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  • 第9回〝親日国″〝知日国″の隠れ世界ナンバー1はポーランド(第4編) 2015年5月1日更新
 ペリー提督率いる米国海軍が下田に来航した1854(嘉永7・安政元)年3月、江戸幕府は日米和親条約を締結、200年以上続いた鎖国政策に終止符を打ちました。1867(慶應3)年の大政奉還を受けて討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり新政府が成立、近代国家への道を歩み始めます。欧州列強によるアジアの植民地支配が進む中、国家の安全と主権を保障するためには富国強兵以外に進むべき道はないと考えました。19世紀後半、日本を含む周辺諸国にとって最大の脅威となっていたのがロシア帝国(1721~1917)でした。
 日露戦争(1904~1905)でバルチック艦隊を撃破し、日本を勝利へ導いた大日本帝国海軍の東郷平八郎(1847~1934)提督は、「TOGO」の呼び名で世界的に有名ですが、その10年前の日清戦争以前より、清国やプロイセン(ドイツ)、そして南下政策をとる帝政ロシアの軍事情報などを、類まれな語学力を駆使しつつ収集してきた〝陰の主役――陸軍参謀本部の情報将校″がいました。彼は初めて公式にポーランドを訪れ、ポーランド人と接触した人物でもあります。
 時代は130年ほど前までさかのぼります。

福島安正が〝亡国の民族″と接触
 その人物とは、陸軍の情報将校・福島安正(やすまさ)(1852~1919)です。嘉永5年、長野・松本藩士の家に生まれました。藩の許可を得て12、13歳で上京し幕府講武所で学び、同時にオランダ式軍鼓撃方を身につけ、語学も習得しました。
 開成学校(東京帝国大学に改組)で研鑚を積み、1873(明治6)年に司法卿江藤新平の斡旋で司法省へ入省。翻訳課に勤務し、その翌年、陸軍省に転じました。1876(明治9)年には、フィラデルフィア万博へ陸軍使節団の随員に任じられ渡米をしています。1878(明治11)年、26歳の時、臨時士官登用試験に合格、晴れて陸軍中尉に任命されました。
 その後、参謀本部長・山県有明の伝令使を務めることになったのですが、今で言えば秘書官、海外情報を収集して山県に伝える役目でした。翌1879(明治12)年からは、清国や朝鮮の政情や軍備状況を調べるため現地に度々赴いており、朝鮮を巡り日本と清国の間の緊張が高まる中、1882(明治15)年から2年間は北京の日本公使館付武官として情報収集を続け、65巻に及ぶ『清国兵制類集』にまとめています。
 当時、インド、ビルマ、インドシナ、マレー、インドネシア、フィリピンは完全に植民地として支配されていました。清はイギリス、ロシア、フランス、プロイセン(ドイツ)によって半ば分割支配され、欧州列強による完全支配は時間の問題でした。侵略の手は、当然、日本にも伸びていました。
 福島は、日本に帰国すると欧州列強の調査に取りかかりました。その頃、中央アジア侵略の手をアフガニスタンへと伸ばしていたロシアは、イギリスと衝突しかかっていました。「ロシアは次に満洲、朝鮮を経て太平洋に出て不凍港を入手しようとするはず」と予測し、報告をしました。参謀本部は国防の重要性を訴える献言書を明治天皇に提出し、1887(明治20)年3月に「海防に関する詔書」が下され、特に建艦費として宮廷費の1割以上を下賜されました。
 海軍増強は、この時から始まりました。同年、福島は在ベルリン公使館付き武官の重責を命ぜられました。英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語の5カ国語を駆使し、アジア諸国の軍事情勢にも通じていた福島の次なる任務は、欧州の近代的軍隊とその戦略に関する情報の収集でした。
 ロシアは当時、シベリア横断鉄道を建設中でした。福島はベルリンに赴任した翌1888(明治21)年に、その情報を得たようです。鉄道の軍事的な意味は明らかでした。ロシアは、極東に兵力や物資を効率的に運ぶ手段を考えていたのです。海路は時間とコストがかかり過ぎる上、イギリスはじめ欧州列強の領海を通過することになるためです。
 5年にわたるベルリン滞在中、福島は日本軍の近代化のモデルとされたプロイセン(ドイツ)軍に関する詳細な知識を得て、欧州諸国のほとんどを訪れ、収集した様々な情報を参謀本部に伝えるのみならず、シベリア単独遠征をも企画しました。欧州各地で聞いた内容を、自らの目で確かめようとしたのです。
