもと答えた。嫌だったのだ、父親だと紹介するのが。祐一(ゆういち)さんに会って貰った時は胸を張って紹介できた。ちゃんとしてるから。だがもし祐一さんが年下の男に怒られているのを見たとしても、こんなに傷ついたり、相手に不満をもったりしないだろう。そのことに気付いて……僕は戸惑(とまど)っている。
 僕は缶コーヒーを傾(かたむ)け飲み干した。
僕は告げる。「姉ちゃんのことなんだが森枝さんと離婚したんだ」
 父ちゃんはタバコの煙をゆっくり吐き出すだけで、なにも言わない。
「だから言ったろとか、言わないんだ?」と僕は確認する。
「言わないよ。後からだったらなんとでも言えるが、その時は一番いいと思ったのを選んだんだろうからな」
「そう。今姉ちゃんはK町で生活保護を受けながら、純君と二人で生活してるよ」
「そうか」
「父ちゃんは? 今はどんな暮らし?」
「しけたアパートで寝起きして、駐車場の出入り口でチケットを渡したり金を受け取ったりするだけだ」父ちゃんがタバコを銜(くわ)えすぐに煙を吹き出した。
「ギャンブルは?」
「しばらくやってない」
驚いて尋ねた。「どうして?」
「どうしてかね」父ちゃんが首を捻った。「わからんな。よーわからんが毎日が真っ平らになったんだよ。山も谷もなくてどこまでも真っ平らにさ。そうしたらギャンブルが入り込む場所がなくなったのかなぁ」
「それじゃ住民反対運動は?」
「とんとやってねぇな」
「そうなんだ」
「俺のことよりそっちは大丈夫なのか? 菜々子さんとは仲良くやってるのか?」
「まぁそうだね」僕は答えた。
「どんな人だ? 母ちゃんみたいに気が強い女か?」
「しっかりはしてるね。気が強いとまでは言えないが。記念日が好きだね。晩飯の料理が一品多かったりするとびくっとする。どうもなにかの記念日っぽいぞと思ってさ。それで今日は何の日だってクイズが出される。これが結構難しくてさ。ま、外れても喧嘩(けんか)になったりするわけじゃないんだが」
 父ちゃんが真面目な顔で「そりゃ大変だ」と言った。
 それから僕はレンタカーで姉ちゃんが住むK町に戻った。時間貸しの駐車場に車をバックで入れた時、姉ちゃんに気付いた。
 商店街の中にある小さなたい焼き屋の前のベンチに、姉ちゃんは座っていた。ベビーカーを横向きにして、サイド部分を左手で摑んでいる。
 そうしながら姉ちゃんは居眠りをしていた。姉ちゃんの頭ががくっと前に倒れた。すぐに目を開けてベビーカーを覗き込み純を確認する。そして頭を激しく左右に振った。だがまた睡魔に襲われてしまうようで、頭がゆっくり前に倒れていく。
 僕は運転席から姉ちゃんと純を眺める。
 五分ほどもそうやってから車を降りた。
 僕は姉ちゃんに声を掛け車に乗るよう促(うなが)した。ベビーカーを折り畳んでトランクに入れ、姉ちゃんは眠っている純を抱いて助手席に座った。姉ちゃんもすぐに眠り出した。
 二十分ほども経った頃姉ちゃんが起きた。腕の中の純が眠っているのを確認してから、窓外の景色に目を向けた。
「どこに向かっているの?」と姉ちゃんが言った。
「父ちゃんのところ」
「えっ? なんで?」
「心配なんだよ。姉ちゃんのこれから先の生活が。姉ちゃんは姉ちゃんなりに精一杯頑張ってるんだろ? それでも難しいんだよな。だったらさ、父ちゃんに手伝って貰って、姉ちゃんと純と三人で暮らしたらどうかと思うんだよ」
「なに言ってんの?」
「ダメ?」僕は聞いた。
「ダメというかおかしいでしょ、そういう話は」
「おかしいかな?」
「おかしいよ。なんでよ? 守はずっと私と父ちゃんが一緒に暮らすのに、否定的だったじゃない。それなのにどうして勧める?」
