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  • 第3回 日本とトルコの〝命の絆〟(中編2) 2014年11月1日更新
 エルトゥールル号の大海難事故の生存者69名を乗せた「比叡」「金剛」の軍艦2隻は、1891(明治24)年1月2日、無事にイスタンブルへ入港しました。オスマン帝国の主要日刊紙や英字紙、仏語紙はこのことを大々的に報じ、紀伊大島の村民を中心とする救援救助活動や日本全国に広がった募金活動など、オスマン帝国において日本に対する好印象を与えることとなったのです。
 この際、『時事新報』の紙面広告を通じて集めた義援金・慰問金を、オスマン帝国へ手渡す大役を担ったのが、若手記者の野田正太郎(しょうたろう)でした。生存者や海軍兵学校の17期卒業生らと「比叡」に乗り込んだ野田は、意図せずして〝イスラム世界へ派遣された日本人初の駐在記者″となり、スルタンのアブデュル・ハミト2世の要請により、イスタンブルに留まり士官に日本語を教えることになりました。野田は現地の新聞記者らとも親交を深め、さらにはイスラム教徒(ムスリム)に改宗し、アブデュル・ハリムという名を得ています。
 日本とトルコの関係構築に向けた歴史が始動していく中、もう一人、エルトゥールル号の大海難事故をきっかけに、1892(明治25)年4月、単身で乗り込んできた日本人がいました。山田寅次郎です。

下段右から二番目の髭の人物が山田寅次郎。その左が野田正太郎だ(串本町提供)

    イスタンブルを拠点に日本製品を海外へ知らせた日本人  山田寅次郎は沼田藩(上野沼田3万5000石)の藩士、中村莞爾と島子の次男として1866(慶応2)年、江戸見坂(現・東京都港区)で生まれました。沼田藩とは、現在の群馬県沼田市を城地とした藩です。寅次郎は小学校を卒業後に英語、ドイツ語、フランス語、中国語の4言語を学び、15歳(16歳との記述もあり)の時に千利休の侘び茶を継承する茶道・宗徧流(そうへんりゅう)の7世山田宗寿の養子となり、以降、山田姓を名乗ります。6世家元の山田宗学が死去し、その妻が7世山田宗寿として継いでいましたが、宗学夫妻の間に後を継ぐ子どもがいなかったため迎え入れられたのです。  しかし、海外に早くから目を向けていた山田は、茶道の家元を若くして継ぐ意志に乏しかったようです。1883(明治16)年に7世の山田宗寿が亡くなった後も襲名せず、言論界での活動に意欲を燃やし、新聞各紙に寄稿をしていました。政治に関心を持ち、文才にも恵まれていたとされます。後に大文豪となる1歳年下の幸田露伴や尾崎紅葉、前回触れた『東京日日新聞』の社主になり、一時は福沢諭吉と並び「天下の双福」と称されるほどの名声を博した福地源一郎(別名、福地桜痴)とも交流があったとされます。  その山田の転機は24歳、エルトゥールル号の大遭難事故がきっかけでした。以前から親交のあった日本新聞社の社長兼主筆の陸羯南(くが・かつなん)(1857-1907)と福本日南(1857-1921)両氏に働きかけ、新聞紙上に義援金募集の広告を打ち、「近い将来、日本と修好条約を結ぶべく、アジア大陸の西端よりはるばる、1年もかけて来日してよしみを結びながら、不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば、胸張り裂ける思いなり。同じアジアの民として、犠牲者たりし人々の心情、いかばかりなりや」といった文面で、複数の新聞社とも連携しながらキャンペーン活動を展開し、全国各地で演説会を開いたのです。  1857(安政4)年に陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に生まれ、弘前藩の茶道役坊主頭の父を持つ陸羯南は、その頃、大隈重信外務大臣の条約改正案に反対して内閣官報局を辞し、1888(明治21)年に新聞『東京電報』を創刊したのですが、1889(明治22)年に廃し、同年2月に新聞『日本』を創刊したばかりでした。福本日南、国分青崖、三宅雪嶺、長谷川如是閑といった当時の論客や記者を集めて、藩閥政府による専制政治や表面的な欧化政策、追随的な条約改正などを鋭く批判していた陸は、国民主義の立場を堅持し論陣を張る著名なジャーナリスト及び政論家で、「国民主義を唱えた近代ジャーナリズムの先駆者」などと称される人物です。  山田は『日本』をはじめ複数の新聞各紙と連携しながら、1年以上の歳月をかけて全国各地を行脚し、5000円(現在の価値では約1億円)の寄付金を集めました。キャンペーン活動が一段落したある日、青木周蔵外務大臣の元を訪ね、「これをオスマン帝国へ送り、遭難者遺族への慰霊金にしてほしい」と依頼したところ、「自ら集めた義援金なのだから君自身が届けに行くと良い」「海軍の士官らがフランスに発注した軍艦を引き取りに欧州へ発つ時に、便乗するように」と勧められたのです。  1892(明治25)年4月、山田はイスタンブルの地へ降り立ちました。オスマン帝国のアブデュル・ハミト2世に謁見することとなり、その際、かつて豊臣秀頼が所持していた父祖伝来の鎧兜と太刀を奉呈しました。これらの〝お宝″は現在もイスタンブルの観光名所のひとつ、トプカプ宮殿博物館の武器コーナーに、「山田寅次郎がスルタン、アブデュル・ハミト2世に献上した鎧一式と剣です」という説明文と共に展示・保存されています。  さらに、『時事新報』の野田に続いて山田も、オスマン帝国の高官から「青年士官たちに日本語と日本の精神や文化について教えてほしい」と依頼されたようです。野田に帰国の意志があることを、士官らを通じてアブデュル・ハミト2世が知っていたのかもしれませんが、定かではありません。