物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • エピソード4 早苗の結婚式(2) 2014年12月15日更新
          ◇

「ふん、飽きもせず、よくやるもんだね」
 コンビニの袋一杯のおにぎりやサンドイッチ、ジュースを抱えたお婆さんが、礼拝所の尖塔を見上げて不満げな声を漏らす。
「瀬川さん、こんにちは」
「わかってるだろうね。あんたが約束した一年まで、あと二か月しかないんだよ」
 嫁いびりをする姑のように意地悪く念押しする瀬川さんは、この礼拝所の土地と建物を所有する大家さんだ。
「ええ、頑張ります。ここは、母にとっても、大切な場所だったのかもしれないですから」
 母は、どうしていなくなったのか?
 母は幼い頃に死んだのだ。早苗はずっと、そう思い続けていた。
 早苗の家には、母親の位牌も写真もなく、「命日」という日も、早苗は知らなかった。母のことは、父親に聞いてはいけないのだと、自然に思い込まされて育ってきた。
 そんな父が、夜中に工房で、引出しの中から一枚の古い写真を取り出して見つめているのを、偶然見てしまった。父親の不在の時に、早苗は引出しを開けてみた。一番奥にしまわれた写真に写るのは、煉瓦造りの建物を背景に微笑む一人の女性。早苗とよく似ていた。
「この建物って、もしかして……礼拝所?」
 写真を手にして、眼下に広がる街の風景を見下ろす。
 早苗も、この街でずっと育ち、礼拝所の噂は耳にして育った。
 本来礼拝所は、あの戦争で亡くなった人々を、宗教や国籍によらず慰霊する目的で建てられた建物だという。それなのに、早苗が物心つく前から二十年も、礼拝所は放置されたままだ。
 管理人と愛人との愛憎の末の殺人。尖塔からの飛び降り自殺。お決まりの幽霊譚。違法薬物の密売所としての役割……。真偽のはっきりしない噂の数々のせいだ。この街の子どもは、悪いことをすると、親から「礼拝所に捨てに行くよ!」と言われるのが、一番の恐怖だった。
 だが早苗は、父親から一度も、礼拝所のことを聞いたことはなかった。たまたま遊びに来ていた友達に、「そんなこと言うと、礼拝所に連れてっちゃうぞ」と軽口をたたいた早苗は、父親に頬を叩かれた。父親に手を上げられたのは、それが最初で最後だ。
 ――あの時、父さんはどうしてあんなに怒ったんだろう?
 それは礼拝所が、母と深くかかわった場所だったからではないのだろうか。そう思って礼拝所にやって来た早苗は、その荒廃ぶりに愕然とした。顏を背けたかった。眼を逸らしたかった。
「あんた、この場所に、何か用かい?」
 棘のある声が向けられた。一人のお婆さんだった。
「ここはあたしの持ち物だよ。勝手に入るんじゃないよ」
 思いがけず、出逢ったのは建物の所有者だった。
「この礼拝所は、ずっと閉鎖されているんですか?」
「ああ、そうだよ。昔は街の人たちが集まる、憩いの場だったんだけどね」
 今の惨状からは、そんな過去は信じられないほどだ。
「ちょうど、あんたみたいな年頃の女に管理を任せてたんだけど、いきなり消えちまってね。それからだよ。ここが寂れちまったのは」
「その女性のこと、何か覚えてらっしゃいますか?」
「そんな昔のことは、覚えちゃいないよ。その女が放っぽりだしたせいで、ここはこんなことになっちまったんだからね」
 忌々しげに言って、お婆さんは何かを確かめるように、早苗を睨んだ。
「そういやあんた、あの女にちょっと似てる気がするね」
 早苗にまで憤懣の矛先を向けてくる。この地にまつわるすべての記憶を忌み嫌っているようだ。
「ここは嫌な噂ばっかりあるからね。変な奴らのたまり場にもなって、周りから苦情も出てるんだよ。持ってても仕方がないから、さっさと更地にして、マンションでも建てようかと思ってるよ」
 それは、母につながるかもしれない場所が消え去ってしまうことを意味していた。
「取り壊すのは、考え直してもらえませんか?」
 思わず、そう口走っていた。
 物心つく前から父と二人だけで暮らしてきた早苗にとって、母への想いとは、空を飛ぶことを忘れた鳥の背中に残る、退化した羽のようなものだった。大空を自由に飛んだ記憶を持たぬ鳥は、背中に残る羽が風を受けて震えても、悲しみを呼び覚ましはしないだろう。
