物語がつまった宝箱
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  •  8 平成29年(2017年) 2018年5月15日更新
 僕は尋ねた。「余命はどれくらいなんですか?」
 本田正広(ほんだまさひろ)医師はテーブルのカルテに目を落としてから、すぐに顔を上げる。「よく聞かれるんです。ですが医者として言えるのは平均値なんです。それよりもずっと長い方もいらっしゃるし、短い方もいらっしゃいます。それを踏まえた上でお聞きください」
「はい」
「一年ぐらいです」
 僕は息を吐いた。それから自分の額に手をあてる。
 本田の背後には看護師が立っていた。父ちゃんの主治医の部屋は二畳ほどだった。そこにテーブルがありモニターが載っている。そのモニター画面には、父ちゃんの肺の画像が映し出されている。
 僕は質問した。「父はそのことは?」
「聞かれたのでお話ししました。そうしましたら……」
「そうしたら?」
「肩の力を抜いていきましょうよ、先生。と、そう仰(おっしゃ)いました。俺は七十九歳だ。まだ早いと言われる年じゃない。だからそんな不幸を味わってるような顔をしないでくださいよ。俺の人生は詰(つ)んだ。そういうことでしょ、と仰いました」
「……そうですか」
 本田から今後の治療方法の選択肢について説明を受け、部屋を出た。姉ちゃんから電話を貰ったのは二ヵ月前だった。父ちゃんが具合が悪くて検査を受けたら、深刻なことを言われてしまったという。それから何度かこっちに来た。来る度に事態は深刻さを増した。今回は大学が夏休みに入った聡(さとし)と菜々子(ななこ)を同伴しての訪問だった。
 エレベーターで三階に上り渡り廊下を進む。ふと足を止めて方向転換をして廊下を戻った。それから階段を上る。
 特別室がある四階の階段横にはちょっとしたスペースがあり、オットマンが並んでいて休憩ができる。そこに年寄りがいた。
 病院指定のパジャマを着て新聞を読んでいる背中に、窓越しの陽が当たっている。
 それが父ちゃんだと気付いた僕は衝撃の余り立ち尽くす。そして長いことその小さな背中を見つめ続けた。しばらくしてから僕はようやく足を一歩踏み出した。
 父ちゃんの隣に座り「ここは特別室のフロアだよ」と声を掛けた。
 父ちゃんが僕に顔を向けた。「あぁ、だからここには新聞や椅子が置いてあんだろう。俺がいる下のフロアにはこんな場所はないからな。それが一日余計に十万も払ってる入院患者の特権なんだろうな。だが差額ベッド代を払ってない庶民が、この階に来ちゃいけねぇってルールはないんだ。ナースの綾子(あやこ)ちゃんに確認してあんだよ」
「それでここで新聞を読むのが日課なの?」
「毎日じゃないがな。特別室に知り合いが入ったんだよ。民泊の反対運動をしている会で知り合った人でな。特別室に入れるほどの金持ちだったとは知らなかったがね。それで時々病室に行ってる」
「そう」
「孫がいてさ、その人に。その六歳の男の子に聞いたんだよ、大きくなったらなにになりたいって。そうしたら固まっちまってよ。難しい質問だったようなんだよ。だから、そんじゃ生まれ変わったらなにになりたいんだと聞いてみたわけよ。そうしたら途端に目を輝かしてさ、スマホになりたいと言ったよ。機械でいいのかね。お前にも聞いたことあるよ、まだ小さい頃に。やっぱり固まったね。大きくなったらなにになりたいってのは、子どもにとっちゃ簡単に答えられないお題なのかね。だから聞いたのよ。そんじゃ生まれ変わったらなにになりたいかとさ。覚えてるか?」
「いや、覚えてない」僕は答えた。
「主人公になりたい。そうお前は言ったよ」
「…………」
「今だって主人公じゃないかって俺が言ったら、違うとお前は主張した。あの時のお前は頑固だったな。皆主人公だと俺は言ったが、違うとお前は引かなくてさ」
「…………」
「だが主人公だったろ、お前だって」
「……あぁ、主人公だったよ」僕は頷(うなず)く。
 満足気な顔で頷く。「父ちゃんだってたまにはまっとうなこと言うんだぜ」