また、日本語教師の職を野田が斡旋したという説もあり、これも事実かどうか分かりません。いずれにしても、山田は陸軍士官と海軍士官に、日本語と日本精神を講じることになったのです。   晩節を汚した記者  イスタンブルで、『時事通信』駐在記者の野田は当初2人、最終的には6人の士官に日本語を教えながら、トルコ語を習い、オスマン史・イスラム史・イスラム教なども学習したとされます。経緯は明らかではありませんが、1891(明治24)年5月にはムスリムとなり、アブデュル・ハリムの名も授けられました。この史実は、イスタンブルの総理府オスマン文書館に保管される文書にも残っています。  しかしながら、野田は1892(明治25)年12月中旬にイスタンブルを離れました。表面上の理由は「病気のための帰国」でしたが、「1890~93年における『時事新報』に掲載されたオスマン朝関連記事」をはじめとする三沢伸生・東洋大学社会学部教授の論文、報告書によると、イスタンブルを発ち汽車でウィーンへ入り、欧州から大西洋を渡ってアメリカへ行ってから帰国しているとされ、その旅程からも、どうやら事実は異なるようです。  本人は「2年間に及ぶ自身の駐在生活は満足いくものだった」と回顧し、「アブデュル・ハミト2世からは第2等イムディヤス勲章を授与され、労いの辞を受けた」などと書簡に記しています。自身を継いで山田が日本とオスマン帝国との懸け橋になってくれるはずだと期待し、後ろ髪をひかれることなくイスタンブルを離れる決意ができた、ということなのかもしれません。  異国での生活は、好奇心旺盛な20代前半の青年にとってエキサイティングであっても、コミュニケーションや食事をはじめとする生活習慣において、ストレスが溜まりやすいものです。「蕎麦が食べたい」「味噌汁が飲みたい」などと脳裏に形や味を浮かべてみたり、ムスリムに改宗したものの「日本酒が飲みたい」などと思ったり、日本人女性と結婚したいとの気持ちを抱いていたり、望郷の念を募らせていたのかもしれません。  帰国後も、野田は『時事新報』の紙面で日本とオスマン朝との間における貿易の可能性を論じ、オスマン朝の社会風俗を紹介するエッセイ「土耳其の婚姻」「宗教問答」や、絵入りでの「土耳其浴」と題するハマム(公衆浴場のことで、内装が大理石で造られた蒸し風呂で垢すりやマッサージなどのサービスが受けられる)の説明、トルコ文学を代表する作品の一つ『ナスレッディン・ホジャ』の紹介などをしています。もし、オスマン帝国やトルコ人を嫌いになって離れたのなら、そういった類の記事は書かなかったように思います。貿易の可能性を論じたのも、後述する山田の実業家としての活動に刺激を受けてのことかもしれません。  しかしながら、エルトゥールル号の大海難事故から2年以上を経て、日本国民にとってオスマン帝国は再び遠い異国となり、興味は失せてしまっていました。野田は帰国後、1年もしないうちに新聞社を退職したようです。  そして次に、野田の名前が紙上を飾るのは1896(明治29)年9月26日付の『東京朝日新聞』でした。私印私書偽造事件の犯人として、野田が拘引されたことを報じる記事だったのです。刑期を終えて出所後、再び私文書偽造で詐取したことが古巣の『時事新報』を含む新聞各紙で報じられ、この件で、慶應義塾を除名になりました。野田は1904(明治37)年4月、37歳の若さで亡くなりました。  『時事通信』記者の野田正太郎は、オスマン帝国の関連情報を史上初めて日本へ提供し、イスタンブルではオスマン帝国やヨーロッパ諸国の新聞社による取材を受けるなど、明治中期の転換期にあった日本を、世界に知らせる役割の一端を担いました。しかも、1年3カ月後にイスタンブルへ訪れた山田を公私にわたり支援して、貿易業を始める彼を手助けしたとされます。  ところが、時を経た後にまとめられた『土耳古畫觀』など、山田の自叙伝や友人の筆による山田の評伝、後に外交官としてイスタンブルへ派遣された内藤智秀の『日土交渉史』(泉書院 1931年)などに、野田の件はほんの少ししか、もしくは全く触れられていないようです。三沢伸生・東洋大学社会学部教授は、「自叙伝・評伝の記載事実には混乱が見られ、そうしたことが絡み合って、野田正太郎と山田寅次郎が取り違えられたり、野田が忘却される一方で山田に注目が集まる結果となった」と総括しています。確かに、ネット上には混乱する情報や誤報も溢れています。記載事実が混乱してしまった背景としては、記憶ミス、意図的な操作、解釈ミス、裏付けを怠ったことによる単純ミス、言語・文化ギャップから来るミスなど様々な要因があったと考えられます。  いずれにしても、日本とオスマン帝国との〝史上初″を記録した若き新聞記者が、どういった理由からか晩節を汚してしまったことはとても残念です。 オスマン帝国との貿易拡大、人的交流に努めた山田  さて、明治政府が岩倉具視を特命全権大使とする欧米使節団を派遣した数年後の1875(明治8)年より、オスマン帝国との通商条約締結に向けた交渉が始まりました。しかしながら、締結に至らないまま、5年、10年、15年と経過していました。そういった中、山田は全国行脚で集めた義援金を持参することのみならず、日ト貿易促進に向けた調査を目的にイスタンブルへ赴いたようです。持参した日本商品を、オスマン商工会議所の商品陳列館に見本として陳列させてもらい、同商工会議所の協力を得て日本商品販売所の開設のための許可を得るなど準備を進めていきました。  山田が持ち込んだのは、日本の絹布(けんぷ)、漆器、茶、木工芸品その他、多数の雑貨類でした。同商工会議所の商品陳列館は、オスマン帝国の製品はじめ外国製品の見本がずらりと陳列され、国内外の関係者が確認して発注をするための場所だったそうです。