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  • 第12回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(第7編 最終回) 2015年8月1日更新
 つくづく感じるのは、史実を100%正確に記すことなど誰にも不可能ということです。たとえ記録が残っていても、捏造だったり不都合な部分が消去されている可能性もありますし、当事者や関係者が沈黙を貫いたり、記憶間違いをしたり、嘘を言ったり(言わなくてはならなかったり)していることもありえます。世界が絡むことなら、言語や文化背景の違いによる齟齬もあります。ただ、国内外に記録や証拠や生き証人などが多く存在すればするほど、それらをパズルのようにはめ込むことで、史実はより鮮明かつ重層的になっていきます。
 さて、昨年9月にトルコ編から始まった「世界は日本が好き」の連載は、これが最終回となります。戦争回避に奔走したストックホルム駐在武官・小野寺信と、亡命ポーランド政府きっての大物の情報士官との生涯にわたる友情の物語、「命のビザ」を家宝としてきた元ユダヤ人難民、日本のことを生涯、一時も忘れることのなかった元シベリア孤児たちの戦後の物語です。

小野寺信少将とリビコフスキー
 日露戦争を契機に接触が始まったポーランドと日本は、シベリアの孤児救出以降、協力関係をより強固なものにしていました。当時、日本陸軍の課題はソ連暗号の解読でした。インテリジェンス全般に長けていたポーランド軍は、日本陸軍に暗号解読技術を高める指導も行なっていたのです。しかも日本への恩義や尊敬の念を強く抱いていたポーランドと日本は、友情に裏打ちされた信頼関係にありました。
 そして第二次世界大戦を通じても、日ポ両国は同盟国のドイツよりも親密な関係にあり続けました。その象徴かつ中心人物となったのが、1941(昭和16)年よりストックホルム駐在武官を務めていた小野寺信(1897~1987)とミハール・リビコフスキーでした。
 夫人の小野寺百合子氏が綴った『バルト海のほとりにて―武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社/2015再改定版)、次女が綴った『戦争回避の英知―和平に尽力した陸軍武官の娘がプラハで思うこと』(大鷹節子/朝日新聞出版/2009)、そして『消えたヤルタ密約緊急電―情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(岡部伸/新潮選書/2014)など素晴らしい書籍があります。そのためここでは、ダイジェストでご紹介しましょう。
 リビコフスキーは、陸軍武官室の事務所で「白系ロシア人のペーター・イワノフ」と称して働いていました。彼はロンドンの亡命ポーランド政府きっての大物情報士官で、ナチス親衛隊(SS)全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが「世界で最も危険な密偵」と忌み嫌い、ゲシュタポから命を狙われていました。そのリビコフスキーを、ドイツを敵に回すリスクを冒してまで守り通したのが小野寺でした。通訳官として雇い、ペーター・イワノフを漢字に充てた「岩延平太」名義の日本国パスポートまで与えて庇護したのです。
 ナチス・ドイツの圧力に屈したスウェーデン政府から国外退去を命ぜられたリビコフスキーは、「日本のために、ロンドンの亡命政府から情報を送り続ける」と約束をしています。
 小野寺自身もドイツ語、ロシア語、スウェーデン語に堪能で、情報収集能力に長けていました。中立国スウェーデンを拠点に欧州の戦局を正確に掴み、「ドイツ側の情報のみに頼るのは危険である」と何度も本国日本に警告し、同盟国ドイツが英国ではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、そのドイツの対ソ連戦の戦局が不利な状況にあるとの具体的な情報を得て、日本の英米への「開戦不可」を30回以上も打電しました。しかし本国の中枢――参謀本部の一握りの〝奥の院″はその小野寺情報をほぼ握り潰し、日米開戦に踏み切ってしまったのです。