「父ちゃんは? 生まれ変わったらなにになりたいの?」
「俺か? そうだなぁ」遠い目をした。「同じでいいわ」
「同じって?」僕は聞き返した。
「男に生まれて母ちゃんと出会って、りか子と守(まもる)を授かるよ。また母ちゃんに愛想を尽かされてしまうかな」
「今度はちゃんと働けよ」
「あぁ、そうだな。今度はそうしよう」声を立てずに笑った。
 病室に戻ると言う父ちゃんと別れて、僕は一人病院の外に出た。
 出入り口の前には緩(ゆる)やかなスロープが続いていて、その下には二十台ぐらい停められそうな駐車場が広がっている。そのスロープでは、タクシーが何台も列を作って客待ちをしていた。
 僕はスロープを渡りその手摺(てす)りに背中を預けて立った。それからスマホを取り出して、母ちゃんに電話を掛ける。
 呼び出し音が続いた後で母ちゃんの声が聞こえてきた。「もしもし」
「母ちゃん? 守」
「はいはい。どうした?」
「今病院。父ちゃんの主治医から話を聞いたところなんだ」
「そうなのね。それで?」母ちゃんが先を促(うなが)してきた。
「余命一年ぐらいだと言われた」
「…………」
「母ちゃん?」
「聞いてるわ。タバコでしょうね。ずっと吸ってたんでしょ? これまでなんともなかったのが不思議なくらいだわ」
「菜々子と聡とこっちに来てるんだ。母ちゃんはもう関係ないかもしれないが、いや、関係ないが、最後に会っておかなくていいのか?」
「私が?」母ちゃんが大きな声を上げた。「今更だよ。私にとっては遠い遠い昔の人だからね。私はもういいですよ」
「……そうか」
「いい人生だったんじゃないの? 守とりか子からは縁切りされなかった上に、最後も看取(みと)って貰(もら)うんでしょうから。夫としては最低だったけど父親としては悪くなかったの?」
「えっ?」
「嫉妬してたのよ、あの人に」静かな調子で母ちゃんが話す。「守もりか子もあの人と一緒の時楽しそうだったから。私には見せない笑顔をあの人には見せていたから。ずるいと思ってたわよ。躾(しつけ)は私がやらないといけないから、どうしたって厳しくしてしまうでしょ。あの人はそういうことは一切やらないんだから、好かれるわよね、それはずるいでしょ。離婚した後、あんたが時々あの人に会いに行っていたと知った時は、あんたに裏切られたような気分だったわ」
「…………」
「まぁ、それも遠い昔のことだけどね」
「バレてたのか」
「当たり前じゃないの」
「あれだよ、別に母ちゃんを嫌いとか、そういうことじゃなかったんだからね。祐一(ゆういち)さんのことだっていい人だと思ってるし。母ちゃんは祐一さんと再婚して良かったと思ってるんだからね」僕は力説した。
「わかってますよ」
 電話を切るとスロープを下った。
 病院を回り込むようにして進み庇(ひさし)の下で足を止めた。
 同年代に見える男が、車椅子に座りスマホで電話を掛けている。
 結局言えなかったな。生まれ変わっても、父ちゃんは母ちゃんと一緒になりたいってさとは。生まれ変わっても同じがいいと父ちゃんから聞いた時――ぐっときた。照れ隠しに思わず憎まれ口を叩いてしまったが、僕もできれば、また父ちゃんと母ちゃんの息子として生まれたいと思った。だが母ちゃんは違った。この一方通行は切ない。あと一年――いや、父ちゃんのことだからもっと生きてくれる。一年半とか二年とか。だが終わりが近いとはっきりしてしまっている。僕はまったく心の準備ができていない。父ちゃんがいなくなる……想像ができない。徐々に恐怖がやって来るのだろうか。その日が来るのが怖い。諦めるのだろうか。そして受け入れるのだろうか。それとも後悔するのだろうか。もっとこうすれば、しなければ――とあれこれ思うのか。なんだか自分の気持ちを持て余す。
 車椅子の男が電話を切った。そしてスマホを空に向けてパシャリと写真を撮った。
 僕も空へ顔を向けた。
 明るい空には綿飴(わたあめ)のような雲がいくつも浮かんでいる。
「こんなとこでなにしてんの?」
 姉ちゃんの声に我に返った僕は「え? いや、なにも」と答えた。
 姉ちゃんが空を振り仰(あお)ぎ目の上に手で庇を作った。「今日も暑くなりそうだね」
