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  • 第11回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(第6編) 2015年7月1日更新
 第一次世界大戦により、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの諸帝国が崩壊するなど、欧州の政治地図が大きく塗り替わっていきます。1918年6月3日、英仏伊首脳会議によってポーランド国家の形成が合意され、翌年6月28日のパリ講和会議におけるベルサイユ条約の調印で正式に承認されました。
 〝不屈の民″ポーランド人の国家が、123年ぶりに蘇ることになったのです。独立運動に身を投じ、1908年からは私設軍隊を組織し、第一次世界大戦中はロシア軍と奮戦し、ドイツ軍により反功罪で逮捕され投獄されていた愛国者ユゼフ・ピウスツキがその初代元首に就任しました。そして日ポ両国の間で、翌年1919(大正8)年3月、正式な外交関係が結ばれました。
 ところが、ポーランド人にとっては〝束の間の春″でしかありませんでした。
 共産主義を目指すロシア革命が1917年に起こり、ロマノフ王朝が崩壊し、大国ロシアは労働者・兵士のソビエトとブルジョワ立憲主義者を中心とする臨時政府という二重構造になり、ウクライナはじめ周辺諸国も右へ左へと揺れ、第一次世界大戦後の混乱も収まらない中、国境策定を巡って1920(大正9)年4月、ソビエト=ポーランド戦争が勃発したのです。

餓死、病死、凍死、戦いに巻き込まれて虐殺
 「せめてシベリアに残された孤児だけでも、日本に助けてもらえないでしょうか」
 「ポーランド救済委員会(波蘭国避難民児童救護会)」のアンナ・ビエルケヴィチ会長(1877~1936)がウラジオストク駐在ポーランド領事と極東ポーランド赤十字社代表の紹介状を携え訪日し、外務省へ必死に懇願したのはソビエト=ポーランド戦争が勃発した直後、1920(大正9)年6月18日のことでした。
 対応したのは外交官の武者小路公共(1882~1962)でした。著名な作家、武者小路実篤(1885~1976)の実兄です。ビエルケヴィチ会長は武者小路の助言に従って、翌日にフランス語でタイプした嘆願書と状況報告書を外務省に提出しています。
 第一次世界大戦が1914年に勃発すると、ポーランド人が暮らしていたロシア領ポーランドがドイツ軍とロシア軍の交戦場となり、ドイツ軍の猛攻で撤退を余儀なくされたロシア軍が市や村落を焼き払い、ポーランド人を強制撤去させました。追い立てられたポーランド人は、母親と子どもが生き別れ、あるいは死に別れ、子どもたちだけで、明日の命も分からないままシベリアの大地を流浪していたのです。
 混乱に追い打ちをかけたのが、1917年のロシア革命に続く内戦でした。ウラジーミル・レーニンが社会主義国家(後のソビエト社会主義共和国連邦=ソ連)の建国へと動き出しました。翌1918年には「赤軍の捕虜となったチェコ軍を救出する」などの名目で、米国、イギリス、フランス、イタリア、そして日本などの連合軍がシベリアへ出兵。各国の出兵により、シベリアでは内戦と干渉戦が同時に進行する複雑な事態に陥っていたのです。イギリスなどから出兵を催促された日本は、「大義名分がない」と消極的でしたが、共産主義の輸出と革命政府への恐怖があり、米国が派兵を決定すると日本政府も方針を改め、同年8月、シベリアに陸軍を派遣しました。
 1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル)が結成され、シベリア各地で反革命軍が赤軍と交戦、血で血を洗う内戦となっていきました。シベリア在住ポーランド人の戦死者も続出します。
 ウラル山脈から太平洋沿岸まで続くシベリアは、針葉地帯が大半を占め、草や苔しか育たないツンドラ地帯もあり、内陸の盆地は夏期に30度を超す猛暑となりますが、冬が総じて長く酷寒の日々が続き、氷点下70度以下を記録するほどの酷寒地域もあります。
 ポーランドからの避難民たちは、家財産を失ったのみならず、食料も医療もない中で、餓死、病死、凍死、戦いに巻き込まれての虐殺など、シベリアの大地で次々と命を落としていきました。わずかばかりの食べ物を子どもに与え息絶えた母親、その母親に抱きついたまま凍死している幼児たち、雪を食べて飢えをしのぐ子ども……。そのような地獄絵図が、ワルシャワから極東の沿岸地域ウラジオストクまで、距離にすると約7500キロメートルという広大な地域の随所で起きていたのでした。
 
シベリアのポーランド人孤児を救助
 第4編と第5編に詳細を記しましたが、帝政ロシア(1721~1917)の時代、国家の再起と自由と民主を求め立ち上がったポーランド志士(愛国者)や影響力の強いシュラフタ(ポーランドの貴族階級)らが、政治犯や危険分子としてシベリアへ流刑にされ、その子孫も多くが帰れないままでいました。職を求めて流れてきた移住者やその子孫、シベリア鉄道建設のための労働者や技術者も送り込まれていました。鉄道従業員の4割を、ポーランド人が占めていたとの記述もあります。
 さらに難民化したポーランド人がシベリアを流浪……。そのため第一次世界大戦以前は5万人前後だったシベリアのポーランド人は、第一次世界大戦後には15万人から20万人にまで膨れ上がっていました。
 前出のビエルケヴィチ会長は、土木技師の夫がシベリア鉄道建設工事に携わることになり、1918年春から極東の沿海地域ウラジオストクに居住していたのですが、同胞の悲惨すぎる状況を見るに見かね、翌年1919年10月にポーランド救済委員会を立ち上げました。副会長には青年医師のユゼフ・ヤクブケヴィチ(1892~1953)が就任しました。当初、ポーランド人難民の救済・支援を目指したのですが、孤児(親との生き・死に別れを含め)があまりに多いことを知り、新生ポーランドの将来を担う子どもたちの救出を活動の中心に据えたのでした。