 その頃、福島はすでに欧州各地で複数のポーランド人と接触していたと考えられています。当時のポーランド人は〝亡国の民族″でした。1772年、ロシアの南下政策を警戒したプロイセンが、オーストリアを誘いポーランド領を3国で分割することを提唱しました。これが第1次ポーランド分割です。1793年には、ロシアが第2次ポーランド分割をプロイセンと強行します。
 それによって緩衝地帯としての土地のみが残され、まさに小国と化したポーランドで、時の将軍が立ち上がり民衆と共に蜂起しますが、2年後の1795年、ついに残りの領土まで3国が分け合うこととなり、ポーランドという国名は世界地図から姿を消してしまいました。しかも、ポーランドを消滅させた3国間で結ばれた協定書には、「ポーランド王国が存在したことを思い出させるすべてのものを消滅させなくてはならない」と記されていたのです。
 ポーランド人志士(愛国者)とその子孫たちは、欧州各地に散らばったり、危険分子や政治犯としてシベリアなどへ流刑にされたりしながらも、不屈の精神で国の再起を目指し、独立に向けた地下活動を行なっていました。
 ちなみに、ポーランド共和国の国歌(1926年に国会で決定)の「ドンブロフスキのマズルカ」は、18世紀から欧州各地に亡命したポーランド志士の間で歌われていた軍歌で、別名は「ポーランドは未だ滅びず」です。ポーランド民族の歴史は、その歌詞「ポーランドは未だ滅びず 我らが生きる限り 外敵が力で奪い去りしものは 剣をもて奪い 返さん すすめ すすめ……」の通り、国家を復活させ真の自由と民主を取り戻すため、2世紀以上にわたり勇猛果敢に、そして大量の血と涙と汗を流し続けてきた苛烈な運命の連鎖でした。

陸軍の情報将校・福島安正(1852~1919)
(提供:国立国会図書館)

「波蘭志士」というメモの存在  1892(明治25)年の紀元節(2月11日)、福島は愛馬「凱旋」にまたがり真冬のベルリンを出発しました。ウラル山脈、アルタイ山脈を越え、沿海州ウラジオストクまでの1万4000キロ、488日に及ぶ単騎馬横断遠征の始まりでした。  単騎馬での旅を決行した理由について、福島は以下のように記しています。    つくづく過去の経過より考えるに、汽車汽船の旅行は、一瞬にして数里を過ぎ、山川の地形を弁ずることができがたい。しかも、その通ずるところといえば、地は開け民は豊かであるゆえに、たとえ沿道にて数日の滞在をなすとしても、ただ大いなる家屋に宿って、わずかに表面の観察ができるばかりである。土地の実際と人情・風俗の機微、教育・宗教などを細かく観察して、一国の実力のあるところを推究することは、到底できない。馬車もソリも大同小異。今回の余の目的には適さない。よって考えた。  この目的に適当なるものは騎馬である。騎馬でなければ、決して思うままに山河を踏破することはできない。これ、断然この決心をしたる理由の大要である。   (『単騎馬遠征』の筑摩書房編集部編訳より)    福島の単騎馬遠征はドイツで全ての新聞に掲載され、欧州各地のみならず米国にまで伝わりました。日本では『大阪朝日新聞』がこの遠征を報じたところ、記事は大きな反響を呼びました。しかし、間もなく同紙は報道を打ち切ることになります。明治政府が、「国家の重要な情報収集、諜報活動を兼ねたこの旅は秘密扱いにすべき」との判断を下したためです。  欧米列強とロシアに、福島安正の名が広く知られることとなった単騎馬遠征の詳細は、『福島将軍遺績』(1941 年/東亜協会)、『福島安正と単騎シベリヤ横断』(上下)(島貫重節著/1979 年/原書房)、『シベリア横断―福島安正大将伝』(坂井藤雄著/1992年/葦書房)、『福島安正 情報将校の先駆―ユーラシア大陸単騎横断』(豊田穣著/1993年/講談社刊)など、複数の書物から知ることができます。福島が残した数々の書物や調査報告は、第二次世界大戦後にその多くが破棄されてしまったのですが、それでも「単騎馬遠征」と題された報告書などから旅程が相当に詳しく再現できるのみならず、彼自身の人柄や洞察力、考え方まで知ることができる資料が複数残ったそうです。  ここでは、主に『単騎馬遠征』や『日本・ポーランド関係史』(エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ アンジェイ・T・ロメル 柴理子訳/彩流社)に記される福島とポーランド人の接点を中心にご紹介しましょう。