「あぁ」
「本田先生とは話したの?」
「あぁ。父ちゃんも知ってるんだって? その……一年ぐらいということ」
「うん。知ってる」
「それで?」
「それでって?」姉ちゃんが聞き返してきた。
「そんなこと言われりゃショックを受けるだろ、フツーは」
「父ちゃんと二人で本田先生から聞いたのね。先生の部屋を出て廊下を並んで歩いてる時、二人とも黙ってて。黙ったまま病院を出てそこの駐車場を突っ切ってる時、突然父ちゃんが言ったの。もやしラーメンを食おうって。サッポロ一番の味噌味にバターともやしを載せただけなんだけど、父ちゃんが作るとなぜか美味(おい)しくて。純(じゅん)も好きなの。父ちゃんが作るもやしラーメン。父ちゃんとスーパーに買い物に行って、アパートに戻ったの。それから父ちゃんがもやしラーメンを作ってくれた。父ちゃんと純と三人で黙って食べて――食べ終わった時、父ちゃんがふいに言ったの。どうすっかなぁって。なにがって聞いたら、俺がいなくなっても将棋教室を続けられるようにしなくちゃなぁって。それから突然純に、親父に会いたいかって聞いた」
「森枝(もりえだ)にってこと?」
「そう。お前の親父は酷(ひど)い男だったが、純にとっちゃ父ちゃんだから会いたいなら興信所に調べて貰うぞって」
「純君はなんて?」僕は聞いた。
「会いたくないから調べなくていいと純が言ったら、父ちゃんはそうか? って。それからぽつりと、森枝のほうは純に会いたいかもしれんぞって。そうしたら純の機嫌が急に悪くなって、なんでそんなこと言うんだよと怒ってたね」
「そうか……なんか父ちゃんらしくないな。もっと大暴れするかと思ったよ」
「心の中では大暴れしてるのかも。結構小心者だから凄くビビッてるのかもしれないし、時間がないと焦(あせ)ってるのかも。急にそんなことを言ったりするんだから」
「姉ちゃんは?」
「私?」姉ちゃんが目を大きくした。
「そう。姉ちゃんだよ。随分(ずいぶん)と落ち着いてるじゃないか」
「まだちゃんと理解できていないのかも。父ちゃんがいなくなるのを想像できていないんじゃないかな、落ち着いて見えるとしたら。でもあと何回もやしラーメンを食べられるのかなぁと考えると、寂しくなるよ」
「そうか。姉ちゃんもか。僕もまだ想像できてないよ」
 三ヵ月前だった。同期入社した木村(きむら)が辞職すると耳にした。僕はすぐに木村本人に真偽のほどを質(ただ)した。木村は本当だと言った。母親の介護をするための決断だった。木村は妻を二年前に亡くしていて、介護を担うのは自分しかいなかったので、仕事と両立させようと頑張ってきたが無理だったよと語った。それでいいのか? と僕は尋ねた。木村は頷いた。そして定年まで八年だと木村は言い出した。両立が無理な以上母親を介護施設に入所させて仕事を続ける八年にするか、介護に専念するしかない。どちらにするかよくよく考えた結果出した答えなのだと言う。ちょっと前だったら仕事を選んだと思うと木村は話した。だが定年まで八年となってみると、もういいかなと思ったそうだ。僕らの会社は六十歳が定年で、希望すれば六十五歳までは再雇用して貰える。僕は突然定年まで八年という事実に衝撃を受けた。そんなことはわかりきっていたはずだった。だが敢(あ)えて考えないようにして目を逸(そ)らし続けてきた。そしてその時、ようやく目の前に定年という言葉が落ちてきた。定年の日僕はどんな気持ちになるのだろう。解放感を味わうだろうか、それとも喪失感か。師走(しわす)になると、喪中なので年賀状を出せないとの知らせが何通も来るようになった。親を喪(うしな)うそんな年になったのだ。
 車椅子の男が僕らの横をゆっくりと通り過ぎていく。まだ扱いに慣れていないのか、必死の形相で車輪を回しているがなかなか進まない。
 その男を見送った僕らはふと顔を見合わせた。
「買い物?」僕は姉ちゃんが下げているレジ袋を目で指した。
「アメリカンドッグ。一軒目のコンビニじゃ二本しかなくて、もう一軒コンビニ行って集めてきた。父ちゃんの好物だから。純も好きなんだよね。守と聡君と菜々子さんの分もあるよ」