「ヤルタ密約」情報
 大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945(昭和20)年2月半ばのある晩、小野寺の自邸郵便ポストに知らせが届きます。「ヤルタ密約」の情報でした。情報提供者は、参謀本部情報部長のスタニスロー・ガノでした。独ソに侵攻されポーランドが再び世界地図から消えた6年前、「情報部の対ドイツ、対ソ連インテリジェンス組織を日本に接収してもらえないか」と上田昌雄ワルシャワ駐在陸軍武官に持ちかけたガノが、リビコフスキーに代わり小野寺へ情報を送ったのでした。
 ソ連クリミア半島ヤルタで米国のF.ルーズベルト大統領、英国のW.チャーチル首相、ソ連のI.スターリン書記長の連合国3巨頭会談が行なわれ、対日密約が結ばれたのです。ルーズベルト大統領は、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、ナチス・ドイツの降伏から3カ月後に日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連への参戦を促した、との内容でした。日本が敗戦に追い込まれるどころか、亡国の危機にあることを察知した亡命ポーランド政府が、「敬愛する日本が、我々ポーランドのような悲劇に陥らないでほしい」との願いから是が非でも救おうとしたのです。
 小野寺は直ちに「戦争を終結すべし」との打電を繰り返し、スウェーデン国王を介しての和平工作も単独で試みました。しかし「ヤルタ密約」情報も、本国は無視をしたのです……。
 敗戦から5カ月後、日本に引き上げる小野寺にガノは手紙を渡しています。
 「貴方は真のポーランド人の友人です。長い間の協力と信頼に感謝し、もしも帰国して新生日本の体制が貴方と合わなければ、どうか家族と共に全員で、ポーランド亡命政府に身を寄せてください。我々は経済的保障のみならず身体保護を喜んで行ないます」
 一方、小野寺に命を救われたリビコフスキーは、米国籍を取得しカナダのモントリオールへ移住後も、小野寺への謝意を生涯忘れませんでした。1987(昭和62)年に小野寺が死去するまで、2人は2度再会し100通近い手紙のやり取りをしています。
 小野寺の死から4年後、リビコフスキーもこの世を去りました。以下は、妻ソフィーが小野寺家に送った手紙の内容です。
 「ミハール(リビコフスキー)は最愛なる大親友マコトのところへ逝きました。きっと2人はもっと良い世界で、戦略について引き続き議論しているでしょう。ただし戦争についてではなく、人類愛について」
 
SEMPO SUGIHARAを探し続けたユダヤ人たち
 「命のビザ」の発給に奮闘した杉原千畝はベルリン訪問後、1940年にチェコスロヴァキアのプラハ総領事館の勤務を経て、1941年には東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館に派遣され、1942年にルーマニアのブカレスト公使館の一等通訳官に就任して終戦を迎えました。その後、家族と共にソ連軍に身柄を拘束され、ゲンチャ捕虜収容所など幾つかの収容所を経た後、1947(昭和22)年4月に帰国しました。
 それから2カ月後の6月、杉原は外務省を依願退職の扱いで去りました。その理由として、「訓令に違反した(命のビザを発給した)ことを問題視された」「ポーランドの亡命政権と同国陸軍の情報部と繋がっていた日本陸軍に杉原が近く、インテリジェンスに秀でたプロだったことが省内の反感を買ったから」「上級職ではなかったことで、整理の対象になった」などの記述があります。