ワルシャワ歴史地区(旧市街市場広場) 第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍に徹底的に破壊されたが戦後、当時とまったく同じ様に再建された。1980年にユネスコ世界遺産に登録。(著者撮影)

 シベリア横断計画を立てる段階で、福島はすでにポーランド人の独立運動家やシベリアの元流刑囚らに接触したと考えられています。「ロシア領内の旅行ルートを決める上で彼らの情報は重要だったはずで、独立運動家が指定した場所に赴き、その仲間たちと接触して、さらに陸軍省参謀本部からの追加情報などを得ていたのではないか」というのが、ワルシャワ大学東洋学部日本学科長のエヴァ・パワシュ=ルトコフスカ教授をはじめ、日本研究の第一人者らの結論です。  その根拠となっているのが、「波蘭志士」というメモの存在です。ポーランドの独立を目指すポーランド人の秘密政治組織が、欧州各地に存在することを福島は把握していました。資金や武器や装備などを安全に入手するためにも、秘密政治組織は旧ポーランド領以外のイギリスやフランスなどに置かれていたのです。活動家たちは当該国の諜報機関とも協力関係にあり、その関係をポーランド独立の実現のために利用しようとしていました。  マイナス10度あるかないかの厳冬の中、ベルリンを出発した福島は東へ進み、3日目に旧ポーランド領に入っています。弾圧に耐えながらも、地下で独立運動を続けていた時代です。そして2月15日には、ロシアとの国境沿いにあったポズナン(現ポーランド西部に位置する中世ポーランド王国の最初の首都)に入りました。この一帯は、ドイツ軍司令部が置かれていました。ポズナンからロシア領へ入る際、福島は国境の警備が簡略すぎることに驚き、「仮の国境であるため」と報告書に説明しています。このあたりが、かつてポーランド領だったことを福島は知っていたのです。  2月24日にワルシャワへ到着した福島は、翌25日、騎兵旅団の司令部を訪問し、司令官や駐屯中の兵士と顔を合わせています。ここでは、深い積雪の中を騎馬で行軍する際の注意点や経験を、馬について知り抜いている騎兵たちから得ており、「独露国境沿いの道が安全で、積雪も少ない」とのアドバイスも受けています。  かつてのポーランド王国の栄華やポーランド文化の水準の高さを物語る王宮などに感動した福島は、ワルシャワについて、「整然とした、しかし騒々しく活気に溢れた古の自由なポーランドの都」といった内容も記しています。

ワルシャワ歴史地区(王宮前広場) 右奥の煉瓦色の建物が〝ポーランド民族の象徴″王宮。1939年に空襲を受け、1944年にナチス・ドイツ軍に完全破壊された。外装も内装も全て昔のままに再現されている。(著者撮影)

 福島はそれと同時に、ロシア化を強いられ自由を求め幾度も繰り返してきたポーランド人の蜂起、そしてワルシャワの街が味わった悲劇の痕跡も目のあたりにしています。多くの死傷者を出しながら無情にも祖国を失ったポーランド人ですが、ロシアにとって邪魔な人物は政治犯や危険分子としてシベリアへ送り込まれたり、欧州各地へ亡命したものの「ポーランド国の復活」という口車に乗せられ、ゲリラ戦や過酷な戦場に派遣されたりするなど、その後の運命においても翻弄されていることに心を痛めました。  ポーランドはその200年前までは、中央ヨーロッパの一大王国でした。その境域は、北はバルト海より南は黒海につらなり、その面積はフランス、スペインと匹敵していたのです。『日本を護った軍人の物語―近代日本の礎となった人びとの気概』(岡田幹彦著/2002年/祥伝社)からは、福島は日本がポーランドのような悲運に陥らないことを願い、日本のあり方について真剣に考えていたことが分かります。  「日本人は世界の人類が全部日本人と同様に平和な人間ばかりであると思い込んでいて、外国人が日本に侵略してくるなどと考えること自体、誤りだと信じている人間ばかりである」  「日本では平和のために国防をやろうなどという発想は、自然のままでは絶対に芽生えてこない。一般の日本人の大部分は国防の重要性を感知しない。となると、これを感知させるべき何物かが必要である。このように将来のための国防を考えて指導する人、これが日本のために要求される指導者の特長である」  「国を離れてみて祖国日本のことが初めて分かる。そして陸軍大学校の講堂などでは絶対に学びえない西欧現地の彼らの闘争本能に徹した過去数世紀に及ぶ流血の跡を偲び、そして将来もまた永遠に負けないような日本をいかに築き上げていくかを真剣に全身で感じ取ってもらいたい」   名士パクレフスキー一族にもてなされた福島  2月の後半、福島はリトアニア、ラトビア、エストニアのバルト3国を通過しました。