物語がつまった宝箱
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  • last marriage(1) 2018年6月1日更新
1
 六月二十九日、金曜日。
 フロアの壁に掛かっているアンティーク時計の針が五時半ちょうどを指したのを確かめてから、こよりは立ち上がった。数人のプランナーが顔を上げ、微笑を浮かべ、そしてまた仕事に戻っていく。
 お先に失礼しますと頭を下げて、トートバッグを抱えた。課長席の太田原(おおたわら)が微笑というより、はっきりと笑いながら、お疲れさまと手を振った。
 ベストウェディング社の定時は九時半から五時半までだが、その時間に席を立つ者はめったにいない。日本中の多くの会社がそうだろう。
 ウェディングプランナーという仕事は時間が不規則だし、結婚式は一日限りの特別なイベントだ。絶対にやり直しは利かない。
 そのため、どんなに時間をかけて準備しても、常にどこか不安がある。最悪の事態を想定し、その対応策まで考えるとなると、時間はいくらあっても足りない。必然的に定時に帰るというわけにはいかなくなる。
 最近は会社側も過剰労働に気を遣うようになっているし、残業が続くと管理職の方から、早く帰るように注意されることもあるぐらいだが、無理に残業を押し付けられているわけではない。こよりはウェディングプランナーという仕事が好きだった。必要であれば徹夜も辞さないつもりでいる。
 ただ、今日だけは別だ。何しろ、明日は自分の結婚式なのだ。
 定時に上がろうが早退しようが、仕事が残っていようが、そんなことは関係ない。さっさと家に帰って、明日に備えなければならない。もちろん、太田原をはじめ、他のプランナーたちも、その事情を了解している。
 ウェディングプランナーである前に、私は一人の女性なのだ、とどこかで聞いたような言葉を頭に思い浮かべながら、こよりはフロアを後にした。
 明日、あたしは結婚する。

2
 六時過ぎ、竹芝(たけしば)のマンションに戻った。手を洗い、部屋着に着替え、リビングのテーブルに座って作り置きのアイスティーを飲み、ひと息ついたところで気が付いた。
 何もすることがない。
 幸雄(ゆきお)との結婚式、披露宴に関して、本格的に準備を始めたのは半年前だ。ベストウェディング社の社員全員が祝福してくれて、総動員態勢が取られた。
 もし、普通の会社に勤めるOLだったとしても、社内の人間は誰もがおめでとうと言ってくれただろう。だが、本心とは限らない。さまざまな思惑を胸に秘めている同僚たちもいるはずだ。
 味方もいるが、敵もいる。社会人なら誰でもそうだ。まして結婚となると、味方だったはずの友人が敵に回ることも有り得る。
 ベストウェディング社もその辺りの事情は同じで、こより自身、みんな友達などと能天気なことは考えていない。同じプランナー同士でもライバル意識があるし、性格の相性、好き嫌いもある。他の部署でも同じだ。
 ただ、ブライダル会社に勤める者は、他のどんな会社員、OLより、結婚式について詳しい。社員の誰かが結婚すると決まれば、それまでのいきさつや恩讐(おんしゅう)を越えて、一致団結する。それがこの業界の仁義だった。
 こより本人も結婚式の準備、流れ、段取りについてはプロフェッショナルと言っていい。いつ、どこで、何をするべきか、すべて心得ている。結婚前の花嫁の心理状態についても、手に取るようにわかっていた。
 結婚する当事者として、そしてウェディングプランナーとして、主観的かつ客観的に準備を進めていくことができた。しかも、全体の管理責任者は「名人位」の称号を持つ太田原だ。万にひとつのミスも考えられない。漏(も)れなどあり得なかった。
 結果として、一週間前にはすべての準備が終わっていた。ダブルチェックどころか、トリプルチェックで確認を済ませている。
 そのため、結婚式を明日に控えた今、こよりにはするべきことが何もなかった。
 幸雄との結婚式はベストウェディング社のチャペルで執(と)り行われる。自分の庭も同然だ。何もかも知っていると言っても過言ではない。
 明日は会社がハイヤーを手配しているが、チャペルはゆりかもめで二駅先の台場(だいば)駅から徒歩五分の距離にある。もし大事故が起きて、道路が大渋滞したとしても、竹芝から走ればいい。
 着ていく服、靴も決めていたし、それは玄関にセッティング済みだ。式で着るウェディングドレス、そしてメイクについても問題ない。