 政府の公式見解によると、米軍の占領下となった日本において、1946(昭和21)年から外務省のみならず行政組織全体に対して行なわれていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく、機構縮小のためのリストラの一環でした。外務省も3分の1を減らす大幅な人員整理を進行中でした。終戦前の1944(昭和19)年、杉原は勲五等瑞宝章を受章していますが、外務省は「業績や能力より、血縁関係や学閥を優先」させる人事だったようです。
 ロシア語の翻訳を手始めに職を転々とした杉原は、1960(昭和35)年秋に日ソ貿易の最大手、川上貿易株式会社(現パーカー川上株式会社)へ入社し、同年にモスクワ事務所が開設され、その初代所長に就任しました。
 その8年後のことでした。「命のビザ」で救われた1人で、在日本イスラエル大使館参事官のジェホシュア・ニシュリが杉原と再会をします。杉原の消息を探し続けていたユダヤ人やユダヤ人協会が、ようやく居場所を探し当てたのでした。杉原は自身の名前を外国人には「センポ」と呼ばせていたため、なかなか見つからなかったようです。「外務省は旧外務省関係者名簿に杉原姓は3名しかいなかったにもかかわらず、『日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない』と回答していた」と揶揄する声もあります。
 元ユダヤ人難民のニシュリとの28年ぶりの再会は、「ユダヤ人の命の恩人、杉原見つかる」とのニュースとなり世界中に伝えられました。翌年の1969年、エルサレムに招き杉原に勲章を授けたイスラエルのゾラフ・バルハフティク宗教大臣(1906~2002)は、「日本政府の許可なしで、ビザを発給していた事実を知ったのはこの時だった。政府の命令に背いてまでビザを出し続けていたことは、再会するまで(29年間)考えてもいなかったので大変に驚いた」と記しています。
 1985年には、イスラエル政府から日本人初の「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・ヴァシェム賞)」を贈られ、翌年、顕賞碑がエルサレムの丘に建立されました。米国ユダヤ人諸団体からも表彰されるなど数々の賞を受賞し、杉原は晩年、その功績を称えられていきます。本人亡き後の1990年には米国に杉原記念財団が設立され、翌1991年には日本支部も開設されました。
 杉原はいつしか「日本のシンドラー」と呼ばれるようになっていました。ユダヤ人所有のホウロウ鉄器メーカーを買い取り、同工場で働くユダヤ人約1200人をナチス党員ではあったのですが救ったことで知られる、ドイツ人実業家オスカー・シンドラー(1908~1974)になぞらえてのことです。ユダヤ系米国人スティーヴン・スピルバーグ監督が、1993年に製作した映画『シンドラーのリスト(Schindler's List)』(原作はトーマス・キニーリーの『シンドラーズ・リスト─1200人のユダヤ人を救ったドイツ人』)により、シンドラーの名前、そのストーリーが世界に広まっています。
 第6編で紹介したポーランド亡命政府の情報員レシェク・ダシュキェヴィチ陸軍中尉(コードネームはヤン・スタニスワフ・ペシュ)は、後の報告書で「日本領事によるビザ発給の日が来ると、ユダヤ人はこぞって申請に詰めかけたがポーランド人の希望者は少なかった。申請者は十数名に過ぎず、私は彼らを優先すべくあらゆる手を尽くした」と記しています。この内容が事実だとすれば、杉原千畝の命のビザは結果論として「ユダヤ人救済」という史実を残したと考えるべきなのかもしれません。
 最晩年の手記『決断』他に、杉原はこう遺しています。
 「兎に角、果たして浅慮、無責任、我武者らの職業軍人集団の、対ナチ協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビザを拒否しても構わないとでもいうのか? それが果たして国益に叶うことだというのか? 苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に忠実にこれを実行したのです」