日本製品は品質が良かったからか注目され、注文も殺到したようです。これが事実上、イスタンブルで初めて開設された日本商品店とされます。その後、何らかの経緯で大阪出身の中村健次郎(海軍兵学校10期 明治16年10月卒業・海軍大尉)が出資者となり、ガラタ橋の近くに日本の工芸品を商う中村商店が開店し、山田はそこの番頭を務めることになりました。  その傍らで、山田は日本から来訪する皇族や高官に対して、アブデュル・ハミト2世はじめ政府要人との交渉の補佐や通訳、要人たちの視察の案内役なども務めました。非公式とはいえ、いわゆる領事の役割を果たしていたのです。1896(明治29)年には、東京日日新聞社の主管・朝比奈知泉や、深井英五を伴い欧州視察をした徳富蘇峰などが現地で山田に様々な便宜を図ってもらったことが手紙などから分かっています。その他、山田の自伝には、東伏見宮殿下や後に首相となる寺内正毅、軍人では乃木希典をはじめ数十名のお世話をしたと記されています。  余談のようですが、興味深い話もあります。アブデュル・ハミト2世の要望を受けて山田は柿の苗木(元の名前は「日本ナツメヤシ」)を植えたり、日本の鳥(飼うためか食べるためか不明)を贈ったりもしています。この日本ナツメヤシはトルコでトラブゾン・フルマスとの名前に変わり、干し柿にして広く食されています。トラブゾンは黒海沿岸の町の名前で、フルマは一般的にナツメヤシを指しますが、初冬に少しだけ顔を出す柿も「フルマ」と呼ばれ、これが厳密にはトラブゾン・フルマスなのだそうです。トルコの街角で見かける干し柿も、どうやら日トの〝命の絆″だったのです。  1900(明治33)年に、大蔵省の役人や農学博士らが煙草調査のためにイスタンブルを訪問した際にも、山田がお世話をしました。このことは、後に山田が先駆者として煙草の巻き紙などを製造する製紙会社を大阪で起こす布石にもなっています。  山田は異国での生活が続く中、日本文化への想いも徐々に募らせていたのかもしれません。ハミト2世をはじめイスタンブルの要人に、宗徧流の茶道も披露しました。正式な国交が締結されない中、また、今日のように飛行機にて片道11~12時間で到着する利便性もない中、日本とオスマン帝国の間を何度も行き来しており、何回目かの帰国の際に中村商店の出資者一族の中村たみと結婚しました。とはいえ、妻子を大阪に置いたままでの遠距離結婚生活だったようです。   日本の勝利がオスマン帝国の人々の喜びだった  1894(明治27)年に日清戦争が開戦し、1904(明治37)年3月の日露戦争の開戦へと続きます。日露戦争では東郷平八郎(1847-1934)が連合艦隊司令長官として海軍の作戦を指揮し、日本海海戦ではバルチック艦隊を全滅させました。  オスマン帝国の人々は狂喜乱舞します。巨大国家ロシアによる南下政策は、18世紀以降、オスマン帝国の人々にとって生々しい脅威でした。両国の間には前後6回にわたり戦争が行なわれていますが、その都度、オスマン帝国は敗北しロシアに領土を侵食されています。そのため、小国・日本が巨大な〝仇敵″に勝利したことを、我がことのように喜んだのでした。アブデュル・ハミト2世も、「日本の成功は我々の喜びである。ロシアに対する日本の勝利は我々の勝利とみてよい」との言葉を残しているそうです。  日露戦争に関する著書もあり、当時はオスマン帝国の陸軍大佐で、日露戦争の観戦武官として極東に派遣されたペルテヴ・デミルハン(1871-1964)は、日本と日本人についての様々な内容を報告書や書物に記しています。富山国際大学の横井敏秀准教授の論文「あるトルコ軍人の日本論 (1)― 日露戦争観戦武官ペルテヴ・パシャのみた日本 ―」から、そのごく一部を紹介しましょう。  「全員が1つの民族、1つの思想にまとまり、指導者にこの上なく忠実で従順な国民であって、国家の将来と安泰のため、今日までまだ類をみない激しさと勢いで敵を根こそぎ粉砕し圧倒することを熱望し、心に期している。だが、すべての民衆はいたずらに興奮したり街頭行動を行ったりすることをせず、基本的に東方の民特有の、天命に委ねる平静さをもって結果を待ち受けている」「日本は万事が清潔であり、民衆が丁寧で行儀が良く……」などと、日本人を好意的に評し、日光東照宮を見学した折には、「自然の原理と祖先崇拝より他、何ものでもない『神道』の教理が、文明のこれほど進んだ日本国民の上に、まだいかに呪術的な影響力を揮っているかを考えた」と記しています。  日本政府や陸海軍の要人たちと接触した際には、ペルデヴは「日本軍当局が私について示した尊敬と、厚遇はまさに大きなものがある。軍当局と日本人一般のオスマン帝国への友情と絆は、常に記しとなって現れている」と述べています。  日本の景観美を描写する表現としては「優美」「絵画的」「詩的」などを多用し、瀬戸内海を航海したときの一節は、「どのあたりも、子ども時代に常に幻の中をよぎった、時折、夢にさえ見た場所のようだった」と情緒的に綴っています。魂が揺さぶられるほどの、デジャブを日本で経験したようです。   戦争を経て、新生トルコ共和国が誕生した  1914(大正3)年に第1次世界大戦が始まると、同盟国側についたオスマン帝国と連合国側の日本は、交戦相手になってしまいました。イスタンブルを主舞台に日本との貿易拡大と人的交流に務め、アブデュル・ハミト2世から勲章も与えられた山田ですが、〝第二の故郷″イスタンブルに、とうとう別れを告げる時が来ました。  第1次世界大戦が終結し、イスタンブルが外国軍に占領される苦境の中、3年間の独立戦争を経て、1923(大正12)年10月29日20時30分、「トルコ共和国」の建国宣言がなされました。