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  • 第2回 日本とトルコの〝命の絆〟(中編) 2014年10月1日更新
 オスマン帝国からの初の使者として、日本との親善の大役を終えて帰還する一行を乗せた軍艦エルトゥールル号は、紀伊半島先端に位置する和歌山県東牟婁郡大島村(当時)の、樫野崎沖40メートル周辺を航海中に、台風による強風と高波の中で座礁。一夜にしてオスマン・パシャ(海軍少将)を含む、587名が亡くなる大海難事故となりました。1890(明治23)年9月16日夜のことです。
 その直後から、紀伊大島の村民をはじめとする献身的な救援活動が始まり、日本赤十字社による平時において初の国際救援看護も行なわれ、新聞各紙の大々的な報道により多くの国民が同情し、関心を寄せ、義援金・弔慰金の活動が盛り上がりました。
 大海難事故から約3週間後の10月5日、エルトゥールル号の生存者69名は「比叡」「金剛」の2隻の軍艦に乗り、イスタンブルを目指しました。なお、当時の地名はコンスタンティノープル(漢字では「君士但丁堡」と表記)でした。


悲劇によって始まった日本とトルコの交流史
 アメリカの黒船艦隊が1853(嘉永6)年、1854(嘉永7)年と2度にわたり日本へ来航し、日米和親条約が締結されました。江戸時代末期、孝明天皇の時代です。この時に、ペリー提督は日本人について以下のような印象を残しています。
 「彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた」
 「日本人の並外れた好奇心には驚かされる」
 「読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心だった」などなど。
 明治初期になると、成人の識字率は男子が50~60%、女子が30%前後だったと推測されています。教育の機会均等は約束されておらず男女差、地域格差共に大きかったようですが、ただ、世界一の大国であるイギリスの識字率が当時20%ほどとされ、日本が世界の中でも大変に読み書きの普及した国だったことは間違いありません。
 そのため、前編にも記したように『郵便報知新聞』『東京朝日新聞』『やまと新聞』『読売新聞』『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』など、東京や大阪に拠点を置く新聞、地方紙、横浜・神戸の外国語新聞などすでに新聞社が群雄割拠しており、情報を得る重要な手立てになっていました。また、江戸時代以前から伝わっていた多色刷りの錦絵をはじめとした視覚メディアも、依然として力を発揮していました。
 しかも、1889(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が発布されたことで、新聞各紙が号外を出すなど速報競争を経験し、電信情報による速報合戦が日常化しつつありました。そのため、翌年1890(明治23)年9月16日夜に起きた軍艦エルトゥールル号の海難事故についても、新聞各紙は報道合戦を繰り広げることとなりました。
 『神戸又新(ゆうしん)日報』、そして『東京日日新聞』『大阪朝日新聞』が9月19日に号外を出しています。神戸でまず知れ渡ることになったのは、海難事故の詳細を兵庫県知事に報告するため、大島港から熱田共立汽船の防長丸(渋谷梅吉船長)に乗船したエルトゥールル号の楽長イスマイル・エフェンディと写真担当のハイダル・エフェンディ、この2人の元気な士官の行動力がありました。
 新聞各紙は、その後の救護活動も含めた報道を大々的に展開していきますが、文章のみならず死去したオスマン・パシャの遺影の絵を掲載したり、遭難現場の簡略地図を掲載したりと工夫もこらされました。
