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  • 第4回 日本とトルコの〝命の絆〟(中編3) 2014年12月1日更新
 1890(明治23)年9月16日夜、オスマン帝国からの初の使者としてオスマン・パシャ(海軍少将)をはじめ、日本との親善の大役を終えて帰還する一行を乗せた軍艦エルトゥールル号の大海難事故の悲劇から始まった日本とトルコの〝命の絆″は、1世紀近い時を経た1985(昭和60)年3月、イラン・イラク戦争の際の〝命の翼″――トルコ航空(現ターキッシュ・エアラインズ)による日本人救出劇へとつながりました。
 その背景には、日本からの義援金を持参し〝イスラム世界へ派遣された日本人初の駐在記者″となった『時事新報』の野田正太郎(しょうたろう)、日ト貿易の発展に貢献してきた山田寅次郎の存在、オスマン帝国にとっての脅威だった巨大国家ロシアとの戦いに勝利した日露戦争、〝サムライ精神″など、オスマン帝国の人々の日本への敬意や親近感があったとされます。
 1914(大正3)年からの第1次世界大戦で、オスマン帝国と日本は交戦相手になってしまいましたが、トルコ共和国が建国した翌1924(大正13)年5月、日本と新生トルコは国交を樹立、その翌年には両国に大使館も開設されました。さらに、1928(昭和3)年10月、日本・トルコ通商条約が締結され、同年に商工省によりイスタンブルに創設された「コンスタンチノープル日本商品館」(後に「イスタンブル日本商品館」と改名)の運営管理は、山田寅次郎が理事を務める大阪日土貿易協会に委ねられることになりました。
 明治政府が岩倉具視を特命全権大使とする欧米使節団を派遣してから半世紀を経て、ようやく正式な外交関係と経済関係が結ばれましたが、両国の関係促進の起点となり〝命の絆″〝心の絆″をコツコツと紡いできたのが紀伊大島、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡串本町樫野(かしの)(当時の和歌山県東牟婁郡大島村)の住民とその子孫なのです。

異国の見知らぬ人々の魂であっても大切に
 話の舞台を、軍艦エルトゥールル号の訪日使節団の救援救助活動が行なわれた和歌山県の紀伊大島に戻しましょう。スルタンのアブデュル・ハミト2世は、遭難者の救援活動を不眠不休で行なった村人たちに対し、3000円(現在の6000万円相当)を贈ったとされます。沖周(あまね)村長はこれを分配することなく、銀行に預け入れ、その利息を村全体のために使うこととしました。
 当時の「金利」がどれほどだったのか、村がどのように使っていったのかは、別の機会に時間を費やして調査をしたいと思いますが、「我々はするべきことをしただけ」という、村人たちの無私の精神からの善意を尊重しての判断だったと推測します。
 「前編」で詳細を記した通り、村人たちは村で飼っていた大切なニワトリを提供したり、彼らの冷え切った体をふんどし一丁で抱いて温めてあげたり、医師3人も現場へ急行し治療に当たり、53名分の診断書を作成して、軍艦「八重山」艦長に渡しています。後日、和歌山県から大島村役場を通じての「薬価と治療代を精算するように」との申し出に対し、医師3人の連名による「(前略)ただ痛ましい遭難者を心から気の毒に思い、ひたすら救助一途の人道主義的精神の発露に過ぎず、薬価および治療代は義援致したく存じます(原文は漢文調)」と記した手紙のコピーも、近年、発見されています。
 内閣府の報告書「1890エルトゥールル号事件」などによると、沖村長は、オスマン帝国の士官はじめ乗船者らの遺体を埋葬する墓地を、事故発生現場の船甲羅と樫野埼灯台のほぼ中間地点に選定しました。この地では、「八重山」艦長らの主導のもとで埋葬式が挙行されました。