リトアニア・カウナス日本領事館の杉原千畝 (提供:NPO杉原千畝命のビザ)

〝デリバティブの父″も「命のビザ」受益者  シベリアのポーランド人孤児、そして欧州各国を侵攻しながらホロコースト(ユダヤ人虐殺)に邁進するナチス・ドイツの脅威から、杉原千畝の「命のビザ」を得て脱出に成功したユダヤ人や少数のポーランド人が上陸した日本で唯一の港が、古くから大陸への玄関口として栄えた福井県の敦賀港です。  1999(平成11)年には、イスラエルの高校生2人が敦賀港に上陸したユダヤ人難民の足跡をたどるため同地を訪ねたことが記録されています。2003(平成15)年6月には、駐日イスラエル大使館のギル・ハスケル参事官が、「同胞が上陸した場所を見たかった」と港を訪ね、2006(平成18)年11月、駐日イスラエル大使館のシュムリック・バース参事官が敦賀市長を表敬訪問しています。そして2008(平成20)年3月、ユダヤ人難民と敦賀市民との交流や「命のビザ」で命を未来へつないだ世界中の人々からのメッセージ、通過ビザのコピーなどが展示される、敦賀ムゼウム(福井県敦賀市金ケ崎町)が開館。これを契機に、杉原千畝の故郷である岐阜県八百津町との相互交流協定も締結しています。ちなみに通過ビザを〝家宝″にしている元ユダヤ人難民もいらっしゃるようです。

敦賀ムゼウムの館内ディスプレイ。写真はポーランド孤児のコーナー。他にユダヤ人難民や杉原千畝のコーナーなどがある (出典 人道の港敦賀ムゼウム)

 2014(平成26)年7月には、「命のビザ」受益者の超大物も敦賀を訪れています。イリノイ州シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)において、世界に先駆け為替先物取引市場を開設した人物で、国際金融界では〝デリバティブの父″と呼ばれているレオ・メラメドCME名誉理事長(1932~)です。ベティ夫人と米国立ホロコースト記念博物館のサラ・J・ブルームフィールド館長と共に敦賀ムゼウムに来館し、「73年ぶりの再上陸を記念」してオリーブの木を植樹しました。

レオ・メラメド氏(左の写真中央)は記念植樹後、館内の展示を見て回り、メッセージを残していった (出典 人道の港敦賀ムゼウム)

 ポーランド東部、ビャウィストクにて数学教師の家に生まれたメラメド名誉理事長は、8歳の時、「命のビザ」でシベリア鉄道を経て敦賀港へ入港し、神戸を経て、米国へ移住したサバイバーです。その経緯は『エスケープ・トゥ・ザ・フューチャーズ』という伝記にまとめられています。成功者だけにビジネスでは厳格な人物とされますが、日本企業が支援を求めたり日系メディアが取材を申し込んだりすると、快く面談し、可能な限りの便宜を図り、日本と杉原千畝への感謝を必ず口にすることでも有名です。  日本滞在記などもあるメラメド名誉理事長は、東日本大震災後に犯罪が急増しなかった日本について、米国で称賛の声が上がったことについても、「米国人にはかなりの驚きだっただろう。でも私に驚きは微塵もない。日本人は世界で最も礼儀正しい人々だから」と語っています。 敦賀市民の〝おもてなし″  『命のビザ、遥かなる旅路―杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(北出明/交通新聞社新書/2012)などによると、70数年前、敦賀市民も見知らぬ外国人に〝おもてなし″をしていたことが分かります。敦賀はウラジオストクとの定期航路が開かれて以来、異国情調が漂う町になっていました。加えて昭和元年頃より、「一視同仁(すべての人を分け隔てなく慈しむこと)」と「八紘一宇(国全体が一つの家族のように仲良くすること)」を強調した教育が盛んでした。小学校でも当時、ユダヤ難民について、「自分の国が無いため世界各国に分散して住み、金持ちや学者や優秀な技術者が多い。今は戦争で住むところを追われて放浪して落ちぶれた恰好をしているが、それだけを見て彼らを見くびってはならない」と教わったとの回想も残っています。  