 オスマン帝国の一行が横浜へ初来航した6月7日から3カ月余り、新聞各紙がその消息を大きく取り上げることはありませんでした。ところが皮肉なことに「587名が亡くなる大海難事故」という悲劇によって、日本とオスマン帝国との交流史として両国の歴史と人々の心に深く長く刻まれることとなったのです。

義援金の最低金額は10銭だった
 新聞社は、こぞってエルトゥールル号の避難者や遺族のための義援金募集の広告を掲載しました。その中の一紙、『神戸又新日報』の義援金募集広告を原文のまま以下に記します。
 
 去十六日の凶事は實に言ふに忍びざるものあり就中(なかんずく)土耳其軍艦沈没の一事は惨の又惨、怛(たん)の又怛なるものなり世人知る如く同軍艦は皇族を使節とし始めて慇懃(いんぎん)に通じ越したるものなれば国交際の上に於ても宜しく相當懇待(こんたい)の意を表すべし故に本社は他に率先して義捐金を募集し一半は死者祭祀料一半は生存者見舞金に贈り東洋の日本は義に富み情に厚き國なり民たることを知らしめんとす望むらくは江湖(こうこ 世の中、民間)諸君の續々應募し本社をしてその志を空うせしめざらんことをその取扱手續は左の如し
  一、義捐金は一人十銭以上とす
  一、義捐金は現金若くは為替を以て本社に寄せらるべし
     但し為替は神戸郵便電信局宛に振り込まれたし
  一、本社義捐金を受け取りたる時は翌日の神戸又新日報紙上に
     金高と姓名とを掲げて以て受領の證に代ふ
  一、義捐〆切り期限は十月十日限りとす
  一、義捐金は纏まり次第之れを適當と思考する官廰に依頼して
     配與を乞ふべし
 
 天災が多い日本は、江戸時代から瓦版による災害報道が人々の関心事の1つで、新聞が創刊された明治時代以降は、それに伴う義援金募集活動も日常化されていたようです。そのような中、エルトゥールル号の海難事故を発端とする義援金活動は外国人災害被害者を対象に日本初の、なおかつ全国規模の本格的な活動となったのです。
 『神戸又新日報』は国民に、「日本が義理と人情に厚い国であり国民であることを、知ってもらおう」と呼びかけており、国威発揚の大義もあったことが分かります。義援金の最低金額10銭(0.1円)はきつねうどん10杯ほど、つまり軽食10回分に相当する価値があったようですが、『東京日日新聞』などでも、義援金の最低金額は10銭以上と記されていました。
 また、新聞の論説や社説といったものが明治中期、すでに日本の世論を形成するほどの力を発揮していたようです。表題の一部を紹介しましょう。『東京日日新聞』社説の「同情相愍(あいあわれ)む」「不幸なる生存者を如何すべき」、『国民新聞』社説の「特使、軍艦を土國(トルコ)に派遣すべし」、『毎日新聞』社説の「土耳古(トルコ)遭難者は宜しく日本軍艦にて送り届くべし」、『時事新報』社説の「土耳古に使節を遣(つかわし)て条約を締結すべし」など9月20日より、次々と紙面を飾っていきました。
 
見舞い品になったタバコ
 日本赤十字看護大学(看護歴史研究室)のサイトには、9月19日の深夜1時30分に石井忠亮和歌山県知事が海軍省と内務省に発した電報、ほぼ同時刻の2時5分に林菫兵庫県知事が宮内省・内務省に発した電報により、政府はこの大惨事を知ったと記されています。そして同日の午後、明治天皇の臨御のもとに内閣会議が開かれ、各省の対応が協議されました。 
 宮内省はただちに官吏と式部官、侍医、侍医医局医員、侍医局薬丁(薬剤師)の現地派遣を決め、日本赤十字社に対して医員と看護婦の派遣を依頼しました。エルトゥールル号の海難事故が起きるまでは戦時救護を事業としていた日本赤十字社が、医員、看護婦の派遣を決め、外務省も交際官試補の派遣を決めました。
 海軍省も同日、紀伊大島へ軍艦「八重山」を派遣することを決めました。「八重山」は同年3月に落成した最速の新鋭艦でしたが運悪く修理中で、すぐに出航できませんでした。そのため神戸にたまたま停泊していたドイツ軍艦ウォルフ号と交渉し、兵庫県庁外務課の長野桂太郎が乗り込んで紀伊大島の樫野地区へ向かい、エルトゥールル号の生存者を神戸へ移送することになったのです。移送に際しての交渉にあたったのは、和歌山県東牟婁郡の郡長、赤城維羊でした。
