物語がつまった宝箱
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  • 第十六酒 中野坂上 2017年8月15日更新
 地下鉄の駅の階段を上がって地上に出ると、自然、ため息が出た。
 自宅がある、この町にはずっとなじめなかった。
 地上に上がっていきなり、そびえ立つ高層ビルに囲まれる。それが視線をさえぎり、町の奥行きが感じられない。それだけでよそよそしく、寒々しい感じがした。
 一日中、特にお昼時には、ランチの店を探すスーツ姿のサラリーマンやOLが行き交う。祥子のようにジーパンとTシャツでうろうろしていると、どこか疎外感があった。
 これまで、昼食を仕事で訪れた町で取っていたのはそれも一つの大きな理由だった。腰を落ち着けて、酒を飲みながら食べられるような店がなかった。
 自分で選んだ町ではなく、亀山の親族がバブル期に税金対策として購入したマンションを格安で借りているということも理由の一つかもしれない。文句は言えなかったし、引っ越しもできなかった。事務所のある中野にも自転車で行けて、交通の便もいい。
 仕方ないとあきらめてはいたが、時々、ふっと出て行きたくなる。しかし、それでは、彼の心遣いを無にすることになる。何より、そんな金はない。
―――今日こそは、自分の町で店を探してみようか。ただ、びくつくばかりで眼を背けていては、何も見えてこないのだから。
 そう決心して、仕事を終えたあと、まっすぐに中野坂上に戻ってきた。
 新規のお客さんだった。
 指定されたマンションの一室に向かうと、若い女性が一人で待っていた。彼女の後ろには大きな段ボール箱がたくさん積み上がっていた。ピンクでふわふわしたキャミソールとショートパンツ、下着のような部屋着だった。
「ええと、成田(なりた)ゆかりさん?」
「はい」
 ふてくされたように返事をする。
「……今日はケガをした犬の見守りをするということでしたけど」
 亀山から聞いていたのはそういう話だった。
「あー、犬。犬、いなくなっちゃったんです」
「え。じゃあ、仕事は必要ないってことですか」
「いや、代わりにして欲しいことがあるんですけど」
 なんだか面倒なことになったと警戒した。犬がいなくなった、というのもあやしいし。
「あ、あの、どういうことでしょう。私は見守りの仕事を頼まれてきたんで、それ以外では」
 たとえ相手が女性でも、部屋の中に入るのはそれなりに覚悟がいる。相手に少しでもおかしなところがあれば、帰ってきていいと日頃から亀山にも言われていた。
「ごめんなさい」
 成田ゆかりは長くて茶色い髪が床につきそうなほど頭を下げた。
「でも、お願い、帰らないで」
 手を取らんばかりの必死さで言う。
「なんですか」
「実は……」
 玄関先で話を聞いたところによると、彼女の恋人の両親が急に上京することになり、明日、この部屋を訪ねてくることになったらしい。
「でも、ほら、部屋がこんなんでしょ」
 確かに、引っ越しの時の段ボールがそのまま置いてある。時々、必要なものだけ引っ張り出して使っているからか、物がはみ出して、箱は無残につぶれ、ひどいありさまだった。
「お願い、片づけを手伝って」
「明日は無理だって断ったらどうですか」
「だって、田舎からご両親が来るなんて、こんないい機会、ある? もしかしたら、一足飛びに結婚まで話が進むかもしれない……っていうか、これで粗相があったら結婚は絶対ないと思う!」
「まあ確かに」
「お願いします! 今日の夕方決まって、他の何でも屋やお掃除屋は昼間じゃなくちゃだめってすべて断られてしまったの。本当にお願いします」
「犬っていうのは最初から嘘なんですか」
「……そう。じゃないと来てくれないと思って」
 小さくため息をついてしまった。
「今まで、彼を呼んだこと、なかったんですか」
「家に男なんて呼んだら親に叱られるって、お嬢様ぶってた」
 思わず笑ってしまった。ゆかりも、自分で言って失笑している。
「……わかりました。やりましょう」
 あー、ありがとう、ありがとう! 彼女は抱きつかんばかりに祥子に礼を言った。
 それから、途中仮眠を取りながら(明日に備えて少しは寝ておいた方がいいと、祥子が彼女に勧めた)十時間以上かけて掃除をし、トイレや冷蔵庫の中まで整理した。それらもまた、部屋と似たり寄ったりの状況だった。
