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  • 鶏肉とセリのさっぱり煮(3) 2017年7月1日更新
  春が来て、新しい学年に上がっても、清水さんはクラスメイトから距離を取っていた。必要なとき以外は、誰にも話しかけない。お弁当も、本に熱中しているフリをしながら、自分の机で一人で食べた。
 みんなが自分を、自分勝手な冷たい子だと思っている。ずっと一人で過ごすうちに、清水さんは本当はそうなのかもしれない、と思い始めた。自分は性格も頭も悪くて、人をしょっちゅう踏みつけて、そんな汚さを見透かされているから、嫌われるのかもしれない。
 学校にいるのが辛く、中学一年のときに入った吹奏楽部も次第に休みがちになった。自宅はクリーニング屋を営んでいて、あまり早い時間に帰ると手伝わされるし、店番中におつかいに出されたクラスメイトとうっかり顔を合わせかねない。だから授業が終わったら真っ先に教室を出て、ひと気のない河川敷で夕飯まで時間を潰すことが増えた。
 幅広で浅い、大きな川だった。橋から水底が見下ろせるくらいに透明度が高く、魚がたくさんいるせいか様々な鳥が川の周囲で羽を休めていた。晴れた日には、川面は日差しを受けて銀色に輝いた。ゆるゆると遠ざかる水の流れを見てぼうっとしていると、清水さんはとても安心した。
 春が過ぎて、夏が終わった。夏休みの間も清水さんはほぼ毎日、図書館と川を往復していた。他に行くところがなかった。橋の下の日陰で宿題をした。それに飽きたら、家から持ってきたトランペットを吹いた。ぷうぷう鳴らしていても、よく見かける鳥たちは逃げない。むしろ音に慣れていくのか、「ああまたこいつか」と親しんでくれている感じがした。それがなんだか嬉しかった。
 秋の初めに、渡り鳥の群れがやってきた。鳥たちは川の中州の大きな木をねぐらに決めたらしく、不思議な意志を感じる規則的な動きで空を渡り、夕方になると一斉に帰ってきた。川の流れを見るのと同じくらい、彼らの動きは清水さんにとって心地よかった。ぷう、とトランペットを吹き、あとは延々、鳥たちが空に描く紋様を眺めていた。
 秋はゆっくりと流れていった。また体育祭の季節がやってきたけれど、清水さんにはどうでもよかった。気温が下がれば制服の上にマフラーを巻き、コートを羽織って、枯れ草の色が増していく川辺に足を延ばした。
 なんで自分は、クラスでいつのまにか交わされている約束事や、守った方がいいルールを他の人みたいに読み取ることができないんだろう。なにも考えずに流れていく川や、全体で一つになった鳥たちの方が、クラスメイトよりもよっぽど自分に近い気がする。木の周りを行き交う鳥の群れを見ながら、清水さんは少し泣いた。そしてふいに、鳥たちがいつもとは違う角度で空へ飛び立つのを見た。
 ずっと眺め続けていたせいだろうか。まるで見えない糸でつながっているみたいに、不思議と清水さんは彼らがどこに行くのかわかった。この土地よりもさらに南へ、温かい水のある場所へ渡ろうとしているのだ。
「行かないで!」
 頭が真っ白になり、ただ夢中で叫んだ。次の瞬間、鳥の群れがぶるりと震えた。彼らは大きく空を旋回し、激流のように清水さんの体に飛び込んだ。