 21日早朝に神戸へ到着し、水上警察の小蒸気船で和田岬に上陸したエルトゥールル号の生存者は、まず好物のタバコを1人3本ずつ喫したそうです。そして洋食のランチを取りました。和田岬消毒所(現神戸検疫所)が仮病院となり、宮内省から侍医2名、薬丁1名、日本赤十字社から医員2名、看護婦2名の体制による診療が正午から始まり、日付が変わる頃、ようやく一通りの鑑別治療が終わりました。
 診断の結果は、大腿手掌の失肉や臀部打撲性挫創などの重傷患者が13名、打撲や擦過傷など軽傷が38名、健康者18名でした。生存者の年齢は大半が20代で最年少は20歳、最高齢は45歳の士官1名でした。翌日より仮病院の1階を重傷者、軽傷者、健康者の部屋に分け、2階を士官の部屋とし、士官と下士官らが別の部屋で生活できるよう遇しました。 
 英語を理解するのは1、2名の士官だけで、言葉も通じず文化も違うことから当初、双方に戸惑いや齟齬もありました。診察や手術の際、苦痛から号泣、抵抗、拒否して医員、看護婦を叩く者がいたり、疲労回復と英気を養うために酒を与えたところ、1滴も口にせず皆が同じように投げ捨てたそうです。オスマン帝国はアナトリア(小アジア)の小君侯国から発展したイスラム国家ですが、西アジア、バルカン、北アフリカなどへ勢力を拡大させた多民族多宗教国家です。人前で酔っ払うことは禁じられていましたが、その頃の食文化について、「アルコールは半ば公然と飲まれており、その証拠に酒のツマミ、前菜が充実していた」との記述もあり、アルコール拒否の態度を強く示したのは士官らが敬虔なイスラム教徒(ムスリム)で、しかも海難事故が起きた直後で喪に服する意味もあったのかもしれませんが、理由は定かでありません。また、イスラム教徒は通常、1日に5度の礼拝をしますが、彼らがどうしていたのか、それについての記述は見あたりません。
 日本赤十字社の医員の1人は、「使節を失い、又数多の朋友を失い己れ自らすら萬死の中に命は助かりたれども負傷の爲め身体自由ならず只茫然たるさま見るさへ気の毒に思はれる」と、同情の気持ちを記しています。
 ルーマニア人のA・レヴニーが通訳に加わって以来、意思疎通が徐々に図れるようになったこともあり治療がスムーズとなり、心身共に虚脱し消沈していた生存者たちも一歩ずつですが元気を回復していったようです。日本赤十字社の佐野常民社長は、助力を申し出てきた開業医に関する許可も取り計らいました。
 皇后陛下からは人数分の肌衣が、1887(明治20)年にオスマン帝国を訪問してアブデュル・ハミト2世と面会した小松宮彰仁親王からはビスケットやブドウが下賜され、日本全国からも様々な見舞い品が届きました。目立ったのは、タバコでした。新聞各紙が「オスマン人はタバコ好き」と報じたからでした。明治中期の日本において、紙巻タバコが徐々に浸透しつつあったようですが、その先駆けとなったブランド「天狗煙草」だったかもしれません。
 日に日に元気を取り戻していく中で、軽傷者たちは日本の風呂文化をとても好み、1日に何度も入浴する者がいたり、チェスなのか「将棋のような」ゲームに興じたり、高下駄を履きこなして仮病院の周辺を散歩したりして過ごしていたそうです。
 神戸の仮病院において、69名の食事は3食すべて西洋食だったと記されています。イスラム教徒は豚肉を一切口にしませんし、騎馬民族は肉食ですから魚も常食とは言えません。中央アジアで紀元前から食べていたとされるヨーグルト、トルコ料理に欠かせないレンズ豆などもメニューにあったのでしょうか? 宮内省が食事のために組んだ予算は、かなりの金額だったようです。とすると羊肉や鶏肉、神戸牛を使ったステーキやケバブ(肉の串焼き)、キョフテ(肉団子)、ドルマ(詰め物)などが〝おもてなしレシピ″として振る舞われていたかもしれません。
 いずれにしても、日本人より相当に大きな男たちの食べっぷりや食習慣に、先人たちは少なからず驚いたことと想像します。