 悲しみはない。ただ早苗にあるのは、自分の家庭が、他の家と比べて「欠けている」という感覚だけだ。欠けたものを補うことはできない。できることは、欠けていても皆と同じだと、自分に思い込ませ、皆と同じように振る舞うことだけだった。早苗は殊更に、「普通」であることを自分に強いた。踏み出すのは皆と同じ一歩であり、歩むのは皆と同じ速さで……。そうして早苗は、「普通の」大人になった。高く飛ぶことなど、望むことも夢想することもなく。
「お願いします。礼拝所を残してください。どんなことでもしますから」
 お婆さんは取り合おうともしなかった。だが、早苗は必死だった。
 母のことを知ることは、「普通」を望み続けた早苗にとって、初めて自分の足で違う一歩を踏み出すことにつながっていた。飛べないと思い込んでいた羽に、今、この場所から風が吹いている。もしかするとその羽は、退化したのではなく、羽ばたくことを忘れてしまっただけなのかもしれない。
 「そんなこと言ったってねえ……」
 お婆さんは、困惑して礼拝所の尖塔を見上げた。
「それじゃあ、あんたが昔みたいに、この場所に人を呼び戻すことができたなら、その時は考え直してもいいさ」
 根負けしたお婆さんは、条件付きで、撤去を保留してくれた。
「ただし、一年しか待たないよ」
 お婆さんは、皺の浮かんだ指を一本、早苗に突き付けた。
「ここは二十年も、街の人にそっぽを向かれてた場所だよ。今さらあんたが何をしたって、人が戻るはずがないだろうがね」
 それから、もう十か月が経とうとしていた。
「言っちゃ悪いけど、あんたみたいな線の細いお嬢さんが、ここまで続けられるとは思ってなかったがね」
「浩介のおかげです。私一人じゃ、絶対に挫(くじ)けてましたから」
 あの日、浩介が礼拝所を覗いてみる気になったのは、偶然ではなかった。この場所にまつわる記憶が、突然よみがえったからだ。
 幼い頃、母親が病死し、父親が行方をくらまし、浩介は天涯孤独の身の上となった。住んでいた家からも借金取りに追いやられ、食べるものすらなく、街をさまよっていた浩介は、道端に倒れそうになる所を、誰かに優しく抱きとめられた。暖かな部屋と食事が与えられ、母を思わせる女性が看病をしてくれた。栄養失調で視力すら弱まった浩介には、それが誰かはわからなかった。
 次に気付いた時には、浩介は病院に収容されていた。身体が回復してから、浩介は女性にお礼を言おうと礼拝所を訪れた。そこには誰もおらず、礼拝所は固く扉を閉ざされていたという。
「何で俺は、この場所のことを、すっかり忘れちまってたんだろうな?」
 そう言って首を傾げる浩介もまた、街の人々と同じように、礼拝所を遠ざける見えない呪縛の下にあったのだろうか。
「きっとお母さんが、俺と早苗を、この礼拝所で引き逢わせてくれたのさ」
浩介は信じていた。浩介の命の恩人である、礼拝所の女性。それが早苗の母親だったと。
 そうして浩介は、早苗を手伝いだした。二人で片付けだしてからも、人々の嫌がらせやこれ見よがしの悪意は続いた。浩介は笑ってそれらを跳ね除けた。
「なんだ、婆さん、また差し入れに来てくれたのか。いつもすまねえな」
 浩介は、礼拝所の命運を握る瀬川さん相手でも物怖じしない。そんな浩介が、瀬川さんの心を少しずつ軟化させていることも確かだ。
「何言ってるんだい。あたしゃコンビニの土地も持ってるからね。賞味期限の切れた奴を捨てようと思って……」
「まあまあ、いいから、いいから」
 そう言って袋からおにぎりを出して、さっそくぱくつきだす。
「そうだ、婆さん、尖塔に上る扉の鍵が閉まってて、扉が開かねえんだけど、鍵のありかを知らねえか?」
「ああ、誰かがあそこに上ったり、勝手に鐘を鳴らしたりしちゃ近所迷惑だからね。鐘の中にぶら下がってた舌(ぜつ)ってやつを外して鳴らないようにして、扉に鍵をかけたんだよ」
「鍵はどこにあるんだ?」
「鐘をつくった職人が持ってるはずさ。誰だか忘れちまったけどね」
 瀬川さんは無責任に言って、肩をすくめた。
「それじゃあ、扉を開けられねえじゃねえか。せっかく、礼拝所が元に戻ったら、毎日鐘を鳴らそうって思ってたのに」
 瀬川さんは、口を尖らせる浩介を皮肉そうな眼差しで見つめて、釘を刺した。
「あんたら、気を抜くんじゃないよ。この場所は二十年、見放され続けた場所だよ。片付けたからって、街の人の心がそう簡単に変わるなんて、思わないことだね」

          ◇

 早朝、まだ家で眠っていた早苗は、携帯電話の着信に起こされた。礼拝所を一緒に片付けている仲間の一人からだった。