港に船が着く度に、着の身着のままのユダヤ人難民らが、時計や指輪を買い取ってもらいたくて、駅前にある時計・貴金属を扱う店へ押し寄せました。中身が空の財布を広げ、食べ物を食べる仕草をしながら、店主とは筆談で交渉をしていたそうです。店主の娘は、「売って得たお金で、駅前のうどん屋で食事をしていました」「父は店にある食べ物を『気の毒や』と言ってよくあげていました。私も持っていたふかし芋をあげたこともあります」などと回想しています。銭湯の「朝日湯」が1日休業して、難民のために無償で使ってもらったところ、「その身体があまりにも汚れていたので、後の掃除が大変だった」という逸話も残っています。  駐日ポーランド大使館、神戸ユダヤ人協会とユダヤ難民の世話を積極的に行なっていたホーリネス教会(キリスト教団体)の日本人牧師らが協力して、敦賀に到着したユダヤ人難民の出迎えや、神戸や横浜への移動、滞在先の工面もしていました。  ポーランド出身のユダヤ人難民の1人で、昭和16年2月24日に敦賀に上陸したボストン在住のサミュエル・マンスキー氏(2011年没)は、「敦賀は私たちにとってはまさに天国でした。街は清潔で人々は礼儀正しく親切でした。バナナやリンゴを食べることができましたが、特にバナナは生まれて初めての経験でした」と回想しています。敦賀とウラジオストクを船で往来していた敦賀港近くで青果店を営む父親が、気の毒なユダヤ人難民のことを見聞きしていた中、その息子が父親の指示で店のリンゴやみかん、乾燥バナナなどを配ったようです。  移住した米国でシオニスト協会の会員となり、同協会の全国副理事長を務めるなどシオニズム運動に深く関わり、関連する様々な役職に就いたマンスキー氏が中心となって、自身が役員を務めていたマサチューセッツ州チェスナット・ヒルのエメス寺院に、ホロコーストの記念碑に続いて杉原千畝の記念碑の建設に取りかかり、2000年に完成させています。  日本庭園内に建てられ、杉原千畝の顔が刻み込まれた記念碑には「杉原千畝 在リトアニア日本国領事 激動の1939-1941年の間に在勤 杉原氏により給付された2000余りのビザは、6000のユダヤ人の命を救い、後に3世代、3万6000の命の源となる」という碑文が刻まれています。聖書から選ばれた「獅子のような心を持つ力ある者」(サムエル記II.17章10節)との一節も刻まれています。碑文はすべて英語、ヘブライ語、日本語で表記され、杉原千畝の顔も刻み込まれています。  2000(平成12)年12月11日、大阪国際会議場で「杉原千畝生誕100年記念式典」(委員長:明石康元国連事務次長)が開催されましたが、その際にマンスキー氏は追悼スピーチを行なうメインゲストの1人でした(詳細は「杉原千畝生誕100年記念事業委員会」のサイト)。海外からゲストを招いて杉原千畝を顕彰する記念式典を盛大に行なうのは、この時が初めでした。 「日本人は子どもをとても大切にすると思いました」  さて、第6編に続いて、元シベリア孤児たちの戦後の話題に戻りましょう。社会主義国時代のポーランドで元シベリア孤児に最も早くから接触し、聞き取りを重ねてきた日本人は、ワルシャワ在住のジャーナリスト松本照男氏です。1942年、埼玉県生まれで明治大学法学部卒の松本氏は、ポーランド高等教育省の奨学金を得てワルシャワ大学大学院ジャーナリズム研究所で政治学修士を取得し、同大学政治学研究所の博士課程で学ばれています。  1975年頃、20世紀の困難な時代を生き抜いてきた孤児――すでに60代、70代という高齢でしたが――その中の1人ヘレーナさんという名前の夫人に、ある日、講演会の会場で声をかけられたことから接触が始まったそうです。これを契機に松本氏とシベリア孤児との交流が始まり、ワルシャワで十数名と会い、さらに元孤児の誰が健在なのかの追跡調査もしていくことになりました。  元孤児の消息が手紙や電話で分かると、インタビュー内容をテープに録音したり、想い出の記を書いてもらうようお願いしたり、貴重な記録を残していく作業に取り掛かっていた松本氏は、元シベリア孤児の日本の想い出が、「気恥ずかしくなるほど、手放しの褒めようだった」と記しています。