その翌年1924(大正13)年5月、日本はトルコ共和国と正式に国交を締結し、さらにその翌年にはイスタンブルに日本大使館が、東京にはトルコ大使館が開設されました。  トルコ大使館の開設に当たっては、山田が助言や援助を惜しまなかったそうです。1920(大正9)年に東洋製紙株式会社の取締役に就任し、1923年5月には旧蜂須賀公別邸の日本橋倶楽部にて宗徧流第8世襲名披露大茶会を開き、山田宗有(そうゆう)を名乗り、茶道家としての人生も歩み始めていた頃でした。  トルコ大使館が開設された1925(大正14)年の秋、大阪商業会議所が中心となり「大阪日土貿易協会」を立ち上げ理事長になった山田は、両国の貿易事業の発展のため再び尽力をしていきます。並行して、エルトゥールル号が座礁した海が望める紀伊大島の樫野の墓地に慰霊碑を建てるべく、募金集めに奔走しました。  その熱意が実を結び、大阪日土貿易協会の発議により、1928(昭和3)年8月6日に第1回遭難追悼祭が催され、翌1929(昭和4)年4月5日に弔魂碑(追悼碑)が建立し、同年6月3日には昭和天皇が樫野に行幸され、弔魂碑に会釈を賜いました。  

樫野崎のトルコ記念館近くにある弔魂碑(著者撮影)

 1930(昭和5)年10月、山田は16年ぶりにトルコを訪問しています。トルコ共和国の〝建国の父″で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクから、共和国記念祭に招待されたのです。山田は旧知のトルコ人や、エルトゥールル号の遺族らに歓待されました。この時のエピソードとして、「アタテュルク大統領が『私はあなた(山田)と面識があります。昔、イスタンブルの士官学校で貴方が日本語を教えていた頃、私も少壮将校の1人として貴方を見知っていました』と山田に話しかけた」といった話や、「アタテュルク大統領は、山田が教える日本語の生徒のひとりだった」との内容が今日まで出回っていますが、この分野の研究で第一人者の三沢伸生・東洋大学社会学部教授の研究論文、その他のトルコからの複数の情報を重ね合わせても、どうやらこの史実は存在しないようです。  これについて、トルコの新聞『Zaman(ザマン)』(2012年7月15日付)のムスタファ・アルマン記者の執筆による以下のような内容がありますので、その部分を抜粋します。    ――「新月」という回想記には、この面会でアタテュルク大統領が自身を、「数年前に士官学校で日本語を学んでいた若い生徒の一人」だと言ったと書かれています(セルチュク・エセンベル(2010)「新月と太陽」 イスタンブル調査研究所出版)。この発言から、アタテュルクが「先生、私を覚えていますか? 私は士官学校であなたから日本語を教わりました!」とは言わず、「士官学校にいるとき日本語を勉強した一人」と言ったのだと、私たちは理解しています。「日本語を学んだ一人」であることと、「日本語を教えた先生」というのは同じではありません。他に、公式な資料からアタテュルクが士官学校でドイツ語やロシア語の授業を受けていたことは知っていても、日本語を学んだことに関する証拠はありません。伝記や友人の証言からもそのような情報は得られません。――    とはいえ1957(昭和32)年2月、91歳で亡くなった山田寅次郎(山田宗有)は明治、大正、昭和という激動の3時代に、日本とトルコの友好親善のため、両国の貿易発展のために尽力した唯一無二の存在であったことは、まぎれもない事実です。   危機一髪だったテヘランの在留邦人たち  時が過ぎて1985(昭和60)年3月19日、話の舞台は中東のイランへと飛びます。正式な国名はイラン・イスラム共和国です。空襲警報が鳴り響き、ドォーンと重く激しい爆弾やミサイルの爆発音が空や地上の方々から聞こえる、まさに戦地と化した首都テヘラン市街地から、命からがら空港へ向かう在留邦人たちがいました。原産国イランで駐在中の商社マンや銀行マン、メーカー、そして短期滞在中の技術指導者、日本人学校の教師……そして彼らの妻子たち、中には身重の妻もいました。  その5年前の1980(昭和55)年、イランと隣国のイラク共和国はペルシア湾岸地域の覇権などを巡り、戦争状態に突入しました。発端はイラクによるイラン侵略でした。イランはその前年の1979(昭和54)年、シーア派(12イマーム派)の精神的指導者で亡命先のフランス・パリから帰国したアーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー(ホメイニ師)が、親米親英のパフラヴィー(パーレビとも言う)皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を樹立。新生「イラン・イスラム共和国」の最高指導者(師)となっており、イラクのサダム・フセイン大統領はその勢力の拡大を恐れていました。  戦局はやがて逆転し、1982(昭和57)年以降はイランがイラク領土へと侵攻します。アメリカは「親米政権を倒したイランの革命政権は敵」という論理で同年、イラクの「テロ支援国家」指定を解除し、2年後の1984(昭和59)年に国交を回復、イランに対する大規模な軍事援助に踏み切ったのです。それにより両国の国境線を中心に戦況は益々激しさを増し、泥沼化していきました。第2次大戦末期に、ロケット兵器でドイツが連合国を攻撃した例はありますが、交戦国の双方が長距離ミサイルを撃ち合った前例はなく、この時のイラン・イラク戦争がそれこそ史上初のミサイル戦争でした。アメリカ、ソビエト連邦、フランス、英国など武器大国のミサイルが、イランとイラクの市街地を破壊し、大勢の人々の命を奪っていったのです。  