物語がつまった宝箱
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  • 1st marriage(2) 2017年10月15日更新
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 週末の日曜日、いつものように結婚式が入っていた。メインのウェディングプランナーはこより、サブに久美がついている。三月いっぱいまで、二人はコンビを組んで動くように、と太田原(おおたわら)から命じられていた。
 一年前から打ち合わせと準備を重ねてきている。結婚するカップル、岸野辰也(きしのたつや)と上原京子(うえはらきょうこ)は二十八歳と二十六歳の新郎新婦で、同じIT企業に勤める先輩後輩だった。二人とも理系出身で、どこか世慣れていないところがあったが、三年前から交際を続け、晴れて今日を迎えていた。
 若いためもあるが、二人の結婚式はシンプルなものだった。ベストウェディング社直営のチャペルで親族だけが参列する式を挙げ、その後契約しているお台場のイタリアンレストランで五十人ほどの客を招いて披露宴を行う。料金的にも年齢相応で、無理をしない二人にこよりは好感を持っていた。
「例の件、大丈夫ですかね」
 耳のインカムに、久美(くみ)の緊張した声が響いた。今日、メインのウェディングプランナーは名目上はこよりだが、実質的に仕切っているのは久美だ。
 入社して丸一年、そろそろ独り立ちしてもらわなければならない。基本的に久美にすべてを任せ、こよりはアドバイスするだけだったが、久美が緊張する気持ちはよくわかった。
 結婚は人生で最大の重要事だし、式はそのハイライトでもある。ウェディングプランナーとは、そのプロデュースを担当する仕事だ。
 もちろんビジネスだが、それだけではないところがある。新婚カップルに寄り添い、要望や悩みを聞き、希望をかなえるために努力し、最高のメモリアルとなる結婚式にしたいと強く願っている。
 特に花嫁とは一緒に長い時間を過ごし、相談を受けることもあった。十年の経験があるこよりでも、感情移入してしまうことがある。入社一年目の久美なら、なおさらそうだろう。
 実際、相談に訪れた新婦とウェディングプランナーが親しくなる例は数え切れない。友達になることもよくある話だ。久美は新婦の京子と三歳しか違わないから、親密になるのは当然で、それはこよりも経験があった。
 結婚式、そして披露宴について、事前にプランニングとそのための準備をするのが、ウェディングプランナーの最も重要な仕事だが、実際の現場が滞りなく円滑に進むように管理するのも大きな役割だった。
 結婚式も披露宴も、共に時間の制約がある。ベストウェディング社には、一日三組までという内規があるが、今日もチャペルでは三組の挙式が執(と)り行われる。時間管理はマストだった。
 そして、もうひとつ大きなポイントがある。アクシデント対応だ。
 結婚式はともかく、披露宴はそこら中にトラブルの種が転がっている。そのほとんどが些細なことだが、早めに対処するのがウェディングプランナーの役割だった。火事は小さなうちに消すこと、というのが太田原の教えだったが、その通りだろう。
 こよりは披露宴会場の奥にあるバックヤードから、全体の状況を確認していた。久美は高砂の右、新婦側に立っていた。
 少し前過ぎる、とこよりはつぶやいた。あれではまるで総理大臣を警護するSPではないか。
 もっとも、久美はまだ経験が浅い。何か起きた場合に対応できるだけのスキルはあったが、何が起きるかを予測できるわけではなかった。こよりもそうだったし、かつては太田原もそうだったはずで、だから注意しようとは思わなかった。
 大きなアクシデントがないまま、披露宴は順調に進行していた。花嫁がドレスにワインをこぼしたり、花婿の叔父が酔っ払ってスピーチを始め、予定の時間を大幅に超過したことを除けばだが、どちらもうまく久美が対処していた。
既に宴は最終コーナーに入っている。久美が緊張している理由は別にあるとわかっていた。