 結婚式の朝、花嫁のメイクは簡単でいい。本格的なヘアメイクは会場の控室でするから、本当はすっぴんでもいいぐらいだ。
 今日の夕食は帰る途中にコンビニ弁当を買っていた。結婚式前日なのに、色気も何もないし、侘(わび)しくないかと思わないでもなかったが、作るとなるとそれなりの手間暇(てまひま)がかかる。後片付けをするのも面倒臭い。利便性を考えれば、コンビニ弁当で十分だった。
 一人暮らしだから、両親と独身最後の夕食を共にするとか、その後で思い出話に付き合わなくてもいい。
 これは考え方だし、個人差もあるだろうが、二度と会えなくなるわけではないのだし、実家は横浜(よこはま)だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。ドライに聞こえるかもしれないが、泣いたり笑ったり、そんな昔のホームドラマのような展開は、こよりも両親も望んでいなかった。
 結局、これからすることは三つしかなかった。まず夕食としてコンビニ弁当を食べ、それから入浴し、いつもより念入りに髪と体を洗う。そして早めに寝る。以上。
 式の時間、そしてドレスの着付けやヘアメイクの時間その他を逆算すると、明日は朝五時に起きなければならない。結婚式における花嫁の最大の敵は睡眠不足だ。十時にはベッドに入ろう、と決めていた。
 だが、それにしてもまだ四時間近くある。コンビニ弁当など、その気になれば十分かからずに食べ終えてしまうだろう。入浴時間を多めに見積もっても、一時間ほどにしかならない。
 さて、今から三時間、あたしは何をすればいいのやら。
 もっとも、それほど悩む必要はなかった。まず六時半、母親から電話があった。心配性なところがある母は、十日前から日に三度、四度も電話をかけてくる。
 最初は、お父さんと一緒に前の日はあなたの部屋に泊まると言っていたが、狭すぎるし、寝具もないので断わった。
次はお台場のホテルに三人で泊まりましょうと提案してきたが、実家のある横浜から台場までは一時間もかからない。地方に住んでいるならともかく、意味もないしお金の無駄だと却下した。
 それでも、母親として心配の種は尽きないのだろう。これも親孝行だと思って、三十分ほど付き合っていると、ようやく気が済んだのか、朝四時にモーニングコールするからねと言って電話を切った。五時でも十分なのだが、それを言うのも面倒になっていた。
 その間、ラインやメールが何本も入っていた。ほとんどが学生時代の友人たちで、おめでとうだの祝結婚だの、明日の挙式を控えて今の心境はだの、お祝いとからかいとやっかみの混じったメッセージに返事をしていくと、それなりに時間が潰(つぶ)れていった。
 八時過ぎ、少し落ち着いたところでバスタブに湯を張った。いつもそうだが、半身浴なのでそれほど時間はかからない。
 ファッション誌を持ってバスルームに入り、軽く汗を流してからバスタブに体を沈めた。いつもは雑誌だけだが、想定外の何かが起きると困るので、スマホも手の届くところに置いていた。
 雑誌のページをめくっていると、八時半に着信音が鳴った。手を伸ばしてスマホを取り上げると、画面に幸雄の名前があった。
「仕事、終わったの?」
 ついさっき、と疲れた声で返事があった。結婚式前日だが、幸雄は“エア/ホワイト”で通常通り仕事に就いていた。
「いや、特に何かあるってわけじゃないんだ。むしろ、何もない? って感じかな」
 ただ今バスタイム、とこよりは額(ひたい)に垂(た)れた汗を拭(ぬぐ)った。
「どうする? ビデオ通話にしようか?」
 結構です、と慌てたように幸雄が言った。こういう時、必ず少年のような反応をする。面白い人だ、とこよりはいつも思っている。
「強いて言えば、確認かな。いや、準備が全部整ってるのはわかってる。ブライダル会社のウェディングプランナーと結婚するんだから、ミスなんて考えられないよ」
「じゃあ、何の確認?」
「映画でよくあるだろ? 結婚式前日に気が変わったり、やっぱりあなたとは結婚できないとか」
 そんな映画あったっけとつぶやくと、ないことはないと幸雄が言った。
「それならそれで、今言ってもらえると助かる。当日になって君が式場に現れなかったら、それこそパニックだよ」
「まあ、大丈夫でしょう」ご安心ください、とこよりはスマホを持ち替えた。「何かあるなら、もっと前に言ってる。人として最低の礼儀でしょ」
「もうひとつ、引っ越しの件なんだけど」照れたような笑い声をあげた幸雄が話題を変えた。「こっちの受け入れ準備は終わってる。クローゼットは全部君に渡すよ。少しゴチャゴチャしてるし、新婚夫婦の新居として環境がいいとは言えないけど、どっちにしたってここで暮らすのは八月末までだ。それまでに、本当の新居を探せばいい」