イランの首都テヘランは、当時、人口850万人ほどの巨大都市でした。そして1985年当時、450人強の日本人も暮らしていました。3月11日、そのテヘラン市街地を、イラクが空爆したのです。  ここからは、NHK総合テレビのドキュメンタリー番組「プロジェクトX~挑戦者たち~ 撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ」(2004年1月27日放送)の内容、出演された方々の話、その他、「イラン戦友会」の方々の記述内容などを引用しながら、在留邦人の緊迫した状況を紹介していきます。  「床について間もなく、これまで自分が耳にしたことのないガーンという爆発音で飛び起きた。窓ガラスが吹き飛び部屋中に突き刺さっていた。庭を隔てて向かい側の家からは、複数のうめき声が漏れてきた。生き地獄だった」  テヘラン日本人学校に赴任していた30歳(当時)の日本人教師が、こう追想しています。2軒隣にロケット弾が命中し、5人が死亡したことも分かりました。3階建てのアパートの一室に居を構える日本人教師には、臨月の妻と1歳と2歳の子どもがいました。  「テヘランから脱出しなければ……」  日本人学校もあり、日本人家族も多く住む北部の高級住宅街、ナフト地区が狙われたのです。ホメイニ師が居住する地域だったからでした。在留邦人の耳にも、「イラク空軍機は、国境防衛の手薄なイラン北西部からイランに侵入し、標高5000メートル超のエルブルズ山脈を越えると一気に急降下、エルブルズ山脈の裾野にあるホメイニ師の住居を狙っている」との情報が届きました。灯火管制か電力不足なのか停電の回数も増え、暗闇でろうそくを灯して夕食を取るような生活になっていました。  それでもまだ、各国からのテヘラン乗り入れの航空会社は普通に運行していました。3月21日にイランのお正月が始まるということで、一時帰国や周辺諸国でバカンスを計画している在留邦人家族、あるいは1年間のオープン・チケットを所持している駐在員など、多くがいずれかの航空会社のチケットを確保はしていました。  「イランから出国してください!」  イラン在留邦人に対して、野村豊・在イラン日本国特命全権大使から緊急勧告が出されたのは、3月16日(土)、日本大使館と日本人会とで会合が設けられた後のことでした。  在留邦人は、街中にある航空会社のオフィスやメヘラバード空港へ直接、出向き、一番早い便へのチケット変更や座席確保を試みました。ガソリン・スタンドは長蛇の列、そしてどこの航空会社のオフィスも人だかりでした。焦燥感を募らせながらも、所長クラスの邦人男性はこんな言葉を脳裏に浮かべていたはずです。 「とにかく、どこかの航空会社の座席を確保して、まず家族(や部下とその家族)だけでも先に安全な国へ避難させて……」  というのもイラン・イラク戦争発生時の1980年以来、日本航空(JAL)の定期便の乗り入れは取り止めとなり、ダイレクト便が無かったのです。しかもインターネットでチケットを確保できる時代ではなく、携帯電話もなく、平時でもテヘラン市内の通信事情は不安定でした。現地事情に精通した商社マンと共に、日本語や英語を操る会社のローカルスタッフの助けを借りながら、場合によっては1人で、夫婦で、この危機一髪の局面を打開していくしかなかったのです。 初動が遅すぎた日本政府  「救援用のチャーター便を派遣してください!!」  「日航機を派遣してください!」  その頃、野村大使をはじめ大使館員は、東京の外務省と連絡を取り続け、あらゆる脱出策を練って動いていました。欧米諸国は海外でクーデターや災害などに自国民が巻き込まれると、救援機や運輸機で救出する慣例がありますが、日本には法の壁によって自衛隊機の派遣ができず、政府専用機も所持していませんでした。  外務省は日本航空の経営陣と協議に入り、救援機の派遣を依頼しました。ところがパイロットやスチュワーデスが組合員を占める労働組合が猛反発。日本航空の結論は、「イラン・イラク両国から安全の保障を取り付けなければ、飛ばせない」でした。「帰りの安全が保障されない」ことを理由に、日本航空による救援機派遣は不可能となりました。日本政府は航行安全の確約をイランからは取り付けることができましたが、イラクからの返事は得られなかったのです。  少しここで、疑問を呈したいと思います。1980年からイラン・イラク戦争は始まっていました。そしてホメイニ師の新体制となり、欧米先進国からの武器供与などもあり、戦況は複雑化・熾烈化していました。日本政府、外務省はそれでも、具体的な対策を準備していなかったのでしょうか? 日本政府は3月16日前後からようやく、「乗り入れている各国の定期便を使用する」「そういった国からのチャーター便の派遣の可能性」などを検討し始め、「イラン航空機をさらに増便ないしはチャーターする」「日航機の特別機を派遣する」、それから最後の場合には「陸路を伝って脱出する」などの方策を検討していたようです(1985年4月3日の参議院会議録情報 第102回国会 外務委員会 第4号などを参考)。  開戦直後に空襲が一度あった以外、テヘラン市内は平穏だったとされます。ただ、イランは、「仕掛けられた戦争を終焉させるためには、仕掛けた指導者への処罰が必要」との立場を取っていました。日本はイラン政府との関係も良好だったことで、欧米の大国とは異なり、中立的な立場でイラン・イラク戦争の推移を見守っていましたが、しかしながらミサイル戦争へと悪化していたのです。  街で唯一の安宿、アミールカビールに前年の1984年に泊まっていた日本人バックパッカーは、「部屋の幾つかはイラク空軍の空爆により天井に大きな穴があき、青空が見える状態だった」と語っています。