かつては独立国として繁栄していましたがロシア領となり、やはり地下で独立運動が続けられていました。福島は、「日露間に戦端が開かれたら、これらの独立革命家を支援、扇動して、帝政ロシアを西から攪乱する手もある」と考えたとされます。  『単騎馬遠征』によると、ヴォルガ川の一支流にのぞんだミエドノエ村では、リーゼンカンプという名前の連隊長に会っています。連隊長夫人は、ポーランドの名士パクレフスキーの娘でした。パクレフスキーは、かつてポーランドの義勇軍に加わりその勇名は一世を風靡しましたが、シベリアに流刑にされ20余年の刑期満了後は事業を始め、ウオッカ製造でシベリア屈指の豪商となり、パクレフスキー死後は、三子がその遺業を継いでいるとのことでした。  福島が記すところによれば、「連隊長夫人は人情に厚く、前途の不便を察し、シベリア各地におけるパクレフスキーの会社の支店長に懇篤な添書を与えてくれ、ミエドノエ村を出発する時には、夫妻と共に青年将校一同らが遠く市外まで見送ってくれた」とのことです。  モスクワ滞在中には、シベリア鉄道に関する情報も集めています。「東西両端から建設工事を始めていて未完成の線路は約7000キロ。工事スピードはこれまで年間700キロなので、あと10年、1904年には完成するだろう」と予測しています。実際の開通はまさに福島の予測通り、日露戦争開戦の年でした。  モスクワを出発した頃には、愛馬の「凱旋」が急性リウマチを患い、再起不能となっていました。福島は、新馬「うらる」を求めます。しかし、福島は病馬の「凱旋」の首すじをさすって慰めながら、青草を食べさせ、扇子で背にむらがる蚊を追うなど、1日中そばを離れることができませんでした。記念にタテガミの毛を切り、懐中に収めました。  「当日の悲しみは深く、忘れることができない。思い出すたびに、涙が出るのをどうすることもできない」と記しています。  福島はシベリアの高原を進み、パクレフスキーがウオッカ製造で莫大な富を築いたタリッツァ村にも訪れています。先に連絡を受けていたポーランド人工場長とその妻が、警察官などと近郊まで出迎えていました。  同地域はかつて鬱蒼とした大森林があるだけでしたが、工場が建ってからは市街地として発展、小学校、郵便局、警察署、そしてパクレフスキーの名前がついた停車場までありました。パクレフスキー家は王宮のようでした。  福島はウオッカ製造工場を見学した後、出張先のパリから戻ってきたパクレフスキーの子息らと工場長の家で食卓を囲み談笑しました。パクレフスキーの子息が、ポーランド人の蜂起の様子を説明し出したところ、一同は憤りと悲しみの感情を抑えることができなくなったそうです。ロシアに捕らえられた囚人たちは、ポーランドからオムスクまで炎天下あるいは氷雪の上を10カ月も歩かされたというのです。  福島がこの地を去る時には、ウオッカ工場の役員や夫人、令嬢たちが馬車や騎馬でパクレフスキー停車場の前まで見送り、姿が見えなくなるまでハンカチや帽子を振って別れを惜しみました。  シベリア開発のため、多くの労働力を必要としていた19世紀末の帝政ロシアは、ポーランド人の犯罪者や政治犯を次々とシベリアへ送り込んでいました。貧しいシベリアではコレラも流行しており、福島が通過する町々では広場に死体の山が築かれ、「死の町」のような静けさに覆われていたといいます。 欧州列強やロシアにとって〝ひよっこ″だった日本  1893 年6月12日、福島はウラジオストクから愛馬と共に東京丸で横浜港へと向かいました。6月29日、横浜港から新橋駅へ。児玉源太郎陸軍次官や家族も出迎える中、明治天皇の使者より勲三等旭日重光章も授与されました。帰着の知らせは国内外に伝わり、「世紀の壮挙」などと報じられました。翌6月30日の『東京朝日新聞』記事には、「新橋停車場には大群衆が繰り出し、満都狂するが如きの歓迎を受け」「此の絶大の偉業をなしたる、此の全国人士の歓迎を受くる、福島中佐其人の容貌風釆なりとも一見せばやと、四方より集まり来る老若男女は、其数果して幾千万なるを知らず」などと記されています。  前出の『日本・ポーランド関係史』には、スタニスワフ・カジミェシュ・コッサフスキという人物による、福島の単騎馬遠征にまつわる論評が掲載されていますので、一部をご紹介しましょう。  (前略)全旅程を騎馬で通したといい、これらの町々を好感の持てる物腰と機転と知性とでもって走り抜けただけでも十分賞賛に値するが、感嘆の的となったのは、14カ月(実際は16カ月)の困難な旅に耐え抜いた並外れた忍耐強さであった。