物語がつまった宝箱
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  • 鶏肉とセリのさっぱり煮(1) 2017年5月1日更新
 その人が扉を開いた瞬間、秋口には珍しく温かい夜風が吹き込み、ぐるりと店内を一巡りした。
「いらっしゃいませ」
「あ、ひとり、で」
「カウンターかテーブル、お好きな方へどうぞ」
 うちの店には珍しい女性の一人客だ。ライトグレーのトレンチコートの裾から細かいプリーツの入ったローズピンクのスカートを覗(のぞ)かせている。顔立ちはそれほど目立つ作りではないのに、彼女は不思議と目を引いた。雰囲気美人というやつだろうか。胸に届くぐらいの長さの髪をチョコレートに近い落ち着いた色に染めて、毛先を軽く遊ばせている。垂れ気味の目尻と、ふっくらとした下唇が愛らしい。
 五人ほど居た他の客の眼差しが彼女に集まった。彼女はなぜかカウンター内の私を長く、驚きが混ざったような顔で見つめた。知り合いだろうかと目をこらすも、こんなかわいい知り合いはいない。
 少し迷った様子で顔を動かし、彼女は四人がけのテーブル席に着いた。私はメニューと水のグラスを彼女のもとへ運んだ。
「なににしましょう」
「え……と、外のメニューに、煮込みってあって」
「はい、煮込み。いつも二種類用意してて、今日はビーフストロガノフと、手羽先とゆで卵の甘辛煮です」
「……うーんと」
 それほどしゃべるのが得意ではないのかもしれない。つっかえつっかえ、ワンテンポ遅れた返事が届く。彼女は赤ワインとビーフストロガノフを注文した。お通しのブロッコリーと明太ポテトのサラダをワインと一緒に席へ運び、続いて、煮込みを深皿に盛って届ける。
「もしお腹が空いてるようでしたら、パンやごはんも出しますけど」
「だいじょうぶです」
 いただきますと手を合わせ、彼女は箸でつまんだブロッコリーを伏し目がちに口へ運んだ。まつげが長い。正面からだとたおやかな印象だけど、角度が少し変わるだけでずいぶん子どもっぽい顔になる。
 ぱたた、と軽い羽音がした。夜なのに、どこかで鳥が飛んでいる。

 美人は週に一度のペースで店にやってくるようになった。いつも少し疲れた顔で煮込みを一品頼み、ゆったりとワインを二杯空ける。煮込みの種類に応じてワインは赤になったり白になったりと、それほどこだわりはなさそうだった。ザワークラウトとベーコンのスープ、照り照りの肉じゃが、豚バラ肉と白菜の重ね鍋、白身魚と冬野菜のトマト煮。他の客と雑談することもなく黙々と平らげていく。
「そういえば」
 牛すじピリ辛煮、赤ワイン、と走り書きされた伝票を横目にレジを打ちながら、うっすらと血色の良くなった彼女の顔を見返した。
「鳥料理はあまりお好きじゃないんですか? いつも避けているようなので」
「あ……鳥は食べられないんです」
「ああ、そうなんだ。大変ですね」
 アレルギーだろうか。客の中にはそういう人も珍しくない。念のため、オーナーに包丁やまな板、鍋を分けるよう言っておいた方がいいかもしれない。ふっくらとした手のひらにレシートと一緒におつりを返す。今更だけど、ものすごく色白でキメが細かい手だ。感心しつつ顔を上げると、彼女はじっとこちらを見つめていた。
「……私も一つ聞いていいですか?」
「はい、なんでしょう」
「ええと……店員さん」
 彼女の目線が私の胸元の辺りをさ迷う。あいにく、名札などは付けていない。
「あ、すみません。乃嶋(のじま)と言います」
「乃嶋さん。あの、ここって乃嶋さんのお店なんですか?」
「いえいえ、まさか。私はただの店番です。えーと、この近くの商店街に、乃嶋精肉店ってあるのご存じですか?」
「はあ」
「そこの店主の乃嶋忠成(ただなり)さんって人がオーナーで、私の伯父なんです。料理も、夕方の仕込みの時に全部その人が作っています」
「……そうなんだ」
「なにか気になることでも?」
「いえ、なんでも……」