また、欧米諸国の多くがイラク側についたことで欧米諸国の旅行者はすでに少なく、日本人バックパッカーが世界中に多かった時代ですが、不要不急の国イランへノービザで入国できたそうです。出張ベースで往復をする日本人技術者も、大勢いました。現地事情をほとんど分かっていない日本人も、戦争に巻き込まれたのです。  1985年2月中旬には、テヘランの西にあるカラジダムの発電所が爆撃されました。その日、低空飛行をするイラク軍機の、鼓膜を引き裂くような鋭い金属音を耳にしている日本人もいるのです。しかしながら、日本政府関係者の見解は、「イラク軍機がイラン北西部の国境を侵犯するとテヘランにも空襲警報が出るようになっているが、イラク軍はイラク領内からテヘランまで飛んできて攻撃をして帰るだけの航続距離のある戦闘機は持っていないので、テヘラン空襲は無いだろう」だったようです。  しかも、3月6日には石油が産出される南部の都市アフワズ、原油積み出し港バンダル・アバスをイラクが爆撃しました。この地域の工場へ出張ベースで赴く日本人技術者もいるのです。アフワズの地元民は、こう言ったそうです。「これまでイランの都市をイラクが爆撃した。イランは報復するはずだ」と。  案の定、大都市の爆撃戦へと突入していきます。9日にコーラム・アバッド、国境地帯のピランシャーが爆撃、10日にはイラン第2の都市イスファハンや国境地帯のイラム、マリバンなどが爆撃、11日、北部工業都市のタブリッツが、そして中央部のアラックが……。いつ何時、テヘラン市街地が爆撃されてもおかしくない状況まで、急速に戦況が悪化していたのです。  会社命令なのか自主的避難か、早々に国外へ脱出していた邦人もいましたが、日本政府としての危機管理がどうだったのかは大いに疑問です。80年代半ばに第一線で働いていた日本人男性は、企業戦士であり責任感も使命感も強かったのでしょうけれど、命あっての仕事です。  ルフトハンザ航空のカウンターに並んだ日本人夫婦は、スタッフの応対に愕然としたそうです。「ドイツ人救出が最優先。次はEU加盟のヨーロッパ人です。残念ながら日本の方々の席はありません」  夫婦は、翌日も別の航空会社でのチケット購入を試みたのですが駄目でした。そのうち、空港などで会う在留邦人との挨拶が、「(チケット)取れましたか?」となり、ほとんどが「取れていない」という悲しい返事でした。各航空会社が、自国民を最優先させる判断をしていたためです。その間にも、飛行機は次々とテヘランを飛び立っていきました。  日本人教師は、3月21日の家族全員分のアエロ・フロートの座席をなんとか確保しました。商社マンはじめ在留邦人の間には、「イラクに肩入れした欧米先進国の航空会社より、ソビエト連邦のフラッグ・キャリアの方が安心ではないか」「イラクといえども、ソ連の航空機を撃墜したら何をされるか分からないから」などの考えもありました。  そのような中で、在留邦人に恐ろしい知らせが飛び込みました。  3月17日夜、イラクのフセイン大統領が「48時間の猶予期限以降に、イラン領空を飛ぶ民間機は無差別に攻撃する(イラン戦争区域宣言)」という警告を発したのです。攻撃開始は19日の夜8時半からでした……。  フセイン大統領の警告は、「民間航空機も撃墜する」という話です。18日からは各国の定期航空便がほぼ欠航となり、その後は救援機に変わるなど大混乱に陥りました。  「飛行機での脱出はもはや不可能では……」  在留邦人は奈落の底に突き落とされました。   トルコと繋がる2つのルート  駐イランの野村大使も、「フセイン政権から安全の確約を得ることは、事実上不可能。他国の飛行機で日本人の座席を確保するしかない」と覚悟を決めました。大使館員が各国の大使館や航空会社に電話で頼んだところ、欧州系の航空会社が3席、5席と、わずかな座席ですが融通してくれました。とはいえ、このままでは数百名規模の日本人が戦渦の中に取り残されてしまうのは目に見えていました。  「陸路での脱出に賭けよう」と意を決した在留邦人たちもいました。隣国までは800キロメートル、とすると20時間はかかります。何より、ゲリラや盗賊がいる山岳地帯を越えて行くことになり、日本人もかつて襲撃されたことがあり危険を伴います。  「バスでトルコに脱出するので、皆さんも一緒に行きませんか」  スウェーデンのボルボ社の技術者から声をかけられた、在留邦人のグループもありました。すぐに荷物をまとめ、一縷の望みをかけて待ち合わせ場所に駆け付けました。ところが、陸路での国外脱出が出来ないことが分かったのです。日本人は空からの脱出を念頭に置いていたので、事前に陸路での出国手続きを済ませていなかったためです。ボルボの従業員は、首尾よく手続きを終えていました。バスを目前に、折角のチャンスを諦めざるを得ませんでした。  空襲警報が鳴り続けるテヘラン市街。タイムリミットは刻一刻と迫っていきます。  脱出を希望する在留邦人215名は、家族や同僚と家で眠れない夜を過ごしていたり、より安全かもしれない郊外の温泉地のホテルへ避難していたり、方々でバラバラに身を寄せながら、大使館や日本人会からの救援情報を待っていました。  「日本からの救援機飛ばず」  この一報は、テヘランに残された日本人を奈落の底の、さらに底へと突き落としました。 「脱出の手段は、もう無くなった……」 「あと数時間でイラクによる無差別攻撃が始まる……」  テヘラン市街地のビルは、あちこち倒壊していました。煉瓦を積み上げ表面を加工しているだけのビルが、ミサイルの直撃を受ければ全壊となり、人的被害は避けられない状況でした。