 和歌山県の石井忠亮知事も、1890(明治23)年10月に慰霊碑(遭難之碑)建立の計画を発表しており、『大阪朝日新聞』が集めた義援金の供出も得て、1892(明治25)年2月、墓地に「土国軍艦遭難之碑」が建立されました。事件発生と救済活動の顛末を石井知事が漢文で作成し、書記官が刻印しています。墓地に慰霊碑、墓碑、慰霊碑建立献金者碑が整い、沖村長と遺品・遺体回収に協力した他府県の潜水士を含む関係者らの指導により、同年3月7日に神式での追弔会が執り行なわれ、数百人が出席したとされます。
 その後も、沖村長と次の村長、さらにその先も大島村(当時)の村長が主催する形で、1899(明治32)年9月27日に遭難10周年の祭典を、10年後の1909(明治42)年9月24日には遭難20周年の祭典を神式で行ないました。異国の、それも見知らぬ人々の魂であっても、我々の先人たちは大切に、敬意を払い、悼んできたことが窺えます。
 さらに1926(大正15)年には、「日土両国民の親善を計り相互の福利を増進する」目的で、トルコに縁故ある政界・財界およびその他諸方面の有志が集い「日土協会」が創設されました。会報やトルコ情報、日本で最初の「日土・土日大辞典」の発行など、活発な活動を行ない、1929(昭和4)年には高松宮宣仁親王殿下が総裁にご就任され、他の国際交流団体とは一線を画した存在にもなっていました。
 とはいえ、日本社会全体から見ればエルトゥールル号の大海難事故の記憶は、急速に風化していったのも事実です。
 「中編2」で紹介した大阪日土貿易協会の理事長、山田寅次郎の発議により、1928(昭和3)年8月6日、大島村との共同で第1回遭難追悼式・墓前式が催されました。その際には、日土貿易協会の会長で大阪商工会議所会頭の稲畑勝太郎を祭主役に、日本に赴任してきたフルシド・ファト代理大使、和歌山県の県知事、大島村の村長らが参列し、外務省や海軍省などの弔辞披露なども行なわれました。
 翌1929(昭和4)年4月5日、墓地内に弔魂碑(追悼碑)を建立し、同年6月3日、昭和天皇が紀南地方への行幸の際に遭難現場を視察、樫野崎の墓地を参詣されました。皇族として初めてとなった昭和天皇による参詣の報は、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクに伝わりました。
 トルコ政府も、エルトゥールル号の海難事故と救援活動を両国の友好の起点(「日土修好初年度」)と位置づけ、1936(昭和11)年2月に着任したヒュスレヴ・ゲレデ駐日大使は両国政府と関係機関に働きかけ、墓地に新たに墓碑(弔魂碑)を建立すると共に墓地を大々的に改築することを決定し、同年10月、樫野崎に赴き定礎式を行ないました。
 新たな計画を進めるにあたっては、内務大臣の了解のもとで和歌山県庁に設計や施工、管理が委嘱されましたが、実質的には陸軍他、大阪日土貿易協会(その後、近東貿易協会に改称)などが関与しています。1937(昭和12)年6月3日に除幕され、外務省・陸軍省・海軍省からの出席者もある中、50周年追悼祭もその時、併せて行なわれました。

 樫野崎のトルコ記念館近くにある慰霊碑。
トルコの資金で1937(昭和12)年に完成(著者撮影)

 第2次世界大戦中と国交断絶時には中断を余儀なくされましたが、このように昭和初期からは、エルトゥールル号の大海難事故が新生トルコと日本の両国にとっての外交・経済関係の礎として語られるようになっていきます。  国内産業保護のため、日本を含む諸外国との貿易事業を厳しく制限していたトルコですが、イスタンブルを第二の故郷とし、帰国後も両国の貿易発展を模索し続け、『大阪時事新報』(1930.12.3)に欧州視察のインタビュー記事が載るなど第一線で活躍していた実業家、山田の存在はいずれにしても大きいと考えられます。   墓地公園を清掃する大島小学校の児童  地元ならではの活動もあります。大島村が本土の串本町と合併した翌年の1959(昭和34)年に、「トルコ使節艦エルトゥールル号追悼歌」(作詞:和泉丈吉・作曲:打垣内正)が披露されました。