物語がつまった宝箱
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  • 最終話 2016年12月1日更新
 父は私を制するように、そのままの姿勢で微動だにしない。
 そんな父の動きを、周囲にいる男たちは気にも留めていないようだった。
 私は小さくうなずき、そうっと祠(ほこら)の裏に戻った。
 父と私はしばらく目を合わせつづけた。
 お父さん、どうしてここにいるん? ほんとは死んでないのん? 幽霊やのん? そのひとたちは幽霊仲間? みんなこのへんの漁師やんね?
 片方が死んだとはいえ父と娘なのだから、テレパシーで会話できるかと思ったが、父はまったく反応しなかった。
 ただただ見つめあうまま数分が過ぎた。
 男たちの声が遠ざかり、私のなかから言葉が消えた。
 どぷん、と海のなかに体を沈めたときのように、全身が何かに包まれたように感じる。柔らかく締めつけられ、浮かびあがろうとする体。
 無意識に息をつめ、足は地面を踏んばっていた。目の焦点がぼやけ、自分が何を見ているのかよくわからなくなってきた。薄暗がりに浮かびあがるのは父のような、たんなる記憶違いのような。すべての輪郭があいまいになり、体から力が抜けそうになった瞬間、くわっと父の顔が目前に迫った。殴られる、と身構えたところで、父は視線を外した。
 緊張の糸が切れ、それを合図にしたかのように、男らのざわめきが戻ってきた。
 何事もなかったように言葉を交わしながら、彼らも祠に背を向け、鳥居をくぐってゆく。待って、と思わず声が出そうになるが、喉はふさがったままだった。
 境内をゆっくり離れてゆく集団のなかに、ちらほらなつかしい顔を見つけた。
 忘れさっていたはずなのに、自然と彼らのあだ名が浮かんだ。ほいさん、まーにい、ぶんぶん丸。みんな年老いることなく、海の事故で突然亡くなった当時のままの姿である。
 集団の最後のひとりが鳥居をくぐりかけた。彼は突然立ち止まり、こちらを振りかえった。
 こちらに向かって、手を振っている。ここにいるのがばれたのかと焦る。目を凝らし、はっとした。あれはゴンやんにまちがいない。
 ゴンやんは子供たちの人気者だった。ルリ子や良介と連れ立ってよく彼の家へ遊びにいったものだ。翌朝の漁のため早く寝なきゃいけないのに、ずっと相手をしてくれたゴンやん。
 私も思わず手を振りかえし、あら、死人に何をしてやんね、とひっこめた。
 彼は静かに微笑んで、人差し指を口の前に立てた。「誰にもいうなよ、シーッ」のポーズであろう。祠に向かって手を合わせ、山を下りていった。
 男たちの声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。空はかすかに明るんで、遠くで鳥が鳴きはじめている。もうすぐ朝が来るらしい。
 空を見上げて呆けていたら、ぷうんという羽音が耳元をかすめた。
「ぎゃあ」
 顔が、腕が、足が、猛烈にかゆくなってきた。見ればあちこちに蚊が止まっている。
 一目散で祠を離れ、境内を走った。体中をばちばち叩いて蚊を殺す。さっきまで目の前にあった光景の不思議さが吹きとんでしまった。走りながら体をかきむしり、刺し跡に爪でバッテンを刻んだ。
 山道から東がわの海が見えた。まだ暗い夜の空を映してどす黒い。さっきの男たちの姿が見えないかと目を凝らしたが、見えても困る、と思いなおした。うつむき加減で足早に山を下りた。
 スナックに戻ると葵さんはいなかった。
 シャワーを浴びて、虫刺されの薬を塗り、その場に寝そべる。
 目をつむると境内で見た男らの姿がよみがえってきた。
 死人が現れるだなんて、あれは幻だったのか。幻にしてはみんな生き生きしていた。ゴンやんなんて明らかにこちらに メッセージを送ってきた。お父さんだって、私を見てきた。
 みんなのことはずっと忘れていた。父親のことだってこのところ一度も思い出さなかった。
 なんで今になって出てきたんだろう。
 しかも、山のかみさんのところになんて。彼らは海で死んだのだから、ずっと海のかみさんに仕えているはずだろうに。
 何か言いたげだった父親の目つきを思い出して泣きそうになる。あまり見た覚えのない、厳しい顔をしていた。めったに怒られたことはない、ましてや手を上げられたことなど一度もないのに、頬をぶたれると覚悟した。すごく怖かった。父は私を怒っているんだろうか。ルリ子と再会して、情けなくもふらふらしている私を。
 涙でふくらんだまぶたの裏、父親の顔がにじみ、やがてルリ子の顔が浮かんだ。
 あんたのせいでお父さんにぶたれるとこやったんよ。
 なじってみるも、あいかわらず涼しい顔ですましている。
 私が目の前でぶたれたとしても、今の彼女なら表情を変えることなどないだろう。いや、以前のルリ子だってそれほど情に動かされるたちじゃなかった。
 クールなルリ子の姿がいくつもよみがえる。彼女は五歳にしてすでに大人びていた。怖いものなんて何もないといったふうだった。