「アメリカンドッグか。父ちゃん好きだよな。祭りで必ず買ってたろ。ということは相当昔からあるんだな、これ。廃(すた)れることなく今もコンビニで売られているのが凄いな」
「そうだね」
「病人なのにアメリカンドッグ食べていいのか?」
姉ちゃんが首を傾げる。「ダメかもしれないけど、いいよ、食べて」
「ま、そうだな。食ってもいいか」
「守は変わったね」
「なにが?」
「年を取って融通(ゆうずう)が利くようになった」
「なんだよ、融通って」思わず僕は苦笑した。
「昔だったら、病人にアメリカンドッグなんてとんでもないとかなんとか言ってたよ、きっと。純がさ、昔の守に似てるんだよね。ちょっと大変なんだよ。私と父ちゃんは純にいつも叱(しか)られてばっかりでさ。純も変わるかね? だったら変わるのを気長に待つけどさ」
 僕に似ているという純は来年の三月に大学を卒業し、地元の市役所で働くことが決まっている。一方一浪して今年の春にようやく大学生になった聡は、父ちゃんに似たのかパチンコと麻雀(マージャン)が好きなようだった。
 駐車場に黄色のタクシーが入ってきた。ゆっくりと進み客待ちのタクシーの列の最後尾に着いた。
 僕は言った。「家族っていうのはやっかいだな」
「そうだね」
「だが家族だからしょうがない」
「しょうがないね」柱にもたれかかる。「昨夜父ちゃんが真剣な顔で考え込んでるから、どうしたのって聞いたら、最後にやりたいことリストを作ってるって。漏(も)れがないようにしなくちゃいけないからなって言うの。それ見たら、酷(ひど)いの」
「酷いって?」
「万馬券を当てる、万舟券を当てる、パチンコで大当たりを出す、役満で勝つって、ギャンブルがらみの希望がずらっと並んでた」
「しょうもねぇな」僕は呟(つぶや)いた。
「本当だね。しょうもないね。なんか最近、子どもの頃のことがふいに思い出されるんだよ。記憶があやふやなところもあるんだけど、大体が父ちゃんがらみなんだよね。昔さ、苺(いちご)は潰(つぶ)して砂糖を掛けるか、練乳を掛けて食べたでしょ。苺を潰す専用のスプーンがあってさ。あれ、苺が酸(す)っぱかったんだろうね。だから甘いものを掛けないと食べられなかったんでしょ、多分。当時はそういうもんだと思ってたけど。それがいつだったか父ちゃんが血相を変えて帰って来てさ、りか子大変だって言ったんだ。どうしたのと聞いたら、苺が甘くなってるぞって。父ちゃんが苺のパックを買ってきてたから、それを食べてみたの。そうしたら甘くてさ。びっくりしたんだよね。俺たちの知らない間に甘くなっていやがったぞって父ちゃんが言ったんだ。甘い甘いと言いながらパックの苺を全部食べた。そんなしょうもない場面を急に思い出すんだよね。もっと感動的な場面を思い出せばいいのにと思ったけど、よく考えたら、そもそもそんな感動的な場面なんてなかったんだよね。なんでもない毎日を積み重ねてきただけなんだよね。でもそんなしょうもない思い出が、父ちゃんがいなくなったら、特別な思い出に変わるのかなって思うと寂しいよ」
「それわかるよ。僕も急に昔の父ちゃんのことを思い出すが、やっぱりしょうもないシーンでさ、なんでそれを覚えてたのか不思議に思うぐらいだよ。昔家にあったトースターはポップアップ式だったろ。でさ、自動じゃなかったから、もう焼けたかの判断は自分でしなくちゃいけなかった。それで焦(こ)がすんだよ。ほぼ毎日のように。何故だかわからないが、トースターの係は父ちゃんだったじゃないか。だから焦げると皆父ちゃんに文句言ったよな。焦げたら、それは父ちゃんが食べなくちゃいけないというルールになってた。父ちゃんがナイフでその焦げをこそげ落とす時の、ガリガリという音をふいに思い出してさ。一度思い出したら、最近じゃその音が耳から離れなくなってるよ。なんでそんなことを覚えてたのか……なんだろうな」
「なんだろうね」
 僕らはしばらくそれぞれの思い出に浸(ひた)った。それからどちらともなく歩き出し病院の中に入った。