 ポーランド救済委員会は、当初、米国在住のポーランド系移民社会に保護を求め、欧米諸国に働きかけ、ポーランド人孤児の窮状を救ってくれるよう懇願しました。しかしながら欧米の連合軍はシベリアから次々と撤退し、日頃は「正義」「人道」を振りかざす米国すら拒絶、米国赤十字社も軍と共にウラジオストクからの撤退が決まり、その試みは成就しませんでした。
 しかも、苦労して集めた活動資金もロシア通貨、ルーブルの暴落ですぐ底を突き、さらにはソビエト=ポーランド戦争が勃発したことで、シベリア鉄道に孤児を乗せてポーランドへ帰還させることが困難になりました。
 最後の頼みの綱が日本でした。ポーランド人孤児の悲劇に同情した日本政府・外務省は、日本赤十字社に救済事業の引き受けを要請しました。日本軍のシベリア出兵に伴い、1918年8月からウラジオストクを中心に救護活動を展開していた日本赤十字社は、理事会を開き協議を重ね、ポーランド孤児の救護活動に入ることを可決させ、陸軍大臣と海軍大臣の認可を受けました。
 日本はシベリア出兵などで財政的に厳しい最中でしたが、ビエルケヴィチ会長による救済要請からわずか17日後、救いの手を差し伸べる決断を下しました。日本赤十字社は浦塩(ウラジオ)派遣軍司令部に支援を要請し、さらにウラジオストクから敦賀港(福井県)までの孤児輸送については、陸軍の輸送船への便乗が決まりました。
 大変なのは、シベリアの大地で放浪するポーランド人孤児を探してウラジオストクまで連れてくることでした。その大役を担っていた若き医師でポーランド救済委員会のヤクブケヴィチ副会長は、「日本陸軍の保護の下で、シベリアの奥地からウラジオストクに至るまで、ある時は陸軍の自動車で、ある時は汽車で児童を輸送してくれた」と回想しています。
 出兵中だった日本陸軍は、筆舌に尽くしがたいほど自然環境も治安も劣悪なシベリアの大地で、見知らぬポーランド人孤児を探し、救助するため東奔西走したのです。そして1920年7月からの1年間(第1次救済活動)と、1922年7、8月(第2次救済活動)の活動で、計765人のポーランド人孤児を保護し日本に迎えました。
 
皇后の慈愛の手
 「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、もっとも深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい。我らはいつまでも日本の恩を忘れない」
 ポーランド救済委員会のユゼフ・ヤクブケヴィチ副会長が、後日、このように語っています。
 ポーランド人孤児救出に関する物語は、『波蘭国児童救済事業』(日本赤十字社)やワルシャワ在住ジャーナリストの松本照男氏による取材と執筆「ポーランドのシベリア孤児たち」(『ポロニカ』恒文社/1994)、元ポーランド大使の『善意の架け橋』(兵頭長雄/文芸春秋/1998)、『ポーランド孤児『桜咲く国』がつないだ765人の命』(山田邦紀/現代書簡/2011)他で、詳細を知ることができます。また、外務省記録の「変災及救済関係雑件 波蘭孤児救済方ノ件」もあります。ですから過去の様々な文献を参考に、ここではダイジェスト版でご紹介しましょう。
 「敦賀の美しい花園のある浜辺の民家で、バナナやみかんなど見たこともない果物を食べ、日本の子どもたちと一緒に遊んだ」
 早くも1920(大正9)年7月22日、ウラジオストクで孤児たちの第一陣を乗せた陸軍の輸送船「筑前丸」が敦賀港に入りました。上記は、その時に9歳だった孤児による晩年の回想です。
 敦賀の町役場や警察、陸軍運輸部敦賀出張所などが協力、連携する体制で孤児たちを迎え、東京や大阪への輸送についても、鉄道本省の指示で様々な便宜が図られました。1920~22年の『敦賀町事務報告書』に孤児の救助費としてポーランド人からの寄付の申し出や孤児受け入れの記載が、『松原尋常高等小学校沿革誌』にも来校の記録が残っています。
 日本においてのポーランド人孤児たちの世話は、日本赤十字社の石黒忠悳社長、後に社長となる平山成信氏らが陣頭指揮をとっていました。皇室も節子(さだこ)皇后(大正天皇陛下の崩御後、貞明皇后と追号)の侍従を派遣して支援に当たっていました。日ポの国交樹立から間もない時期で、しかもポーランドが更なる戦争に突入したこともあり、同国政府の正式な日本代表は赴任していませんでした。
 第1次救済活動では、台北丸、明石丸、樺太丸などに乗船して計375人の孤児が五月雨式に敦賀港へ。その後、東京にある仏教系慈善団体、福田会育児院(現児童養護施設広尾フレンズ・東京都渋谷区広尾4丁目)の孤児舎寮3棟に収容されました。この施設には娯楽室、食堂、病室、運動場、庭園などが完備している上で、日赤本社病院に隣接していたので衛生上の措置に利便性があることから選ばれました。
 孤児の年齢は12、13歳が多く、最年長者は16歳、最年少者は2歳の女児でした。日本赤十字社は、言語や習慣の異なる子どもたちを世話するためにはポーランド人の付添人がいた方が安心だろうと考え、孤児10人に1人の割合でポーランド人の大人を招く配慮までしています。
 日本へ上陸した孤児たちは皆、顔色が悪く見るも哀れなほど痩せこけていました。服や靴はボロボロ、中には裸足の孤児もいました。
 孤児たちの第一陣が福田会育児院に到着した翌日から、慰問の人々がキャラメルやビスケットなどのお菓子や玩具を持参して駆けつけ、1人ひとりに優しく声をかけて回っています。孤児たちの服や肌着も、すぐに新調されました。新聞記者の質問にも孤児は健気に返事をしていましたが、親について尋ねられると沈黙し大粒の涙を見せたそうです。悪夢を語るには、余りに幼すぎて可哀想すぎました。
