彩瀬まる
郵便受けにたまったチラシを回収して階段を上ったら、私の部屋の前にスーツ姿の知らない男性が立っていた。 スマホの画面を確認しながら、扉に向けて、もう一方の腕を振り上げている。 「えっ」 心臓が一度大きく跳(は)ね、思わず足がすくんだ。カッ、とヒールのかかとが鋭い音を立てる。すると男性はこちらへ振り向き、顎(あご)を引いて丁寧に会釈(えしゃく)してきた。 「木ノ下夜子(きのしたよるこ)さん……ですか。私、水島幸(みずしまさち)の夫で、水島浩次(こうじ)と申します」 押し入り強盗かと思ったが、よく見れば服装はこぎれいだし、顔立ちは素朴で、人の好さを感じるくらいだった。なにかスポーツでもやっているのか、バランスのいい体つきをしている。 ああ、この人が、血を失っていく息子の傷口を半狂乱で押さえていたのか。そう思うと気の毒で、優しくしなければいけない気分になった。 「……なにか、ご用ですか?」 「このたびは妻がご迷惑をおかけして申し訳ありません」 「いえ、そんな……私が勝手にやったことで」 「幸もきっと、気の置けないお友達と過ごして落ち着いたことでしょう。しかし、だいぶ長くご厄介(やっかい)になっていると聞き、これ以上はお仕事をされている木ノ下さんの負担になってしまうだろうと、迎えに来たのですが……どうも、意固地になっているようで。すみませんが、扉を開けてもらえませんか」 「はあ……ええ」 なめらかにつるつると耳に入ってくる話し方だった。なんとなく、営業職かなと思う。言われたことの大半が流れ去り、ご厄介、ご負担、というあまり日常では聞かない言葉が耳に残る。なんだ、幸のことだけでなく、私の仕事の心配までしてくれたのか。気の回る人だな、とキーケースを探して鞄の中をまさぐった瞬間、コートのポケットに入れてあったマナーモードのスマホがブルンッと震えた。 こんな時間にメッセージ? 仕事先からだろうか。 思考を巡らせ、すごく、すごくいやな可能性が頭に浮かんだ。 中指の先に触れていたキーケースを、再び慎重に鞄の底に戻す。 「……お気づかい頂き、ありがとうございます。でも、幸のことを、私は厄介だとも負担だとも思っていません。辛い状況にある友人を少しでもなぐさめられたなら、嬉しく思います」 「しかし」 「幸には落ち着くまで、本当に彼女がもういいと言うまで、自由にここにいて欲しいと思っています。私は彼女を招き、彼女はそれに応じました。それぞれにちゃんと、理由や感情があっての判断です。それを無視して、勝手に物事を進めようとしないで下さい」 目の前の男はぴくりと眉毛を震わせ、不快そうに、さも呆れたように、首をゆっくりと左右に振った。 「……おかしいでしょう。これは家族の問題だ。そこに、どうしてあなたみたいなよそ者が入ってくるんですか。いいからここを、開けなさい。私が幸と直接話をします」 「もうスマホを通じて話はしたんですよね? 呼び鈴を鳴らしても、扉を叩いても、幸は出てこなかったんでしょう? それなら扉は開けません。どうか、お帰り下さい」 「あなたはなにか誤解をしている。私はなにも……」 「誤解でも、なんでも。正しいとか、間違いとか、そういうのに関係なく、私は幸の安心と納得を優先したいんです」 ああ、としゃべりながら思った。これが、愛情から来る磁場の狂いか。きっと世間的には、この夫の言い分の方が正しく思われるのだろう。私はグロテスクな、家庭の破壊者に違いない。それでも、今はこの男を拒(こば)みたい。 幸の夫は強く、怒りのこもった目で私を睨(にら)み付けた。 「警察を呼ぶぞ」 「……どうぞ。どちらかというと、警察を呼んで、不審がられるのはあなたの方だと思います。家主不在の家の扉を開かせようと、叩いてたんですよね? 隣の部屋はずっと家にいる知り合いのおばあさんなので、きっと証言してくれると思います」 「あんたがやっていることは誘拐だ」 「幸に意思があることを、本当にずっと、否定し続けるんですね」 目元の険を深め、乱暴な足取りで幸の夫は歩き出した。私と肩をぶつけるようにしてすれ違い、重い足音を響かせてマンションの階段を下りていく。足音が一階までたどり着いたのを待って、私は素早く部屋にすべり込むと、急いで扉の鍵とチェーンをかけた。 どくっ、どくっ、と心臓が強く脈打っている。やっと深く息を吐くと、玄関の前で、スマホを手にしゃがみこんでいる幸が見えた。 両目からまた、音のない涙があふれている。