追悼歌は他にもあるようですが、今日まで樫野崎地区で歌い継がれ、地元の小中学校でも歌っているのは上記の和泉・打垣コンビの追悼歌であり、歌詞を現代風に少しリメイクしたものです。  両国の絆を後世に伝える役割の一端を担ってきた「トルコ使節艦エルトゥールル号追悼歌」は、近年、編曲された楽譜が音楽CDとなり、串本町役場や小学校へ寄贈されるなど、新たな命として蘇り、後世へのバトンをつなぎ続けています。  また、和歌山県出身でトルコ人の夫を持つ及川眠子(ねこ)が作詞を、同じく和歌山出身の蛯乃木ユウイチが作曲を手がけた日本とトルコの友好ソング「誓い」も生まれました。歌い手は、昭和の歌謡曲全盛期に「飛んでイスタンブール」で大ヒットを飛ばした歌手の庄野真代です。  バトンをつなぎ続けているのは、追悼歌だけではありません。樫野小学校(現在は統合され、串本町立大島小学校)の児童たちは、総合的な学習の時間などに日本とトルコの関係を学び、さらに学校行事の一環として年1回、犠牲者の眠る樫野崎の墓地公園の清掃を続けています。  また、1963(昭和38)年に串本町を訪れたトルコの議員12名が、「樫野の漁村風景が、黒海に面した港町ヤカケントと似ている」ことに驚き感動し、翌1964(昭和39)年11月、串本町はヤカケントと姉妹都市になりました。また、後述する姉妹都市メルシン市とも、1994(平成6)年から青少年の派遣と受け入れを行なっています。2014(平成26)年7月には、メルシン市から9回目となる青少年団(14~17歳の中高生10名と引率者3名)が串本町を訪れ、大島中学校の生徒たちとゲームや日本の昔の遊びで交流したり、エルトゥールル号遭難慰霊碑に献花し、樫野埼灯台旧官舎やトルコ記念館を見学したりしています。  樫野埼灯台に続く遊歩道の入口に、1974(昭和49)年12月に開設されたトルコ記念館には、沖周村長が救援活動の詳細を記録した『沖日記』やエルトゥールル号の模型や乗員の遺品他、トルコ政府から寄贈された品々や関係資料が収蔵・展示されています。近年は、串本本土から紀伊大島を結ぶくしもと大橋(290メートルのアーチ橋と386メートルのループ橋からなる)が架かり、アクセスが良くなったこともあり、週末など人々が訪れる場所となっています。  かつて和歌山県東牟婁郡大島村だった住所が、和歌山県東牟婁郡串本町へと変わった後も、追悼祭そして5年ごとの慰霊の大祭が執り行なわれてきました。地元民が先人を敬い、誇りとし、異国民の命であっても区別することなく墓を守り抜く責任のバトンをつなぎ続けてきたからではないでしょうか。

東牟婁郡串本町のトルコ記念館(著者撮影)

民間外交の究極の成功例がこのフラスコ瓶の中に  1990(平成2)年には、両国で同時に100周年慰霊祭兼記念式典が実施されました。寬仁親王殿下はこの年、ご尊父・三笠宮崇仁親王殿下の名代として、信子妃殿下と共に式典にご臨席のため、トルコ共和国の南部、地中海に面したメルシン市を訪問されています。  この時の現地でのエピソードが、海洋政策研究財団のホームページ(ニューズレター第178号 2008.01.05発行)に「民間外交の鑑 ~海からつながる日本とトルコの友好~」と題して寬仁親王殿下のお言葉にて綴られていますので、僭越ながら一部(見出し「救援活動から始まった民間外交」の後半部分)を抜粋させていただきます。   ――そしてこの後、突堤の先端迄歩き、洞の様な建物の中に入り、大きなゲストブックに署名をして欲しいとの事で、寬仁親王・Tomohitoと大書しました。そして妻(著者注釈:信子妃)にペンを渡して、ふと壁を見た処きれいなガラス棚に、水と土の入ったフラスコが一つずつ鎮座していました。早速質問した処、「100年前の樫野崎の漁民の人々の心温まる救出活動を永遠に忘れない為に、樫野崎の水と土を安置しているのです!」