 福田会育児院には、歯科治療や理髪を無料で申し出る人たち、寄付金、寄贈品の申し入れなどが続出しました。孤児たちは大人たちの言いつけを守り、規則正しい生活を送りながら、朝食前と就寝前には毎日必ずお祈りをしていました。普段、昼間は読書をするなど自由に過ごしていましたが、各団体の配慮により、活動写真を観たり、手品を観たり、動物園や博物館を見学したり、遠足や日光への一泊旅行に連れて行ってもらうなどしました。
 1921(大正10)年4月6日には節子皇后が日赤病院まで行啓され、慈悲深いお言葉を孤児たちにかけられました。「大事になさい。そして健やかに生い立つのですよ」と4歳の女児、ゲノヴェハ・ボグダノヴィチの頭を何度も撫でながら声をかけられたご様子は、ポーランド本国にも伝わり、「皇后の慈愛の手」と題して描写され流布されました。ゲノヴェハちゃんの父親は赤軍に捕らえられ、母親は遺書を残して自殺をしていたそうです。
 
「日本にいたい」
 孤児たちが何よりも癒されたのは、安心安全な日本という環境で過ごしながら、愛情ある大人たちによる日々の何気ない言動だったようです。
 元孤児のアントニナ・リロ女史(1910~2006)が晩年、以下のように回顧しています。
 「看護師さんは、病気の私の頭を優しく撫でて、『かわいい、かわいい』とキスをしてくれました。それまで、このように人に優しくされたことがありませんでした」
 シベリアで劣悪な環境下にいたため重い皮膚病を患っていた孤児が多く、その1人だった幼いアントニナちゃんも入院することとなり、髪の毛を剃って治療を施され、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた時の逸話です。
 死の淵を彷徨(さまよ)ってきた孤児たちは、栄養失調により身体が弱っていたため、感冒や百日咳などの病気が蔓延することもありました。第1次救済活動で3回目の船に乗ってきた孤児たち中から腸チフスが発生し、22名に感染しました。その際、孤児たちの看護に日夜、励んでいた23歳の看護師、松澤フミ氏が殉職されました。関係者はショックを受け、孤児たちは涙が枯れるまで泣いたそうです。事情を理解できない幼子は、優しかった看護師の名前を呼び続け、それが周りの人たちの涙を誘ったといいます。松澤看護師はポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞を贈られています。

当時の思い出を語るアントニナ・リロ女史。
2005年9月撮影(時事)

 一方、ポーランド救済委員会のビエルケヴィチ会長は、ポーランド人に関する情報を日本社会に広く知ってもらえるよう、日本の新聞に連載記事を発表したり、日本語での印刷物を刊行したりしました。1921年9月から1922(大正11)年5月にかけて、隔週雑誌『極東の叫び』を発行し、記事をポーランド語、英語、日本語の3カ国語で併記し、毎回2000~4000部を東京、横浜、京都、大阪、神戸で販売しました。シベリアのポーランド人孤児の引き揚げの経過や子どもたちの日本滞在の様子、時事問題などを記し、日本への感謝と共に更なる支援を促そうと努力しました。  日赤病院も、次々と送り込まれる孤児たちの治療に携わるのみならず、民間から広く浄財を募るためポスターを製作して関係者や新聞社に配布し、1年間で集まった寄付金と物品をポーランド救済委員会に引き渡しています。  シベリアに残されているはずの孤児がまだ大勢いる中、1922年の第2次救済活動では計390名の孤児たちが敦賀港に入り、大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎へ収容されました。当時は2階建ての新築で、現在は大阪市立大学医学部附属病院(阿倍野区旭町)がある場所です。  大阪でも、善意の心が孤児たちにたくさん向けられました。慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、慰安会も何度か行なわれました。活動写真の上映会や動物園、博物館、大阪城の見学、各種団体による食事会やイベントなどで孤児たちは歓迎され、楽しい時間を過ごしました。  また、両親に連れられ慰問に訪れた少女が、孤児たちの着替えがないことを知り、自分の服を脱ぎ、ブローチや髪飾りなどすべてプレゼントしようとしたり、孤児たちの洗濯を手伝いたいと申し出たりして、定日定刻に一度も欠かさず寄宿舎へ通い続けた少女2人もいたそうです。  献身的な看護や温かいもてなしの甲斐があって、孤児たちはみるみる元気を取り戻していきました。  「日本にいたい」  「もう、どこにも行きたくない」  「日本の皆と一緒に暮らしたい」  いよいよ、まだ見ぬ祖国、久しぶりの祖国へ向かう日が訪れました。孤児たちは横浜港や神戸港で、親身に世話をしてくれた看護師や保母たちとの別れを悲しみ、抱きつき、乗船を泣いて嫌がりました。埠頭は、関係者はじめ見送りの人だかりでした。日本赤十字からは、冬の寒さをしのぐため手作りの毛糸のチョッキが贈られ、その他、食べ物など、たくさんのお土産が孤児たちに手渡されました。  孤児たちは、「アリガト」「サヨナラ」と覚えたての日本語を連発しました。両国の国旗がたくさんはためく船の甲板からは、突如、子どもたちの合唱による「君が代」が聞こえてきました。  埠頭でも、甲板でも、涙でぬれる瞳でお互いの姿が見えなくなるまで手を振り続けたのです。  「ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で、ポーランド救済委員会のヤクブケヴィチ副会長は、以下のような内容を記しています。  