「冷蔵庫の中まで掃除するの?」
「しておいた方がいいです。冷蔵庫に女の中身が出る、とか言ってチェックするお義母さん、結構いるんですよ。お姑(しゅうとめ)さんになる人に冷蔵庫の中を見られて破談になった友達、知ってます」
 途中、掃除をしながら、ゆかりに話しかけた。
「矛盾するようですが、あんまり構えない方がいいですよ」
「そういうわけにいかないよ」
「むこうだって、ゆかりさんと仲良くしたいと思っているはずです」
「そうかなー」
「そうですよ。いくら親が反対したって、かわいい息子が結婚したい相手なら許さない訳にいかないし、そうなったらこれから長年の付き合いになるのだから」
 白々と夜が明けた時、祥子はどこかすがすがしい気持ちで、ゆかりの部屋を出てきた。彼女は最後、拝むようにして感謝した。ただ見守るより、満足感があった。
―――こういうことがあるから、見守りの仕事もやめられないんだよな。私、家事代行とかもいけるかもしれない。
 一方でそろそろ別の仕事を探したり、資格でも取ったりしてみようか、という気持ちも芽生えていた。今の仕事は夜だけだし、不安定だ。いずれにしろ、離婚してすぐに亀山が誘ってくれたもので、ずっとできる仕事ではないと最初から思っていた。
―――だとしたら、マンションは出なければならないし。
 亀山と幸江が連れて行ってくれた、房総半島の農家はすばらしかった。八十四歳の女性が一人で畑を作っている。冬から春にかけてはストックやポピー、夏はシシトウを栽培している、と言っていた。空いている時期に旅行に行くのが趣味だそうだ。その楽しみのためのお金は自分で稼いでいる、と胸を張った老女の笑顔がまぶしかった。定期的で確実な収入がある、ということがうらやましく、土に根ざした肉体労働というのも、何か人間と自然の根源的な力を見せつけられたようで圧倒された。
―――あんなふうに八十過ぎまで現金収入を生み出せるなんて、なんてすばらしいんだろう。
 それに比べると、「見守り」という不安定で半端、しかも、亀山家の不動産がなければ続けられない仕事が急に不安になった。
 いつもは大通りをまっすぐ家まで向かうのを、わざわざ小道を行きつ戻りつしてみる。
 町全体が大きなビルに圧倒されたように、食べ物屋もその他の店もぱらぱらと点在している。
―――商店街がないっていうのが、致命的なんだ。東京の町としては。
 駅前には大きなチェーンのラーメン屋があるし、別の小道をのぞくと刀削麺(とうしょうめん)の店も見つけた。ランチにはさまざまなセットを用意しているらしい。
―――本場の刀削麺というのはひかれるなあ。千円以下のランチセットも充実している。これにビールつけたらいい晩酌ランチになりそう。だけど、もう少し探してみたい。
 白玉稲荷という小さな神社を見つけて、十円をお賽銭箱に入れ、手を合わせた。
―――白玉。おいしそうな神社。これは縁起がいいかも。
 その脇の道を入ることにした。
 一見、普通の住宅街に迷い込んでしまったようで、がっかりする。けれど、倉庫のような店舗のガラス戸に「炒りたてコーヒー」の字を見つけて、ほっとした。
―――へー、コーヒー豆のお店か……。いれたてのコーヒーも飲めるのか。え、コーヒー二百三十円から三百円って書いてある。安すぎない? ご飯食べたあとで寄ってみよう。
 その先を行くと、真っ赤な看板が急に見えてきた。
―――うわー、ザ・昔ながらの中華屋って感じの店だ。
 店の前にカラー写真の入った看板が立っている。引き戸には店内が見えないほど、紙のメニューがびっしりと貼ってあった。
―――つけめん、タンメン、スタミナ丼……。ん? これはもしかして。
 実は、祥子はその店をまったく知らないわけではなかった。
 ここに引っ越してきた頃、ネットで検索して、いろいろな店を探した時に、この店も何度か引っかかっていたのだった。
―――中野坂上、ラーメン、とか検索ワードを入れると、必ず出てくる店ではあるんだよな……。
 けれど、これまで一度も入ったことがなかったのは、正直、グルメサイトでの評価が低かったからだ。そこに添えられた、口コミや食レポも一様に、熱がなかった。
―――まずいだとか、けなしている人はあんまりいないのだけど、高く評価している人もいない、って店だった、確か。