福島の接待にあたったのは大佐以下の将校たちであったが、そのうちの一人、アレクサンデル・ネヴィヤントという将校は、この「日本のモルトケ」の旅について某ロシア紙に一文を物している。(中略)  餌を食む愛馬の脚に包帯を巻いてやっている、いかにも聡明そうな目をした小柄な日本人が、数年後に日本軍部隊の指揮官として北京の城壁の下に立つことになろうとは、さらにその数年後にロシア遠征の立案者の一人として、まさに「日本のモルトケ」として世界に名を知らしめることになるとは、誰も予想だにしなかったに違いない。茫漠たるロシアの大地を一人の日本人が単騎馬横断したことが、近年の出来事にこれほど重大な役割を果たすことになろうとは、誰も考えつかなかったであろう。にもかかわらず、このとき、彼は手厚い熱烈とも言うべき歓迎を受けたのである。わが郡のポーランド系住民からは、ヴォルツェヴィチ夫妻がウチャヌィ付近で福島を迎えた。  「モルトケ」とはヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ(1800~1891)のことで、プロイセン(ドイツ)の軍人で、天才的な戦略家としてその戦争理論は後世に大きな影響を残しています。1年半のドイツ派遣の間にモルトケの戦略を徹底して研究したのが薩摩藩出身の陸軍将校、川上操六(1848~1899)でした。彼が福島にロシアの東方進出の意図や進捗状況に関する情報収集を命じたとされています。  そして、前出のルトコフスカ教授は、「日本の目的が、ロシアとその軍備、領内各地点に配置されていた部隊数、あるいはシベリア横断鉄道の敷設状況に関する情報収集であることは、ロシア側も十二分に承知していた」「ロシアを脅かすような水準の活動ではないと判断し、まだ日本を手ごわい敵とは見ていないがゆえに、福島を手厚く遇し、全旅程にわたって援助を与えた」「福島が敬意を表されたのは、騎手としての手綱さばきの巧みさ、大胆さ、忍耐強さゆえであった」と総括しています。  開国から数十年、近代国家へ歩み始めたばかりの日本は、欧州列強やロシアの目からは〝ひよっこ″だったのです。 抑圧されたポーランド民族に共感  19世紀から20世紀初頭にかけて、一説には15万から20万人のポーランド人が旧祖国から東へ約7500キロメートルの酷寒の地、極東シベリアに送り込まれていました。鉄道敷設に始まり「未開の地」の開発に邁進していたロシアの政策により、大人数のポーランド人と日本との〝物理的な距離″が意図せずして近づいたのです。政治犯として囚われた人々をはじめ、土地を奪われたシュラフタ(ポーランドの貴族階級)、専門技術を身につけたポーランド人なども彼の地にいました。  福島のシベリア単騎馬遠征がもたらした様々な情報は、日本と亡国ポーランドとの間で史上初、なおかつ〝特別な関係″として発進していきました。ポーランド民族の悲劇、ポーランドの分割や独立運動などの情報が日本へも伝わり、それに関する記事や書物が発表されるようになったのです。  政治小説も上梓されました。東海散士による、長編小説『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』です。物語はポーランドのみならず、ヨーロッパ列強の帝国主義の犠牲に供された弱小民族の悲史が語られています。  東海の本名は、柴四朗(1852~1922)。小説家で新聞記者、そして政治家でした。ハーバード大学、ペンシルベニア大学などで経済学を学び、帰国後に発表した『佳人之奇遇』は全8編(16巻)、1897(明治30)年まで続き、好評を博しました。  柴四朗は1888年『大阪毎日新聞』主筆などを経て、1892(明治25)年の総選挙で当選し政治家に転身していますが、その後も東海散士の名前で執筆活動を続け、大隈重信・板垣退助連立内閣の農商務次官、1915(大正4)年には外務省参政官に就任しています。  次にポーランドの名前を日本に広めたのは、歌人で国文学者である落合直文(1861~1903)でした。『騎馬旅行』という長い詩の中の一部の「波蘭懐古」は、福島の単騎遠征中の感想を落合が詩にしており、軍歌(1~8)として広く親しまれました。 (1、2、5~8略 「軍歌大全集」より) 3. 独乙の国もゆき過ぎて 露西亜の境に入りにしが 寒さはいよいよまさり来て 降らぬ日もなし雪あられ 4. 寂しき里に出でたれば ここは何処と尋ねしに 聞くも哀れやその昔 滅ぼされたるポーランド   落合直文は宮城県気仙沼市松崎片浜の煙雲館(仙台藩伊達家御一家筆頭「鮎貝家」の居館)に生まれ、国学者の落合直亮(なおあき)の養子になりました。