家族や周囲の友人知人にまで、日本への恩義をずっと語っていたことも徐々に分かってきました。  レジスタンス運動に身を投じたことで、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所に送られ、名前の代わりとなる番号のタトゥー(その方の番号は16658)を腕に入れられ、数少ない生還者となった元孤児(軍曹)もいました。軍曹はアウシュヴィッツ収容所へ向かう糞尿の匂いが漂う貨車内で、「賛美歌」を口ずさむ聖マキシミリアノ・コルベ神父(1894~1941)と一緒で、第14号棟の同室となり、その中の十数名が無作為に餓死刑を宣告された中、「妻と子どもに会いたい」と絶叫し泣き叫んだところ、コルベ神父が身代わりに名乗り出たことで一命を取り留めていました。コルベ神父はコンベンツアル聖フランシスコ修道会の伝道師として、1930(昭和5)年4月に長崎へわたり、6年余りの滞在中に教会の設立に尽力し、キリスト教を優しく読み解く日本語の雑誌『聖母の騎士』を発行するなど、日本と大変に縁の深い人物でした。  何度も生き地獄を潜り抜けてきた、年老いた元孤児たちにとって、遠い昔のわずか数カ月間とはいえ、日本での思い出は色あせないどころか〝人生の宝物″になっていたのでした。  「64年前、私たち孤児が日本の皆さんや日本赤十字社に受けた恩義に、全孤児を代表してお礼を言いたく来ました。ありがとうございました」  大粒の涙を拭おうともせず、感謝の気持を伝えたのはあの勇猛果敢な「極東青年会」のイェジ・ストシャウコフスキ元会長でした。松本さんが同伴する形で、1983(昭和58)年に念願だった日本再訪が叶ったのです。ベルリンの壁がまだあった東西冷戦時代、東側(ポーランドなど旧東欧)諸国の国民が西側(日本や米国、西欧諸国など)へ渡ることは容易ではありませんでした。物価など金銭面でも、相当な隔たりがあった時代の話です。  シベリア元孤児たちは、収入を得るようになるとその一部を貯金に回していました。それは憧れの日本の地を再び踏むための〝夢貯金″でした。しかし戦火を潜り抜け生き残っても、戦後は自由と民主なき社会主義国家の国民になったことで、彼らの夢は無残にも断ち切られてしまったのです。  日本赤十字社の本社と赤十字社大阪府支部へ訪れたイェジ元会長は心からの謝意を伝え、60数年前の日誌をめくり、当時の写真を食い入るように見つめ、「日本人は子どもをとても大切にすると思いました」などと語っています。大阪市立大学医学部附属病院となり、すでに当時の面影はほぼなくなっていたのですが、病院の裏側の庭園を歩きながら過去の景色を探し当てた際には、ひどく興奮して喜んだそうです。  1985年には、松本氏のワルシャワのアパートで同窓会を開いています。全国各地から30名ほどの元孤児たちが参集し、日本滞在中に流行ったお辞儀を繰り返したり、亡くなった仲間の話に涙したり、「君が代」を全員で歌ったり、40年ぶりの涙と笑いの再会を果たしたそうです。 壊れた街を一時離れ、心の安定を取り戻してほしい  1995(平成7)年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生しました。マグニチュード7.3、戦後初となる大都市直下型地震により、兵庫県南部の神戸市を中心に死者6425名、不明2名、負傷者4万名以上となり、住宅全半壊が20万棟以上、住宅全半焼7000棟以上、道路や鉄道などの交通網やライフラインが寸断された他、港湾施設も破壊され、臨海部では大規模な地盤の液状化現象が観測されるなど、日本のみならず世界中に衝撃を与えました。  「シベリア孤児と同じように、震災で両親を失い、悲惨な目にあった被災児たちを、ポーランドに招いて慰める事はできないか」  こう考えたポーランド駐日大使館のスワフ・フィリペック参事官が先頭に立って、「日本・ポーランド親善委員会」を立ち上げました。