「憐れむべき不運なる児童に対する、日本人の振る舞いは、言葉や手紙だけでは表現し尽くせない……母親が我が子を愛するがごとく擁護愛撫し……シベリアにおいて受けた耐えがたき苦痛を一刻も早く忘れるように色々と務めてくれた。我らの児童は同情の空気と優しき愛護の元、おいしい食べ物を与えられ、ほとんど生まれ変わった様な気持ちと身なりになったことは誰もが認める所で……我々ポーランド人は、肝に銘じてその恩を忘れることはない……ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知れ渡っていることを告げたい……我々のこの最も大いなる喜悦を、心の言葉ではなく行為でもっていずれの日か日本に報いたい」 「日本への感謝の念を忘れるな」が合言葉  横浜港から出航した孤児たちはアメリカ経由で、神戸港から出航した孤児たちは、香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港して、見たことすらない、あるいは久しぶりの祖国ポーランドへと向かいました。  「私たちは日本人の親切を絶対に忘れてはならない。我らも彼らと同じように礼節と誇りを大切にする民族だからだ」  孤児たちが祖国へ無事に到着した頃、ワルシャワの新聞ではこのような内容が報じられました。在米ポーランド国民委員会、ポーランド赤十字社、ポーランド労働大臣などからは日赤へ感謝状が贈られました。  「肌寒い日だった。全員が甲板に出た。港にはためく赤と白のポーランドの国旗をいつまでも見つめていた。幼心に、これが夢にまで見た祖国なんだという感動で体が震えた。埠頭の人も建物も涙でにじんで見えなかった」  シベリアで救出され、大阪で過ごした後、神戸港から帰還した元孤児の1人イェジ・ストシャウコフスキは、晩年こう回想しています。父親をロシア兵に殺され、母親と5人の兄弟とはぐれて流浪していたイェジ少年は当時10歳前後でしたが、愛国心に燃えていたことが分かります。  ポーランドにとって、第一世界大戦後の独立は久々に訪れた〝春″でした。しかしながら祖国に帰還したシベリア孤児たちは、その多くが身寄りもなく、母国語も満足に話せない、読み書きに支障がある状態だったのです。ポーランド救済委員会のビエルケヴィチ会長らは、バルト海に近いグダニスク郊外のヴェイヘローヴォという地の施設を譲り受け、そこに孤児たちを集めました。寄宿舎での集団生活を営むことにしたのです。イェジ少年もその中の1人でした。  施設ではポーランド語教育が熱心に行なわれるのと同時に、「日本への感謝の念を忘れるな」が合言葉になっていたそうです。日本で覚えた「君が代」や「うさぎとかめ」などの童謡を歌ったり、学園祭の時には着物姿で〝お遊び″をしたり、日本を身近に意識しながら成長していったのです。  ある方から施設に贈られた2隻のボートには、孤児たちが「サダコ」「カトリ」と命名しました。孤児の頭を優しく撫でてくださった皇后陛下のお名前と、彼らを乗せた帰国船名の1隻「香取丸」から取ったのです。孤児の一人はその後、ボートに熱中し、グダニスク大学に進学後はヨット部を創設してポーランド・ヨット界の先駆者にまでなっています。  青年となった孤児たちは1929年、ワルシャワにて相互扶助や親睦を目的とする「極東青年会」を組織しました。会長には当時18歳のイェジが就任しました。ヴェイヘローヴォの孤児院で働きながら大学入学資格を取ったイェジが、国立ワルシャワ大学へ進学する頃の話です。  自国に戻り成長していく過程でも、日本の想い出を忘れることのなかった極東青年会のメンバーたちは、「日本と仲良くなりたい」と日本公使館(後に大使館へ昇格)へ挨拶に赴きました。この時、イェジは嬉しい再会も果たします。イェジら孤児たちが日本へ送り込まれる前、お世話になった在ウラジオストク日本領事の渡辺理恵氏が、その頃、ポーランド駐在代理公使に就いていたのです。  極東青年会のメンバーは、その後、日本の要人がポーランドを訪れることを聞けば、駅まで出向いて歓迎をしたり、各地で日本の素晴らしさを広める演説会を開き、日本公使館からフィルムを借りて映画上映会を開いたり、「日本の夕(ゆうべ)」というイベントを開催したりしました。極東情勢の研究、とりわけ日本精神と日本の情勢に関心を抱いていたメンバーたちは、『極東のエコー』を刊行し、誌面でも日本紹介に務めています。  日本公使館は資金援助をし、大使以下全館員がイベントに出席して応援することもありました。日本赤十字社の三島通陽(みちはる)名誉総裁が、1938年にポーランドを訪問した際には、大使公邸に大勢の元孤児が集まり、感激のあまり、彼らは何度も日赤名誉総裁を胴上げしたそうです。その時代、極東青年会の支部は8都市に拡大し、会員数は640名を超えていました。元シベリア孤児のみならず、極東情勢に興味を抱いている真面目な愛国者たちが会に参加していたのです。  「ポーランドはまだ滅んでいない♪」の歌詞で始まる「ドンブロフスキのマズルカ」も第一次世界大戦後に国歌として定着、その後、正式に採用されました。これはポーランドが領土すべてを失った2年後の1797年、亡命ポーランド人部隊の軍歌として作られた「民族の歌」で、長らくは歌うことすら禁じられてきましたが、ポーランド志士たちに水面下で受け継がれてきました。  さらにユゼフ・ピウスツキ初代元首が1932年7月にソ連と不可侵条約を締結し、1934年1月にドイツとも不可侵条約を締結しました。しかしながら、再出発の最中にあるポーランドの平穏な日々はそう長くは続きませんでした。1939年9月にナチス・ドイツ軍がポーランドの首都ワルシャワに侵攻、第二次世界大戦の火蓋が切られたのです。  