 わかってる、とこよりはうなずいた。結婚してどこに住むか、最終的な結論は出ていない。とりあえず、表参道(おもてさんどう)の幸雄のマンションで暮らすことにしていたが、その後は未定だった。
「いい機会だから、こよりもいらない物はばっさり捨てた方がいいと思うな」断捨離(だんしゃり)だよ、と幸雄が言った。「ぼくも相当処分した。結婚って、そういうものかもしれない」
「今日はもう帰るの?」
 後片付けなんかは後輩に任せた、と幸雄が答えた。
「疲れたよ。一日中立ってたからね。太田原さんから、早く寝るようにって何度もメールが入ってる。あの人の命令には逆らえない。速攻で帰って、風呂入って寝るよ」
「寝坊しないでね。朝、電話した方がいい?」
 それより眠れるかどうかが心配だ、と幸雄が笑った。
「明日が結婚式なんだよな。興奮っていうか、緊張してるのは本当で……まあいいや、とにかく明日」
「了解」
 こより、と幸雄が声を低くした。
「何?」
「幸せにするよ」
 ありがとうと微笑むと、照れたように笑って幸雄が通話を切った。
 こよりはスマホを置いて雑誌を取り上げた。ラインとメールの着信音が何度か鳴ったが、友人たちだった。
 明日かあ、というつぶやきがバスルームに広がっていった。

3
 ドライヤーで髪を乾かし、いつもより入念に歯を磨(みが)くと、ちょうど十時だった。この時間になっても、まだラインやメールが何本か入っていたが、返事はしなくていいだろう。いろいろ絡み出すと、何時間あっても足りない。
 ベッドサイドのスタンドの明度を落とし、Tシャツとショートパンツでベッドに潜(もぐ)り込んだ。六月末、梅雨のシーズンで、蒸し暑い。この時間でも三十度近い。うまく眠れるか、それだけが心配だった。
 太田原から睡眠導入剤をもらっていたが、下手に深く眠ってしまうのもよくない。明日だけは、万が一にも寝坊できない。
 ただ、ひとつだけ気になっていることがあった。いつかはっきりさせなければならないと思っていたが、結局今日まで何もできずにいた。
 しばらく考えてから、スタンドの明かりをつけて、スマホを手に取った。番号をスワイプすると、すぐに相手が出た。
「こんばんは」
 どうした、と孝司(たかし)の声がした。どうもしないけど、とこよりは小さく笑った。
「何となく、ね」
「まさか、明日のメニューを変更してほしいとか、そんな話じゃないだろうな」
 明日、チャペルでの人前式を終えた後、“シェ・イザワ”に移動して、レストランウェディングをすることになっている。メニューを決めたのはオーナーシェフの伊沢(いざわ)だが、実際に厨房(ちゅうぼう)で腕を振るうのはスーシェフの孝司だ。
「下ごしらえや食材の手配は終わってる。今から変更することになったら大変だ。責任持てない」
 そんなこと言わない、とこよりはスマホをスピーカーホンに切り替えて枕元に置いた。
「何ていうか、結婚式の前にあなたとちゃんと話しておきたかったの。昔を懐かしむとか、マリッジブルーとか、そんなことじゃなくて……あの頃、あたしはあなたのことが好きだった。それは心から言える」
 おれだって、という孝司の声が部屋に広がった。いろいろあって別れた、とこよりは言った。
「それはどうしようもないことで、どっちが悪いとか、そんな話じゃない。あの時は別れるしかなかった。日本にいるあたしと、フランスで修業しているあなたが、超遠距離恋愛なんかできるはずないし。でも……」
「でも?」
 後悔とはちょっと違うけど、とこよりは低い声で言った。
「未練はあった。だって、あたしたちは嫌いで別れたんじゃない。距離や環境があまりにも違い過ぎるから、どうにもならないって思った。でも、別れてからもあなたのことが忘れられなかった」
 孝司が黙った。自分もそうだった、と言いたいのだろう。思いが伝わってきた。
 だけど、幸雄と出会ったとこよりは言葉を継いだ。
「彼は少し優柔不断なところがあったり、ちょっと違うなって思うこともある。でも、彼を好きになった。結婚するって決めた」
「うん」
「そこまでは順調だったけど、多くの女性がそうであるように、あたしもマリッジブルーになった」結婚のプロなのにね、とこよりは小さく笑った。「あれは麻疹(はしか)と同じで、誰でも経験することだし、結婚式の当日になれば必ず治る。理屈はわかってるの。だけど、いろんなことが不安で……そんな時、あなたが日本に帰ってきた。驚いたし、正直言うと一瞬心が揺れた」