『時事新報』の若手記者が特派員として選ばれた
 新聞社の中では後発組の1紙に、福沢諭吉の門下生を主要スタッフに揃えた『時事新報』がありました。1882(明治15)年3月に創刊され、それからの3年間で発行部数が1日約7000部にまで急増し、1890(明治23)年当時は1日約1万2千750部を発行、インテリ層が対象の新聞としてはトップクラスへと成長していました。
 その『時事新報』の9月24日の社説、「重ねて土耳古遭難者の送還に付き」が世論形成においての決定打となり、他5紙の『郵便報知新聞』『東京朝日新聞』『読売新聞』『日本』『国民新聞』が同じ論陣に傾き、日本軍艦による生存者送還を求める動きに拍車がかかったとされています。
 軍艦「八重山」が出遅れたことに国民は少なからぬ遺憾の意を示しており、そのような中で、ロシア公使がロシア船による生存者の本国送還を申し出て、外務省が応じる姿勢を見せていたことへの批判も込められていました。なにせ、日本の近海で起きた大災難です。悲劇の渦中にいる異人たちを祖国へきちんと送り届けるべきという、日本人らしい感情論が混在する責任論で盛り上がったのでしょう。
 義援金活動でも、『時事新報』は4248円97銭6厘という他紙を圧倒する莫大なお金を集めました。現在の価値で換算すると8500万円ほどです。しかも同紙は他社のように義援金の処理を官庁に委ねることなく、横浜正金銀行においてフランスの法定貨幣1万8907フラン94サンチーム金額の為替にして、オスマン帝国に記者を派遣して手渡すことにしたのです。
 この画期的な試みに際して、大役を射止めたのが野田正太郎(のだ・しょうたろう)でした。青森県陸奥国三戸郡八戸町(現在の青森県八戸市番町)にて1868(明治元)年に生まれ、慶應義塾で経済学、英学、論理学などを習得し、卒業して間もない駆け出しの記者だった野田こそが、エルトゥールル号の海難事故をきっかけに〝イスラム世界へ派遣された日本人初の駐在記者″となった人物です。

トルコ親善に尽くした『時事新報』記者、野田正太郎(串本町提供)

 慶應義塾卒の前途有望かつ頭脳明晰な記者たちが揃う中、なぜ野田が選ばれたのでしょう? その経緯は定かでなく、自ら挙手したのかもしれませんが、おそらく独身で若く健康で積極的で英語の心得もあったからではないかと想像します。というのも日本にとって〝未知なる世界″のオスマン帝国を取材し『時事新報』が独占的な記事を掲載することが、野田のもう一つの使命でもあったためです。航海中から野田は「日本軍艦土耳其航海紀事」を書き始め、寄港先より東京へ郵送していました。インターネットは勿論のこと、一般人が使えるような国際電話もファックスもない時代です。随分と〝時差がある″記事だったと推測できます。  それにしても、日本政府はなぜ「比叡(艦長:田中綱常大佐 後の海軍少将)」「金剛(艦長:日高壮之丞大佐 後の海軍大将)」の軍艦2隻を派遣したのでしょう? 新聞の社説による世論の盛り上がりが強烈に後押ししたとはいえ、財政難にもかかわらず、2隻の軍艦派遣を主張した海軍省が政府の予備金から莫大な予算を獲得できたのは、生存者送還とともに練習航海の実施を兼ねていたからでした。9月26日に明治天皇の直裁を得て、決定しました。  将来の士官候補生たる海軍兵学校第17期生88名が乗り組んだ「第14回練習航海」は、初めて日本人だけの操船によって、日本からオスマン帝国まで赴くことで、海軍が習得していた技術を国内外問わず広く実証してみせることになりました。日本は欧州の列強国との不平等条約の改正のためにもまた、立憲君主国へと移行する"新生ジャパン"を世界に知らしめたい時期でもあったのです。  「比叡」には、司馬遼太郎の長編歴史小説『坂の上の雲』(文藝春秋 1969年)の主人公の1人、秋山真之も乗船していました。海軍兵学校17期生の首席卒業者(当時は7月が卒業式)の秋山らは、少尉候補生として「比叡」に乗艦し、実地演習を重ねていました。