震災の年の7月と8月、翌1996年の7月と8月の2度にわたり、計50人の小・中学生の被災児たちがポーランドに招待されました。  この招待は、「壊れた街を一時離れ、心の安定を取り戻してほしい」と、大震災で傷ついた子どもたちの心を癒すことを目的に、ポーランド各地の自治体の協力も得て、交流やホームステイが行なわれました。反響は大きく、企業や資産家、芸術家をはじめ個人からも寄付や協力の申し出が相次いだそうです。  夏休みをポーランドで過ごす被災児のお世話をしていたポーランドの婦人が、被災児の1人の男の子が片時もリュックを背中から離さないことを不思議に感じ、日本側に尋ねたところ、「震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし家も丸焼けになってしまったので、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックに詰めて、片時も手放さないのです」と聞き、「不憫で涙が止まらなかった」という逸話も両国で伝えられています。戦争という人的災害、震災という自然災害。家族を失い家を失い故郷が破壊されたその理由は異なりますが、魂で響き合う痛みがあってこその涙だったのではないでしょうか。  ワルシャワ郊外で開かれたお別れパーティの場では、被災児たちは4人の元シベリア孤児とも対面しています。元シベリア孤児を代表して挨拶したのは、兄弟で救出された男性でした。  「私と弟の人生は、75年前に日本の皆さんに助けられて授かったものです。いつか恩返しがしたいとずっと考えてきました。皆さんの身に起こった不幸を思うと、慰める言葉も見つかりませんが、私たちは日本人から受けた親切を、ずっと宝物のように思って生きてきました。弟も同じ気持ちでしたが、その弟はつい2日前に亡くなりました。彼もきっとここで、皆さんに自分の体験をお話ししたかったろうと思います」と語ったそうです。  10年後の2005年8月、ポーランド国立物理化学研究所の教授となっていた元参事官のスワフ・フィリペック博士の提案により、「心から心へ」というテーマで阪神大震災被災児童写真展をワルシャワにて開催、成長した被災児たちが再び招待され旧交を温めています。 日本人から受けた親切を〝宝物″として生きてきた  兵頭長雄元大使(1936~)が『善意の架け橋』(文藝春秋)に綴っておられる内容などから、1995年10月、ワルシャワの日本大使公邸に元孤児8人が招待された時の様子をご紹介しましょう。 「ようこそお越しくださいました。国際法という法律では、日本大使館と大使公邸は小さな日本の領土と考えてよい場所です。ここに皆さんをお迎えできたことを、本当に嬉しく思います」  兵頭大使はこう挨拶をされました。1993年からワルシャワに赴任していた兵頭大使は、「初対面でも、こちらが日本人だと分かった途端に親近感を表わし好意的になる」という体験を何度もしており、「なぜ日本人に親切なのか」「どうしてこんなに親日的なのか」と思うことが多かったそうです。大使が「シベリア孤児の話を聞かせてほしい」と松本氏へ依頼したことで、再び縁が深まったのでした。 「ああ、私たちは日本の領土に戻ったんだ」  80歳を過ぎた元孤児たちは大使公邸で感激し、その場所にひざまずき泣き崩れました。 「私は生きている間にもう1度、日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかし、もうそれは叶えられません。ですから大使から公邸にお招きいただけると聞いた時、這ってでも伺いたいと思いました。だってここは小さな日本の領土なのですから。今日ここで日本の方に、私の長年の感謝の気持ちをお伝え出来れば、もう何も思い残すことはありません。本当にありがとうございました」  1人の老婦人が声を振り絞るように、こう語り出したそうです。  それにしても、元シベリア孤児の脳裏にはカラフルな〝日本″が詰まっていました。