物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • エピソード3 クロダさん(2) 2014年8月15日更新
          ◇

 畳の上を、ぞうきん掛けする。
 畳には、この国に来て初めて触れたけれど、手触りも座り心地も、何だか気に入っていた。この場所は、ダンナさんが用意してくれた、クロダさんのための場所なのだ。
 床の間には、古いラジオが置かれたままだ。前の住人が忘れていったのだろうか? 電源を入れてみたけれど、合わせられた周波数では、何も聞こえない。
「精が出るねえ」
 そう言ってやって来たのは、大家さんのお婆さんだった。
「せっかく借りたんだから、楽しく使おうと思って」
「そうしてくれりゃあ、家も喜ぶさ」
 お婆さんはそう言って、引きずって来た荷物を、クロダさんの前に置いた。
「これは、あんたにプレゼントさ」
 目の覚めるような青い色の、大きなトランクだった。
「お婆さんから?」
「いいや、前の住人からだよ」
「前の住人って、十年前に住んでたんでしょう?」
「そういう約束だったんだよ」
 縁もゆかりもない次の住人にそんな言伝をする前の住人もどうかしてるけれど、十年経っても忘れないお婆さんも変わってる。だけどクロダさんは、そんな「約束」が嫌いじゃなかった。
「それじゃあ、遠慮なく、頂きます」
 トランクは、何か荷物が入っているようで、とっても重たかった。
「開けていいですか?」
「もう、あんたのものだよ」
 お婆さんがそう言うので、二人でトランクを開けることにした。
「はてさて、どんなお宝が入ってるもんかね」
「楽しみですね」
 二人で「せーのっ!」で開く。中に詰まっていたのは、紙の束だ。
「札束……じゃないねえ」
「画用紙……ですね」
 それは、何千枚もあるだろう画用紙だった。
「あらあら、重たいから金銀財宝でも入ってるかと思ったら、とんだ見当違いだったねえ」
 お婆さんは拍子抜けしたようだ。
「前に住んでた人は、絵描きさんだったんですか?」
「どうだったかねえ、もう十年も前の話だからね」
 お婆さんはそう言って、元の持ち主を思い出すように遠い眼をする。
「まあ、邪魔にならないところに、おいておけばいいさ」
 厄介払いでもするように言って、お婆さんは去って行った。

          ◇

「さて、楽しむぞ、クロダ!」
「はい、ダンナさん!」
 二人は勇んで、仮装した集団の中に飛び込んだ。今日は、街の繁華街で仮装パレードの日だった。街の人々は、それぞれ思い思いの扮装をして、アーケード商店街を闊歩している。
 二人の衣装は、なかなかに人目を惹くものだった。
 ダンナさんは、そのどっしりとした体形から、西域の有名なものぐさ神様をモチーフにして、金剛杖を振り回しながら、のっしのっしと練り歩く。
 クロダさんは、エキゾチックな風貌と小柄な体形を最大限に生かして、水着の上に、スパンコールをあしらった更紗の布を巻き付けていた。天女がふわりと舞い降りた風情で。クルクルと回り踊るクロダさんに、観客たちから歓声が巻き起こる。
 二人の仮装は、街頭審査員の特別賞を受賞した。クロダさんは、ダンナさんの肩に乗せられて、商店街をパレードする。
「こんにちは。クロダさん」
 泉川さんが、沿道から手を振る。
「泉川さん、お久しぶりね」
「相変わらずね。あなたもダンナさんも」
 この街に来て、最初に知り合った友達。それが泉川さんだった。彼女と手をつなぐ小さな男の子も、元気に飛び跳ねながら手を振っている。
「駿君、元気だった?」
 昨日のことのように思い出すことができる。二人に出逢った日のことを。