秋山は日露戦争で東郷平八郎のもとで連合艦隊の作戦立案で中心的な役割を果たし、1905(明治38)年5月27日、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、日露戦争の勝利に貢献しました。海戦前に発せられた有名な電文、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の起草者でもあります。  エルトゥールル号の生存者69名は、「比叡」に4名の士官を含む34名(重患4名を含む13名が患者)、「金剛」に3名の士官を含む35名(重患4名を含む16名が患者)に乗船しました。士官や重症患者をほぼ均等に分乗させたのも、第14回練習航海の訓練と何らかの絡みがあったのではと推測します。人道的な配慮のためだけに、国家予算を大量に投下できないのは過去も現在も同じ、致し方ないことなのでしょう。   コロンボ留学中の日本人僧侶も同乗  「比叡」「金剛」が日本を出航してイスタンブル(当時のコンスタンティノープル)へ到着するまでの3カ月、その時から数年の野田の動向については、「1890~93年における『時事新報』に掲載されたオスマン朝関連記事」をはじめとする三沢伸生・東洋大学社会学部教授の論文、報告書の内容を中心にまとめていくことにします。  1890(明治23)年10月5日に品川を出航した「比叡」「金剛」は、7日に横須賀を出航し、神戸和田岬の療養所から生存者69名を収容し、長崎に寄港して日本を出発しました。『時事新報』記者の野田は、「比叡」に乗船しました。肝心要の義援金の為替証書は、前年に東京と神戸間で開通したばかりの東海道線で追いかけてきた同僚の今泉秀太郎より、神戸で受け取っています。まさに間一髪の、受け渡し成功劇でした。同紙は義援金の募集期限を当初10月10日と告知していましたが、「比叡」「金剛」の出発が近いことから、10月3日で急きょ締切り(とはいえ謝絶できず結果、8日まで受付けた)、バタバタと準備を進めてきたようです。  また、野田の乗船は公式ルートでなく、「比叡」の田中艦長に直談判する形で実現したとの説があります。社主もしくは然るべき部署から海軍省に申請のための書類が提出され、検討会議が開かれ可否が決まり、手続きを行なうのが公式ルートだとすれば、社命とはいえかなり無謀でドサクサな海外派遣だったようです。今日でもパスポート発行の手続きに1週間は要しますが、当時は一体どうなっていたのでしょう? 色々とかんがみても、海軍省を擁護し軍艦派遣を後押しする社説を展開して世論形成に努めた『時事新報』と、関係省庁の幹部が裏で手打ちをした可能性はありそうです。  野田はなかなか機転がきく、やり手であることが分かります。「比叡」が神戸から長崎まで移動する間に、同乗者の1人、士官で三等イマーム職のアリー・エフェンディに、自分の名前と『時事新報』記者の肩書きをアラビア文字で表記してもらい、これを長崎の寄港中に時事新報社傘下の長崎新報社に依頼して50枚の名刺を刷っています。  航海中、野田は「比叡」に割り振られた士官らと懇意にしていたようで、トルコ語の習得も始めていました。イスタンブルに到着するまでに、「比叡」「金剛」は香港、シンガポール、コロンボ、アデン、スエズなどへ寄港しました。野田は領事館職員や三井物産の香港支社長(福原栄太郎 後の三井物産社長)、雑貨店経営者、墨画師、呉服商など、寄港地においての日本人との交流記録も残しました。明治中期、海外にはすでに多くの日本人が様々な分野で活躍していたことが分かります。  イギリス領のセイロン(現スリランカ)の南西海岸沿い、インド洋に面したコロンボに渡り仏教学校で修学していた日本人僧侶もいました。釋奥然(しゃく・こうぜん)(東京目白新長谷寺徒弟)、善連法彦(越前仏光寺派)、東直譲(肥後西本願寺派)、小泉了諦(越前誠照寺派)、浅倉了照(越前東本願寺派)、川上貞信(肥後西本願寺派)、徳澤知恵蔵(西本願寺派)です。そしてコロンボの港に寄港中、「比叡」では善連と川上が、「金剛」では小泉と浅倉が、それぞれ法話を披露しました。