地下室なら直撃を避けられるのでは、ということで、広い地下室がある下町のラマテア・ホテルに大勢が身を寄せることになりました。  「トルコ航空(現ターキッシュ・エアラインズ)が迎えに来る」  第1報が、大使館から在留邦人の耳へ入りました。この頃、トルコへの救出依頼が2つのルートで同時並行的に進められていました。1つは、野村大使が駐イラントルコ大使のイスメット・ビルセルに依頼したルートでした。2人は2年前の同日にイランに大使として着任、外交団は着任順に序列が決まるため、両者は外交官の行事があれば隣に並ぶ関係でした。テロの恐怖に晒されていたトルコは、外交官が30人以上殺害され、ビルセルの暗殺計画も発覚するなど極限の日々でしたが、両者は着任以来、家族ぐるみで交流を続けており、「双子の兄弟」と言われるほど親しい間柄だったそうです。ビルセル大使の元へ出向いた野村大使は、「日本人を救う手はないか?」と懇願しました。頷いたビルセルは、本国に電報を打ちました。「日本人のために、トルコ航空の特別便を飛ばせないか?」と。その要請はトゥルグト・オザル首相(首相在任:1983年12月-1989年10月/大統領在任1989年11月-1993年4月)にもすぐ届きました。  オザル首相は当然ながら、苦慮しました。  「日本人を救うためにトルコ人を危険に曝(さら)せるのか」  その時、1本の電話が入りました。  「飛行機を出してください」  声の主は、トルコに赴任して10年以上を経ていた森永尭(たかし)・伊藤忠商事のイスタンブル支店長でした。森永の同僚とその家族、34人がテヘランに取り残されていました。トルコへ赴任して以来、経済官僚だったオザルとは、「パジャマ友達」というほど親しい仲だったのです。  ビルセル大使からの要請、そこに森永からの直接の電話、タイムリミットまで残り25時間半という段階で、オザル首相は決断しました。トルコ航空の最終便となる定期便と救援機の2便を首都アンカラから飛ばすことにしたのです。  ビルセル大使からの吉報を受けた時のことを、野村大使はこう回想しています。  「本当に涙のこぼれるような思いでした。地獄で仏に出逢ったという感じでしょうか。やったぞと」  トルコ航空では即ミーティングが始まり、命がけの仕事であることから志願者を募りました。これに対し多くのクルーが名乗りを上げたそうです。〝命のフライト″を託されたのは、パイロット歴36年のアリ・オズデミル機長。空軍上がりの腕利きパイロットでした。「首相命令」と聞いて、奮い立ったそうです。  タイムリミットが迫る中、アリ機長、コライ・ギョクベルク副機長、定期便のオルハン・スヨルジュ機長らが飛行ルートを検討しました。トルコからイランへ。危険なイラクを避けて、遠回りになりますが、北に大きく迂回。カスピ海を南下し、テヘランに向かうルートに決まりました。  一方、日本大使館は、散り散りバラバラになっていた在留邦人への連絡を始めなくてはなりませんでした。避難先が不明な邦人もいたため、新たな時間との戦いが始まったのです。3月18日夜、タイムリミットまで1日を切る中、連絡が取れない日本人もいて、大使館員の焦りもピークに達していました。その時、ひとりが声を上げました。「私が皆を捜し出して伝えます」。二等書記官でした。空爆の危険も顧みず、無我夢中で夜の街に走り出したのです。他の大使館員たちも、夜通し連絡に奔走しました。  「日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が、19日未明に飛び込んで来ました。なぜ、トルコなのか分からない。欧州便どころか日本からも助けに来ないし、信じられない、そんな気持ちでした。でも兎に角、トルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走りました」  「日本の飛行機ではないし、飛行機が到着するまで信じられなかった」  在留邦人の多くが、この時のことをこのような言葉で追想しています。  3月19日、撃墜開始まであと十数時間。早朝から空港周辺の道路は大混雑しており、空港内も異様な雰囲気に包まれていました。日本人以外には、ソビエト連邦の人々も大勢いました。  タイムリミットまで12時間。トルコの首都アンカラから、テヘランへ向けた特別便が飛び立とうとしていました。離陸態勢に入ったその時、アリ機長に連絡が入りました。  「イランから運行許可が出ない。待機しろ!」  出発が遅れれば、イラクによる攻撃は免れません。イランの日本大使館に、その連絡が入りました。野村大使はすぐ外へ飛び出し、空襲警報が鳴り響く中、イラン外務省へ。玄関で顔見知りの幹部を捕まえ、こう迫ったそうです。  「すぐこの場で運行許可を出してください!」 トルコからの〝救いの翼″  「残り4時間でイラン領空から出なければならない」  上空でアリ機長が時計を見ながらそう思った瞬間、凄まじい攻撃音が耳をつんざきました。イランの対空砲火です。これはイラク機が迫っている証でした。管制官からの指示でジグザグ飛行を余儀なくされました。  一方、地上では在留邦人がメヘラバード空港内のトルコ航空カウンターで、チェックインを進めていました。ある方はこう追想します。「イランでこれまでに無かったほど、スムーズに搭乗券が渡された」と。第1便には全席198名分が日本人に与えられ、第2便には第1便に乗り切れなかった日本人17人と、救援を待っていたトルコ人が搭乗することになりました。ただ、荷物検査には誰もが相当な時間を要しました。1人ひとりのスーツ・ケースを開けては中に手を入れて確認し、ショルダーバッグやハンドバッグまですべて確認されたためです。  爆弾かミサイルが爆発する重々しいドォーンいう音が、耳をつんざきました。