国文学者で近代短歌と詩の革新運動の先駆者でもあった落合は、与謝野鉄幹ら門下を育てています。同連載の「第3編」では、東日本大震災以降のポーランドによる復興支援活動について、気仙沼市を主舞台に紹介しましたが、ポーランドと気仙沼の縁は、1世紀と少し前からこのような形でも繋がっていたのです。  20世紀初頭からは、加藤朝鳥(あさどり)(1886~1938)(本名は加藤信正)のように、ノーベル文学賞作品ヴワディスワフ・レイモントの『農民』はじめ、ジェロムスキの『祖国』『萠え出づるもの』など、ポーランド文学や学術書の翻訳、論文など、ポーランドに関する情報の普及に努めた人物もいました。加藤はポーランド政府から黄金月桂樹十字勲章とポーランドアカデミー勲章を受章しており、日ポの有識者の間で「ポーランド文学の第1人者」として知られています。晩年は立正大学教授を務める傍ら、文芸雑誌『反響』を主宰しました。  このように、情報将校の福島や政治家に転身した柴四朗をはじめポーランドに強い興味を抱いた各界の有識者たちは、ポーランド民族の悲劇、悲哀に同情を寄せると同時に、欧州列強の植民地化政策が進む中、日本にとっても他人事ではないと警鐘を発していたのです。 日ポ〝共通の敵″となったロシア  欧州列強によるアジア侵略が続く中、朝鮮半島へ進出した日本と朝鮮を属国とみる清国とが激しく対立し、日清戦争(1894~1895)が起こります。福島安正は第一軍参謀として出征、大鳥圭介駐韓公使を動かし、対韓強硬論を唱えています。  日清戦争に勝利した日本は、1895(明治28)年4月17日の日清講和条約(下関条約)により、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲されますが、ロシアと欧米列強は清国における日本の勢力拡大を懸念し、遼東半島を返還させました。その後、山東省から全国各地に拡大していった義和団の乱(1900年)では、西洋列強の公使館が集中する地区が包囲され、外国人宣教師や日独公使らが殺害される事態へと発展、福島は臨時派遣隊司令官として北京に赴任しました。  日本はその頃、遼東半島の25年間の租借権と南満州鉄道の敷設権をロシアが獲得したことに不満を募らせていました。朝鮮を巡るロシアとの駆け引きが続く中、日露関係は急速に悪化していきます。  〝共通の敵″がロシアとなったことで、ポーランド人の独立運動家たちが日本に急接近します。特にロシア領ポーランドでは独立の気運が高まっており、1890年代に始まった政治運動が成熟の時を迎えていたのです。  とはいえ、日露戦争の行方については半信半疑だったようです。強大なロシアとの戦争であり小国の日本に勝ち目はない、というのが大方の見方でした。ただ、緒戦における日本軍勝利の報が伝わると、ポーランドの独立運動家たちは日本への関心を高めます。  ポーランド社会党(PPS)の指導者の中から頭角を現わしていたユゼフ・ピウスツキ(1867~1935)も、日本との接触の機会をうかがっていました。  現在はリトアニアに属するヴィルノ地方のシュラフタ(ポーランドの貴族階級)出身で、当時ロシア政府に禁止されていたポーランド語の読み書きとポーランド民族の歴史を母親から兄弟と共に学び、民族蜂起を賛美する社会風潮の中で育ちました。  ハリコフ大学で医学を学んでいる最中、ロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件への関与の嫌疑で、5年間、中央シベリアのバイカル湖周辺へ流刑にされました。故郷へ戻り1年もたたない中、ポーランド社会党の創設メンバーの中心的な存在となり、1900年に再逮捕、収監されますが仲間の手により救出されたユゼフは、ロシアに対する積極的行動、すなわち武装闘争による独立の達成を呼びかけていきます。  時を同じくして、穏健な右派グループも動き始めていました。ワルシャワ大学生物学部を卒業後、作家のジェロムスキと共に労働者の啓蒙運動に取り組んでいたロマン・ドモフスキ(1864~1939)を指導者とする民族連盟です。ドモフスキの主張は、「全体に対する個人の責任感を育むことで、民族の性格を近代化する必要がある。そのために必要なのは民族的一体性であり、出自による特権は廃止すべきである」でした。彼はまた、高水準の文化と経済を有するドイツの方が、ロシアよりも危険だと考えていました。   ウィーン、ロンドンでの日ポの接触  その他、保守的な地主や手工業者から成る宥和派が、ウィーンで現実政策党を結成していました。