だめだ、また濡れたスポンジに戻ってしまった。 「……DVとか、そういうの?」 苦しげに顔を歪(ゆが)め、幸は首を左右に振った。 昔から、なんとなく気になってはいたのだという。 夫の、息子への対応が厳しい。 将太(しょうた)くんは、けっして気の強い男の子ではなかった。甘えっ子で、お菓子作りが好きで、おしゃれが好きで、外出前にはお気に入りの靴下をいくつも引っ張り出してきて、一つ一つ足を差し込んでは楽しそうに選んでいた。ママとおそろいがいい、とわざわざ幸と同じ色の靴下を選ぶこともあった。そんな心の細やかな男の子だったらしい。 「浩次くんは、そんな将太を心配して……このままじゃ同性の友達に馬鹿にされるって、いろいろ教えてたの」 「三歳でしょう? 男の子っぽいとか女の子っぽいとか、曖昧で当たり前なんじゃないの?」 というか、おしゃれで菓子作りが好きな男の人なんてこの世に山ほどいるじゃないか。魅力的だし、なにが心配なのかさっぱりわからない。口を挟(はさ)むと、幸はしばらく考え込んだ。 「将太が、自分とは全然違うタイプの子に育つのが、不安だったのかな? ほら、父と息子ってそういうところあるでしょう? 似て当たり前っていうか……似ると誇らしいっていうか……期待?」 「そういうの、ほんときらい」 つい苛立って毒づいてしまう。すると、幸は怯(ひる)んだように顔を強ばらせた。ああ、私はいつも、こんな風に、無自覚に人を萎縮(いしゅく)させる。 「ごめん、続けて」 「……浩次くんなりの愛情だと思うんだけど、水をこわがる将太をプールに放り込んだり、わざと高いところに登らせたりすることがあったんだ。……だから、将太が落ちたって聞いたとき……」 「そんな……じゃあ、将太くんが落ちたのは、浩次さんのせいってこと?」 ぐう、と喉を鳴らし、幸はゆっくりと、重い石を動かすようにゆっくりと、力を込めて首を振った。 「……わ、私のせい」 「でも、幸はそういうの、反対してたんでしょう?」 「反対してたけど、だんだんわからなくなった。浩次くんの言うことが、正しいように思える瞬間があった」 いつからそうなったのか、思い返してもよくわからないのだという。 ただ、いつのまにか、幸の意見は家の中で通らなくなっていた。付き合っていた頃は対等だった。だけど気がつくと、家庭の重要なことはすべて浩次さんが決めていた。今後の展望、月々の貯金額、生活費の配分、子育ての方針、車を買い換えるタイミング。おそらくは妊娠して、あまりにつわりがひどくて仕事を辞めたのが契機だった。浩次さんの方が気が強く、弁が立つ性質(たち)だったのも原因の一つかも知れない。なにかを言えば馬鹿にされる。軽んじられる。「のんきでいいよな」「なにもわかってない」そんなことの繰り返しで、気がつくと幸は浩次さんの一部になっていた。 「男の子は臆病(おくびょう)じゃだめなんだ、男親ってそういうものっていつのまにか思ってた。私は大人で、もう一人の親で……きっと将太は、私に助けて欲しかったのに」 磁場が狂う。渦中(かちゅう)にいる人間にはわからないぐらいの速度で、でも確かに回転し、収縮し、一つのかたまりを作る。 事故だ、浩次さんの躾(しつけ)は不器用な愛だ、幸は家庭を守っただけだ。そんな風にも思える。事故じゃない、浩次さんは虐待者で、幸は共犯者だ。そんな風にも思える。うんざりするような灰色の万華鏡だ。ただ一つ確かなのは、私の友人は、自分を加害者だと思ったということだ。 「だから生きたくなかったの?」 幸は奥歯を噛みしめたような、強ばった顔をした。 ひどい質問だった。彼女はすでに、食べることを選んだのに。 うつむいて黙り込む友人が廊下に投げ出した足をそっとまたぎ、私は台所へ向かった。冷蔵庫を開ける。野菜室も開ける。 鶏肉があった。ポリ袋に入れ、チューブのおろしにんにくとおろし生姜をたっぷり絞(しぼ)り、醤油(しょうゆ)と酒を揉(も)み込んだ。しばらく置いて卵と粉を絡(から)め、熱した油で次々に揚げる。キャベツを半玉、端から千切りにして大皿に盛り、ごまドレッシングを回しがける。ご飯を解凍し、味噌汁はインスタントをお椀に準備して、常備しているあおさのりを一つかみずつ放り込んだ。 「食べよう」 湯気の立つ皿をテーブルに並べ、幸の腕を引いた。 「食べて。私も一緒に食べる」 そばで繰り返し呼びかけると、ぐずぐずと子供っぽく泣いていた幸は壁に手をつき、体をねじるようにして立ち上がった。 