 それで、どうも食指が動かなかった。
―――いわゆる、はやりの「町中華」って感じで悪くないんだけど、外観は。
 深夜のテレビ番組で、本格中華とも、ラーメン屋とも違う、「町中華」というジャンルを紹介していたのを観たことがあった。
 祥子はメニューの張り紙の隙間からそっとのぞいてみる。カウンターに二人、中年男性が離れて座っているだけ。
―――うーん、迷うなあ。誰も入っていないほど不人気店ならすぐにあきらめがつくのに、十一時半の時点でこの客の入りは微妙。ただただ、微妙。
 写真のついたメニュー看板を改めて見る。麺類だけで上海メンだとか、広東メンだとか、二十種類以上ある。いや、当店特製という欄にさらに、塩バターラーメンだとかカレー野菜ソバだとかあるから、もっと多い。しかもラーメンは五百円という、良心的な価格だった。
―――しかし、一食の重みはでかい。失敗したくない。うーん。
 グルメサイトの評価を思い出してみる。ラーメンもチャーハンも普通にうまいらしかった。だけどやっぱり、ものすごく評価が高いわけじゃなかったはずだ。
―――ああ、どうして私を悩ませるのか。こんなに。駅前の刀削麺だったら、正直、はずれはないと思うの。絶対、おいしいはず。だけど。
 なんだろう、今日はどこかそんな、「無難」な選択はしたくないのだ。せっかく、この町を探索して、新しい店を開拓したいと思ったのだから。
―――ラーメンと餃子か、チャーハンと餃子とかなら、そこまでひどいことはないだろう。それにビールをつければかなりまずくても、なんとかなる。
「よし、行ってみるか」
 小さい声でつぶやいてしまうほど、大きな選択だった。
 がらがら、と引き戸を開けると、いらっしゃい、という女性の柔らかい声で迎えられた。
 白い割烹着に三角巾という服装の中年女性は、カウンターの中で中華鍋を振っている男性の妻かもしれない。優しそうで上品な顔立ちだった。
「どこでもお好きなところにどうぞ」
 真っ赤なカウンター席に、四人掛けのテーブル席が三つ。どこでも、と言われたし、まだ、二人しか客がいないので、一番奥のテーブル席に座らせてもらう。すぐに氷入りの水が出てきた。
 改めて、メニューをじっくり観察した。
 麺類のほかに、オリジナル料理と当店特製、料理類、御飯類、スタミナ料理というジャンル分けがしてあった。
―――麺類、御飯類はともかくとして、オリジナル料理と当店特製の違いはなんだろう……。
 メニューについ、つっこみを入れてしまう。
―――あ、中華屋なのに、カレーがある。かつ丼も。確か、町中華の定義にはこのメニューが、その定義の一つになっていたはず。さらに、ナポリタンがあれば、町中華のメニューとしては満点なんだが。
 さすがにナポリタンはなかった。がっかりしたところに、祥子は思わぬものを見つけた。
―――うどんナポリっていうのがある! 小ライス、スープ付きだって。うどんに小ライス……。これなら、町中華のメニューとしてはほぼ満点なのでは……あ。
 そこに、中華屋にはさらに珍しい、オムライス、チキンライス、ハムライスという三品が仲良く並んでいた。
―――オムライス……久しく食べていない。最近のオムライスはどこもチキンライスの上にふわふわとろとろのオムレツが乗っていて、ソースはデミグラス。それはそれで悪くないが、昔ながらのオムライスも食べてみたかったところだ。そして、ハムライスとはこれ、いかに。
 祥子はオムライスをじーっと見た。
―――本当は、ラーメンかチャーハンにすることに決めていた。ここで好みの味に出会えれば、この町がぐっと身近に感じられそうだし。
 しかし、「オムライス」の威力が祥子を刺激する。
―――中華屋のオムライスってどんなんだろう。休日の母親が作ってくれたようなものか、否か。
「すみません。オムライス、ください」
「はい」
 おかみさんが品よく答えてくれた。
―――飲み物はどうするかな。まあ、瓶ビールかな。
 祥子の目の前の壁に、アルコール類のメニューが貼ってあった。
―――ビール、キリン、サッポロ、アサヒ。大、中、冷えてます。なるほど。お酒、おかん、常温、冷酒。福島の酒です、うまいデス、たっぷり一合以上デス。コクが有ます。三百八十円か。有りますでなくて、有ます、というのがいいな。オムライスに合うとは思えないけど、飲んでみたい。