「すぐに来て、礼拝所が大変なの!」
 ただならぬ剣幕の言葉に、早苗はすぐに礼拝所に向かった。
 すでに仲間たちが集まり、火事で焼け落ちた家でも見るように、呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたの、いったい……」
 説明されるまでもなかった。つい先日、磨き上げるようにきれいにした壁は、以前を超えるスプレーの落書きにあふれ、内部にはゴミがまき散らされている。
「最近、うちのポストに、これが入ってたんだ」
 礼拝所の近くに住む仲間が、決まり悪げにチラシを差し出す。
「なに、これ……」
 毒々しく殴り書きしたような文字で、礼拝所の「悪い噂」がこれでもかと書き連ねてある。そればかりか、ここに集まる仲間たちまで、夜な夜な礼拝所でいかがわしい行為に及んでいるだとか、怪しい違法薬物の取引をしているなどと、根拠のない噂が真実めかしてほのめかされていた。ご丁寧に、隠し撮りした浩介の写真まで……。
「以前からポスティングされていて、気になっていたんだけど、早苗さんや浩介さんには見せられなくって……」
 登校途中の小学校低学年の女の子たちが、礼拝所を遠巻きにしていた。
「どうしたの、みんな?」
 早苗が声をかけて近づこうとすると、女の子たちは慌てて遠ざかった。近寄られるのを避けるような怖がりようだった。
「おばけやしきの、おばけが出たー!」
「近寄ったら、殺されちゃうよー」
 口々に言って、駆け去ってゆく。大人たちの噂話は、そんな風に子どもたちまで毒していた。諭すこともできず、遠ざかる後ろ姿に唇を噛みしめるしかなかった。
 道行く人々が、冷ややかな視線を注いで、足早に通り過ぎる。お前たちは無駄なことをやっているんだと、無言のまま蔑まれている気分になる。仲間たちも、気まずそうな顔をして、一人、また一人と去ってゆく。浩介と早苗だけが、その場に残された。
「さぁて、また最初っから、やり直しだな」
 浩介は、普段と変わらない楽天的な声で、腕まくりをした。さっそく不法投棄された錆びついた自転車を抱えて、片付けを開始した。浩介はいつも、言葉よりも行動だ。だが早苗はまだ、心を新たにすることはできずにいた。
「浩介、……どうして?」
「何が?」
「ここは、浩介にとっては縁もゆかりもない場所でしょう。どうしてそんなに、一生懸命になれるの?」
 振り向いた浩介は、そんなこと考えもしなかったというように何度も目を瞬かせ、使い慣れない頭を使うように、頭を何度か叩いた。
「ここは早苗のお母さんが守ってきた場所なんだろう? その守り続けたことには、きっとなんか、意味があるんだろう。俺は、それを守りたいんだ」
 浩介の言葉は率直だ。深く考えていないわけではない。それが、浩介なりの、人生との向き合い方だ。そんな浩介に、早苗は惹かれたのだ。
「おーい! 浩介君!」
 派手なライトバンがクラクションを鳴らし、運転席の男が浩介に手を振った。駆け寄った浩介は、しばらく陽気に話して、何かお土産をもらって戻って来た。
「ほら、早苗、元気出して、これ食べろよ!」
 差し出されたのは、手作りのピザだった。どうやらワゴンは、移動式のケータリングサービスの車のようだ。
「どうしたの、これ?」
「昨日、中央広場で店を開いてたからな。手伝ったんだよ。そのお礼だってさ」
 昔は首都で人気レストランを開業していた男性らしい。五十歳という人生の節目を機に店を閉め、ワゴン車を改造して全国をまわって腕を振るっているのだそうだ。
「昨日は俺が呼び込みしたからな。売上がいつもの三倍だったんだぞ」	
「相変わらず、浩介はいろんな人と結びついちゃうのね」
 就職活動の際、友人たちは「人脈」という言葉を口にし、就職に有利になる起業家や大企業の重役と接点を持とうと躍起になっていた。
 浩介は「人脈」なんて言葉は知りもしない。だけど彼は、老舗企業のご隠居と茶飲み友達になり、地元ベンチャー企業の雄と言われる若手社長とカラオケで肩を組んで絶叫する仲だ。出世も栄達も考えもしない浩介を、人々が放っておかない。
 鼻歌混じりに、荒らされた礼拝所の片付けを始めた浩介の背中に、早苗は頼もしさを感じた。
「まって、浩介、あたしも手伝うよ」

(つづく) 次回は2015年1月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。