くぼ田あずさ
七時を過ぎたころ、万里から「あと十分で渋谷着きます!」とラインが入った。私は席を立ち、喫茶店のお会計を済ませる。エスカレーターで六階に降り、待ち合わせの京洋食のレストランに入った。 「トリイちゃーん、どうしたの? 今日全然違うね!」 店に入ってくるなり、万里はテンション高く私に話しかける。今日も相変わらずのゆるふわ感。隙があるようで全然ない。ちょっとズルだったけど、新しくワンピースとハイヒールを買って良かった。ジェルネイルにばっちりの化粧で会えて良かった。万里はさっそく私の向かいの席に座り込む。 「なんかカワイイ~、パーティの帰りか何か?」 「こんど結婚式出るからさ、それの練習」 あは、と万里は口元を隠して笑う。 「やっぱ、トリイちゃんっておもしろいね。でもそういう服も似合ってるね」 「ありがとう……」 「キレイ系って感じでモテそう。あっ、でもなんか彼氏いるんだっけ? 同棲中の」 「彼氏っていうか、一緒に住んでるひとがいる」 「待って待って」万里は楽しそうに言った。「そのあたりのことも詳しく今日は聞くからね」 私は自分の口元が自然にゆるんでいるのが分かった。楽しくもないのに笑っちゃうようになってる、私まで。メニューをめくっている万里の手指に目が行く。万里の指にもやっぱりジェルネイルが施されていて、ラインストーンが光る。仕事帰りなのに万里の髪型は少しも崩れていない。よく今まで私はこの子と仕事帰りにスーツで化粧直しもせず対峙できていたなと思う。 万里は頬杖をつきながら、私を楽しげに見ている。 「なんか、やけにはしゃいでない?」 私が思わずそう言うと、万里は「えーっ」と大げさに声を上げて口元を隠した。 「やだ、別にそういうんじゃないって」 万里が両手で頬をおさえながら含みを持たせた言い方をしたので、また私から聞き出さなきゃいけないんだろうなと思った。 「それより、先にトリイちゃんの話聞きたいってば」 万里が勢い込んだタイミングで、店員さんが注文をとりにきた。 「ハンバーグ御膳で」 私が店員さんにそう告げると、万里が「それ二つ」と付け加えた。 「ご飯来てからのがいいかなー。でも早くトリイちゃんの彼氏のこと聞きたいよ」 「私の方は別にそんな言うことないって」 「だって、同棲してた彼氏と別れたって聞いてたのに、いつの間にか別の人と同棲してるんだもん」 万里は好奇心を隠しもせず、前のめりになって聞き出そうとする。どこで知り合ったの? どんな人なの? なんの仕事してる人? 万里のコンタクトレンズで拡張された黒目でじっと見つめられるとあんたのよく知ってた人だよ、と言いたくなる。あんたが初めてヤッたやつだよ。目白のアパートで。でも、それ言っちゃうほど私はまだおかしくなってないから、普通に答える。化粧品会社で働いてる会社員で、私の働いてる店に部屋を探しにきた人を自分の部屋に住むように誘ったの。 「逆ナンってこと!? すっごーい、さすがトリイちゃん」 「いや、私だって普段はこんなことしないけどさ」 「なんかすごいね、かっこいいの? 彼氏」 「ううん、おっさんだよ」 「えっ、おっさん?」 「うん、八歳上だよ」 「うわー、結構上だあ。トリイちゃんやるね~」 「たまたまだよ。この間までつきあってたのはタメだもん」 「ねえ、写真ないの?」 万里はテーブルの上に出している私の携帯電話を見た。 「ないよ」 私はかたい声で答えた。携帯電話の写真フォルダには、何か食べているときや眠っているときのまっつの写真がたくさん入っている。私は携帯電話を裏返した。 「えー、見たかったなあ」 「見たって仕方ないよーな、普通のおっさんだよ」 ハンバーグ御膳が運ばれてくる。ハンバーグに箸をつけながら、私は訊ねる。 「万里の方はどうなの?」 別に聞きたくもないのに、聞いてしまう。 「えー、私の方はいいよ、ふつーだもん」 そう言いながらも、万里の喉元まで言葉が出かかってるのを知っている。ああ、話したがってる、私の後一押しを待っている。私は苛立って、左腕をかく。私お得意のストレス性のじんましんが出かかっていた。落ち着け、万里はいつもこんな感じじゃん。聞かれたから答えますって感じでノロケたがる、と長くなったつきあいの中で分かってるはず。どうしてこんなに苛立つんだろう。本当は理由なんて分かってるけど、万里はいつも通りに振る舞ってるだけなんだから苛立ったら私の負けだ。私は一度深呼吸してから、話を続ける。 「私だって普通に暮らしてるだけだもん、最近なんかあったんでしょ?」 「えっとねー」 万里はそう言ってからゆっくりと話し始めた。