援軍として来るはずのソ連軍は、一向に姿を現わしません。それもそのはず、前月の8月、独ソ不可侵条約の秘密議定書において、ポーランドを両国で分割する密約を結んでいたのです。ソ連の企みは、ポーランド亡命政府系の自由主義者はじめ邪魔な勢力を排除することであり、そのためにナチス・ドイツ軍を煽ったとされます。ポーランドは再び国家を分断され、世界地図からその名前が消されてしまいました。   杉原千畝の「命のビザ」  第二次世界大戦の勃発前からナチス・ドイツによる迫害が激しさを増し、その後、大量虐殺という絶体絶命の状態へと追い込まれたのが、ドイツをはじめとする欧州各地やロシアに暮らしてきたユダヤ人(大枠ではアシュケナジー系などと呼ばれる)です。長い歳月、西欧諸国で迫害されてきたユダヤ人は、14、15世紀以降、その多くが東欧諸国、中でも異教徒のユダヤ人に対しても寛容な政策を採っていたポーランドに移住していました。商業が未発展だった農業国ポーランドにおいて、王侯やシュラフタ(ポーランドの貴族階級)は国の建設や発展に役立つユダヤ人を歓迎したのです。そして徐々に、ポーランド人との混血やポーランド化したユダヤ人も増えていきました。  その彼らに「命のビザ」を発給し、窮地を救ったのがリトアニアのカウナスに領事代理として日本公館を開設し、1939年8月末から赴任していた杉原千畝(1900~1986)でした。正確には、「リトアニア共和国 在カウナス大日本帝国領事館領事代理」となります。  「命のビザ」の物語は、日本社会に先駆けてイスラエル、ポーランド、リトアニア、米国のユダヤ人社会で謝意を込めて賞賛されてきました。カウナスの領事館の建物も、杉原千畝の記念博物館として当時の様子が窺える執務室をはじめ一般に公開されています。  杉原逝去後ですが、幸子夫人による『六千人の命のビザ―ひとりの日本人外交官がユダヤ人を救った』(朝日ソノラマ/1990)他1冊が刊行され、その他、「命のビザ」の物語が複数の書籍やテレビ番組で幾度となく紹介されたことから、今日では国内でも広くその名前と業績が知られるところとなっています。  出身地の岐阜県加茂郡八百津町においては、1992(平成4)年に「人道の丘公園」が完成し、生誕100年にあたる2000(平成12)年には公園内に杉原千畝記念館がオープン。今年2015(平成27)年3月、ユダヤ人迫害の様子やビザ発給後の難民の足跡などの展示が新たに加わり、記念館がリニューアル・オープンしました。  また、和歌山県生まれで日系米国人の母親を持つ米国籍のチェリン・グラック監督が、唐沢寿明主演で杉原千畝の実話を映画化、ロケ地となったポーランドでは杉原千畝が再びクローズアップされています。映画の原題は『ペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物)』、邦題は『杉原千畝 スギハラ チウネ』。今年2015年12月より、全国東宝系にてロードショーの予定です。  ということで、ここでは杉原領事代理のカウナスでの役割とポーランド情報員との関係に重点を置いた上で、『日本・ポーランド関係史』他の専門書や回想録(伝記)を参考に、自身の視点も込めてご紹介したいと思います。  まず、日本人が1人もいないカウナスを拠点に、杉原が領事代理となりました。このことについて、戦後に本人がロシア語で記した未公刊の報告書(アンジェイ・T・ロメル所蔵)などからも、専門家らは杉原の主たる使命を紐解いていますが、端的には「日本陸軍参謀本部はドイツ軍がソ連に侵攻するかどうかの確証をつかみたがっており、国境付近のドイツ軍の集結状況を参謀本部と外務省に伝えることだった」ようです。外務省の官費留学生としてハルビンに渡り、ロシア語を習得していくキャリアに始まり、語学の才能に恵まれていた杉原は適任だったのでしょう。つまり、第二次世界大戦の火蓋が切られた1939年当時の領事館開設は、日本が情報収集するための合法的な出先機関でした。  そして、杉原がロシア語とドイツ語に堪能な陸軍参謀本部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉(コードネームはイェジ・ジョルジュ・クンツェヴィチ)他、ポーランド亡命政権の情報機関(インテリジェンス)の複数の人物と接触し、協力関係にあったことは確かな事実とされています。ちなみに情報機関の人間は、コードネームと呼ばれる偽名を持って使い分けていました。  レシェク・ダシュキェヴィチ陸軍中尉(コードネームはヤン・スタニスワフ・ペシュ)の報告書には、杉原領事代理との関わりについて、「私は、ソ連領内からの情報を日本領事に提供する他に、日本の通過ビザ発給の決定に関する回答を領事から受け取ることになっていた。当時、ポーランド難民がソ連と日本を経由して、米国および南アメリカ沖の島の一つにトランジットで行くことができるようにするという計画が練られていた……領事は難民問題の解決には好意的で、このことで多くの働きをした……日本経由で南アメリカ沖の小国の一つにポーランド難民を出国させようと公式案を出した最初の1人でもあった」などと記しています。  つまりビザの発給は、ポーランド軍からの依頼で始まったようです。しかも杉原の実務を迅速にするため、「(ダシュキェヴィチ陸軍中尉が)旅券に入れる決まり文句を手書きではなくゴム印にして、残りの部分と署名のみを書き入れるよう提案したところ、杉原が賛成して、ゴム印を2個作った」ことも記録されています。 日本の通過ビザを求める避難民  1940年7月9日より、杉原は日本領事館でビザの交付を始めていましたが、7月27日朝、情況が一変していました。領事館の周辺が黒山の人だかりだったのです。日本の通過ビザを求める避難民、主にユダヤ人100人ほどが押し寄せていたためです。