同党は言語・宗教・自治における一定の改革を、あくまでロシアの保護下で望んでいました。同党を代表するポーランド人の一人、ヴォイチェフ・ジェドゥシツキ伯爵(1847~1909)は、駐オーストリア日本公使の牧野伸顕伯爵(1861~1949)とウィーンで接触し交流を持っています。牧野公使は大久保利通の次男で、その後、文部大臣や農林大臣などを歴任、1920年代からは昭和天皇の顧問でした。  ポーランド社会党も、ウィーン経由で日本に連絡を取ろうと試み牧野公使へ書簡を2度送りますが、慎重派とされる牧野公使がジェドゥシツキの要請に従ったのか、返信を得ることはできませんでした。そのためイギリス経由に決めて、林董(ただす)駐ロンドン全権公使へ手紙を送りました。その内容に関心を持った林は関係者と会見し、一部始終を小村寿太郎外相に電報で報告しています。  詳細は省きますが、『日本外交文書』(第37巻第二冊)によると、ポーランド社会党は「外国に流浪するポーランド人の中から、日本軍のためのポーランド人の軍隊を召募する」「ロシア軍に徴兵されたポーランド人兵士と予備役を日本軍に投降するよう指示を出す」「シベリア鉄道の破壊工作」などを日本側に提案しています。  小村外相はシベリア鉄道の破壊工作に大きな関心を抱いていましたが、国際法に抵触しうるという理由で資金援助を与える決定には至らず、回答を先延ばしにしていたようです。ポーランド社会党の関係者からは、日露戦争前と開戦後、ロシアの各軍管区からロシア軍に徴募された兵員数に関する情報なども、林駐ロンドン全権公使を経由して日本に伝わっていました。  また、日露戦争勃発後の3月14日、ポーランド社会党が組織した日本支持のデモがワルシャワで行なわれ成功裡に終わっています。ポーランド社会に日本軍勝利の噂が飛び交うようになり、〝モスクワ人撃破″への闘志に火がついたのでした。  軍事情報に関心を注いでいた陸軍の参謀本部は、ユゼフ・ピウスツキの東京訪問の可能性を検討し始めていました。ウィーンでは宇都宮太郎大佐(1861~1922)、そしてロンドンでも日ポの関係者で会談が行なわれました。ピウスツキは、シベリア鉄道破壊などロシア軍に対する様々な工作をする代わりとして、日本政府からポーランド革命運動への金銭や武器提供を含めた援助を求めたいと考えていました。  ピウスツキは、ロンドンにおいて小村外相宛てと参謀本部宛ての紹介状を2通受け取りました。参謀本部次長に昇格していた児玉源太郎(1852~1906)、そして第二部長となっていた福島安正にピウスツキを紹介するという内容でした。  一方の民族連盟の指導者で穏健派のドモフスキも日本を支持し、ロシアに対抗することを表明しましたが、ユゼフ率いるポーランド社会党の動きがポーランドにとって不利益になると考えていました。そのため、これを阻止するためにも訪日の機会をうかがっていました。  日本が民族連盟に最初に接触してきたのは1904年3月、日露戦争を指揮した明石元二郎(1864~1919)の肝いりとされます。日清戦争に従軍して義和団事件の鎮圧にも加わった明石は当時、参謀本部直属としてストックホルムの公使館に派遣されていました。ドモフスキとクラクフで面会した明石は彼の訪日を支持し、参謀本部の二人、やはり児玉と福島との面会のための紹介状を与えました。  ロシア軍兵士として日本と戦うポーランド人兵士を投降させるという提案は、ロシア軍全体の士気を低下させ、ロシア軍司令部を否応なく混乱に陥れることになると、明石は考えたのでした。   日本の勝利――それは万人の認める物質的な力に対する道徳的な力の勝利  民族連盟のドモフスキは1904(明治37)年5月15日から7月22日まで日本に滞在し、参謀本部の児玉・福島とも面会してロシア情勢とポーランド情勢に関する2通の覚書を作成しています。社会党のピウスツキ他1名も、約2カ月後の7月10日に横浜に到着、翌日から東京に入っていますが、参謀本部との会談は「儀礼的な性格のものだった」ようです。というのも、児玉と福島は在満州日本軍総司令部とその一員として、6月に離日してしまっていたのです。  ピウスツキは滞在中、日本側に以下のようなことを伝えています。  ロシアは大国ではあるけれど、宗教的・文化的に多様な諸民族の寄せ集めであり、ロシア化政策に苦しむそれら諸民族は強力な反対派を形成し、機をとらえて帝国を崩壊させようとしていること。  ポーランド人はロシア帝国内の被支配民族の中で最大の人口を有し、フィンランドと並んで最も文化的であり、商人、技師、手工業者、さらには官吏や軍の将校にもなっていること。  