 私にはありえない資質だから憧れた。自分と違うと思えばこそ彼女の魅力も美しさも私のなかで深まっていった。はじめから人間の出来が違うのだ。私が何度生まれかわっても彼女の足元にはおよばない。
 彼女と自分をくらべて、子どものころは絶望しそうになったものだ。しかし、時間をかけて私は彼女を遠い、遠い、かみさんみたいな存在に仕立てた。彼女を好きになるほどに、彼女を自分から離していった。ルリ子が失踪したのは、私のせいなのかもしれない。
 強い眠気が波のように押しよせ、全身をなぶる。なぶられるがままに身を任せる。
 ルリ子にもう一度会いたい。そう願いながら眠りに落ちたけれど、現れなかった。
 目が覚めたらすでに夕方で、ルリ子どころか、夢を見た気配はまるでなかった。葵さんはもう店に出ていた。
 台所に焼きうどんの皿が置いてあった。貼られたメモには、「今夜はヘルプはいりません。ゆっくり休んでね。工場から電話がありました」とある。
 水道水を一気に飲み、焼きうどんをレンジで温めた。どちらも拍子抜けするほどおいしかった。あの異様なまずさはいったいなんだったのか。でもそれはそれで、少しさびしいような気もした。
 工場に電話を掛けると、社長が出て、ひどく驚いていた。明日から行きます、といったらさらに驚き「無理をするな」と止められた。
 話をしていると、背後でおばさんたちの声が聞こえてきた。電話の相手が私だと気づいたらしい。
 もう元気なのん? はようおいで。みんな待ってるんよ。わいわいきゃあきゃあ、はしゃいでいる。こみあげるものを感じ、早々に電話を切った。
 寝汗を流すため、ふたたびシャワーを浴びる。手も足も蚊に刺された跡だらけ、かゆみを通りこしてもはや痛い。
 店のほうから葵さんと客の笑い声が聞こえる。たとえ商売用だとしても、葵さんが笑っているのは嬉しい。
 あれだけ寝たのに、また眠くなってきた。布団を敷いて横になる。今度こそルリ子よ現れろ、と念じたけれど、この眠りにもやってこなかった。
 真夜中に、はた、と目が覚めた。とある予感がして、あわててトイレへ駆けこんだ。下着を見て、やっぱりと思う。生理がはじまっていた。
 下着を取りかえ、葵さんのナプキンを分けてもらう。布団を汚していないので安心した。葵さんはいびきをかいて寝ている。
 前回の生理が終わってからまだ間もないのにどうしたわけだろう。いつも乱れがちとはいえ、それにしても早すぎる。
 次第に下腹部が重たく感じられ、鈍痛が起こりはじめる。前回はうそのように痛みがなかったけれど、今回はあるみたいだ。
 ただし、それまでのような激しく鋭い痛みとは違う。痛みのなかに不思議と喜びがある。何かから解放されたような、体が伸びる感じ。こんな痛みは初潮以来はじめてだ。
 葵さんの規則正しいいびきが空気を震わせていた。痛む下腹部をさすりながら、いびきに合わせて呼吸をする。
 葵さんがいなかったら、とふと思う。
 たぶん今ごろルリ子のいいなりになっていただろう。妙な男たちと結婚させられ、彼らの世界に取り込まれていた。ルリ子を助けるためではなく、彼女のそばにいたいという自分の欲を満たすために、きっとそうしていたはずだ。
 私はルリ子についていかない。
 大好きなルリ子よ。
 でもねん、私はあんたについていかないんよ。
 夢でもいいから彼女に会いたい、そのわけは、さよならをいいたいからなのだろう。
 ルリ子は私を捨てた。葵さんを、みんなを捨てた。残される人間の苦しみよりも別のものを彼女は選んだ。
 私はもう待たなくていいのだ。ルリ子の帰りを、失踪する前の、あの素晴らしかった彼女との関係を。もう一度あの時間に戻りたいと願わなくていい。
「あーあ」
 思わず大きな声が口をついて出た。
 その声を合図のように葵さんが寝返りを打ち、あたりは静まる。
 あーあ、だよ。本当に。なんでいなくなっちゃうんね? 失恋ぐらいで? バカやんか。わけのわからんところへ行って。バカにもほどがあるやんか。
 枕に顔をうずめてルリ子をののしった。知っているかぎりの悪態をついた。涙が出ても止めなかった。いつのまにか寝てしまった。今度の眠りにも、ルリ子はやってこなかった。

 生理も三日目ともなると体はほとんど平常通りで、工場へ出ることにした。
 おにぎりをふたつ握り、卵焼きときんぴらごぼうとかぼちゃの煮物を弁当箱につめた。
 まだ寝ている葵さんを起こさないよう静かに家を出た。
 工場が始まるまでかなり時間があったので、海でも見ようと浜につづく道を歩いた。
 今日から工場に出ることを母と良介にラインした。良介からすぐに返事がきた。転院先の病院だろうか、間のぬけた笑顔を自撮りしている。ちょっと顔が太ったみたいだ。
 今日の海はおだやかで、朝日を浴びた水面(みなも)が銀色だ。
 水平線の近くで何隻かの漁船が操業している。
 光る海を眺めながら、波打ちぎわを歩いた。やわらかい砂にスニーカーの底が沈む。
 波打ち際ぎりぎりで、いっせいに魚が飛んだ。波が寄せるたびにたくさんの魚が宙を舞った。
 あっけにとられた。というより、あきれた。そうまでして私が欲しいのん?
「ははははは」
 ピチピチ水を打つ音を背中に聞きながら、工場までの道を歩いた。

(了) ご愛読ありがとうございました。

著者プロフィール

  • 栗田有起

    2000年『ハミザベス』で第26回すばる文学賞を受賞しデビュー。著書に『お縫い子テルミー』『オテル モル』『マルコの夢』『蟋蟀』『コトリトマラズ』『卵町』がある。

  • 池田進吾 [illustration]

    デザイン会社K2を経て、1997年「67(ロクナナ)」を設立。ブックデザインを中心に小説の装画・挿画も手がけるなど幅広く活動。2009年、第40回講談社ブックデザイン賞受賞。 主な著作に『TONY トニー』『空の拳 挿画日記』などがある。