本国政府(外務省)へ翌日28日、杉原は電報を送った際、その末尾に、「日本通過ビザの発給を求めて、連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けている」と記しました。  避難民はまずカウナスのオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクの元へ行き、そこで南米の海上に浮かぶ島キュラソーヘ渡るビザを得て、その後、日本の通過ビザを発給してもらうため杉原の元に殺到したのです。  杉原は避難民へのビザ発給の件で本国政府に電報で許可を求めましたが、松岡洋右外相(1880~1946)からは「否」とする電報が返信されてきました。このやり取りを2度ほど繰り返しますが、届くのは「否」の返事のみ。日本はドイツとの間に日独防共協定を結んでおり、さらに日独伊三国同盟の締結に向けた交渉を続けている最中でした。  杉原が領事代理だった頃のリトアニアで、ユダヤ難民たちのリーダーとしてユダヤ人救出に尽力し、戦後はイスラエルの宗教大臣の立場で1969年にエルサレムで杉原と再会し勲章を授けたワルシャワ生まれ、ワルシャワ大学卒のユダヤ人弁護士ゾラフ・バルハフティク(1906~2002)は、著書『日本に来たユダヤ難民―ヒトラーの魔手を逃れて 約束の地への長い旅』(原書房/1992)の中で次のように述べています。一部の用語に解釈も加えて記します。  「革命やポグロム(ユダヤ人に対する組織的な略奪や虐殺)が発生するたびに、ユダヤ人が満州へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった……上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった……スファラディ系(中東出身で上海港を根拠地に発展した英・米・仏国籍のユダヤ人)とアシュケナジー系(ドイツ語圏や東欧に定住していたユダヤ人)で構成される『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とするジョイント(人道支援団体。正式名称はアメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)の資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区を中心とするホステルへ難民を収容した」  上海の共同租界では、海軍きってのユダヤ研究家の犬塚惟重(これしげ)大佐(1890~1965)が、日本海軍が警備する虹口地区(通称「日本租界」)の日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎に充てるなど、ユダヤ人の保護に奔走していました。一方、満州では1931年9月18日に満洲事変(柳条湖事件)が、翌年に満洲国建国へと動く中、日本軍の一部には満州にユダヤ人国家を作るという「河豚(フグ)計画」がありました。ロシア革命とそれに続く内戦、干渉戦によって、反革命派の白系ロシア人とユダヤ人の新天地となっていたハルビンには、さらにナチス・ドイツの狂気から逃れるため、欧州とロシアのユダヤ人がシベリアを経由して洪水のごとく流れ込んでいました。  つまりハルビン、大連、天津など、もしくは上海の日本租界にユダヤ人が避難するルートもあったのですが、第二次世界大戦の火蓋が切られ、各地の戦況が複雑化し、情勢が混沌化する中、杉原は前述の「日本経由で南アメリカ沖の小国の一つに難民を出国させる」との案を、「所属する外務省ではない」別組織・人物と相談し密約していたのかもしれません。 昼食も取らず、万年筆が折れ、腕が動かなくても  日本を通過するビザとはいえ、避難民のビザ発給には「壁」がありました。外務大臣から各地の在外公館に宛てて発せられた訓令(昭和13年10月7日)によると、日本通過ビザの発給が認められる欧州からの避難者の資格として、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などが定められていました。  というのも、すでに脱出に成功した避難民の中には「避難先の国で入国許可が取得できる」と偽り日本の通過ビザを得て来日し、実際には行き先がなく日本に留まろうとしている者や、日本までの乗船券しか所持しておらず、第三国へ渡る費用のない者が少なからずいたためでした。 杉原の元へ殺到していた避難民の多くは、まさにビザ発給の要件に満たない人々でした。「幸子(夫人の名前)、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」  このようなやりとりを夫婦間で行なったことが、幸子夫人の書籍に記されています。  8月10日、杉原は本国の外務省との交渉を打ち切ります。その翌日からは、朝から晩まで昼食も取らず、万年筆が折れ、腕が動かなくても、ひたすらビザの発給を続けました。  タイムリミットが迫っていたのです。  8月3日にリトアニアが正式にソ連に併合されたことで各国の在外公館は相次いで閉鎖、ソ連当局からの圧力が増し、退去命令が出され、本国の外務省からも「一刻も早く退去するよう」との指示が出ていたためです。領事館を8月末に閉鎖し、9月1日、ベルリンへ向かう列車に乗り込んでからも、杉原は発車までの時間、ビザ発給の業務を行ない汽車の窓から手渡しました。  前出のポーランド情報員のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉とレシェク・ダシュキェヴィチ中尉に対しても、杉原はコードネームで日本領事館の書記官として日本の公用旅券を発給してドイツへ送り出し、その後も関係を保っていきます。  