五十嵐貴久
1 戸狩洋一(とかりよういち)と恒松奈美江(つねまつなみえ)の披露宴が終わったのは、夕方四時だった。多少時間が伸びたが、ほぼ予定通りだ。 ベストウェディング社が請け負うのは結婚式及び披露宴のプロデュースで、特に希望がなければ、二次会については関知しない。いい会場を知らないかというような相談には乗るが、プランナー自らが二次会の会場へ行くことは基本的にない。 今回もそれは同じで、新郎新婦は慌ただしく着替えを済ませると、挨拶もそこそこにタクシーで六本木のイギリス風パブへ向かった。こよりは久美(くみ)と共に洋一と奈美江、そして両家の両親をサンズゴッデスのエントランスまで見送り、すぐ庭園へと戻った。取り付けたパネルの回収作業をしなければならない。 小雨の降る中、木とパネルを結んでいた針金を外していると、ちょっと寂しいですね、と久美が言った。 「いい結婚式だったから、余計にそう思うのかもしれないですけど」 結婚式のプロデュースは、音楽のライブや演劇に似たところがある、とこよりは常々思っていた。どんなに豪華な結婚式を挙げたとしても、あるいは地味だったとしても心のこもった結婚式だったとしても、形には残らない。 たまにだが、虚(むな)しくなる時がある。長い時には一年以上の時間をかけ、創意工夫を凝らし、完璧に準備を整えても、全体で五、六時間の式と披露宴が終わってしまえば、感慨に浸(ひた)る暇もない。 新郎新婦、その家族、招待された客たちには思い出が残るが、ウェディングプランナーは違う。あくまでも仕事として請け負う他人の結婚式だ。思い入れはあっても、月日が経てばいつかは忘れてしまう。 だから面白い、という言い方もできる。毎回が一度きりの本番だから、常に全力で向き合わなければならない。プランナーとしては百組、千組の結婚式のひとつに過ぎないが、当人たちにとっては人生で一度だけの大舞台だ。絶対に失敗は許されない。 その緊張感がこよりは好きだったが、久美はどうなのだろう。入社一年では、まだそこまで考える余裕はないのかもしれなかった。 すべてのパネルを外し終えるまで、十分ほどかかった。傘をさしていたが、あまり役に立っていない。びしょ濡れのままサンズゴッデスの中に戻り、久美と顔を見合わせて何となく笑った。 文化祭の終わりと同じだね、とこよりは持っていたパネルを床に置いた。 「とにかくお疲れさま。このパネルは奈美江さんのお母さんに送ることになっているから、それは任せて。今日はありがとう。自分の仕事もあったはずなのに、手伝わせちゃってゴメン」 いえいえ、と久美がハンカチで髪の毛を拭(ぬぐ)った。 「先輩にはお世話になってますから、これも恩返しってことで……草野(くさの)さんも忙しいでしょう? 何でもやりますから、いつでも言ってください。自分の式まで、あとひと月ないんですよ」 おっしゃる通りです、とこよりはうなずいた。いつの間にか六月に入っている。幸雄(ゆきお)との結婚式は六月三十日の土曜日だ。 もう準備は終わってるんでしょうけど、と久美がパネルを重ねて揃えた。 「何しろ、ダンドリ十段のウェディングプランナー、草野こよりですからね。しかもバックには太田原(おおたわら)さんもいるわけだし、座組みはパーフェクトじゃないですか」 久美の言う通り、細かいところまで打ち合わせは済んでいる。司会者も決まり、結婚式と披露宴の進行もすべて決まっていた。 結局、結婚式は儀式でありセレモニーなのだ、とこよりは認識している。身も蓋(ふた)もない話だし、個人によって考え方に違いがあるから、絶対ということではないが、そう捉(とら)えるべきだと十年の経験を通じてわかっているつもりだ。 建前として、結婚式の主役は新郎新婦だが、現実は少し違う。主役であることは確かだが、家族、友人、会社の人たちなど招待客に対するパフォーマンスの側面も大きい。 「わたしはこの人と結婚します」 そう宣言し、伝えるための場でもある。披露宴とは、文字通りお互いの結婚相手を披露するための宴なのだ。 結婚式と披露宴について、大きな問題はなかった。最近では、両親が余計な口出しをすることで、トラブルが起きる場合も多いが、それもなかった。 