さらに善連と小泉はオスマン帝国でイスラム教を視察するため、それぞれ「比叡」「金剛」に同乗してイスタンブルへ赴きました。  上陸後に両名は一行と別れ、マルセイユ、パリ、ロンドン、オックスフォードまで足をのばし、再度パリへ戻り、フランス大統領カルノをはじめとする400名が集う法会を1891(明治24)年2月21日に開催し、日本でも初の欧州伝道として話題になったそうです。  修学中の僧侶というより、なんだか開拓者であり〝冒険家″のようです。ちなみに奥山直司・高野山大学文学部教授がこの分野、「インド・チベット密教史、仏教文化史」の研究においての第一人者です。   2隻は「陸が黒くなるほど」の群衆に囲まれた  日本とイエメン(ウィラヤト・アル・イエメン)の初めての接触も、その時にまで遡ります。「比叡」「金剛」が11月27日にイエメン領ソコトラ島を見ながら、28日にアデン湾へ入りました。イエメンは当時オスマン帝国の一部でしたが、1869(明治2)年11月16日にスエズ運河が開通し、アデンはイギリスの戦略的な要衝となり占領されたのですが、オスマン朝はそれを認めていませんでした。

「比叡」「金剛」は紅海、スエズ運河を通ってイスタンブルへ向かった

 『時事新報』の野田は、アデンの印象を「山々が赤く、砂が白く、土地は乾燥し、草の背が低い」と視覚的に記し、「高くそびえるゲート上にある砲座、まるで眠っているかのようにとてもゆっくりと歩き回っているラクダ」「とても肌の色が黒い住民が、とても白い羊の番をしている」などと対比した情景を簡潔な文章で綴っています。  日本の国旗をつけた「比叡」「金剛」の2隻の軍艦が、エルトゥールル号の生存者をイスタンブルへ送り届ける途中であることを知ったアデンの住民は、大変に驚いたそうです。そして船が停泊していた周辺に、「陸が黒くなるほど」の群衆が集まったのです。  街では、エルトゥールル号の生存者らとアデンの住民たちが、タバコを吸い、コーヒーを飲んだりしました。野田は、その様子について「母国が近い事を知って、喜んで心の底から大きな声で笑っている彼らを見ると、特に嬉しく思います」と記しています。  彼らは、モカコーヒーを堪能していたのでしょう。はるか昔からイエメンとエチオピアで産出されたコーヒーは、イエメンの南西岸、紅海に面する小さなモカ港で船積みされていましたが、19世紀中頃に土砂が堆積したことで港が閉鎖され、その後は南岸のアデンがモカコーヒーの主な輸出港となっていました。モカは品種でなく地名が由来です。  さらに野田は、日本海軍のアデンでの様子についても以下のように記しています。 「白ずくめの服装をした日本人船員のグループは、あらゆる店に入っています。彼らはダチョウの羽、巨大な卵など、あらゆる種類の普通ではない物品を発見しています。入る店では、たくさんの陶磁器、人形、武具のヘルメット、印刷写真を見せられるでしょう。ホテルの壁には、日本の風景画が掛けられています。美しい日本人女性の切抜きの絵があるスクラップブックさえあります。そのような独特な発想に出くわして、私は少々驚きました」  また、世界最古の日刊新聞とされる『ロンドン・タイムズ』紙の12月1日版には、「エルトゥールル号の69名の生存者を帰還させる任務で、2隻の日本軍艦が先月30日、アデンに入港した」と報じられました。   イスタンブル総理府古文書総局オスマン文書館に所蔵される書簡  1891(明治24)年1月2日、「比叡」「金剛」の2隻の軍艦は無事、イスタンブルに入港しました。オスマン帝国の当時の主要日刊紙『テルジュマヌ・ハキーカート』『サバフ』はもちろん、英字紙の『レバント・ヘラルド』『オリエンタル・アドヴァタイザー』、仏語紙の『トゥルキエ』なども、大々的に報じました。  エルトゥールル号の日本での大海難事故と、紀伊大島の村民を中心とする救援活動や日本全国に及んだ募金活動は、オスマン帝国において大きな衝撃を呼ぶと同時に、日本に対する好印象を与えることになりました。