ポーランド人は諸民族の中でも政治的野心が旺盛で、1世紀に及ぶロシアとの戦いを交えていること。  ポーランドにおける革命運動は、現段階ですでに組織化された一大勢力を成していること。  ピウスツキはさらに、他の被支配層を糾合しつつ軍事活動を組織する力量があるのはポーランド人、とりわけ社会党だけであることも強調しました。  ポーランド社会党と民族連盟の手法、その指導者であるピウスツキとドモフスキの性格はかなり異なり、ライバルという以前に敵対すらしていました。しかし、日本と連帯することによって、シベリアのポーランド人捕虜が日露戦争後にロシアへ送還されることなく、行きたい国へ行けるよう配慮してほしいこと、ポーランドの独立を目指している点では一致していました。  牽制し合ってきたピウスツキとドモフスキは、滞在中の東京で偶然出会い、9時間におよぶ激しい議論を行なっています。その際、ピウスツキと正反対の考えであることを改めて悟ったドモフスキは、「ポーランドで全国的な反乱が起きれば、日本にとって無益どころか、極東で被った敗戦の挽回をうかがうロシアの思うつぼであり、蜂起の勃発の回避こそがポーランド人にとって最良の方法」との持論をしたため、3通目で最後の覚書を外務省へ提出しています。  一方、この極東情勢こそがポーランド民族が長年、望んできた独立のための千載一遇のチャンスと考え、「日本軍のためのポーランド人の軍隊を召募する」とまで提案し、日本と協定を結び同盟関係になる使命を背負って訪日したピウスツキですが、目的を果たすことはできませんでした。  日本は「国家として存在しない」ポーランドへの政治問題には関心がなく、自らが関わっていない国際問題に巻き込まれることも望まなかったのです。  ピウスツキにとっては、ジレンマだらけの日本外交デビューだったと考えられます。  ただ、『日本・ポーランド関係史』にて、ルトコフスカ教授は「日本との協力と日本訪問がピウスツキとドモフスキ両人の世界観に少なからぬ影響を与えている」と総括しています。ピウスツキは軍事研究に益々没頭していきますが、日露戦争時の日本軍司令官の戦術戦略を先駆的と考え、なおかつ日本軍の士気の高さや将校の有能さに魅了され、後のポーランド軍となる私設軍隊を1908年に創設。123年ぶりにポーランドを独立へと導き国家主席兼軍最高司令官(1919~1922)に就任、その後も軍事大臣(1926~1935)と首相(1926~1928、1930)を兼任しています。  ドモフスキは帰国後の1904年9月から12月にかけて、『全ポーランド評論』にて「光は東方から」という論文を3回連載しており、ルトコフスカ教授は、「ドモフスキの中で、人間や民族のとらえ方、ナショナリズムの理解に変化が生じ、それは終生尾を引くことになるのである」と論じています。  ドモフスキが記した、「光は東方から」の一部を紹介しましょう。 「日本の勝利――それは万人の認める物質的な力に対する道徳的な力の勝利である」 「日本は偉大でならねばならず、未来永劫生きながらえねばならない――それをそのすべての息子が望み、そのためならすべてを投げ打つ覚悟がある。この熱意、すべてを捧げるという心構え――それこそがまさしく日本の財産であり、強さの源であり、勝利の秘訣なのだ」 「20世紀もの長きにわたり国家として存続してきたという、その連続性の力は、この民族を統合し団結させた。その結果、日本人においては集団的本能が個人的本能を凌ぐことになった。日本人は個人である以上に社会の成員なのであり、自らの行動においては個人的利益より全体の利益を優先する」  僅か数カ月の日本滞在で、日本人と日本社会をこれほど深く理解できる民族、共感を言葉にしたり行動につなげたりしていかれる人材は、地球上にどれほどいるでしょうか。

(一部敬称略) 次回は2015年6月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 河添恵子

    ノンフィクション作家。1963年、千葉県生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、86年より北京外国語学院、遼寧師範大学へ留学。主な著書に『だから中国は日本の農地を買いにやって来る  TPPのためのレポート』『エリートの条件-世界の学校・教育最新事情』など。学研の図鑑“アジアの小学生”シリーズ6カ国(6冊)、“世界の子どもたち はいま”シリーズ24カ国(24冊)、“世界の中学生”シリーズ16カ国(16冊)、『世界がわかる子ども図鑑』を取材・編集・執筆。