「確かに否定的だった」僕は認めた。「姉ちゃんは父ちゃんと一緒にいないほうがいいと思ってた。姉ちゃんが賭け将棋をして、その上がりで二人が暮らすのも良くないと思ってた。言っとくが賭け将棋は犯罪なんだよ。法律に違反してるんだ。駐車違反やスピード違反程度に思ってるのかもしれないが、そういうのより明らかに悪質だからね。だが……なんか子どもの頃のことを思い出したりしてさ。ちゃんとした思い出じゃないんだよ、どれも。普通の家族がもっている思い出とは全然違うものでさ、そういうのがずっと嫌だったんだが――それはそれで楽しかったなと思ったりしてさ。標準型に憧れてうちの家族を否定してきたが、そんなことする必要はなかったのかもしれないと考えるようになったんだよ」
「なによそれ」
「こんなことを姉ちゃんに言ってる自分に驚いてるよ」
「父ちゃんがいいと言う訳ないし」
「そうかな?」
「父ちゃんに言ったの?」姉ちゃんが聞いてきた。
「いや、まだ。まだだが、父ちゃんはそうしてもいいと言うと思う」
「言わないよ。父ちゃんの反対を押し切って結婚したんだよ、私は。ほら見たことかって言うだけだよ」
「そうじゃなかったら? 姉ちゃんはどうなんだよ? 純君を一人で育てられるのかよ? 今でも充分大変だろうがこれからもっと大変になるぞ」
「…………」姉ちゃんが腕の中の純を見つめた。
「父ちゃんに手伝って貰(もら)ったらどうだ? 残念ながら全幅の信頼はおけないよ。ああいう人だからさ。だが姉ちゃん一人よりは大分いいんじゃないか? 僕だって正直相当に迷ったよ、この提案をするにはさ。父ちゃんと姉ちゃんの二人に育てられた純君が果たして幸せになれるのかと考えたら、答えが出ないからね。ただ幸せというのは、ちょっといびつであってもいいのかもしれないからさ。父ちゃんと姉ちゃんを反面教師として育ってくれるよう祈るよ」
「…………」
「父ちゃんさ、駐車場で働いてたよ。僕ぐらいの年の上司に叱られて嫌味言われてた。姉ちゃんと純君と暮らすようになったら、父ちゃんは仕事を辞めてしまうんじゃないかと思う。また姉ちゃんに賭け将棋をさせてそれで生活していこうとするだろ、多分。昔と同じようにね。だが今度は純君がいる。賭けに乗ってくれる人がいなくなったら別の街へなんて暮らしは、子どもにさせちゃダメだ。賭け将棋のために、小学校を何度も転校させるようなことはしちゃダメだから。将棋をするのはいいさ。姉ちゃんはやっぱり将棋してる時は輝いてるし。将棋教室を開けばいい。姉ちゃんが人に教えられないと言うなら、姉ちゃんの対局を見学させて学ばせるというスタイルにすればいい。姉ちゃんの対局を父ちゃんに解説させてもいいし。普通の将棋教室とは大分違うがそれでいいじゃないか」
 前を走っていた大型トラックが左折し急に視界が開けた。真っ直ぐな道がずっと続いている。赤い軽自動車の後ろについた。
 車内には四月の明るい日差しが差し込んできて眩(まぶ)しく、サンバイザーを下ろした。
 ふと助手席に顔を向けると姉ちゃんが静かに泣いていた。
 僕はスピードを落とし、トンネルの手前の路肩に車を停める。
「姉ちゃん?」
「…………」
「なんで泣いてんの?」
「わからない。わからないけど涙が出てきて止まらない」
「父ちゃんに会うのが嫌?」
「嫌じゃない……違う。やっぱり嫌かも。会いたいような気が少しあるような気もするんだけど、気が重いような感じもして――混乱してる。これからのことが凄く心配で胸が痛いのに、守に電話して良かったんだってほっとしてたりもする。自分のことなのになんだかよくわからなくてごめん。泣いててごめん」
「なんだよ、それ。Uターンするか? それともこのまま行くか?」僕は尋ねる。
 姉ちゃんがじっと純を見つめ、そうして数分が経った。
 姉ちゃんは右手を純から離し顔の涙を拭(ぬぐ)った。
 そして言った。「行こう。父ちゃんの所へ」
「わかった」ハザードランプを消しウインカーを点けた。