「翌日から、色々なことが変わりました。教室にいても、ぜんぜんさみしくなくなった。それまでわからなかったクラス内の流れみたいなものも見えるようになって、私をのけものにしていた人たちが、仲間扱いしてくれるようになったんです。どうしたら好かれるのか、どうしたら嫌われないのか、なんとなくわかる。それ以来、私は人付き合いで困ったことはありません。どこにいても、そこを自分の群れにできる」
「……いいなあー」
 素直に思った。それはものすごく便利な力だ。清水さんは眉をひそめ、苦々しく笑った。
「私も、このあいだ乃嶋さんに追い払われるまで、そう思ってました」
「ん?」
「あのあと鳥たちが戻ってくるまでの間、私は本当に久しぶりに、一人で考え事をしていたんです」
 清水さんは黒板に書かれた今日のメニューに目を向けた。
「今日は、鶏肉とセリのさっぱり煮でお願いします」
「……いいの?」
「はい」
「鳥、怒らない?」
「怒りますねえ。この子たちがいやがるので、私はあの日から一口も鳥肉を食べていません」
「困るでしょう、いなくなったら」
「うん、本当に助けてもらいました。……でも、もう終わり」
 言って、清水さんは深呼吸をした。深く吸って、長く息を吐く。
「きらわれることが一番怖かったけど、今は、自分のことを自分で決められなくなることの方がずっと怖い。本当にそう、思います」
 鶏肉とセリのさっぱり煮はうちの看板メニューの一つだ。メインの二つの食材の他に細切りにした大根と牛蒡(ごぼう)を加え、薄味に仕上げてお酢とごま油で風味を付ける。具のどれも歯ごたえがいいので、わしわしといくらでも食べられてしまう。
 彼女が神妙な面持ちでさっぱり煮を食べる間、店には色々な客が訪れ、色々な料理と酒を味わい、色々な話をして去って行った。皿を空にした後も、清水さんはカウンターの隅でいつもなら二杯で止めるワインを黙々と飲み続けた。そして看板の明かりを落とす頃には、七杯のワインを飲み干していた。
「大丈夫ですか?」
 他の客を送り出し、泥酔してカウンターに突っ伏している彼女に声をかける。いつもちゃんとしていた清水さんの、こんな姿を見るのは初めてだ。真っ赤になった顔を浮かせ、清水さんはかすかに頷いた。
「……お、お勘定……」
「清水さんって、実はちょっとだめな人ですよね」
「……う」
「親近感が湧きます」
 私は足元のおぼつかない清水さんを店の二階に運んだ。二階には食材などを保管する部屋と、私やオーナーが帰るのが面倒になったときに使っている六畳間がある。清水さんに水を飲ませ、服の襟を広げて布団に横たえた。私も適当な座布団を二つに折って枕にして、彼女のそばに寝転がる。
 すみません、と小さな声がした。私は首を振った。
「ずっと頼ってきたものを捨てるのは怖いでしょう。仕方ないですよ。たぶんそんな日のためにお酒とかおいしい食べものとか、こういうお店はあるんです」
 清水さんは、なにも言わずに目を閉じた。私はカーテンから差し込む月明かりで、ぼんやりと白んだ天井を見上げる。
「私ね、子どもの頃から勉強も運動も人よりできたし、クラスでもずっと勝ってるグループにいたし、それが当たり前だったんだ。もしも中高の頃に同じクラスになっていたら、きっとあなたを馬鹿にして、仲良くならなかったと思う」
 返事はない。もう眠っているのかもしれない。私は独り言を続けた。
「だから、そんな自分が、会社になじめなかったときには驚いちゃった。いやなことばっかりで、こうすれば生き残れるって道筋がぜんぜん見つからなかった。だけど、ただ辞めるのは負けたみたいで恥ずかしくて、体を壊したって理由を作ってやっと辞められたの。辞めたあとも、自分が絶対に出ちゃいけないグループから仲間外れになったみたいで怖かったし、かといってなにもわからないまま、そこに戻るのも怖かった」
 どこかから鳥の羽音が聞こえる。遠く、近く、潮騒のように私たちを包んでいる。
「私なら捨てられない。だから、鳥を捨てる清水さんのことを、すごいって思うよ」
「……明日の私が、どんな風になるかわからない。どんくさくて、乃嶋さんをいらいらさせるかも」
「私にきらわれたって、たいしたことじゃないよ」
「それはちょっと……やだなあ」
 小さく笑って、清水さんはまた口を閉じた。今度こそ眠ることにしたのだろう。
 私も、短く眠っていたらしい。
 ばさばさ、と大きな羽音が耳のすぐ近くで響き渡った。
 目を開ける。周囲は青暗い。まだ夜だ。清水さんは寝息を立てているし、目に見える異変はなにもない。それなのに、やけに近くから沢山の気配を感じる。
 月明かりが照らす壁の一角に、無数の鳥の影が映っていた。鳥たちは清水さんから抜け出して、ゆっくりと天井付近を旋回している。青い影がちらちらと揺れ、羽にかき混ぜられた空気が震えていた。
 それは、決していやなものではなかった。大きな風とか川とかに似た、ただの力の流れだった。好きなら近寄ればいいし、いやなら遠ざかればいい。それくらいのものに見えた。私や清水さんを拒んだものも、本当はそんなものだったのかもしれない。
 ふと、寝っ転がったまま両手を散弾銃を持つかたちに構えた。脇を締め、頭を真っ直ぐにして、そっと右手の人差し指を曲げる。
 なにもないはずなのに、確かに引き金の感触があった。
 ぱぁん! と大きな音が鳴り響き、鳥たちは弾かれたように飛び立った。天井をすり抜け、夜空を掻いて去って行く。また別の、温かい水が湧く居心地のいい場所へと渡っていくのだろう。遠ざかる羽音に耳を傾け、また眠った。
 朝方に体を起こした清水さんは、やけに厚ぼったくむくんだ顔をしていた。接客どうしよう、と鏡を覗いて落ち込む背中に声をかける。
「シャワー浴びます? 血行が良くなっていくらかましかも」
「重ね重ねすみません……」
 近所のコンビニで下着を買い、シャワーを浴びた後、清水さんは髪を乾かして出勤の支度を始めた。乳液や下地クリームは私のものを貸した。メイク後の顔はいつもとどこか違う気がしたけれど、それは鳥がいなくなったせいなのか、別の理由なのかはわからなかった。
 店の入り口まで見送りに出ると、多少シャツにはしわが寄っているものの、ちゃんと社会人の顔をした清水さんが緊張した様子で振り返った。
「私、なにか変わりました?」
 聞かれて、頭から爪先まで真面目に点検する。
「よくわかんない。なにか違う気がするけど、うまく言えない」
「そうですか……」
「でも、割と好きな感じ」
 清水さんはへへ、と喉で笑って店の玄関から出て行った。そしてほんの二分後に、お勘定を忘れてました、と恥ずかしそうな顔で戻ってきた。