最近合コンで知り合った公務員とつきあい始めたという。 「でもさあ、背も低いしたいした大学も出てないし、っていうか、実家が会社やってるじゃん?下手したら結婚相手に継いでもらうわけだから、公務員だと辞めてくれないかもだし。それに、安定した職場で働いてる人ってどうかなあって」 「へえ、前から言ってたもんね」 「私、一人娘だからさ。父親は無理にはいいって言ってるけど期待してるっぽいんだ。社長やれるような人とつきあった方がいいんだけど、なんか合わないんだよね」 「彼氏、社長って感じじゃないの?」 「全然! もうそんなんじゃなくてザ・草食系男子、みたいな」 「万里ってそういうの好きだもんね」 渾身のいやみだって万里はスルー。「そうなんだよー!」と全力で同意する。私はさっきからテーブルの下でスカートの裾の少し上に爪を立てている。ネイルサロンで整えた爪先は丸くて、全然皮膚に食い込まない。 「ほんとはさー、父親とか見てるから仕事命! みたいな人とつきあいたいって思ってるんだけど。実際つきあう人っていつもなんかゆるい感じなんだよね」 それって、まっつのことも入ってる? いつもってやつの中に入ってる? 「理想と現実は違うっていうかねー、まあ一つ下だしこれから伸びてくのかもしれないけど。ねえ、年上ってどんな感じ?」 「どんな感じって?」 「仕事に対する考え方とかさ、やっぱりこなれてる? 私、年上の人とつきあったことないから」 その発言を受けて、私は唇が震える。これが怒りなのかどうかも分からない、悲しいのかも分からない。指先が冷たくてのどのあたりがひりひりしている。 「トリイちゃん?」 「ああ、ごめん。うちのは参考にならんわ、今ちょっと大変な状況で」 「そうなの?」 「うん、まじめすぎてね。理想としてた働き方があったんだけど辞めることになってね、そのギャップなのか鬱なの」 「うっそ、超大変じゃん」 「全然」私はそう答えると何か言おうとしている万里を遮って続ける。「全然大変なんかじゃない。だって私には仕事があるし、あっちはあっちで薬を飲んでいるし。薬が出るってことは飲んで休めば治るってことだから」 「へーえ、トリイちゃんすごい」 「すごいことなんてないよ」 「なんていうか、強いよね」 「万里のが強いよ」 「何それ、分かんない」 万里は笑っていたけど、私は笑わない。絶対笑ってなんかやるものか。万里の前でまっつみたいに笑ってたまるか。 「でもすごいね、それでも支えるって。愛だねえ」 愛、とかうるせー。あんたが無責任に放り出したものを私は愛してるってわけ? ふざけんじゃねーよ、万里。愛なんて愛なんて愛なんて。 「愛してるわけじゃないよ」 「そうなの?」 「そうだよ」 万里は何か言いたそうだったけど、私は万里の顔をにらみつける。ねえ、まっつってやっぱバカで、先見の明すらないから十年後万里と私どっちがきれいになるかすら分かんなかったみたいだね。まっつってほんとバカで、あんたの人生を一度折りかけた女には関係がなかったことにされてるよ。 「ねえ、トリイちゃん今日どうしたの? なんか変だよ?」 「そう?」 「うん、なんか超感じ悪いよ。どっか悪いの?」 「性格」 「ほら、そういう感じ。体調悪いなら、もう今日はいいよ? 私も明日仕事だし」 私が何も答えないでいると、万里は「ね、そうしよ」と言って伝票を持って席を立った。私は深呼吸してからじゃないと唇が震えて立てなくて、もたもたしている間に万里はお会計を済ませていた。私が財布を出すと、万里はそれを制した。 「今日はもういいから。また元気になったら、誘って。そのときトリイちゃんがおごってくれたらいいから」 エレベーターを待ちながら、万里は知ったような口をきく。 「鬱の人と一緒に暮らしてるとさ、サポート鬱とかっていってなんか伝染することもあるんだって。ちょっと彼氏と距離置いた方がいいかもよ?」 「あのさ、私が今つきあってるのはね、高校のとき好きだった人なの」 「へえ、それが?」 エレベーターが止まった。ドアが開くと、万里は一度振り返って、私を見た。蔑(さげす)むような目つきだった。そうやって十年前もあんたは弱っていくまっつを見たんじゃない? エレベーターに乗り込むと、私は万里を壁際に押しやり無理矢理キスをした。万里は驚いて身を固くする。私は唇を押しつけ続ける。じいんとする唇に痛みを感じて、私は万里から離れる。こいつ、私の唇噛みやがった。 「マジ、頭おかしくなったんじゃないの?」 万里が心底軽蔑したみたいな目で私を見る。そんな目線で私を負かせるわけねーだろ。私は財布から一万円札を取り出すと、くしゃくしゃにして万里の胸元にねじ込む。 