 それがマリッジブルーのためだったのか、他に理由があったのか、今もこより自身わかっていない。
 孝司と付き合っていたのは二十代半ばで、その時でなければ持つことのできない感情があった。そのためかもしれない。
 結婚を意識して交際していたし、それは孝司も同じだったはずだ。そういう相手がこの時期に突然目の前に現れて、動揺しない女性はいないだろう。
「うぬぼれかもしれないけど、あなたの方にもあたしへの気持ちが残っている気がした。もしかしたら、幸雄との結婚は間違っているんじゃないか、そう思ったこともある。このまま彼と結婚していいのかって……」
 うぬぼれなんかじゃない、と孝司がはっきりした声で言った。
「こよりへの気持ちは、あの頃と変わっていない。結婚すると昔の友人からのメールで知って、それこそ動揺した。そのタイミングで帰国が決まった。見えない力が働いてるんじゃないかって思ったのは本当だ」
 あの頃、あなたに恋をしていた、とこよりは声のトーンを落とした。
「真剣だった。あなたといて、すごく楽しかったし、幸せだった。でも、幸雄と一緒にいる時の方がもっと幸せだって、今、心から思ってる。こんなことを言うのは女として最悪かもしれないけど、あなたにありがとうって言いたかった。何か、いい女ぶってるみたいだけど」
 大きなため息の後、舌打ちする音がした。
「ちょっと苛(いら)つく。別れた男にありがとうなんて、女として最低だ」
「ごめん。わかってる」
「だから、こっちも最低なことを言おう。結婚、おめでとう」
 一瞬の沈黙。そして同時に笑った。
「幸せになれよ。明日は最高の料理を用意する。それがおれのお祝い代わりだ」
 サンキューと言ったこよりに、それが仕事なんでね、と孝司が鼻をすすった。それで話は終わった。
 スタンドの明かりを消して、頭からブランケットをかぶった。引っ掛かっていた小さな刺(とげ)が抜けたような気がしていた。
 そのまま眠った。気がつくと、スマホが鳴っていた。AM4:55。
「こより、起きてるの? もしもし?」
 少し甲高(かんだか)い母の声に、こよりはスマホを耳に当てたままカーテンを開いた。まぶしいほど晴れている。
「返事をしなさい、返事を! こより、起きて起きて!」
 起きてますと答えると、何度電話したと思ってるのと叫ぶ声がした。
「四時に電話するって言ったでしょ? あなた、ちっとも出ないから、死んだんじゃないかって、警察に通報しようかと思ってたのよ!」
 後半は涙声になっていた。全然気づかなかったと言うと、更(さら)に大声が降ってきた。
「二度寝なんかしたら絶対駄目よ! わかってるの? それでなくても血圧低いんだから、朝には弱いんだし。こよりが中学の頃、母さんがどれだけ起こすのに苦労したと思ってるの? ほら、顔を洗って、何でもいいから食べなさい。ああ、でも歯磨きもちゃんと――」
 こよりは無言でスマホを枕の下に押し込んだ。どちらかと言えばのんびりした性格の母だが、やはり娘の結婚式となると、度を失ってしまうのだろうか。
 声が枕の下から聞こえていたが、無視して洗面所に向かった。

4
 トーストを二枚焼き、無理やり口に押し込んだ。普段から朝は食欲がないが、今食べておかないと次にいつ食事できるかわからない。
 軽くメイクを施(ほどこ)し、身支度を整えているとスマホが鳴った。タクシー会社からの電話だった。
 五分後にマンションの前に到着しますという運転手の声に、準備はできていますと答えた。六時五分、マンションのエントランスを出ると、初老の運転手が笑顔でドアを開けてくれた。
 何しろ近いので、チャペルまで時間はかからない。十分後には控室に入っていた。
 待っていたのは部長の植草(うえくさ)、今回のプランナー太田原、そして現場を担当する久美(くみ)と西川和歌(にしかわわか)だった。二人とも自分から手を上げてくれたと聞いている。お世話になりますと言うと、任せてくださいと久美が胸を叩いた。
「さて、それじゃ始めましょう」
 事務的に言った太田原が、控室と繋(つな)がっているメイクルームのドアを開けた。“エア/ホワイト”の安西(あんざい)社長、そしてベストウェディング社が契約しているスタイリストが立ち上がって一礼した。
 座って座って、と安西が大きな鏡の前の椅子(いす)を指した。どこか物言いが軽いのは癖だとこよりも知っている。
「まず、ヘアの下準備を先にしますから。こよりちゃんは髪質にちょっと癖(くせ)があるんでね」