「すみません。それから、このお酒、冷酒でいただけますか。一合」
「はい」
 世の中の酸いも甘いも噛み分けた、といった風情のおかみさんは無表情でうなずいた。
 すぐに、水滴のついたコップ酒と漬け物が出てきた。
―――市販のきゅうりの漬け物と黄色いたくあんか。これはこれでいい。
 確かに、なかなか力強い、風味のある酒だった。
―――本当に「コクが有ます」だ。
「お待たせしました」
 とん、とオムライスとスープの皿が運ばれてきた。
 真っ白な洋皿に大きな黄色いオムライス。しっかりと焼かれた卵焼きに、チキンライスがくるまっている。ぷりんと太った形状も好ましい。真っ赤なトマトケチャップが一筋すーっとたらされている。脇にこれまた真っ赤な福神漬け。
 中華風の小鉢に入ったスープは濃い醤油色、小口切りのネギがたっぷり入っていた。
 大きなステンレスのスプーンを手にとって、端からがしっと突き刺していく。小さくいただきます、とつぶやき、一口目を口に入れた。
―――おいしいっ。何これ、おいしいじゃないか。いや、めちゃくちゃおいしいと言ってもいい!
 卵焼きと甘めのチキンライス、たっぷりのケチャップ、三つのバランスがとてもいい。卵焼きの塩加減と味付けが絶妙だ。
―――それから、何より、中のチキンライスがとてもおいしい。よい香りがする。バター? この店ならマーガリンだろうか。しっかりたくさん使って炒めてあるのだろうな。
 中の具は何が入っているのかちゃんと確認しなくちゃと思いながら、手を止めるのも惜しくて、がつがつっと続けざまに頬張ってしまった。
―――おいしい、本当においしい。
 やっと落ち着いて卵焼きの中を見たのは、半分ほど食べ進めたあとだった。
 チキンライスと思っていたが、よく見るとライスの中に入っているのは豚肉らしい。それとタマネギ、ピーマンが細切りで入っている。
―――ポークライスになるのかしら。でも、これはこれでいいなあ。豚の旨みがご飯によく合っている。
 日本酒とオムライスは合わないかも、と思っていたが、ライスの味が濃厚なのと、酒に臭みがないのでぜんぜん違和感がない。
―――これはこれでなかなかいい。
 漬け物をぽりぽりとつまんで、酒を飲むのも悪くなかった。
―――こういう料理をほめる時、お母さんの味、と言う人がいるけれど、それはどうなのだろうか。
 祥子は日頃、テレビの料理番組でタレントが「わあ、お母さんが作ったみたい、おいしー」などと言うのが気になっていた。
―――あれ、ほめ言葉になっているのだろうか。懐かしい味、ということか? それはプロの仕事をほめるのに正しい言葉なのか。懐かしいというバイアスがかかっているからおいしいけど、そうじゃなければおいしくない、ということにならないだろうか。だいたい、その芸能人の母親の料理が上手かどうかもわからないし。正直、まずくてほめ言葉に困るような時に「お母さんの味みたい」と言うならまだわかるが、そういうわけでもなさそうだし。
 祥子は目の前のオムライスをまじまじと見つめる。
―――はっきり言って、うちの母親のオムライスはこんなにおいしくなかった。もちろん、二度と会えない母親の手料理だから懐かしいし、もう一度食べたいけど。友達の家で食べたオムライスもこんなにおいしくなかった。こんな料理が子どもの頃出てきたら、びっくりしただろうな。
 十二時を過ぎる頃には、つぎつぎとサラリーマンの男たちが入ってきて、カウンターはすぐにいっぱいになってしまった。年齢層はおおむね高い。駅前で連れ立って歩いている、祥子を気後れさせるような会社員たちは皆、二十代だ。けれど、ここには四十以上の男性しかいない。
 中には、イスに座るなり、「おじさん、オムライスね」と頼んでいる男性もいた。
―――なんだ、やっぱり、オムライス、人気メニューなんだ。これ、絶対、おいしいし、くせになる味だと思う。考えてみれば、オフィスビルがたくさんあって、チェーンの食べ物屋は一通りそろっているような町だ。その場所で長年営業しているのだから、おいしくないわけがない。
 グルメサイトの点数が低いからと躊躇(ちゅうちょ)していた自分が、バカで不遜(ふそん)に思えた。
 お勘定をすると、千三十円だった。日本酒を飲んでこれは安い。