 父ちゃんが住むアパート近くの時間貸し駐車場に車を入れたのは、午後〇時だった。
 古い二階建てのアパートだったが、そこに取り付けられた鉄製の階段は、最近水色に塗られたようでテカテカと光っていた。
 僕らはその階段を上り一番奥のドアの前で足を止めた。
姉ちゃんは少し心配そうな表情を浮かべている。
その腕の中の純は小さな口を思いっきり開けて、あくびをした。
 僕は拳でノックを二度してからドアノブを摑んだ。
 ドアを開けて僕は中に声を掛けた。「父ちゃん?」
「守か? 入って来いよ」と返事が聞こえてきた。
 狭い三和土(たたき)には黒いスニーカーと雪駄(せった)が並んでいる。
 僕は部屋に上がり襖(ふすま)を開けた。
「どうした守」と言い出したところで、父ちゃんが姉ちゃんと純に気が付いて目を瞠(みは)った。
 中央に置かれた小さな座卓の上には、弁当と缶ビールがあった。棚の上のテレビから男の声が流れてくる。誰もなにも言い出さなくて、部屋には気まずい空気が満ちる。
 僕は振り返り姉ちゃんの腕の中の純を覗いた。
 純は僕をじっと見つめ返してくる。
 僕は腕を伸ばして姉ちゃんから純を受け取った。それから膝を折って屈(かが)み、純を父ちゃんの前に差し出した。
 父ちゃんは純を抱き留めた。そしてじっと純を見下ろす。
 僕は「落とすなよ」と注意した。
「落とさねぇよ」と父ちゃんがすぐさま反論した。「久方ぶりとはいえ、子どもを抱くのは慣れてんだからよ。なんだよ、その顔。守だってりか子だって、誰がオシメを取り替えて風呂に入れたと思ってんだよ。母ちゃんは仕事が忙しかったろ? 暇な父ちゃんがやるしかなかったんだよ」
僕は振り返り姉ちゃんに向けて言う。「慣れてるってさ。良かったじゃないか」顔を戻した。「姉ちゃんと父ちゃんの二人で、純君をちゃんと育ててくれよ。いいだろ、父ちゃん?」
「……俺とりか子で育てるって……それは……そうなったら守は心配じゃないのかよ?」
「心配だね。かなり心配。だが助け合ったらなんとかなるんじゃないか……というかなんとかしてくれよな。いいね父ちゃん、頼んだよ」
「ママ」と純が言った。
「こいつ大丈夫か?」父ちゃんが大声を上げた。「俺を見てママと言ってるぞ。目が悪いのか? 頭か、悪いのは?」
「そういうこと言うなよ」僕は注意してから続けた。「僕のところにも今年子どもができる」
 父ちゃんと姉ちゃんが「なんだよそれ」と声を揃(そろ)えた。
 姉ちゃんが「守は話すタイミングがいつもおかしいね」と言って小さく笑った。


 ふうっと息を吐いた。
 二十分もかかってやっとすべてのパイプ椅子を並べ終わった。
 一千二百平米ある貸しホールには、六百個のパイプ椅子が並んでいる。本社から徒歩で五分のところにあるビルの二階だった。
「お疲れ」と声がした。
 振り返ると麻生(あそう)部長が立っていた。
「お疲れ様です」僕は挨拶を返した。
「斉藤(さいとう)課長は?」
「トイレです」
「あぁ、そうだったな。斉藤課長は緊張すると腹が痛くなるんだったな。小池君はどう? こういうの慣れた?」
「いえ。僕の担当ではなくて手伝いだけでも、これだけの規模だとやっぱり緊張します」
「そうか」部長は頷いた。
父ちゃんたちのところから戻ってきて二日が経っていた。
 今日は午後二時からここで顔合わせが行われる。高層マンションをうちの会社が建てることになり、その工事を担当する人たちを一堂に集めて、コンセプトやスケジュールの説明を斉藤課長がする。自社のスタッフだけでなく、下請け、孫請けの業者も勢揃いする。説明が終わった後は神主に安全祈願をして貰い、その後の懇親会では酒が振舞われる。これだけの規模の仕事は滅多(めった)になく、斉藤課長が率いる第一課全員が興奮していた。それは手伝いに駆り出されている二課の僕らにも、びんびん伝わって来る。