 喋(しゃべ)るのと同時に手が動き、あっと言う間に頭を蒸(む)しタオルで巻かれた。カリスマ美容師として、安西のテクニックには定評がある。すべて任せておけばいいという安心感があった。
 多忙な安西が部下である幸雄の結婚式で、自ら花嫁のヘアメイクを買って出たのは、親分肌な性格のためだ。自社の社員が結婚する時は、安西がヘアメイクを担当するのが“エア/ホワイト”では慣例になっている。
 ただ、今回海外出張の予定をキャンセルしてまで、こよりのヘアメイクを自分ですると安西が言ったのは、幸雄への好意と言っていい。前に三人で食事をした時、幸雄はぼくの右腕だから、と安西が話していたのを、こよりは思い出していた。
「いずれ、あいつはうちの店を離れて独立するだろう」幸雄がトイレに立った時、安西が半分残念そうに、半分嬉しそうに言った。「それだけの技術もあるし、人間性もいい。頼りになる男だよ。ただ、知っての通り優し過ぎるところがある。人としてはそうあるべきだけど、経営者という立場になると、逆に厳しい。その辺はこよりちゃんが支えるしかないんだろうな」
 あの時と同じ笑顔で蒸しタオルを外した安西が、微風のドライヤーを当てながらブラッシングを始めた。手が何本もあるようだ。
「よし、とりあえずOK。それじゃ、ファンデーションを落として」安西がいくつかのボトルを並べた。「左から順番に使うこと。洗い残しがないように頼むよ。スタイリストさん、ウェディングドレスの着付けをお願いします。ぼくは一度出ますから」
 結婚式のヘアメイクに慣れていることもあり、安西の指示は的確だった。では後ほど、と手を振って控室に入っていく。残ったのはスタイリストと、そのアシスタントを務める久美だけになった。
 ブライダル会社で働いていて一番良かったと思ったのは、ドレス選びの時だった。こよりに限らず、ウェディングプランナーは誰でも飽きるほどドレスを見ている。デザインやカラーなど、流行もわかっている。
 普通の花嫁なら、最低でも五回は試着を繰り返さなければならないが、こよりはほとんど迷うことなく、ホワイトのエンパイアラインドレスを選んでいた。
 ウェディングドレスに流行はあるが、重要なのは年齢や体型にふさわしいものを選ぶことだ、と経験を通じて知っている。平均より少し背が高く、スリムだがフェミニンさに欠けるところのある三十二歳の花嫁にとってベストなデザインはエンパイアライン以外ない。事前にサイズは調整済みだから、フィット感もジャストだった。
 控室へのドアを開いた久美が、お待たせしましたと大声で言った。入ってきたのは両親、そして志保(しほ)たち四人の親しい友人だった。
 きれいだ、似合ってる、そんなことは言わなくていい、と座ったままこよりは言った。
「礼儀やマナーはわかってる。だけど、あたしは今日まで一万回以上同じことを言い続けてきた。正直、聞き飽きてる」
 どうしてあなたは素直になれないのと母親が四方に頭を下げたが、太田原と久美、そして和歌がわかるわかるとうなずいた。一万回と言ったのは誇張でも何でもない。実際にはもっと多いだろう。
 プランナーはウェディングドレスの試着にも立ち会うから、ドレスを着替えるたびに、よくお似合いです、とてもお美しいです、と言わなければならない。それは職業的な条件反射で、ありがとうと答えるのも煩(わずら)わしい。
 とはいえ、女性としてウェディングドレスを着るのは嬉しかった。誰でもそうだろう。
 新郎もウェディング用のタキシードを着るが、やはりそれとは違う感情がある。女性にしか味わえない特権かもしれない。
 お披露目(ひろめ)のセレモニーが終わると、両親が慌ただしく出て行った。遠方から来ている親戚たちもいるから、挨拶をしなければならない。結婚とは当事者である新郎新婦だけではなく、親戚を含めた家同士のものでもあった。
 太田原や志保たちが見守る中、安西がメイクを始めた。お喋りしていても構わないよ、と頬にファンデーションをひと筆塗る。頬が動いてしまうため、メイク中に話すのは基本的にNGだが、安西は自分の腕に自信があるのだろう。
 志保を含め、友人四人は全員結婚していた。それもあって、メイクルームの空気はリラックスしていた。一人でも未婚者がいると、多少なりとも言葉を選ばなければならないが、気楽に過ごせた。
 時計に目をやった太田原が、九時とつぶやいた。それが合図だったかのように、完成、と安西がこよりの両肩を叩いた。

(つづく) 次回は6月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。