 うつむきがちに、もぞもぞと噛みつぶされた語尾が消える。
 大人なのに、ちょっと子どもみたいな人だなあ。美人だけどなんか弱いっていうか、いじめられそうっていうか。
 そう、確かに思った次の瞬間、無数の羽音が周囲の空気を掻(か)き混ぜ、顔がもふっと温かいものに埋まった。香ばしくて柔らかい、薄いものが幾重にも重なった、羽毛の塊みたいな感触が押し寄せる。まばたきをした。もちろんそんなものはどこにもない。私はいつもと変わらず、真夜中のレジに立っている。そして自分が今なにを考えていたのか、わからなくなった。
「あれ?」
 目の前で、美人さんが困ったように頬を掻いている。今日もかわいい。
「あ、あの、すみません。ごちそうさまでした」
 浅く頭を下げて、彼女は店を出て行った。

「そういえば、最近すごくかわいい人が店にやってくるんですよ」
「やべえ、俺も店に出なきゃ」
「奥さん帰ってきそうですか?」
 沈黙が返る。忠成さんはまるで獲物を見つけたと言わんばかりに湖に向けて目を細めた。とはいえ鏡のように静まりかえった湖面には獲物どころか、さざ波一つ立っていない。
 私は散弾銃の弾を抜いてケースにしまい、ポットに詰めてきたコーヒーを飲んだ。日頃、水鳥がよく集まっている湖に張り込んで早二十分。こんなことなら釣り竿も持ってくればよかった。暇すぎて眠たくなってきた。
「常連さんずっと心配してますよ。オーナーどうしたの、体でも壊したのって」
「俺は沙彩(さあや)が身内のプライバシーを切り売りするような子じゃないって信じてるよ」
「まさか、言いませんよ。フィリピンパブにドはまりしたせいで奥さんが実家に帰っちゃって、精肉店と二歳児の世話でてんてこ舞いになり、念願叶ってオープンしたばかりのダイニングバーにまで手が回らなくなりました、なんて身内の恥」
「ちゃんとバイト代渡してるのに」
「まあそれは感謝してますけど」
 ばさ、と大きめの羽音に口をつぐむ。通りがかった水鳥は、あいにく湖には目もくれずにあさっての方向へ飛び去った。
「今日はよかったんですか? 龍貴(たつき)ちゃん」
「うん、今日はうちの実家で見てくれてるから。……鴨をさー、ローストにしたやつ、去年の誕生日にサプライズで作ったら静子(しずこ)がめちゃくちゃ喜んだんだよなー。今日獲れないかなー」
「そこはお詫びのアクセサリーとかじゃなくて、鴨なんですか」
「店を出したばかりで金がないんだ」
 そんなお金のない状況下でフィリピンパブに入れ込んだのだから、静子さんもさぞ腹立たしかったことだろう。盆と正月ぐらいにしか会わない彼女に同情しつつ、湖に目を戻して獲物を探す。すると湖の縁、三十メートルほど離れた木の枝に山鳩を見つけた。声を潜めて忠成さんに呼びかける。
「鳩がいます」
「え、どこ」
「ほら、あのちょっと出っ張った木の枝」
「……幹の色と被って、見えないなー」
「老眼、始まってませんか」
 狩猟免許を取ってまだ一年の私より十年選手の忠成さんの方が遥かに腕はいいし、どうしても獲物が欲しい日ならなおさら任せたいところなのだけど。あまりもたもたしていると逃げられてしまう。弾を込め直し、銃を構えて狙いを付けた。息を止め、手元がぶれないよう肩の力を抜いて引き金を引く。
 ぱぁん、と高く乾いた音が響き渡り、鳩の姿が枝から消えた。薬莢(やっきょう)を拾い、急いで木の根本へ向かう。山鳩は羽を少し広げた平べったい姿勢で死んでいた。まだ温かい羽毛の塊を忠成さんに手渡す。
「じゃあ、鳩のローストで頑張って下さい」
「いいの?」
「はい」
 うなずき、薄曇りの空を見上げ、私はふと、言葉を足した。
「早く静子さんに機嫌直してもらって、お店に戻って下さいよ」
「店、大変かい?」
「そうでもないけど。なんか、このままだとずるずる居着いちゃいそうで」
「うちは別に構わないけど」
「でも、だめでしょう。そろそろ私も考えなきゃ。いつまでもこんな身内に甘えたバイト暮らしなんて、続けてらんないですよ」
「沙彩はもう少し力を抜いて生きた方がいいと思うけどなあ」