こよりの両親は、とにかく結婚してくれるだけでありがたいと言っている。三十を越えて、いつまで一人でいるのかと不安だったのだろう。 「フリーターでもニートでもいいんだから」 この数年、母は口癖のようにそう言った。あんまりだとは思うが、親としては本音に違いない。 幸雄の両親も、特に注文をつけることはなかった。自分たちの時代とは違う、と考えているのか、二人の好きなようにすればいいと達観している。 正式な挨拶も含め、今まで何度も会っているが、結婚しても仕事を続けるつもりですと言ったこよりに、二人とも賛成していた。幸雄の母親は専業主婦だが、結婚したら女は家に入るべきだ、というような古い考えは持っていない。それは父親も同じだった。 結婚式そのものを実質的に仕切っているのはこよりだが、ブライダル会社に勤めているのだから、餅は餅屋と考えているようだ。招待客の人数だけは希望を言ったが、他はすべてお任せしますと言うだけだった。 ひとつだけ、大きな問題が残っていたが、それは式や披露宴と関係ない。二人で相談して決めるしかないとわかっていた。 「ひと月、ないんだなあ」 つぶやきが漏れた。幸雄との結婚は素直に嬉しい。だが、独身時代が終わることに、どこか寂しさを感じていた。結婚前の女心は複雑だ。 「結婚式前に、みんなで飲みに行きましょうよ」 そう言った久美に、行く行くとうなずいた。それもまた、区切りをつけるための儀式のひとつなのだろう、とこよりは小さくため息をついた。 2 月曜の朝、出社すると、すぐ太田原に呼ばれた。小会議室に入ると、ちょっと困ってる、と前置き抜きで太田原が口を開いた。 「桑原治郎(くわはらじろう)さんと羽村春代(はむらはるよ)さん。覚えてる?」 覚えてます、とこよりはうなずいた。年が明けてしばらく経った頃だから、一月の半ばだろう。ベストウェディング社を訪れた婚約中のカップルだ。桑原が三十七歳の公務員、春代は同じ部署の部下というデータも、うっすらとだが記憶にあった。 二人と最初に面談したのはこよりで、結婚式と披露宴について、時期や費用の相談を受け、一般的な事情を説明したが、実際の担当についたのは部長の植草(うえくさ)だった。ベテランの男性にプランナーを任せたいと桑原から希望があったためだ。その後どうなっているか、こよりは聞いていなかった。 状況はよろしくない、と太田原が言った。 「式は次の日曜、“シェ・イザワ”でレストランウェディングと決まっている。段取りそのものは問題ない」 ベストウェディング社内で“無難の植草”と呼ばれていることからもわかるように、準備に疎漏(そろう)がないことで植草は知られている。積極的に提案していくタイプのプランナーではないが、守りは固い。安心感という意味では、業界でもトップクラスだろう。 「半月ほど前から、桑原さんがいろいろ注文をつけてくるようになった」 太田原が電子タバコをくわえた。社内は全面禁煙だが、太田原に注意できる者はいない。 「細かいことばかりだけど、今になって言われても対応できないことはある。それを言うと、話が違う、契約違反だとクレームをつけてくる。正直なところ、部長も持て余している」 珍しいですね、とこよりは首を傾げた。植草の調整能力は高く、過去に顧客とトラブルを起こしたケースは聞いたことがなかった。よほど桑原は厄介(やっかい)な性格なのだろう。 身びいきするつもりはないけど、桑原さんの側に問題があるみたいだ、と太田原が煙を吐いた。 「一度決めたことでも、平気で変更する。予算についてもうるさい。先週の金曜には、プランナーを変えてほしいと会社に電話してきたけど、それは丁重に断わった。式まで十日ないから、今変更すれば混乱するだけですよと言ったら、それは了解するが、もう一人つけてほしいと言ってきた。交渉上手といえばそうなんだけど、やりにくい相手だね」 悪いけど、部長をフォローしてほしいと太田原が小さく頭を下げた。 「草野に頼むのは理由がある。今日の十時から“シェ・イザワ”でメニューの最終打ち合わせがある。二カ月前に試食会は済んでるけど、もう一度確認したいと桑原さんから申し入れがあった。