という御返事でした。  思わず、私は、「民間外交の究極の成功例がこのフラスコ瓶の中にある!」と感激しました。  クールに考えれば、救出されたエルトゥールル号の水兵達は日本語はわからず、ましてや、当時の樫野崎の漁民の人々(家族を含めて)は、外国人を一人として見た事も無い人々だったでしょう。その人々が台風荒れ狂う中で、断崖絶壁を登り降りしつつ異国人69名を、多分、和歌山弁の日本語と、今でいうボディ・ラングエッヂを使って必死の思いで助けた訳で、生死のギリギリの境で、異人種同士の間で生まれた言葉では表現出来ない、「絆」が100年経過しても深まりこそすれ薄まっていない事実を見て本当に感動しました。  同行していた皇宮警察の護衛官の佐伯猛貴というスキーが上手なので長年私に付いている警部(当時)が、帰りの車のなかで、「殿下、私が皇宮の初任科の折、警察大学で大部屋に泊って訓練を受けている時、和歌山から出てきた同僚が、酔うと必ず『俺たちの先祖はトルコ人を助けてあげた輝かしい歴史を持っているんだ!』と宣うので当時は聞き流していましたが、これだったんですね!」と感極まった声で報告してくれました。  そこで私は、「当時の名簿を捜してこの事を手紙に書いてあげれば喜ぶよ! 民間人の成し得る最高の二国間外交の成果になっていますよ!と書いてさ!」と言いました。    同時期、トルコのテレビや新聞、雑誌などでも日本との友好関係が改めてクローズアップされています。雑誌『プスラ』では、日本とトルコの友好関係が明治天皇の(義理の)叔父である小松宮彰仁親王・頼子妃殿下の1887(明治20)年のイスタンブル訪問から始まったこと、1931(昭和6)年に高松宮宣仁親王・喜久子妃殿下がトルコを訪問し、アタテュルク大統領に謁見し名誉の剣(現在アタテュルク廟に展示)を寄与したこと、1964(昭和39)年、ジェマル・ギュルセル大統領、イスメット・イノニュ首相と謁見した三笠宮親王・妃殿下が、首相よりアタテュルク国際平和賞を授与されたこと、1984(昭和59)年に日本・トルコ議員友好連盟が設立、アンカラにて土日協会が設立されたことなど、1世紀以上にわたる皇室外交を中心に紹介しています。  また、有力日刊紙『Milliyet(ミリエット)』(9月13日付)には、寛仁親王・妃殿下が、イスタンブルのボスポラス海峡沿いにあるトルコ随一の大財閥サークプ・サバンジュ(2004年4月19日に71歳で死去)の大邸宅を訪問したこと、サバンジュ氏が寛仁親王殿下御夫妻に「トルコで日本の病院の設立ができませんか?」と提案したことなどが報じられています。  ちなみにこの大邸宅はかつて、オスマン帝国の総督の別荘であり、その後、持ち主が転々としましたが、2002年からはサバンジュ・ホールディングによる蒐集品が収蔵・展示されたサバンジュ大学付属博物館として生まれ変わり、オスマン帝国時代の芸術の華である繊細なカリグラフィー400点ほどが展示されています。このカリグラフィーのコレクションは世界的にも有名で、また豪華な内装や家具、食器なども展示物になっています。  なお、100周年慰霊祭兼記念式典がイスタンブルではなくメルシン市で催されたのには訳があります。1971(昭和46)年5月、トルコ海軍総司令官ジエラル・エイジオール大将(後に駐日トルコ大使を歴任)が、エルトゥールル号追悼式典出席のために和歌山県の紀伊大島を訪れた際、エルトゥールル号の慰霊碑がトルコ本国にないことを遺憾とし、建立を計画したそうです。その際、第2次世界大戦中に地中海メルシン沖で国籍不明の潜水艦に撃沈されたトルコ軍艦レファ号のものと併せ、翌年6月に樫野の慰霊碑と同一の碑をメルシン市に建立したのです。  このことが契機となり、海難事故の救援救難の主舞台となった串本町の町議会で、1975(昭和50)年10月に、メルシン市との姉妹都市提携が決議されました。