 店を出ると、最初の計画通り、近くの「炒りたてコーヒー」の店に行くことにした。一階はコーヒー豆を販売する場所になっていて、カフェは地下らしい。
 階段を下りていくと、雰囲気のいいカフェスペースがあった。中にはやっぱり、サラリーマンやOLがいた。豆を入れる樽をテーブルのように置いてある席に座った。
「本日のコーヒーはパプアニューギニアのシグリAAです」
 お盆を持った店の青年にいきなり言われて、考える間もなく「では、それで」と注文してしまった。
「二百五十円です」
「え」
「先払いでお願いします」
 祥子はコーヒーにはそう詳しくないが、とてもその値段で飲める品種ではないような気がした。驚きながら、財布から小銭を渡した。
 すぐに運ばれたコーヒーを口に含んで、自分の予想がはずれていないことがわかった。
 薫(かお)り高く、さらりとして、酸味がある。久しぶりに、本格的でおいしいコーヒーを飲んだ。ランチの脂っこさやアルコールが、いい感じに流されていくのを感じた。
―――おいしいもの食べて、いいコーヒー飲んで、最高だなあ。
 ゆっくりとコーヒーを楽しんでいると、自然と数日前に亀山と交わした会話が思い出されてきた。
 祥子は、介護の資格を取ることを考えている、と亀山に話した。その仕事に就くため、というよりも、老人を見守りする時、役に立つだろうと感じて。しかし、亀山はこの仕事が介護の方に偏(かたよ)ることを危惧していた。
「それはその方が今よりたくさん仕事は来るだろう。でも、だとしたら大きな責任も伴うし、大手には太刀打ちできない」
 見守りというあいまいな仕事だからいいんじゃないか、都会に咲くあだ花って感じでさ、と彼は笑いながらその話し合いを終わらせた。
 亀山の言いたいことはわかるものの、そのどこかに「まだそこまで責任をとりたくない」彼の内心がうっすらと見えた気がした。
―――亀山事務所という後ろ盾があるからなあ。あいつは。なんだかんだ言ったって、亀山家の御曹司なんだから。
 こっちの仕事が厳しくなったら、秘書になることもできるし、親の会社の手伝いをしたっていい。なんだったら政治家という道もあるのだ。
―――あいつが政治家? おえー。
 彼は政治家になんてなるようなタイプじゃないし、別の仕事をするにしても祥子の面倒は見てくれるだろう、親分肌の性格を十分知った上で、「結局、ボンボンなのよ」と心の中で毒づいた。
 これ以上、亀山や仕事のことを考えていると、せっかくのコーヒーに申し訳ない、と思って、最後の数口を飲み終わり、立ち上がった。
 店を出る時、カウンターの中にいる、年輩の女性と目が合ったので会釈した。こんなにおいしいコーヒーをこの値段で飲ませてくれてありがとう、という気持ちを込めて、「ごちそうさまでした」と挨拶した。
 気持ちが伝わったようで、「このあたりの方ですか」と話しかけられる。
「あ、はい」
「毎日、違う豆のコーヒーを日替わりで出しているんです。楽しみにしてくださいね」
「あ、楽しみです。また来ます」
 つい、自然に、そう答えてしまった。
 家までの道のりを歩きながら考えた。
―――なんだかんだ言っても、私はまだしばらくはこの町で生きていくしかない。ビルの多い、よそよそしいこの町で。
 また来ます。
 せめて、そう言える場所ができてよかったのではないか。
―――でも、私が資格を取るのは、私の勝手だ。勉強すれば、亀山の元にいてもできることは増えるだろうし。社長にその気がなくても。
 勝手に一人多角経営。そう考えたら、何かおかしく、気持ちの迷いが吹っ切れたようで、この町で、この仕事をまだまだやれそうな気がした。

(おわり) ご愛読ありがとうございました。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年神奈川生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞最優秀賞作受賞。07年「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著者に『東京ロンダリング』『母親ウエスタン』『彼女の家計簿』『ミチルさん、今日も上機嫌』『三人屋』『虫たちの家』『失踪.com 東京ロンダリング』などがある。