それから私は、毎日毎日、おいしいものを作り続けた。 モッツァレラチーズとチェリートマトのマルゲリータ。 野菜たっぷり棒々鶏(バンバンジー)。 いかと大根の煮物。 マッシュポテトとコンビーフのグラタン。 海老とブロッコリーの中華炒め。 明太子と大葉のバタースパゲッティ。 カボチャとラムレーズンのお菓子春巻き。 毎日毎日、生きたいと消えたいの境界をさまよいながら箸(はし)を使う友人の口を、食の誘惑でこじ開ける。さくさくと噛み砕かれ、ごくんと嚥下(えんげ)された温かいかたまりは、否応なしに彼女の血肉を潤(うるお)す。これであなたは、明日も死ねない。 それは奇妙に甘美な体験だった。一つの命にずっと触って、それが太くしたたかになるのを待っているのだった。多少の罪悪では折れないくらい、貪欲(どんよく)に、傲慢(ごうまん)になって欲しかった。生きると決めた以上、この人はこれからも悲しくてみじめな日々を繰り返し一人で歩き続けるのだ。強い方がいい。濁(にご)っていた方がいい。 私はたぶん今後も、満ち足りた人を祝福する一皿は作らないのだろう。そういう食卓を、心の底では信じていない。 それよりも幸のような人に食べて欲しい。苦しい時間を耐えていく人の食卓に豊かさを作りたい。その食卓には、きっと私の席もあるのだ。 梅が枯れ落ち、替わって桜が開き始める頃には、荒れてささくれだらけだった幸の指になめらかさが戻った。ぷつぷつと途切れがちだった睡眠がやっと一つにまとまり、深く眠れるようになって、頭痛や腰痛など、慢性的に体を苛(さいな)んでいた諸症状が落ち着いてきたらしい。 「明日、出ていくね」 そう告げられた夜、私は奮発して上質なサーロインを購入し、ガーリックオイルで丁寧に焼いた。真ん中がほどよく赤い、柔らかくて甘いミディアムレアのステーキを仕上げる。赤ワインも一本買った。 「これから、どうするの?」 「もうそういう流れになってきてるけど、浩次くんと離婚する。――それで、なんとか将太の骨を、一部でも引き取りたいと思うの。パパをこわがってたから、離れさせて、今度こそ……いくらでも時間をかけて服を選ばせてあげたい、お菓子もたくさん作ってあげたい。こんな簡単なことを、なんで……あー……」 大粒の涙が目尻からぶくりとふくれ、頬を転がってしたたり落ちる。だけどもう、幸は死なないだろう。 時間をかけて、幸は二百グラムのステーキをすべてお腹に収めた。クレソンのサラダも、きのこのソテーも、きれいになくなった。赤ワインで火照(ほて)った体を布団にすべり込ませる。 最後の夜だけ、私も客室に布団を運び、並んで眠った。 「おやすみ」 「うん」 布団から手を伸ばし、温かい指先を触れ合わせる。栄養に富んだ赤い血が、ぐるぐると二つの体を巡っている。 「幸」 「――なに?」 「ありがとう」 「……それは、私が言うことでしょう」 「ううん、あのね」 言葉にするのが難しかった。ゆっくりと、羊毛から糸を紡ぐように思考をたぐる。 「私は家族を、作らないから。……謙遜(けんそん)とかじゃなくてね、たぶん作らないと思う。何回か試したんだけどね、なにかが合わないの。だから一緒にいて、食べやすいものから順番にご飯を作らせてもらう間、子育ての真似事をさせてもらったみたいで楽しかったよ。そんな思いも寄らないことが、幸の人生にもこの先たくさんあるんだ。――将太くんと、また遊びに来てね。お菓子作るよ。守備範囲外で、あんまり得意じゃないんだけどさ」 幸が手を握ってくれた。ワインの酔いにゆったりと意識を預ける。とても気持ちが良かった。 「今度は、私が夜子にごちそうする。シュークリームタワーとかさ、シュー生地から作るくらい得意だから、任せて」 「シュークリームタワーかあ」 食べきれるだろうか、と小さく笑う。 真夜中の街の音と、広く穏やかな幸の呼吸に耳を傾けるうちに眠りに落ちた。まぶたの裏の暗闇に、遠くそびえ立つシュークリームの塔が浮かんだ。フルーツソースや生クリーム、チョコチップがふんだんにまぶされたカラフルな塔だ。 歩き続ければあなたに会える。何度でも会える。遥かな距離に目を細め、長い長い道を歩き出した。(了)
2010年「花に眩む」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。16年、『やがて海へと届く』が第38回野間文芸新人賞候補に。他の著書に『朝が来るまでそばにいる』『眠れない夜は体を脱いで』などがある。