「お疲れ様です」と開いた扉のほうから声が聞こえてきた。
 ニッカポッカ姿の男が二人、テーブルの前で受け付け担当の女性社員と話をしていた。
 麻生部長と僕は部屋の端に移動した。
「あくが強くてバラバラだろ」麻生部長が言った。
「はい?」
「ここに集まる人たちのことだよ」顎(あご)で会場を指す。「それぞれのプロたちだから、プライドは高いしちょっとやんちゃだしな。そういうプロ集団をまとめて、巨大な組織をマネジメントしていくのが私らの仕事の醍醐味(だいごみ)だ。大変だがね」
「大変ですよね」
「トラブルは必ず起こるしな」
「必ずですか?」僕は尋ねた。
「そう必ず。人間は完璧じゃないから」
 入社してすぐの研修を思い出した。先輩と一緒に工事現場に行くと、重機が動いていなかった。ニッカポッカ姿の人たちは、あちらこちらに座ってぼんやりしていた。休憩中なのかと僕は思ったが、先輩は「マズいな」と呟いて慌てたような表情を浮かべた。裏に回ると、三人の男が図面を広げて話し合っていた。先輩が挨拶をすると、現場監督は「いいところに来た」と言った。聞けば下請け業者の責任者が、地盤が弱いので補強するべきだと主張しているのだという。だがそれは予定外の工事になる。コストがかかるし作業の日にちも余計に三日かかる。ここで予定に変更があれば、この後工事に関わることになっている二十以上の業者に影響が出る。先輩は大筋の状況を聞くと、現場監督に「監督はどう思いますか?」と尋ねた。すると現場監督は「山辺(やまべ)さんがそう言うんじゃ補強したほうがいいだろうね」と言った。そして「いつもゴネる人じゃない。こっちの我が儘(まま)に付き合ってくれる人だ。だがその山辺さんがこれじゃ無理だと言うなら、本当に無理なんだよ。設計図引いた大先生は、この現場を見ずに頭で考えて立てた計画なんだろう。現場のプロの目を信じたほうがいい」と続けた。先輩は数秒考えてから「本社に電話をさせてください」と言うと、携帯電話であちこちに連絡を取った。先輩は電話の相手に対して懇願(こんがん)したり脅(おど)したり、切羽詰(せっぱつ)まった声を上げたりした。そして三十分後に先輩は補強工事の許可を取りつけた。「三日でお願いします」と先輩が現場監督に告げると、彼はにやっとした。そして「根性据わってきたな」と言い、先輩の肩を叩いて労(ねぎら)った。山辺は皺々(しわしわ)の顔で一つ頷き「あんたのためにもいい仕事をさせて貰うよ」と声にした。僕は先輩の横で呆然としていた。数年後にこうした場面に一人で立ち会った時、僕は先輩のように決断し、対応できるのだろうかと不安でいっぱいになった。それから十年近くが経ったが、幸か不幸かこれほどの規模の物件を、一人で担当する機会は巡って来ていなかった。
 続々と会場に人がやって来て、立て札によって区分けされたエリアに進み、パイプ椅子に座っていく。
 麻生部長が誰かに向かって片手を挙げて挨拶をした。
 それから僕に説明した。「あの沢田(さわだ)さんには随分可愛がられたよ。最初は怖かったんだがね。腕はいいんだが口が悪くてな。ここだけの話だぞ。しょっちゅう現場に呼び出されて文句を言われたよ。ほかの業者がした仕事への不満も随分聞かされた。取り敢(あ)えず謝るんだよ、しょうがないだろ。そうすると謝りゃいいと思ってんだろと叱られた。ある時沢田さんとこの新人がヘマしてさ。うちの業界じゃ一つのミスは、たくさんの別の会社に影響するだろ。後始末に追われたよ。まぁなんとかしたんだが、そんなことはしょっちゅうだったから、こっちは気にしてなかったんだ。その後沢田さんに会った時この間はすまねぇと謝ってきて、そんなこと言われると思ってなかったからドギマギしたよ。誰かが失敗したら周りがなんとかするっていうのが、この仕事じゃないですかと私は言ったんだ。完璧な人はいないからミスをするし、ほかの人がした仕事が気に入らないこともあります。でも一人じゃ建物はできないし、一つの会社でも建物はできないんですから、助け合っていくしかないんだと思ってますとね。じっと私の目を見つめてくるから、叱られるのかと思ったら髪の毛をくしゃくしゃにされた。犬かよと思ったが、それからは酒の席に連れてってくれたり、こっちの無理を聞いてくれたりするようになったよ。お互い様なんだ、結局。ドジって迷惑を掛けることもあるし、迷惑を掛けられることもある。それで世の中は回ってるんだ」