台風シーズンの中で帰国を急かしたこと、老朽艦だったことなど、大海難事故につながった要因は複合的だったと考えられますが、オスマン帝国のスルタン、アブデュル・ハミト2世のもと、「天災による殉難」と位置付けられたようです。  「比叡」「金剛」の両艦長らは、1月5日にユルドゥズ宮殿においてアブデュル・ハミト2世と謁見し、晩餐会に出席するなど公式行事をこなしていきました。一方、野田は1月6日に海軍省へ赴き、海軍大臣ハサン・パシャと面会し義援金の経緯を説明し、次いで遺族救済委員会委員長ルザー・ハサン・パシャに社主の伊藤欽亮(きんすけ)署名入りの書簡(英文手書き6枚と和文7枚)と義援金の為替証書を手渡す大役を果たしました。  この日の海軍省は黒山の人だかりとなり、翌日1月7日、イスタンブルの新聞各紙が義援金の受け渡しに関する報道を大々的に行ないました。  野田は日本海軍一行と異なり、駆け出しの記者であることから、公式行事などに縛られることなく自由に動いていたようです。カタコトでしょうけれど、オスマン語を操れるようにはなっていた野田は、現地の新聞がこの一連の出来事をどう報じているかに気を配っていたとされ、同業の新聞記者と交流する努力も怠りませんでした。その中には知識人としても著名な2人の記者、『テルジュマヌ・ハキーカート』紙に所属するアフメト・ミトハト・エフェンディ、『ミザン』誌に所属するムラト・ベイもいました。そのため「比叡」「金剛」の詳細な動向と田中艦長・日高艦長と並び、野田はイスタンブルの新聞や雑誌、英字紙・仏字紙に露出する〝時の人″になったのです。  遺族救済委員会委員長ルザー・ハサン・パシャの受領証や書状、社主の伊藤欽亮に宛てた外務大臣サーイト・パシャ(為替証書の受取人にしていた)の書状などの日本語訳が、後日、『時事新報』で報じられ、義援金の処理がきちんと行なわれたことも伝わりました。『大阪朝日新聞』などが、野田の「君士但丁堡(コンスタンティノープル)の記」に追随した内容を報じたりしましたが、「比叡」「金剛」の出航後はそれまでの過熱報道が一気に冷め、鎮静化してしまいました。リアルタイムに海外を伝える手段も無い当時のこと、新聞記者もまたルーティンに戻ってしまったのでしょう。  一方、その時代のオスマン帝国において、エルトゥールル号の海難事故の顛末で、どれほどの人々が日本と日本人を認知したのかは定かでありません。遺族以外、士官はじめイスタンブル在住の知識層が中心だったのではと想像します。新聞が報道したとはいえ、識字率はトルコ共和国の建国時の1923(大正12)年でも18%前後だったのです。とはいえイスタンブルの英字紙や仏語紙の他、『ロンドン・タイムズ』などイギリスのクオリティペーパーが報じたこと、何よりも1世紀以上続くトルコの人々による伝承、日本とトルコの関係者らによる心温まる交流、そして専門家による調査研究が、海難事故を風化させるどころか〝命の絆″を深めていく結果につながったのです。  時事通信社の社主による英文手書き6枚と和文7枚の書簡は、現在もイスタンブル総理府古文書総局オスマン文書館に所蔵されています。 オスマン帝国の〝日本人初の駐在記者″  慌ただしく「比叡」に乗り込みオスマン帝国へ入国した野田ですが、意図せずしてそれから約2年間、イスタンブルに留まることになりました。アブデュル・ハミト2世は早々より、「比叡」「金剛」で訪れた日本人の中から、オスマン通の人材育成への意向を示しています。1891(明治24)年1月5日、田中艦長と日高艦長はじめ数名の士官をユルドゥズ宮殿の晩餐会に招いた際、「トルコ語の習得並びにオスマン帝国の事情に精通させたいので、適当な士官を残留させてほしい」と打診をしてきたのです。

オスマン帝国第34代皇帝アブデュル・ハミト2世