 居留地からこの街に船で渡って来たクロダさんは、路銀も尽きかけていたので、さっそく道端で、自分の描いた絵を広げた。異邦郭の入口だ。異国の風を感じる場所では、旅人も多く訪れる。
 一か月が過ぎた頃、四歳くらいの男の子が、クロダさんの前に駆けて来た。男の子は絵を覗き込む。この旅に出るきっかけになった、もじゃもじゃの絵だった。
「ぼく、この絵の人を知ってるよ」
 それが、「人」だと言ったのは、男の子が初めてだった。澄んだ瞳で、絵のずっと向こうにあるものを見透かすようだ。こんな小さな子も、漂泊する旅の心を持っているのだろうか?
「駿、どうしたの?」
 母親らしき女性が、慌てて駆け寄ってきて、男の子の右手を握る。
「ごめんなさい、この子、時々、こんな風なんです」
 母親が引っ張っても、駿君は頑として動こうとしない。
「この絵の人を探してるんだね?」
「え?」
「ついて来て!」
 男の子がクロダさんの手を握った。右手を母親と、左手をクロダさんとつないで、男の子は進む。小さな男の子とは思えない、誰かを導く力だった。
 辿り着いた場所は、一つのマンホール。何かの作業をしているらしく、蓋は開け放たれ、ぽっかりと穴が開いている。
 三人で、黒い穴の中を覗き込む。穴の中から上って来た頭が、ひょっこりと覗いた。
「ほら、もじゃもじゃでしょ!」
 覗く頭は、確かに「もじゃもじゃ」だった。
「ねえおじさん、これって、おじさんでしょう?」
 クロダさんは、抱えていた「もじゃもじゃの絵」を見せた。それを受け取った男は、しばらく絵を眺めていた。
「うん、確かに、俺の頭だな」
 男は満足そうに無精ひげをなぞる。
「あなたは、だあれ?」
「俺か? 俺は黒田だよ」
 男は、もじゃもじゃの頭をぼりぼりと掻き毟(むし)った。
「……あたしも、クロダだよ」
 そう言うと、男は目を丸くした。体つきには似つかわしくない、つぶらな瞳だった。
「そうか。それじゃあお前、俺と結婚したら、黒田クロダになっちまうな」
 男は豪快に笑った。その瞬間、クロダさんはわかった。ここが、旅の終わりだと。
 そうしてクロダさんは、黒田さんのアパートに棲みついた。黒田さんは、クロダさんの「ダンナさん」になったのだ。もっとも、「黒田クロダ」なんて冗談としか思われないので、ファミリーネームの「アヤーカ」をもじって、表札は「黒田彩香」としている。

「クロダ、走るぞ、振り落とされるなよ!」
「はい、ダンナさん!」
 肩の上で揺られながら、クロダさんは、ダンナさんのもじゃもじゃの頭にしがみついた。決して手離さないように、強く。

          ◇

 雨の降る夜だった。
 この街に寒さを呼ぶ雨だ。もうすぐ冬が来る。 
ダンナさんが帰らない夜、クロダさんは傘をクルクルと回しながら夜道を歩き、廃屋に向かった。
 トランクの中の画用紙を取り出した。画用紙は三百枚ずつ束にされており、それが十束。そして束になっていない九十五枚。
「三千九十五枚か……」
 畳の上に並べてみる。画用紙の白い海原を前にしても、何かを描きたいという意思も、何を描こうという思いも浮かばなかった。

 ――私はもう、どこにも旅立たないんだ……

 それにクロダさんには、絵を描く道具がなかった。ダンナさんという「居場所」が見つかってから、クロダさんは絵筆も絵の具もすべて捨ててしまったのだ。
 画用紙を片付け、アパートから持ち込んだ毛布に包(くる)まった。廃屋は、冬という季節を過ごす上では、防御能力が高いとは言い難かった。だけど苦にはならない。もっと寒い高地で、新聞紙一枚に包まって寝たこともあるし、厳寒の湖の氷の上を渡ったこともある。
 寒さは、感覚を研ぎ澄ませる。その研ぎ澄まされた感覚が、誰かが近づいて来るのを伝えていた。
 姿を見せたのは、一人の女性だった。使い込んだ風合いの弦楽器だけを背負っている。
「こんばんは」
「いらっしゃい。あなたは、だあれ?」
「私の名前は……」
彼女はそう言いかけて、困ったようにうつむいた。
「すみません。私の、この街での名前は、まだ決まっていないんです」
 まるで誰かによって運命を定められたかのように、彼女の言葉には何の迷いもなかった。初めてのお客さんとして、彼女を家に迎える。
「ここは、いいお住まいですね」
 畳に座って廃屋を見渡し、お世辞でもないように彼女は言った。
「この街の人じゃないみたいね。旅をしてきたの?」
 クロダさんにはわかる。彼女もまた、留まる場所を知らず、旅を続けているということが。
「旅……なんでしょうか。私は、自分が明日どこにいるのかも、わからないままなんですけど」
「それを旅って言うのよ」
 そう言うと、彼女は寂しげに笑った。
「ねえ、その楽器、弾けるの?」
 たった一つだけ彼女が携えた荷物は、使い込んだ風合いの弦楽器だ。
「弾いて、いいんでしょうか?」
「大丈夫だよ」
 ここは畑のど真ん中で、怒る人もいなかった。だけど、彼女が心配しているのは騒音のことではないのかもしれない。
「それじゃあ、少しだけ」
 何かを測るようにクロダさんを見つめた彼女は、指を弦に添えた。
 指が、弦を爪弾く。たった一つの、音が生まれた。旅の途中で聞いた、風の音のような音色だった。物悲しく、いつまでも、どこまでも吹き渡る風だ。
 畳の上から身体が浮き上がる感覚で、足元が覚束なくなる。不意に訪れる旅の衝動のように、容赦なくクロダさんを「どこか」へ連れ去ろうとする。心に直接響く音色だった。
 クロダさんの心の動揺を見定めたように、彼女の爪弾きが止まる。
「あなたも、ずっと、旅をして来たんですね?」

(つづく) 次回は2014年9月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。