 頷く。「はい。それはよくわかります。最近わかるようになった気がします」
「だとしたら小池君もやっと大人だ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。大人だ。おめでとう」
「有り難うございます」
 二課のスタッフの手伝いは懇親会が始まる前に終了と言われ、午後五時には会場を後にした。一旦本社に戻り一時間ほど仕事をしてから退社した。
 電車に乗りつり革に摑まると、前のシートに赤ちゃんを胸に抱いた母親らしき人がいた。赤ちゃんは小さな頭を女の胸に預けるようにして眠っている。手首には輪ゴムを嵌(は)めたかのように括(くび)れができている。
 自宅マンションの前に立ったのは午後七時だった。
 リビングのドアを開けて「ただいま」と言った。
「お帰りなさい」とキッチンから聞こえてきた声がダブっている。
 キッチンには菜々子が、ダイニングテーブルの横には義母の万由子(まゆこ)がいた。
 この母娘は顔はまったく似ていないのだが、声と喋り方がそっくりだった。菜々子が実家暮らしだった頃は、電話を掛けてきた相手に勘違いされて、用件を言われることが度々あったと聞いている。
 寝室で部屋着に着替えてダイニングテーブルに着くと、義母がビールと漬物を出してくれた。
「支度ができるまであとちょっとなの」と義母は説明し「少々お待ちくださいませね」と明るい調子で言った。
 今夜義母が来ると菜々子から聞いていただろうか――思い出せない。確か今日菜々子は検診で病院に行くと言っていたので、それに同行したのかもしれない。
「私もご相伴(しょうばん)にあずかろうかしら」と義母が言って、空のグラスを僕に差し出してきた。
「気が付きませんで」向かいに座った義母のグラスにビールを注いだ。
 グラスの半分ほどを一気に空けてから「んー、美味(おい)しい」と嬉しそうな声を上げた。「今日はね、菜々子の検診に勝手に付いて行ったの。心配だったから。検診どうなのって聞いても、順調だってと言うばっかりなんですもの。でもね、ちょっと太り過ぎてるような気がしてたの。勿論(もちろん)妊娠中は体重が増えるのよ。増えなきゃ大変だわ。でもね、太り過ぎちゃ難産になるの。昔からそう言われてるの。それで今日は先生の話を伺おうと思って。そうしたら案の定なのよ。体重が増え過ぎているからダイエットするよう随分前から指導されていたのに、黙ってたの」
「えっ?」驚いてキッチンの菜々子に尋ねた。「そうだったの?」
 菜々子が口を尖らせた。「大袈裟(おおげさ)なのよ、母さんは。先生はちょっと体重が多いですねって、ちょっとよ、そう言っただけなんだから」
「菜々子ったら」義母が目を丸くした。「随分と都合がいいように話を端折(はしょ)るわね。体重がちょっと多過ぎるので、ダイエットしてくださいとお願いしましたが、効果が出てないようですね。先生はそう言ったのよ。それなのにこの子ったらね、でも先生お腹が空くんです。お腹が空いたら苛々(いらいら)してしまって、それはきっと臍(へそ)の緒を通して赤ちゃんに伝わってしまいますから、良くないですよねと言うんだから。まさか母親としての自覚がこれほど足りないとは思っていなかったわ。赤ちゃんのことを一番に考えなくてどうするのよ。赤ちゃんの健康を考えたら、お腹が空くぐらい我慢するべきでしょう」