 忠成さんは肩をすくめる。親族でこんなのんきなことを言うのは、忠成さんだけだ。
 三年前、誰もが知っている有名な大学を出て、誰もが知っている有名な企業に入った私は、一族の誇りだった。色んな人から沙彩ちゃんは孝行娘だね、と褒(ほ)められた。でも私はその会社をたった半年で辞めてしまった。父も、母も、他の人も、表面的には私を気づかっているけれど、言葉の端々に焦りや困惑が見て取れる。早く次のところを探しなさい。辞める前に転職活動をすればよかったのに。履歴書に空白の期間を作っちゃだめだぞ。せっかくいいところまで行ったのに、なんでなの。ぎこちない笑顔の奥から、そんな声が聞こえてくる。
 一年近く引きこもり同然だった私をバイトとして雇ってくれた上、狩猟の手伝いを口実に外に連れ出してくれた忠成さんには感謝している。だけど忠成さんが作ってくれた生活圏はあくまで仮のものだ。身内向けの、期間限定の、ベタ甘な環境だ。現実はもっと厳しいし、その厳しさを忘れる前に、またあの世界に戻らなければならないと思う。
 私は何度か首を振り、次のポイントへ行きましょう、と笑って荷物を拾い上げた。

 平日のお昼の百貨店に来るのは久しぶりだ。
 化粧品を見に行きたい、という母に声をかけられたのだ。広告を見て気になった商品があるものの、若者向けのブランドかもしれないと気後れしているらしい。
「なんかねえ、シチュエーションに合わせたおすすめのメイクも教えてくれるらしいの。あんた、ちょっとやってみたら?」
「えー、いいよめんどくさい」
 私はそれほど自分の外見に関心がないので、メイクはあんまり楽しくない。顔も服も、ある程度清潔に整っていればなんでもいい。忠成さんの店に立つときも、眉を整えてリップスティックを塗るくらいだ。
 その店は、一階にずらりと並んだ化粧品コーナーではなく、四階のレディース雑貨コーナーに入っていた。どうやら敏感肌や乾燥肌などの肌トラブルに注力したプライベートブランドらしい。木目調の壁紙で、小ぶりの観葉植物があちこちに配置された店内は自然派でカントリーな雰囲気が漂っている。
「いらっしゃいませ」
 店員の声に会釈し、入り口近くの商品を漫然と眺める。どこかでアロマを焚(た)いているらしい爽やかな香りが鼻をくすぐった。棚にはスキンケア、ヘアケア、化粧品などの商品がシリーズごとに並べられている。
 母はオリーブを使ったスカルプケア商品を見ながらレジ周りで作業をしていた店員に目配せを送った。はい、とすぐに長い髪をポニーテールにした女性店員が駆けつける。店員は白いシャツに黒のパンツ、腰には大小のポケットに小物がたくさん詰め込まれたグリーンのエプロンをつけていた。
「これと、あと広告でメイクのカウンセリングもやってくれるって見たんだけど、メニューはあるかしら」
「かしこまりました」
 女性店員はすぐにA4サイズの薄い黒板を持って戻ってきた。そこには中高生向けポイントメイク、大学生向けチャレンジメイク、新社会人向けさわやかメイク、など様々なメニューが手書きで綴られていた。その中に就活向けきっちりメイクという項目を見つけ、溜め息をつきたくなる。母のろくでもない意図が見えた。この人はいつもこうなのだ。私の意思とか意見とかを、とても雑に、すっ飛ばしてもいいものとして取り扱う。
「お母さん、お願いだからそういうのやめてよ。私、やらないからね」
「いいじゃない。どうせタダなんだし。気分が変わるかもしれないわよ」
「別に、気分で言ってるわけじゃ……」
 黒板を中途半端な姿勢で掲げたまま、急に諍(いさか)いを始めた私たちを見比べている女性店員の横顔に、見覚えがあった。
「あれ、あなたは……」
「え? ……あ、え、乃嶋さん?」
 深夜に現れる美人さんは、垂れ気味の目を丸くしてぽかんと口を開けた。
 あなたたち知り合いなの? と母が意外そうに口を挟む。
「忠成さんのお店に来てくれてる人で」