 病室には六つのベッドが並んでいて、父ちゃんのは一番奥の右側で窓側だ。そのベッドに父ちゃんの姿はなく、菜々子が一人パイプ椅子に座っていた。
「皆は談話室に行きましたよ」と菜々子が告げた。
「そう」と姉ちゃんは言うと踵(きびす)を返してすぐに出ていった。
 それから僕と菜々子は一緒に病室を出る。
 廊下の壁際には折り畳まれた車椅子が置いてあった。
「どうかしたか?」歩きながら僕は菜々子に尋ねた。
「ん?」
「様子がいつもと違うから」
「そう? そうかもね」廊下のずっと先を歩く姉ちゃんの背中に目を向けた。「さっきね、お義父さんに言われたの。これからも息子をよろしくお願いしますって。掛け布団に額を付けるぐらいに頭を下げて。なんか、胸がいっぱいになっちゃって。もっとたくさんの時間を一緒に過ごしたかったなと思って、ちょっとしんみりしたの。私お義父さんのファンだからさ。そうしたら自分の親のことを思い出しちゃって」
「そうか」
 菜々子の父親は三年前に大腸癌で、母親は二年前に心筋梗塞で亡くなった。
 ナースステーションを通り過ぎさらに廊下を進んだ。そして談話室の前で足を止める。
 談話室は六十平米ほどで、テーブルや椅子が置いてあり、入院患者と見舞いに訪れた人が好きに利用していいスペースだった。木製の扉が一つあり、廊下からは仕切りガラス越しに中の様子が窺(うかが)えた。左隅にある観葉植物の鉢の横に父ちゃんがいた。聡と純が将棋をしているのを、にやにやしながら眺めている。
そしてその三人の手にはアメリカンドッグがあった。姉ちゃんは隣のテーブルに突っ伏して眠っている。
突然胸が震えた。父ちゃんがいなくなる。そのことを今僕ははっきりと自覚した。そんなこととても耐えられない。どうしようもない人で、情けない人で、人としてダメなところを列挙したら暇(いとま)がないし、嫌いなところを挙げろと言われたら、こちらも切りがないほど挙げられる。それなのに僕は父ちゃんを失いたくなかった。ずっとこのままでいさせて貰えないだろうかと、誰かに尋ねたい気持ちだ。
 僕はガラスの向こうの皆を見ながら菜々子に尋ねた。「親を喪(うしな)う哀しさを、どうやって菜々子は乗り越えたんだ?」
「それは……乗り越えてないかも。まだ。ずっと抱えたままかもしれないわね」
「……そうか」
「私は将棋のことはよくわからないけど、面白いものみたいね。昨日聡に聞いたの、純君ってどんな子って。昨日一緒にいる時間が長かったみたいだったから。そうしたら真面目で堅実だって言ったの。そうなんだと思って聞いてたら、冒険は絶対にしなくて辛抱(しんぼう)強くて、こっちが予想外の手を指しても慌てたりはしない。静かに負けを受け入れると言ったの。聡は純君の将棋の指し方について喋ってたのよ。私は性格について聞いたのにと言ったら、将棋の指し方に性格が出るからそのまんまが性格だと聡は言ったわ。そうなの?」
「そうだね」僕は頷いた。「性格が出るね。それと生き様も」
「面白いわね。お義父さんはどんな将棋なの?」
「無茶苦茶だ。守ればいい時に攻めるし、二つの選択肢があったら必ず危ないほうを選ぶから。常に狙っているのは一発逆転。それは、大抵形勢が不利になってしまうからでもあってね、強くないんだよ、父ちゃんは。僕も弱いから形勢が不利になる。そんな時僕は逃げ回る。だが父ちゃんはハイリスクを承知で勝負に出る。そういう将棋」
「そうなの。やっぱり将棋って面白いわね」
「あぁ。うちにはいつも将棋があったんだ。どんな勝負をしても勝てなくても、将棋はいろんなことを教えてくれるし気付かせてくれる。とにかく面白いしね」
「なんだか私もやりたくなってきたわ。お義父さんに教えて貰おうかしら」菜々子が言った。
「そうするといい。父ちゃんは教えるのはまぁまぁ上手だよ」
「まぁまぁなの? そう。まぁまぁだったらいいわね」
 僕と菜々子は談話室に入った。アメリカンドッグを貰い、それを齧(かじ)りながら聡と純の対局を眺める。
 聡が銀を一つ前に進めた。
 たちまち純の表情が翳(かげ)る。
 突然父ちゃんが「守、俺といっちょやるか?」と言ってきた。
「僕と?」驚いて食べかけのアメリカンドッグで自分を指す。