伊沢(いざわ)シェフに頼んで、段取りは整えてもらったけど、本人は昨日から出張で三重県に行ってる。植草部長も立ち会うし、スーシェフが代わりに説明するけど、うちの社で“シェ・イザワ”と一番関係がいいのは草野だ。スーシェフも草野さんに来てほしいと言ってる」 「徳井(とくい)さんが?」 そんな名前だった、と太田原が電子タバコのカートリッジを外した。 「草野の方が植草部長より“シェ・イザワ”に関しては事情をわかっている。申し訳ないけど、部長のフォローを頼む。もう部長は店に行ってる。桑原さんも春代さんも、十時までに店に着く。すぐ行くように。以上」 上司のフォローを部下がするというのは、普通の会社だと考えにくいが、ブライダル業界ではそれほど珍しくない。どんな仕事でも相性があるが、顧客とプランナーの関係は特にそれが重要だ。 一期一会の付き合いになるから、納得のできるプランナーにプロデュースを任せたいと誰もが考える。男性、女性、経験に関係なく、うまく関係性を築ける者がフォローに回るのはよくあることだった。 すぐにこよりは“シェ・イザワ”へ向かった。十分とかからない距離だ。まだ店はオープンしていなかったので、勝手口から厨房(ちゅうぼう)へ入ると、そこに植草と孝司(たかし)が立っていた。 悪いねと顔の前で両手を合わせた植草に、クレームの内容を教えてください、とこよりは言った。 「太田原課長から、二カ月前に試食会をして、メニューは決定済みと聞きました。今になって、桑原さんは何を言ってきてるんです?」 桑原さんはうちのスタンダードコースを選んでいる、と孝司が説明を始めた。 「うちでは一番安いコースだ。レストランウェディングの場合、普通はもっと上のコースを選ぶけど、それはいいとしよう。メニューだけど、冷前菜はイベリコ豚生ハムのサラダだ。チェリーモッツァレラ、メロン、プチトマトを添えて出すんだけど、彩りが鮮やかで人気がある。オヤジさん自慢のひと皿だ」 スープはとこよりは尋ねた。“シェ・イザワ”のコース料理はすべて頭の中に入っている。ベストウェディング社で最も詳しいという自負がある。細かい説明を聞く必要はなかった。 「コンソメパリソワール、ヴィシソワーズとコンソメゼリーを交互に重ねたものだ」ビーフコンソメのゼリーを使ってる、と孝司が言った。「うちの常連さんなら必ず頼むスープだ。上品だし、味わい深い」 他のコースでは次に魚料理が供されるが、スタンダードコースでは省かれる。口直しのシャーベットを挟み、メインの肉料理となる。 「今回はオーストラリア産の牛サーロインローストだ」等級はA4、と孝司が得意そうに言った。「ローストポテトとエシャレットのマーマレードが付け合わせで、ビーフソースはオヤジさんオリジナルだ。最後のデザートはラベンダーのパンナコッタ。そしてコーヒーか紅茶」 すごく素敵だと思う、とこよりはうなずいた。 「スタンダードコースって、八千円よね。良心的な価格のメニューだし、ウエルカムドリンクのシャンパンはサービスなんでしょう? どこが不満なの?」 高いって言うんだ、と植草が口元を歪(ゆが)めた。 「フォアグラなりトリュフなり、そういう高級食材がないのに、八千円はどうなんだ、そんなことを言ってた。ここだけの話、相当なケチだよ。レストランウェディングにしたのも、人前式を兼ねているから、その分安く済むと考えたんだろう。顧客の悪口は言いたくないけど、奥さんに対してもすごく高圧的だし、意見も聞かない。結婚できるだけありがたいと思えって言うのを、少なくとも二回は聞いたな。奥さんの方も、何か言い返せばいいと思うんだけど、黙ってるだけなんだよね。そこは事情もあるんだろうから、こっちも余計なことは言わないけど」 植草の話はうなずけるところがあった。最初に応対したとき、もっと経験があるベテランと話したいと言われたことも覚えている。顧客の要望だから、すぐ植草に代わってもらったが、割り切れない思いがあったのは本当だ。桑原の口ぶりには、はっきりと侮蔑(ぶべつ)の響きがあった。 君のような女じゃなくてと桑原は言ったが、こよりも十年の経験がある。桑原は五歳年上なだけで、年齢はさほど変わらない。 今時こんな男がいるのかと呆(あき)れもしたし、春代に対しても苛立(いらだ)ちを感じた。