空港ビル内に悲鳴が響き渡り、近くのテーブルの下に身を伏せるなど、一時騒然となりました。  「イラクからの爆撃が始まった」  「駄目かもしれない」  緊張感で張りつめる中、在留邦人215名は搭乗待合室へと向かいました。空港には〝救いの翼″が姿を現わしました。トルコ航空のDC‐10が2機、着陸したのです。  アナウンスの後、タラップを駆け上がり機内の座席で出発の時を待ちました。シーンと静まり返る機内……。しばらくすると滑走路へ、そしてエンジン音がゴーと鳴り響きました。 3月19日の19時15分。第1便がテヘランを離陸し、機内には歓声と拍手が起こりました。第2機も、20時頃に飛び立ちました。  「これで、助かるかもしれない」  トルコ航空のパイロットに命を預けた乗客たちは、誰もが心をひとつにして祈っていました。そのような最中、再び機内がざわめきました。背筋が凍るような出来事があったのです。  「我々の乗った飛行機の主翼の先に、ピタリと寄り添うジェット戦闘機が見えたのです。パイロットの顔が分かるほど近い。どこの国の戦闘機か、分かりません。反対側の窓際の乗客も窓の外に目が釘づけになっていました。戦闘機に両サイドを挟まれたのです。イランの護衛機なのか、それともイラクの攻撃を受けるのか……」  「早く、早く、イラン領空を出て!!」  それから間もなく、アリ機長のアナウンスが機内に流れました。  Welcome to Turkey!(ようこそ、トルコへ)  機内はその瞬間、大歓声と拍手の渦となりました。普段なら何でもないアナウンスですが、「生きている」「助かった」ことを実感できた瞬間でした。客室乗務員にお礼を言う家族、嬉し涙を流す人たち……。  イラン離陸から4時間後、日本人215名はアンカラ経由でイスタンブルへ。アタテュルク空港の到着口から荷物を受け取るための階段を下りようとすると、いきなりフラッシュの嵐、嵐、嵐。トルコ航空での脱出に成功したテヘラン在留邦人を、まず待ち構えていたのはメディアのカメラでした。  「私達はトルコの国、人達に助けられたんだ」  「無事を喜んでくれている、本当にありがとう」  皆こういった言葉を胸に、荷物を携え、子どもの手をひき到着ロビーに出ると、在トルコの日本人をはじめ、大勢が出迎えのため駆けつけていました。地獄から天国に辿り着いたのです。ただ、「なぜトルコ航空が?」については、215名の日本人はほぼ誰も、何も分かっていませんでした。   トルコ国民に宿っていた〝サムライ精神″  日本国内も、テレビや新聞の報道を通じてテヘランの在留邦人の安否を心配する空気に包まれていました。さらにトルコ航空が救援機を飛ばすとの報道に、「危険なフライトを、なぜトルコの飛行機が?」との驚きの声が沸き上りました。そのような中、新聞の社説は、「日本がこのところ、対トルコ経済援助を強化していることなどが影響したもの」といった類の、冷めた内容が目立ったのです。  そのうち、「エルトゥールル号の恩返し」といった趣旨の発言も出るようになりました。もちろん、機長や副機長そして客室乗務員は、1世紀前のエルトゥールル号の大海難事故にまつわる話を多少なりとも知っていたと考えられます。とはいえ、自身の命を危険にさらす覚悟を決めるなど、そんな生易しい話ではありません。  しかも、当時、イランにいたトルコ人は6000人前後とされます。鉄道やバスを乗り継ぐ陸路のルートがあり、多くがその方法で脱出していったとはいえ、生死に関わる危機的状況の中、トルコ航空は日本人215名を優先的に乗せる決断をしたのです。それについても、トルコ国内からは非難の声すら上がりませんでした。イスラム教徒(ムスリム)が大多数のトルコ社会には、「困った人たちがいたら、助けるのが当然」という習慣がありますが、それだけでは片付けられない話です。  エルトゥールル号の大海難事故の悲劇から始まった日本とトルコの〝命の絆″ですが、真の友好関係は、一朝一夕には特別なレベルにまで昇華できません。日ト貿易の発展に長らく貢献してきた山田寅次郎、日露戦争での勝利、次回たっぷりお伝えする和歌山の地元関係者とエルトゥールル号の遺族や子孫との地道で心ある交流……。両国を舞台に、それぞれの立場、様々な形で誠実な関係を紡いできた結果、世界に類のない絆となり、トルコ国民が抱く根源的な親日感情が後押しする形で、「トルコ航空機による救出劇」につながったのではないでしょうか。80年代当時、トルコの工業化や近代化に貢献していた日本企業、日本人への敬意や好印象もあったのは確かですが、そのような近視眼的な理由だけではなかったはずです。  「日本との友情のために決断したのです」と、ビルセル大使は追想しています。〝命の翼″を操縦したオズデミル元機長は、番組内で「任務を辞退しようなどとは思いもしなかった。トルコ国民として、日本人には親近感があった。日本人を愛している。このような任務がまたあれば、喜んでやるだろう」と語っています。  それから、トルコ人が日本人に親しみを覚える理由として、「数千年前、中央アジアに住んでいた民族が西に行ってトルコ人になり、東に行って日本人になった」との表現でよく語られますが、もう一つ、見返りを求めず公のために尽くす日本人の生き様、価値観を〝サムライ精神″としてずっと尊敬している、との話もあります。  トルコ政府当局やトルコ航空の関係者は、後日、「当然のことを、したまでです」とさらりと発言しています。トルコ国民にこそ、我々多くが忘れてしまった〝サムライ精神″が宿っているようです。

(敬称略) 次回は2014年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。