「そうだよ、お前とだよ。守と指すのはいつ以来だ?」考えるように首を傾げた。「なんだよ、思い出せねぇぞ。覚えてないぐらいずっとやってないな。よし、やろう」
 談話室の棚にもう一つ脚付きの将棋盤があった。聡と純の隣のテーブルにそれを載せて、僕と父ちゃんは向かい合った。
 父ちゃんが駒を並べながら鼻歌を歌う。
「守とー、将棋をするのはー、久しー、ぶりなのよー。とってもー、久しぶりなのねー」と超テキトーに歌う。
「なんだよそれ」僕は言った。
「守と父ちゃんの歌」
「始まったら歌うなよ。集中できないから」
「おっ。勝つ気だな。望むところだ。真剣勝負しようじゃないか。よしっ。なに賭ける?」
「はぁ?」
「だから、なにを賭けるかって話だよ」
「そういうのやめようよ」僕は言った。
「いいじゃないか。そのほうが楽しいって。なににすっかなぁ……よし、アメリカンドッグを十本にしよう。負けたほうが勝ったほうにアメリカンドッグを十本奢(おご)る。これでどうだ?」
「父ちゃん勝つ気だな。自分が勝つ気でいるから、自分が欲しいものにしたんだろ」
「勿論(もちろん)勝つのは俺だが、いいよ、そしたらお前が勝ったら煎餅(せんべい)十枚やるよ。俺が勝ったらアメリカンドッグを十本。これでいいな?」
「……わかった」
 駒を並べ終わると父ちゃんが振り駒を始めた。振り駒とはどちらが先攻になるかを決めるものだ。自分の歩を五枚手の中に入れてシャッフルし、盤の上に落とす。そうして出た駒のうち表の歩のままだった数が多ければ、振り駒をした人が先攻になる。
 父ちゃんがぱっと手を離した。
 四枚が歩のままで、裏返り『と金』となった駒は一枚だけだった。
 父ちゃんは「幸先(さいさき)がいいですねー」と節を付けて歌うように言う。
 そしてすぐに歩を前に動かした。
 僕は飛車先の歩を交換する。それから隣で将棋をする聡と純に目を向けた。
 二人とも真剣な表情で将棋盤を見つめている。
 聡がサイダーのペットボトルのキャップを捻(ひね)り、口を付けた。
 父ちゃんが駒を左にずらした。
 すぐに僕も駒を動かす。
 ガタッと音がした。姉ちゃんがテーブルからずり落ちそうになり、目を覚ました。
 そして姉ちゃんは大きく伸びをした後で「皆で将棋やってるんだ」と言った。
 姉ちゃんはそれからレジ袋の中に手を突っ込み、アメリカンドッグを取り出すと立ち上がる。菜々子の隣で聡と純の将棋をしばし眺めた後、僕らの将棋盤の横に立った。アメリカンドッグを齧りながら僕らの勝負を見つめる。
 父ちゃんが金を斜め前方の位置に置いた。
 僕は銀を前に進める。
 始まったばかりの僕と父ちゃんの将棋は、互いに自分の好きな守備陣形を作る段階だった。
 姉ちゃんが言った。「父ちゃんと守の将棋久しぶりに見る」
「そうなんだよ、久しぶりーなのよー」と父ちゃんがまた歌うように言う。「負けても泣くなよ」
「泣かないよ」即座に僕は言った。
「よく泣いてたじゃないか」
「小さい頃の話だろ」目が合った聡に向けて、僕は「小学生の頃の話だから」と説明した。
 聡が「泣いたんだ」と楽しそうに言ってきたので、「昔々の小学生の頃の話だからな」と繰り返した。
 純までが僕を見て「叔父さん泣いたんだ」と言ってきた。
「だから」僕は声を張り上げる。「大人なら――普通の大人なら小さな僕と対局する時、手加減したり勝たせてやったりするだろ、普通は。それをしないんだよ、小池の人たちは。子どもだぞ、こっちは。大人げないんだ、この人たちは」
 菜々子がくすっと笑った。「でも素敵な家族ね」
 僕はじろっと菜々子を見てから「まぁな」と答えた。
 父ちゃんがにやっとした。そして桂馬を跳ねるように動かした。

(完) ご愛読ありがとうございました。 この作品は2018年9月に単行本として刊行予定です。

著者プロフィール

  • 桂望実

    1965年東京都生まれ。大妻女子大学卒。会社員、フリーライターを経て、2003年『死日記』でエクスナレッジ社「作家への道!」優秀賞を受賞しデビュー。著書に『恋愛検定』(祥伝社文庫刊)など多数。