こよりが質問しても、自分の意見は言わないし、お前に何がわかると桑原に言われると黙ってしまう。江戸時代の花嫁だって、もう少し自己主張したのではないか。 自分なら席を立っているだろうし、大体桑原のような男とは付き合わないと思ったが、春代は桑原が一人で話を進めていくのを、ただ見ているだけだった。慣れているのか、諦めているのか、そこはこよりにもわからない。 とはいえ、世の中にはさまざまなカップルがいる。パワーバランスが完全に平等な方がむしろ珍しく、最終決定権を持っているのが男性の側だったり、女性の側だったりするのは、それぞれの自由だ。口出しするようなことではないし、それでいいと春代が思っているのなら、こよりも余計なアドバイスをするつもりはなかった。 ああいうカップルは絶滅したと思ってたよ、と植草が厨房のドアについている小さな丸い窓から店内を見た。 「亭主関白っていうのとは、ちょっと違うんだよね。もっとこう、主従関係っていうか専制君主っていうか……ああ、来た来た」 “シェ・イザワ”の女性店員が先導する形で、奥の席に案内された二人が椅子に座った。桑原はジャケット姿、春代は地味なスーツを着ている。 厨房のドアを押し開けた植草が、お待ちしておりましたと完璧な営業スマイルを浮かべながら言った。 「本日はわざわざ申し訳ありません。桑原様、羽村様、ドリンクはいかがなさいますか。ワイン、シャンパン……」 水をいただけますか、と桑原が遮(さえぎ)った。言葉遣いは丁寧すぎるほど丁寧だった。 「半休を取っていますが、午後から仕事に戻らなければなりません。月曜の午前中からアルコールというわけにもいきませんよ」 ごもっともです、と植草がうなずいた。孝司の指示で、女性店員がペリエを運んでくる。ご相談の件ですが、と植草が腕時計に目をやった。 「お仕事がおありということで、さっそく本題に入らせていただきます。こちらは弊社の草野こよりというプランナーですが、“シェ・イザワ”さんと親しいので、私より彼女の方が相談するには適任かと思い、同席させていただくことにしました」 料金にご不満があると伺(うかが)っていますが、と口を開いたこよりを手で制した桑原が、伊沢シェフはどちらに、と店内を見回した。本日、シェフは三重県に出張中ですと孝司が答えると、露骨に不愉快そうな表情を浮かべた。 「出張? スタンダードコースの客なんか、手が空いてる者に相手をさせればいい、そういうことですか」 粘(ねば)っこい口調に、そうではありませんと孝司が言った。 「伊沢の出張は先月の頭から決まっていたことです。わたしはこの店のスーシェフを務めている徳井と申しますが、今日は伊沢の代わりにお話をお伺いします。当然ですが、結婚式当日は伊沢がすべての調理を担当します」 いいんですよ、と桑原がペリエをグラスに注いだ。 「クレーマーじゃありませんからね。文句を言いたいわけでもないんです。こちらのお願いは簡単なことで、高級食材を使った料理に変更してもらうか、それが無理なら料金を下げてほしいという、それだけなんです」 話は植草部長から聞きました、と孝司がうなずいた。 「ですが、当店のスタンダードコースの基本フォーマットは、二カ月前の試食会でご説明済みです。桑原様も了解されていると、伊沢から聞いていますが」 あの時はね、と桑原がペリエをひと口飲んだ。 「私も初めてのことですし、有名な伊沢シェフに言われたら、そういうものかと思いました。でもね、後で調べたら、もっと安い店もあるわけですよ」 そういう店もあるでしょう、と孝司がかすかに唇を震わせた。 「料金体系はそれぞれの店のコンセプトによって変わります。他店の方針に口出しするつもりはありません。ただ、“シェ・イザワ”ではスタンダードコースにフォアグラ、キャビア、トリュフといった食材を使うことはないんです」 結婚式なんですよ、と桑原が笑みを浮かべた。 「多少のサービスがあってもいいんじゃないですか? 今回、五十人も呼ぶわけですし、そちらにだってメリットはあるでしょう」 あの、と口を開いた春代に、お前は黙ってろと桑原が押さえ付けるように言った。 