ただ、公式調印に至らないまま〝婚約状態″で緊密な関係を続け、1994(平成6)年7月31日、メルシン市からオカン・メルジェジ市長を団長とする代表団が来町した際、ようやく正式な調印文書を取り交わし姉妹都市宣言を行なっています。  なお、メルシン市内で最も賑やかな通りは「串本通り」です。現地にかつて暮らしていた一人は、「トルコ人の親日度が高いのは知られていますが、メルシンのそれは半端ではありません。歩いているだけで『ジャポン』『ジャポン』と大騒ぎ」「メルシン市民が、子どもから農民に至るまで、皆ヒロシマ・ナガサキの原爆のことを知っていて、いたわりの言葉と、戦後の破壊からの復興に対する賞賛の言葉をかけてくれる」と記しています。 〝地震多発地域″という悲運を背負った国としての〝絆″  「中編2」で詳細を記した1985(昭和60)年3月のイラン・イラク戦争の〝命の翼″を契機に、日本とトルコの絆はさらに深く広く、多角的になっていきました。1988(昭和63)年には、日本の政府開発援助のもとで、石川島播磨重工業(現IHI)と三菱重工業などがファーティフ・スルタン・メフメト橋(通称、第2ボスポラス大橋)をイスタンブルに建設しましたが、両国の友好を繋ぐまさに形のある〝架け橋″の完成を記念した切手もトルコで発行されました。  そして日本国民の少なからぬ眼と心が再びトルコへ注がれたのは、1999(平成11)年に起きた大地震の時でした。8月17日にイスタンブルから東へ約110キロ、人口約550万人の工業都市イズミット市でM7.4規模の地震が発生(名称は「コジャエリ地震」「イズミット地震」など)、1万7000人強が亡くなり4万人強が負傷しました(1999年11月16日 トルコ首相府緊急対策本部発表)。さらに同年11月12日にはボル県デュズジェ市を中心にM7.1規模の大地震が発生し、死者は800名以上、負傷者約5000名という大きな被害が出ました(1999年12月15日 同対策本部発表)。  日本政府や日本赤十字はもちろん、企業、民間団体、個人、そしてイラン・イラク戦争時にトルコ航空に助けられた企業とその関係者など、物心両面での支援がトルコに行なわれました。日本はその4年半前の1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生しており、その記憶が生々しい中での親交国トルコの大惨事となりました。  トルコ北部には北アナトリア山脈が東西に連なっており、その南麓沿いに1000キロメートル以上におよぶ右横ずれの北アナトリア断層が走っています。3万人もの死者を出した1939(昭和14)年の大地震(エルジンジャン地震)から1967(昭和42)年の28年間で、北アナトリア断層に沿って震源を西に移動させながら、M7規模の地震が5回も発生していました。  しかしながら、1967年以後は地震が長い間、起こらなかったため、専門家たちが〝地震空白域″と考え、日本の研究者も参加して地震や地殻変動の観測を重点的に実施していたそうです。1999年夏も電磁気観測による断層の深部構造探査などを実施していた、その矢先に予想されていた断層上で大地震が発生したのでした。  また、2011(平成23)年10月にも、トルコ東部をM7.2の大地震が襲いました。串本町も「他人事ではない!」と町役場本庁舎や分庁舎、トルコ記念館に義援金の募金箱を設置し、関係者に電報や電話で連絡を取るなど、すぐに動き出しています。  コジャエリ地震の発生後、兵庫県が設置した「ひょうごトルコ友愛基金」は、2014(平成26)年8月まで、遺児・孤児に対する育英奨学金寄付事業などを実施してきました。今後は、トルコの地震防災対策充実に向けた「ひょうご・トルコ地震防災対策プロジェクト」事業を兵庫県とアンカラの土日基金(タイヤール・サドゥクラル理事長 元関税・専売大臣・元中央銀行総裁)の連携のもとで実施していくことが決まっています。  