 僕がどれくらい体重を落とさなくちゃいけないのかと尋ねると、菜々子は「ちょっと」と言い、義母は「大分」と言った。
 義母はいつも明るくて元気な人だ。それに対して義父は物静かな人だ。その義父が定年退職した日に食事会をするというので、菜々子と僕は指定された店に駆けつけた。その席で菜々子が妊娠したと告げた。義母のことだから、こっちがちょっと引くぐらい大喜びするだろうと予想していた。ところが義母はぼんやりとするだけだった。義父のほうがよしっと大声で言って喜び、僕に握手を求めてきた。まだ黙っている義母に向かって、おいどうしたと義父が声を掛けた。すると突然ぽろぽろと涙を零した。それから両手で自分の顔を覆(おお)って静かに泣いた。その義母を見ていたらじんとくるものがあった。
 義母が言った。「妊婦さんが通うスイミングスクールなんてどうかしら。水の中だと歩くだけでもいい運動になるらしいって、そう聞いたわ」
「………」菜々子は無言で料理を続ける。
「無言ってことはやる気ゼロなのね」義母が僕に顔を向けた。「守さんも協力して頂戴ね。間食しようとしたら注意してやって。三食をきちんとバランス良く摂(と)ったほうがいいんだから」キッチンにいる菜々子に顔を戻す。「掃除や洗濯を億劫(おっくう)がらずにちゃんとやるのもいいのよ。ゆっくり散歩するのもいいわ。いい運動になるから」
 うんざり顔で菜々子が「料理できたわ」と言った。
 テーブルに料理が並べられ三人での食事が始まった。義母は生まれてくる孫の心配をし続け、菜々子はそれをうるさそうにした。
 僕は味噌汁の椀に手を伸ばす。箸で豆腐とワカメを押さえて汁だけを味わう。それから壊さないようそっと豆腐を摘んで口に運んだ。
「なんでにやにやしてるの?」菜々子が言った。
「えっ?」僕は驚いて聞き返した。「にやにやしてた?」
「してた」菜々子が睨んできた。
急いで声にする。「味噌汁が旨(うま)いなぁと思って。それで幸せそうな顔をしてたんじゃないかな」
 菜々子は尚(なお)も鋭い視線を向けてきた。「いつもと同じよ」
「いつも旨いし、今日のも旨い」
「お味噌汁を味わってる場合じゃなくて、私の味方をするべき時じゃない?」
「そういうのは嫁と姑(しゅうとめ)が揉(も)めてる時だろ。二人は実の母娘じゃないか。僕がどっちの味方につくとかそういうケースじゃないだろ」
「せめて顔を顰(しか)めててよ」
 義母が注意をする。「守さんに八つ当たりしてどうするの」
「だって」菜々子が不貞腐(ふてくさ)れた。
 僕は話し掛ける。「ダイエットしたいんだよな、菜々子も。だがなかなかできなくて、どうしたらいいのかと困っている時にお義母さんにバレて、自分へ向けてる怒りを周りに向けるしかなくなってるんじゃないか? 腹が空くんだからダイエットは難しいさ。僕も協力するよ。明日一つ手前の駅に迎えに来てくれないか? 一緒に買い物をしてここまで歩いて帰ってこよう。お義母さんはカロリーを抑えた料理のレシピを、菜々子に教えていただけませんか?」
「ええ、喜んで」義母が答えた。
「ちょっとやってみようよ」僕は提案した。「僕も協力するし、お義母さんにも協力してもらってさ。皆がそれぞれできることをしてフォローしあえばいい」
 菜々子が肩を竦(すく)めてから「そうね」と言った。

(つづく) 次回は2018年5月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年東京都生まれ。大妻女子大学卒。会社員、フリーライターを経て、2003年『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。著書に『恋愛検定』(祥伝社文庫刊)など多数。