 それから、清水さんは変わらない頻度で店にやってきた。最近は職場で様々なキャンペーンやイベントを行って中高生のお客を増やし、売り上げを伸ばすことで若者向けの商品を外さないよう上司に訴えているらしい。
「まあ、だめならだめで、なにか別に考えます」
 そうチキンのトマト煮をつつきながらさっぱりと口にする彼女は、確かになにかが変わったようだった。端的に言うと、あまりモテなくなった。色んな男性客を周囲に引き寄せていた生温かい空気がどこかに消え、気がつくと清水さん自身、それほど美人という感じではなくなっていた。ただ、最後まで離れなかった学習塾の先生に割と本気のアプローチをされて、お断りしたらしい。
 あんなにモテていたのに、「真剣に告白されたのは初めてだった」と清水さんは苦笑いをする。
「誰にもきらわれないっていうのは、誰にも選ばれないってことに似てるんですかね」
「個性がないってことなんじゃない? あの先生、支配するのが好きっていうか人の面倒をみたいタイプの人だから、前の清水さんより、今のちょっと抜けてる清水さんの方が好みなんだと思うよ」
「もったいないことしたかなあ」
「あ、そういうのいやじゃないんだ。ならなんでお断りしたの?」
「うーん。……笑いません?」
「え、なに。笑わないよ」
 閉店間際、グラスに残っていた二杯目のワインをくっと飲み干し、清水さんは肩をすくめた。
「ずっとぴんとこなかったんですよね、恋とか。まあ鳥もいたし、そっちに気を取られていたからかもしれないんですけど。でも、このお店に来て乃嶋さんを初めて見たとき、鳥たちがざわざわざわ! って震えたんです」
「……それは、彼らが私を本能で怖がっていたからではなくて?」
「ですよねえ。でも、初めはそうだってわからなかったから。なんで乃嶋さんに会うたびに、こんなにざわざわどきどきするんだろう、恋か、これがもしかして恋なのかって……最近まで思い込んでたの」
「え、私に?」
 さもおかしげに、くくく、と清水さんは背中を引きつらせて笑った。
「ね、笑っちゃうでしょう?」

 また来ます、とほろ酔いの上機嫌で帰っていく清水さんを見送り、私は看板の明かりを落とした。
 今日も色々なお客さんが来た。いつも子ども連れでやってくる夫婦が珍しく二人きりでお洒落をして、恋人のような雰囲気でワインを飲んでいた。大学生らしい男性の三人組がカウンターでちょっと格好をつけながらウイスキーグラスを傾け、単位が危ないことについて話し合っていた。酒屋のご隠居は、最近なじみの不動産会社から節税対策にとマンション購入を持ちかけられ、頭を痛めているらしい。そして、清水さんの馬鹿馬鹿しい告白。思わず口がゆるむのを感じつつ、本日の売り上げを集計した。冷蔵庫の中身や食材の状況を確認し、報告のため、忠成さんの携帯に電話をかける。
「もしもしーい」
 電話口の忠成さんは龍貴ちゃんの寝室の近くにいるのか、内緒話をするような潜めた声で返事をした。つられて私も、声を小さくする。売り上げと、使い切った食材、気になったことなどを報告する。寝室から遠ざかっているらしく、だんだん忠成さんの声は普段の音量に戻っていった。
「了解です、お疲れさま。じゃあ、明日もよろしくね。十六時に酒屋の配達があるから受け取っておいて。他に、気になることはある?」
 そのとき、ふっと背中を押すなにかの力を感じた。考えるよりも先に口が動いた。
「忠成さん、今度相談に乗って欲しいんだけど」
「ん?」
「自分のお店って、どうやったら持てるんだろう。まずなにからやるのがいいかな」
 風が吹いている。川のような、鳥の大群のような、私を別の場所に押し出す見えない流れがやってきている。
 忠成さんの声に耳を傾けながら、店の照明を落とした。静まりかえった真っ暗なフロアを見回す。なにもかもが流れていく。清水さんや他のお客さんも、いつかこの店を去るだろう。明日の私も、今日の私とは少し違う。少し笑って、二階に上がった。

(了)

彩瀬まるプロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。16年、『やがて海へと届く』が第38回野間文芸新人賞候補に。他の著書に『朝が来るまでそばにいる』『眠れない夜は体を脱いで』などがある。