ベルリンを経て1940(昭和15)年9月より在プラハ日本総領事代理に赴任した杉原から、翌年2月に本国の外務大臣に宛てた電報が残っています。  「リトアニア人と旧ポーランド人に発給したビザの数は2132枚、このうちユダヤ系については約1500枚と推定される」  ビザは1家族につき1枚で良かったことから、杉原千畝が「命のビザ」によって救ったユダヤ人の数は6000人に上ると結論付けられています。  杉原は、プラハ時代にも「命のビザ」を発給しています。その時のビザで助けられたユダヤ人の中には、近年、日本でも講演を行なった米国在住の国際政治学者でサンディエゴ大学名誉教授のジョン・ストシンガー博士がいます。1枚のビザで両親と本人、尊い3つの命が助かりました。   ユダヤ難民に対して寛容だった日本  元ドイツ連邦軍空軍将校でボン大学にて日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・エーバーハルト・マウルの著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか―ナチス時代のハルビン・神戸・上海』(芙蓉書房出版/2004)に、以下のような内容が記されています。  「戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに、日本のユダヤ政策を説明している。『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。かつ、それを世界に対して語らない理由はない。松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、自分は防共協定を支持するが反ユダヤ主義には賛成しないと言っている」  ちなみに、松岡外相はリトアニアの杉原領事代理に「否」の返事を送った人物です。ビザ発給の要件に満たない避難民が日本に大量に滞留する可能性を危惧し、立場上からも「否」と返事したのかもしれません。また、「八紘一宇」の精神で、ユダヤ人であれ差別しないという主旨の「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を1938(昭和13)年1月21日付で制定していた関東軍との関係を、何らの理由で意識していたのかもしれません。  海外の政策に眼を向けてみると、ユダヤ人が目指していた米国、中南米、パレスチナなどはその時代、入国査証の発給を非情なまでに制限し、ほとんどシャットアウト状態でした。英統治領パレスチナでは、海岸に着いたユダヤ難民船に陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為までありました。入国を制限した理由の1つに、共産主義のソ連のパスポートに切り替わったユダヤ人の入国を忌み嫌ったようです。  さらに他国の領事館、一例では在ハンブルクに構える中南米その他の国々の領事や総領事の中には、ビザ発給の際に避難民に手数料以外に高額な代金を要求し、しかも発給したビザの中に〝空ビザ″も多く、つまり入国が認められず通過国でその扱いに困る例も多々あったとされます。日本の場合は(入国に「NO」を突きつけ、船が彷徨った例はゼロではないですが)、人道的にも片目を閉じて一時入国させていたのです。  日本政府、日本社会のユダヤ難民に対する寛容な政策、態度にナチス・ドイツは少なからず不快感を示していました。1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して「外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられない」と通告し、在日ユダヤ人を解職するよう要求しましたが、日本はそれを無視しています。  マウル元将校は、「ナチス・ドイツが日本のユダヤ系音楽家を排除し、代わりにドイツ人音楽家を指揮者や音楽学校の教授として就職させる陰謀を繰り返したが、日本側はそういった圧力を事実上、無視した」「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った」などと記しています。  キエフ生まれのウクライナ系ユダヤ人で、1931(昭和6)年から東京音楽学校で教鞭を取り、終戦後に米国へ渡ったピアニストのレオ・シロタ(1885~1965)は、「日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため、日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも自由を奪ったりすることも全くなかった」「日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができた」などと証言しています。  日本の陸海軍人、政治家、外交官、学者、財界など、様々な立場による様々な駆け引き、思惑があったにせよ、ポーランドをはじめ国内外のキーパーソンと連動しながら、同盟国のナチス・ドイツとは真逆の政策――ユダヤ人保護に動いていたのは紛れもない事実であり、我々日本人として誇りにすべきことではないでしょうか。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の線路と人々を運んだ貨車
(著者撮影)

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の建物とガス缶
(著者撮影)