「あ、そうなの。知り合いなら、気安くてちょうどいいじゃない。もう、お姉さんからも言ってあげてよ。この子ったらちょっと仕事で躓(つまず)いただけなのにくよくよしちゃって、でもこういうメニューがあるってことは、似たようなお客さんもたくさん来るんでしょう? だから今日はメイクでも」
「お母さんやめて、私にとってはお客さんなんだよ!」
 つい、のどかな百貨店のフロアには不似合いなほど声が高くなった。母は口をつぐむ。はっと我に返り、そろりと美人さんへ振り返った。彼女は驚いた様子もなく、真面目な顔でメニューを持って立っている。その、黒板を支える白い手に目が行った。
「……メイクは、いいです。代わりに、手の……ボディ向けのスキンケア商品で、なにか試したりできますか?」
「はい、もちろんです。えっと、じゃあこちらへどうぞ。ボディ用のソープと乳液、あと気になる部分の保湿クリームや、角質除去のローション、ニキビ予防のパウダーなんかもあります。色々種類があるので、気になるものはなんでも言って下さいね」
「色々、試してみるから。お母さんは先に帰ってて」
「まったくもう」
 母ははあ、と大げさに息を吐き、手に持ったスカルプケアシャンプーの会計をして出て行った。
「すみません、騒がしくして」
「いえいえ、そんな……あ、この椅子に座って下さい」
 美人さんの胸元には、清水(しみず)と黒字で書かれた金色の従業員バッジが輝いていた。
 商品棚の下から出された丸椅子に座り、同じく椅子に座った清水さんと向かい合う。清水さんは奥からぬるま湯を張った洗面器を持ってきて、私の右手をそこに浸した。柔らかいスポンジを使って満遍なく皮膚を濡らし、続いて、ハーブの香りがするボディソープを泡立てる。
「古い角質をきれいに取ってくれるから、つるつるになりますよ。リラックス効果のあるハーブが配合されているので、お風呂のあとで眠りに入りやすいんです」
 うちの店ではつっかえつっかえなのに、商品の説明をする清水さんの声は水を流すようになめらかだった。こんもりと泡立てられたソープで、優しく優しく手を洗われる。気持ちよさにぼうっとしていると、清水さんは口の端っこを持ち上げて少し笑った。
「実は、そんなに珍しくないんです。お店で、お連れの方と口論になるお客さん」
「え、そうなの?」
「はい。不登校とか、人間関係で躓いたとか、様々な事情で塞(ふさ)ぎ込んでいたり、容姿に悩みがあったり、そういうお子さんの気分転換になったらと連れてくるお母様は多いので。そんなのいや、いらない、なんてしょっちゅうです」
「なんだかほんと、恥ずかしいところを見られちゃって……」
「いえいえ、そんな」
 洗い終えた手に、清水さんは少しずつ色んな乳液やローションを垂らして匂いや肌触りを試させてくれた。私はザクロの成分が入った甘酸っぱい香りの乳液が気に入った。それを満遍なく皮膚に伸ばし、最後になめらかなクリームを擦り込まれる。施術の終わった右手は自分の手だと思えないほどすべすべになった。左右の手で明らかに色と肌つやが違う。右手だけほんのり光って見える。
「いいなあ」
「よかった。試供品、いくつか入れておくんで、おうちでも使ってみて下さいね」
 特に強く勧められたわけでもないのに、私はすっかりザクロの乳液が欲しくなっていた。控えめに見えて清水さんはなかなかのやり手だ。迷った末に一本レジへと運ぶと、ポイントカードを作る代わりに十パーセント引きにしてもらえた。
「またうちの店にも来て下さい」
 乳液と試供品の入った袋を受け取りながら呼びかける。清水さんは眉を下げ、照れくさそうに頷いた。

(つづく)

この続きは2020年5月刊行の単行本『まだ温かい鍋を抱いておやすみ』でお読みになれます。

彩瀬まるプロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。16年、『やがて海へと届く』が第38回野間文芸新人賞候補に。他の著書に『朝が来るまでそばにいる』『眠れない夜は体を脱いで』などがある。