兵頭大使が驚くほど、日本の印象を具体的に語ってくれたのでした。  真夏に汽車に乗ると、大人の男性が車内に入るやすぐにズボンを脱ぎ出し、ステテコ姿やふんどし姿になって驚いたこと、男の子がたらいで行水しているのをのぞき見したこと、支給された浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって大喜びしたこと、特別に痩せていたので心配した日本の医師から毎日一錠飲むようにと瓶入りの栄養剤をもらったけれど、それが美味しかったので、仲間に一晩で全て食べられて悔しかったこと、帰国の際の船内で、日本人船長が毎晩、巡回して毛布を首まで掛けてくれたこと、お腹いっぱいに食事を取ることができた嬉しさ、そして多くの日本人から親のような温かな思いやりを受けた喜びなど。  また、ある老婦人は、戦争の最中ですら肌身離さず持っていた一生の宝物を兵頭大使に見せたそうです。それは、当時の日本の庶民生活のスナップや京都や奈良など名所旧跡を写した風景写真のコレクションでした。日露戦争で捕虜となり日本に滞在した彼女の叔父が持っていたもので、同じく日本のことを忘れられないでいた姪への形見にとっていたのでした。日露戦争でロシア軍兵士として徴兵され、早々に投降して松山などの捕虜収容所で過ごした人たちの中に、シベリア孤児の父親や親戚は少なからずいたのでしょう。  別の老婦人は、見知らぬ日本人から貰ったという扇子を持参していました。  さらに別の老婦人は、離日時に日本から送られた布地の帽子を持参していました。  長い年月を経てボロボロになっていましたが、大阪カトリック司教団が孤児に送った聖母マリア像のカードもありました。兵頭大使は、戦時下にも持っていたという孤児たちの集合写真をその時、元孤児の1人から贈られています。 「日本は天国のようなところでした」

今上天皇皇后陛下の通訳もされた、『日本・ポーランド関係史』著者であり、ワルシャワ大学東洋学部日本学科長のエヴァ・パワシュ=ルトコフスカ教授(著者撮影)

 2002(平成14)年7月、中東欧を公式訪問されていた最中の天皇皇后陛下は、7月12日、ワルシャワの日本大使公邸で催されたレセプションで、元シベリア孤児の3人と対面されています。美智子皇后は、足元がおぼつかない老齢の3人に座るよう促され、腰を落として1人ひとりの手を取り、いたわりのお言葉をかけられました。  その1人は、現役時代は獣医を務めたヴァツワフィ・ダニレヴィチ氏(1910~2003)。イェジ氏とは腹蔵なく話し合った仲で、第二次世界大戦ではレジスタンス活動にも従事しています。もう1人は、大正時代の東京で節子皇后に拝謁しているハリーナ・ノヴェツカ女史(1910~2003)。時を隔て、美智子皇后とも拝謁が叶った稀有なポーランド人です。そしてもう1人は、戦時下でも自身の命を顧みず、ユダヤ人の子どもをナチス・ドイツの迫害から匿ったことで戦後、イスラエル政府から杉原千畝と同様の「諸国民の中の正義の人賞」を授与された前出のアントニナ・リロ女史。3名共に、「極東青年会」で積極的に活動したメンバーで、3人の年齢は紹介順に当時、91歳、92歳、86歳になっていました。  元孤児たちは「感謝で胸が一杯です」「日本の援助のお陰で生きています」「自分たちを救い出してくれた、美しくて優しい国、日本に是非とも御礼を言いたかった」「いつか恩返しがしたいと思って生きてきた」などと万感の思いで語っています。元シベリア孤児として最後の1人となったリロ女史も、「日本は天国のようなところでした」という言葉を遺し、2006年7月にワルシャワで90歳の生涯を閉じました。  生き証人は、もう誰もいなくなりました……。でも日ポ両国は、その瞬間とその後の〝想い″まで含め、史実を丁寧に残し継承していくことができる関係だと信じています。

(終)  ご愛読ありがとうございました。本連載を収録した単行本が小社より近日刊行予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。