 その後も、両艦長に「今回の乗員から残留させるのが不可能であるならば、両艦の帰国後に適当な士官を派遣してほしい」と要請するなど引き下がらなかったようです。通訳を務めた海軍兵学校17期卒の坂本一(後の海軍中将)の回想によると、2月8日の宴においてアブデュル・ハミト2世からの直々の要請を両艦長が再び謝絶しており、代わりに野田が推挙されたのでした。ちなみに坂本も同期で首席卒業の秋山と同様、『坂の上の雲』に登場しています。  野田も想定外の展開に最初は固辞したようですが、アブデュル・ハミト2世の命を受けた陸軍大学校長のゼキ・パシャ(中将)らの説得により承諾し、「比叡」での帰国をやめることにしました。この回答に対して、アブデュル・ハミト2世は30ポンドの慰労金を下賜しました。時事新報社はおそらく、事後報告にて野田の決意を認めたと考えられます。  オスマン帝国に留まった野田はまず、陸軍大尉レジェブ・エフェンディと海軍少尉サブリ・エフェンディに日本語を教えながら、2人からはオスマン語を習得することになりました。陸軍大学校では一時、7名の陸軍士官に日本語を教えていました。ただ、日本語教材の入手が現地では困難だったことから、野田は時事新報社の同僚で前出の今泉秀太郎に小学生向けの図書や墨・硯・筆などの筆記具を求め、教え子の士官に今泉宛の御礼の手紙を書かせたそうです。  野田はオスマン帝国への理解を徐々に深めながら、『時事新報』のイスタンブル駐在記者として、残留の経緯に始まり、「土耳其通信」を不定期に発表していきます。並行して、オスマン帝国の士官による日本語の手紙を欧州の日本公館へ送付したり、在ベルリンで日本語教育に携わっていた日本人講師と書簡をやり取りするなど海外ネットワークも広げ、折々でそういったことを紙面で紹介していました。イスタンブルを訪れた日本人への協力も、惜しみませんでした。  さらにどういった経緯からか、野田は1891(明治24)年6月にイスラム教徒に改宗し、アブデュル・ハリムという名を得ました。〝日本人初の駐在記者″であるのみならず、〝日本人初のイスラム教徒(ムスリム)″になったのです。改宗が、野田の名前を現地でさらに広めることにつながったとされています。  日本人のムスリム第1号については、フランシスコ・ザビエルら宣教師が長崎へ渡った16世紀半ば、ポルトガル商人によってイスラム国家へ売られ、イスラム教徒に改宗した日本人が史上初との説があります。ですから野田は「日本とオスマン帝国の史実に残る、日本人ムスリム第1号」と記すのがより正確な表現となりそうです。  それから、オスマン帝国に初めて訪問した日本人は、長崎出身の福地源一郎(1841-1906)です。福地桜痴(おうち)という別名もあります。1871(明治4)年、明治政府は岩倉具視を特命全権大使とする欧米使節団を派遣しました。使節団には副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など48団員と中江兆民、津田梅子など約60名が各国への留学生として参加しました。その中に過去2度の渡欧経験を買われ、大蔵省に出仕し1等書記官となり使節団に加わった福地がいました。使節団の一行が欧州を視察した際に、福地はオスマン帝国の国情視察の特命を受け、一行と別れてイスタンブルに赴きアブデュル・ハミト2世に謁見する栄誉を得たとされています。  帰国後は『東京日日新聞』(1872年2月創刊)へ入社して、1877(明治10年)からは西南の役を現地取材するなど記者として健筆をふるい、主筆そして社主へと昇格、一時は福沢諭吉と並び「天下の双福」と称される名声を博しました。ただ、エルトゥールル号の海難事故の2年前に退社をしていました。  さて、『時事新報』の若手記者の野田から遅れること1年余り、1892(明治25)年4月にイスタンブルヘ渡り、定住して日ト貿易の礎を築き、民間大使の役割を果たし、トルコを〝第二の故郷″とした日本人がいました。1866年(慶応2)年、江戸で生まれた山田寅次郎(1866-1957)です。

(敬称略) 次回は2014年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。