「これで、取り返したからな、ふざけんじゃねーよ」 「は? もうマジで何?」 私はエレベーターの停止階のボタンを全部押して、開いたところで降りた。二階だった。ドアが開いたとたん、ヨーイドン! と言われたかのように走り出す。エレベーターに乗ろうとしてた人が怪訝そうに私を見たことも、私の背中に向かって万里がなんか言ってたことも知ったこっちゃない。 私はさっさとこれをすべきだった。まっつから万里へのキスを取り戻すべきだったんだ。こんなことでちょっと気持ちが晴れるなんて、私バカだったわ、まっつと同じくらい。あまりにおかしくて、笑いは表情筋まで届かなかった。私はいつもの顔で田園都市線に乗った。 最寄りの駅で電車を下車する頃には、渋谷で感じたおかしさはすっかりなくなっていた。 渋谷から最寄り駅までの間に多摩川があったから、そこに落っことしてしまったんだろうか。地上に出たあたりから悲しくてたまらない。ワンピースの鮮やかな深緑が目にしみる。今日の散財で困らない程度には貯金がある。でも、毎日まじめに仕事をして、節約して貯金するのはこんな狂ったみたいに使うためじゃない。自分の価値を確かめるかのように、私は金を使うべきじゃなかった。そんなことのために働いてるわけじゃない、金のあるなしに人生の価値を見いだしてるわけじゃない。 改札を出て歩いていると、新しいハイヒールで靴擦れを起こして足が痛くなった。私は紙袋の中から携帯電話を出して、まっつに電話をかけた。 「はい、どしたの?」 まっつの声を聞いただけで涙ぐむほど私の涙腺はゆるみきっていた。 「さっきごめんね、今どこにいるの?」 「鷺沼」 「本当? 俺、鷺沼のマックにいるから一緒に帰ろうか」 「うん、足が痛い」 「そっか、たくさん歩いたの?」 「ううん、たくさんお金を使ってしまった。どうしよう」 「は? お金?」 「どうしよう。わけ分かんないことにお金かけちゃったの。二万五千円のワンピース買って、一万七千円のボレロ買って……」 「え、え、ちょっと落ち着こうか? 今どこ?」 「マックの前」 勢いよくまっつはマックの自動ドアを飛び出してきて、私を見ると「うお」と声を出した。 「大変身だね……」 まっつはパーカの袖先を丸めて私の涙を拭いた。本当は化粧にだってお金をかけたのに、きっと全部崩れてしまって見る影もないんだろう。そう思うとやっぱり悲しくなる。 「まあ落ち着いて、ゆっくりうちに帰ろう」 まっつはしゃくりあげている私の手を引いた。 「私は万里に勝ったよ」 まっつは足を止めて、振り返った。気の毒になるくらい悲しそうな顔をして私を見る。 「今日万里に会ったの、ていうかずっと会ってた。知らない間に友達になってた。でも、今日でそれも終わり。私が勝ったから」 まっつはゆっくり唾を飲み込んで、それから裏返った声で「勝ったね」と言った。こういう大事なところで裏返ってしまうのが、ほんとまっつらしい。 「まっつ、あのときはごめんね」 「え、なんの話?」 「……まっつは覚えてないかもしれないけど、まっつが辞めるとき“うそつき”って言ってごめんね」 え、と呟くと、まっつは私を見た。視線はたしかに私の顔に注がれていたけれど、遠くを見ているような目をしていた。 「あれ、きみだったの?」 「うん、ごめんなさい」 「ショートカットのはずじゃ……」 「え? ああ、高校の時はね。今はのばしてるけど」 セーラー服は、と言いかけてまっつは黙る。 「まっつ?」 「それもそうか、年月経ってるし」まっつは私の頭に手をおくと、おかしそうに笑った。「あれ、きみだったんだ」 「まっつ、キスして欲しい」 私がそう言うと、まっつは私にキスをしてくれた。静かに触れただけのキスだったけれど、万里に噛まれた唇が痛かった。 「帰ったらさ、おもしろい小説教えてあげるよ」 言い終わるとまっつは手を挙げて、タクシーを止めた。 タクシーに乗り込みながら、「そういえば俺、転職サイトに登録したよ。使っちゃっても、またお金は稼げばいいでしょ」とまっつが生意気なこと言っている。「塾講師申し込むけどほかにも教える仕事、なんかあるかな」タクシーの中のラジオから十年前の曲が流れていた。まっつの横顔を盗み見るとやっぱまっつは十年分老けている。後十年経ったらまっつはどんな顔をしているだろう。曲の終わりにDJが「十年経っても名曲は色あせませんね」とか言っててばっかじゃねえのとか思いながら、私はまっつの手を握る。色あせようがなんだろうが、好きなもんは好きだ。(了) ご愛読ありがとうございました。
2015年「ふざけろ」で第9回小説宝石新人賞を受賞。