 その中でも、杉原の勇気ある決断――「命のビザ」の発給は、リトアニア唯一の日本人であり領事代理という立場で推定6000人の命を救出するという具体的な結果につながりました。彼に助けられたユダヤ人は、大多数が日本を通過して第三国へ渡っていきましたが、しばらく神戸のユダヤ人コミュニティーに住み着いた人もいたようです。  タデウシュ・ロメル駐日ポーランド大使も、奮闘していました。主に米国から資金援助を得て、全ユダヤ人委員会とも協力しながら、日ポ両国が敵対関係となり大使館が閉鎖されるまで、「命のビザ」で日本へ渡ってきた大勢のユダヤ人(95%)と少数派のポーランド人(5%)のために、神戸で領事業務に追われていたのです。  当時、アンネ・フランクの家族のように欧州から脱出せず、アムステルダムの隠れ家に匿ってもらっていても、外へ一歩も出ることができないまま不安と恐怖の日々を過ごし、ある日突然、ナチス・ドイツに強制連行され収容所に送られ銃殺や虐殺、ガス室で命を落とす、病死、餓死へと追い込まれる可能性は高かったのです。ナチス・ドイツの毒牙はノルウェーとデンマークへと伸び、1940年5月にオランダ・ベルギーへ侵攻、さらにフランスへと迫って行ったのです。  しかも、ホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)はユダヤ人のみならず、ポーランド人のレジスタンス闘士や知識人、若い女性や子どもまでがターゲットになっていました。ポーランドでは、教師の15パーセント、カトリック司祭の18パーセント、医師の45パーセント、有資格技術者の50パーセント、弁護士の57%が処刑されたとのデータもあります。 史上類をみない無間地獄  シベリアで放浪した元孤児のイェジ青年ら「極東青年会」の中核メンバーは、第二次世界大戦が勃発すると、国内地下武力抵抗司令部と連絡を取り、「特別蜂起部隊イェジキ」を結成し、レジスタンス運動への参加を決め、怒涛の荒波へと勇猛果敢に飛び込んで行きました。1939年暮れのことです。  イェジキとは「イェジの子どもたち」という意味です。当時、幾つもの地下組織に所属するポーランド人が多かったのですが、イェジキはポーランド全土で1万5000人規模だったと考えられています。イェジら仲間たちは、それ以前から「自分たちがシベリアで体験したようなことを、許してはならない」と孤児院を開設し、シベリア孤児に限らず孤児の面倒を見ていました。戦災孤児らも、次々とイェジキの一員になっていきました。そのため、イェジ司令官の周辺には10代から20歳前半の若者たちが常に200名程度はいたとされます。これは地下組織の勢力としてはかなりの大部隊でした。  ある時は、ナチス・ドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)がイェジたちの孤児院へ踏み込み、強制捜査を始めました。急報を受けて駆け付けた日本大使館の書記官が「この孤児たちは、我々が面倒を見ている」「君たち、日本の歌を聴かせてやってくれないか」と彼らを守ったそうです。日独伊三国同盟により、在ワルシャワの日本大使館員は強いお守りであり楯になったのです。しかし、その〝お守り″も1941年10月に閉鎖となりました。両国は敵対関係になってしまったためです。

ワルシャワ蜂起博物館内の従軍カメラマンの写真の数々
(著者撮影)

   ポーランドを無力化するため、ソ連軍は2万人を超える将校・官僚を密かに虐殺(カティンの森事件)し、ナチス・ドイツ軍は火炎放射器でワルシャワの街を焼き尽くし、レジスタンス闘士のみならず医者や学者や大学生など知的階級を問答無用で逮捕、ワルシャワの北東約10キロメートルのカンピナスの森へ連行して、連日連夜、銃殺を繰り返していきました。狡猾で残虐なソ連と凶暴を極めるナチス・ドイツに挟み撃ちされたポーランドは、第二次世界大戦中に史上類をみない無間地獄に落ちていったのです。  イェジキ部隊は、広大な原生林が生い茂るカンピナスの森に連合軍が投下した武器・弾薬庫や援助物質を、ナチス・ドイツの包囲網を突破して取りに行くという危険極まりない任務を行ないました。第1編にもご紹介している巨匠アンジェイ・ワイダ監督の抵抗3部作の1作『地下水道』(1957年)のシーンさながら、暗闇で臭い下水道を匍匐(ほふく)前進していったのです。  そのため、イェジキ部隊からも少なからぬ犠牲者、死者が出ました。イェジ自身もナチに逮捕され死刑を宣告されましたが、脱走して一命を取りとめています。1944年8月1日のワルシャワ蜂起でも、イェジキ部隊はその中核として戦いました。  「亡国のまま終止符を打たない」  極限状態をあえて言葉にすれば、こう覚悟を決めた上での死闘でした。  ドイツの敗戦が濃厚となる中、1945年1月にソ連軍がワルシャワへ侵攻、ナチス・ドイツ軍を退け占領しました。

パルミリ墓地
(著者撮影)

 現在、国立公園となっている広大なカンピナスの森の銃殺現場近くに、同地で尊い命を奪われた約2200人の英霊が眠るパリミリ墓地と戦争博物館があります。周囲一帯は70年前のことがまるで嘘のように、整然と美しく静まり返っています。  このパリミリ墓地の入口の石には、〝自由で平和な自分たちの国″を、命を捧げても取り戻したかった若きポーランド志士、レジスタンス闘士の魂の叫びとも言える詩が刻印されています。作者は不明ですが、カンピナスの森で銃殺された英霊の1人で、ワルシャワ市内のゲシュタポ本部の地下牢の壁に文字が刻まれ残っていたそうです。  ポーランドについて語ることは、やさしい。  ポーランドのために仕事をすることは、難しい。  ポーランドのために死ぬことは、さらに難しい。  しかし、最も難しいのはポーランドのために耐えることである。

(一部敬称略) 次回は2015年8月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。