喜ばしい話ではありませんが、つまり日本とトルコは〝地震多発地域″という悲運を背負った国としての強い〝絆″も結ばれていたのです。   イラン・イラク戦争、脱出者たちの〝戦後″  さて、イラン・イラク戦争の脱出者215名の〝戦後″はどうなっているのでしょう? テヘランから脱出したその晩、イスタンブルのレストランで安堵感に包まれた人々が乾杯し、「イラン戦友会」を結成したそうです。その時のメンバーの一人が沼田凖一氏です。  イラン戦友会は、日本での1回目を山中湖1泊で、その後も那須や千葉養老温泉にて開催したそうです。しかしながら、皆企業戦士です。戦友会の開催も、徐々に頻度が少なくなっていきました。  ここで回想録(「イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇~日本・トルコ友情物語~」沼田凖一さん編 2011 JUNPERIAL SHOP)を一部引用させていただきながら、その後を追っていきたいと思います。沼田氏は帰国後のご自身の心理状況について、このような言葉で綴っています。 ――無事に帰って来たことを喜び、泣き、そこでどこか時計が止まっていたようです。生きている喜び、平和であることの喜びをかみしめて。  「時計が止まってしまった」理由について、沼田氏はさらにこのように綴っています。 ――私の気持ちの中には、日本に見捨てられた自分が情けないという想い、家族にもそのことを知られたく無いという気持ちがありました。日が経つにつれて、少しずつはあの不安、あの恐怖は薄れては行ったものの、心の傷は簡単には癒されませんでした。会社に行ってもやはりこのことは言わずにいました。怖かったとか、不安だったとか言うのは、男として恥ずかしいことだという気持ちがあったからでした。  心の奥底で悶々とする何かを抱えたまま、誰かに語ることなく月日が過ぎて行ったようです。その背景にある心理として、「あの時の不安、恐怖を早く忘れたいといった気持ちが支配していた」と総括しています。  もう一人の方の回想録(「イラン・イラク戦争 奇跡の救出劇~日本・トルコ友情物語~」高星輝次さん編 2011 JUNPERIAL SHOP)もご紹介しましょう。高星氏は初めての外国渡航となったイラン、その首都テヘランにおいて、20代での海外赴任から半年後に戦争が激化し、九死に一生を得た方です。イラン・イラク戦争の小康状態が続く中で、1986年8月よりテヘランへ2度目の赴任もされています。 ――3月18日の夜、N商社の方から「明日、トルコの救援機に乗れるかも知れません」という情報がもたらされた。期待7割、本当に今回は脱出できるの?という猜疑心3割、それでも当然「脱出」に望みを託します。明日の命の知れない日々に、「最後の記念写真になってしまうかも?」と思い撮影をしました。 ――帰国して初めて茨城の実家に帰った時、母は黙って私の背中を撫でていました。たまたまその日、伯母が来ていて「よく無事で……」と私にすがって泣き崩れました。とんでもない心配をかけてしまったと改めて思いました。母や伯母にとっては、太平洋戦争を経験しており、戦争のつらさ怖さ無残さは骨身にしみていることなのでしょう。随分後になってから、戦争が激しくなっていくニュースが流れる中、私の安否を会社に尋ねるべきか、親がそんなことを言わない方がいいのか悩んだと聞かされました。  死ぬか生きるかの体験を同時に同様に共有したとしても、その後も皆が同じ心理状況にあるとは限りません。とはいえ地獄の淵を短期間でも経験した日本人――この度は帰還した日本兵ではなく企業戦士ですが――の〝心に溜めてきた言葉″が、四半世紀を過ぎた中、綴られたことは大変に貴重な資料なのではないかと思います。  〝心の扉″を開かせ、気持ちが軽くなったのは、何も時の経過だけではありません。背中を押す出会い、串本町の存在があったからなのです。 トルコの方にやっと直接、お礼が言えた  さらに、高星氏はこのように綴っています。  ――(2回目のテヘラン赴任での話)就労ビザは持たないで旅行者として入国している関係上、滞在できるのは3カ月。3カ月で一旦、他の国に出国し再入国して任期をつなぐ(中略)2度目のトルコ訪問にあたっても、特別な感慨は持たずに訪ねていった。ましてや90年以上前に、和歌山県樫野の方たちが台風によって遭難したトルコの軍艦エルトゥールル号を救助し、そのこともあって戦争の最中に危険を冒してトルコ航空が日本人を救助してくれたというようなことはまったく理解しておらず、今となっては、自分の勉強不足と無知を恥じるところ(後略)。  このように、トルコがなぜ在留テヘラン邦人を助けてくれたのか、その真相を知らないまま長年、過ごしてきたのは高星氏だけではなさそうです。「恩返しについて悶々と考えてきた」沼田氏ですら、「知らないまま、23年が過ぎていた」と記しています。  とすると、イラン戦友会メンバーが日本で幾度か集った際に、酒を酌み交わしても、その核心部分の話題には至らなかったのだと考えられます。しかもNHK総合テレビのドキュメンタリー番組「プロジェクトX~挑戦者たち~ 撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ」(2004年1月27日放送)の制作過程でも、沼田氏は関係者に「NHK和歌山の取材に協力してもらえないか?」と声がけしていたはずなのですが……。  沼田氏の転機は2008年、ある番組を偶然観たことに始まります。  10月17日にテレビ東京系列で放映された「世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS」に、沼田氏の目は釘づけになったそうです。その内容は、エルトゥールル号の大海難事故の詳細に始まり、95年後の1985年3月19日、テヘランに取り残されていた日本人の救出のために救援機を派遣し、自国民より優先して日本人を助けたというものでした。  沼田氏は帰国後、トルコ航空による救出の事実を報じた記事や「日本側は『友好関係の成果』としてトルコの対応を評価している」と上から目線の内容しか読んでいなかったそうです。  2008年10月17日を境に、沼田氏は日本とトルコの関係を知りたいと、色々な資料を集め、読み漁ることになりました。 ――一部の人たちの努力が、私の命を助けてくれたのだと判り、何としてもその人たちへ恩返しをしたいと思いました。それと併せて、テヘランの地獄の淵から私を救出してくれたトルコ航空のことを多くの日本人に、どうしても知ってもらうための努力をしなければいけないと思いました。  「トルコの方々に直接、お礼を述べたい」との気持ちを抑えることができなくなった沼田氏は、その後、意を決して在日トルコ共和国大使館へ連絡を取っています。 ――25年経って、トルコの方にやっと直接お礼が言えました。私は何と幸運なんだろう、こうやって直接トルコの方にお礼が言える日があるとは考えてもいませんでした。  さらに沼田氏は、こう綴っています。 ――イラン人もまた優しい人が多かった。私たちがテヘランに取り残されたことを本当に心配してくれたし、一生懸命、被害にあわないよう気遣ってくれました。でも、イラン政府は日本人の国外脱出の手助けはしてくれませんでした。(中略)私にとってのイランは友達も多いし思い出の多い国ですが、トルコは私の命の恩人です。  戦渦のテヘランから脱出した邦人215名の中には、知る限り、1歳と2歳の乳幼児、そして臨月のご夫人が1名いました。とすると216名(以上)の命が、トルコ政府が決断した〝命の翼″によって救われたのですが、この瞬間もまだ、「エルトゥールル号の物語」をご存じない方がいるのでしょうか……。 

(敬称略) 次回は2015年1月5日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。