「お前に何がわかる? こちらのお店だって、商売でやってるんだ。どんなビジネスだって、サービスは必要なんだよ。そうですよね?」 失礼ですが、とこよりは一歩前に出た。 「結婚式は慶事です。おめでたい席ですから、お二人のご意見を尊重したいと弊社も“シェ・イザワ”さんも考えています。せっかくですから、羽村様のご意見も伺っておきたいと思いますが」 彼女のことはいいんです、と桑原が横を向いた。 「女性はみんなそうですけど、上を見がちですよね。贅沢(ぜいたく)を言い出したらきりがありません。ぼくもいろいろ調べました。植草部長のお勧めもあって、“シェ・イザワ”でレストランウェディングをすると決めたわけです。伊沢シェフは有名ですしね。ただ、何かプラスアルファがあってもいいんじゃないかと思うんですよ」 クレームをつけてるんじゃありませんよと桑原が言ったが、その口調はどこから見てもクレーマーそのものだった。 3 疲れたね、と植草が肩を落とした。本当に、とこよりはうなずいた。 クレームではないと言いながらも、桑原はしつこくサービスを要求し続けた。本当の狙いは、料金を下げることにあったのだろう。結局、伊沢と相談してお返事しますと孝司がその場を収めたが、簡単に解決できることではない。 料理人だから、文句を言う客には慣れてる、と孝司が眉間を指で揉(も)んだ。 「でも、レストランウェディングで、あんな露骨に料金を下げろと言ってくる客は聞いたことがない。怒ってるんじゃないよ。驚いてるんだ。今時、あんな客がいるなんてね」 今日のセッティングだって、大変だったんだよと植草がこぼした。 「どうにかなだめたけど、昔ならこっちから断わってるよ。ただねえ、最近は下手なことをすると、ネットに書き込まれたりするからさ。自分のことを悪く書かれてもしょうがないけど、会社の評判が落ちるとまずいしねえ」 ブライダル会社にとって、口コミによる評判は大きい。うまくいって当たり前のビジネスだから、些細(ささい)なミスでも揚げ足を取られる。 結婚式はある意味で人生最大のイベントだから、気に入らないことがあればクレームをつけたくなるのはわかるが、よかれと思ってしたことが裏目に出る場合もある。難しい業界なのは確かだった。 どういう人なんですかと尋ねた孝司に、区役所の総務マンなんだと植草が答えた。 「役所で使う文具品とかコピー機とかパソコンとか、そんな備品の購入を決定する部署にいるそうだ。奥さんはそこの部下という話だった。上司の勧めで交際を始めたと聞いてる。交渉事には慣れているんだろうし、業者にとっては区役所様だからねえ。上から物を言うのは仕事柄ってことなのかな。便宜(べんぎ)を図るのは当然だろって態度だったけど、そんなことしてて大丈夫なのかね」 サービスをする余地はありますかと言ったこよりに、ぼくに答えられる範囲ではない、と孝司が口を尖(とが)らせた。 「肉の等級を下げるとか、やり方はあるよ。でも、オヤジさんがそんなことを許すはずがないのは、わかってるだろ? 店には店のルールがある。料金を下げたと他のお客さんが知ったら、そっちの方が大変だ。とにかく、ぼくからオヤジさんに説明しておく。どうするか決まったら連絡するよ」 担当、代わってくれないかと気弱な声で植草が言った。 「今日はフォローって立場で、草野さんには来てもらったけど、もう限界だよ……いや、冗談。押し付けることじゃないよね」 サポートならできると思います、とこよりは言った。植草と桑原の相性はどう見ても悪い。このままでは、結婚式そのものに支障を来(きた)しかねないだろう。 わからないなあ、と孝司が肩をすくめた。 「あの男はもちろんだけど、奥さんもだよ。あんな男とどうして結婚するんだ? 何でも夫に従うなんて、美徳でも何でもないよ。あれじゃまるで奴隷だ。余計なお世話かもしれないけど、心配だな」 あたしもそう思う、とこよりはため息をついた。テーブルの上に、飲みかけのグラスが残っている。片付けよう、と孝司が手を伸ばした。(つづく) 次回は2018年4月15日更新予定です。
1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。