 祝電の紹介が終わり、残すのは新婦から親への手紙と花束贈呈、そして新郎による招待客への謝辞だけだ。大丈夫、とこよりはインカムに向かって囁いた。
「準備は整ってる。キュー出しはあなたがしなさい。打ち合わせ通り、ゴーよ」
 了解、と短い返事があった。その間に新郎新婦両家の両親が、所定の位置に移動していた。高砂から降りた二人と向かい合う形になった。
「みなさま、本日はお忙しいところ、わたしたちの結婚式にご列席いただき、ありがとうございます」
 京子が声を震わせながら頭を深く下げた。マニュアル通りのパターンだが、披露宴における両親への手紙はオーソドックスな方が感動的だと、こよりは経験的に知っていた。受けを狙ったり、過剰な言葉を使うのはタブーだし、印象を悪くするものだ。
「お父さん、お母さん、今日まで二十六年間、大切に育ててくださいまして、ありがとうございます。小さかった頃を振り返ると、いろいろな思い出が浮かんできます」
 スタンバイ、とこよりはインカムを手で覆いながら指示を出した。照明、音響担当のスタッフが、親指を立てたのが見えた。
 その間も挨拶は続いていた。幼い頃のエピソード、高校二年の時に父親と口論をして謝らなかったことを、新婦が詫びていた。
 そこに真実がある限り、定番には定番の強さがある。会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえていた。京子の両親も目を潤ませている。辰也さんのお父様お母様、と京子が顔の向きを変えた。
「わたしたちの結婚を認めてくださって、ありがとうございました。これからは二人で力を合わせ、明るく幸せな家庭を築いていきたいと思っています。これからもよろしくお願いします」
 頭を深く下げた京子の肩に、辰也がそっと手を置いた。その顔に目を向けた京子が、ありがとうというように微笑んだ。
「ただ、ひとつだけ、今日の結婚式と披露宴について、一番いらしてほしい方がいないことを、辰也さんが残念に思っているのを、わたしは知っています」
 何のことだ、というように辰也が首を傾げた。リハーサルでも京子は辰也にこの話をしていなかった。
「辰也さんが四歳の時、お父様がお仕事の都合でお母様と海外に赴任することになりました。治安が悪いことと、政情が不安定だったため、辰也さんを日本に残して行かれたと聞いています。幼かった辰也さんと離れて暮らさなければならなかったご両親の辛さは、想像することもできません。お二人が辰也さんを託したのは、お父様のご実家である熊本に住んでおられた房子(ふさこ)おばあ様でした」
 久美がキューを出すと、高砂の後ろにあったスクリーンに、髪の毛を紫色に染めた初老の女性と手を繋いで立っている男の子の写真が映し出された。口元をへの字に曲げている少年は辰也であり、力んだ表情に会場から笑いが起きた。
「七歳まで辰也さんを育ててくれたのは、房子おばあ様でした。辰也さんはわたしに、その頃のことを何度も話してくれました。とても厳しくて、でもとても優しくて、大切なことはすべておばあちゃんに教えてもらったと……」
 久美の指示で、数枚の写真がスクリーンに浮かび上がった。切り替わるたび、辰也と祖母が年齢を重ねていく。最後に映し出されたのは、病院のベッドで横になっている祖母と、剥いたリンゴを渡している辰也の姿だった。
「二年前、房子おばあ様は心臓の病気で倒れ、今も熊本の病院に入っておられます。お元気ですが、東京まで来ることはお医者様の許可が下りませんでした。辰也さんにとっても、ご両親にとっても、もちろんおばあ様にとっても心残りだと思います」
 十秒前、という久美の声がインカムから流れてきた。わたしもまだおばあ様にお会いできていません、と京子が目元を拭った。
「年内には熊本へ伺うつもりですが、わたしもおばあ様にここにいていただきたかったですし、お礼を言いたいと思っていました。わたしが辰也さんと巡り会えたのも、わたしを辰也さんが愛してくれたのも、すべておばあ様のおかげです。辰也さんのお父様とお母様に、辰也さんには内緒で相談し、おばあ様を披露宴に招待させていただくことにしました」
 ゼロ、という久美の声と同時に、スクリーンに小柄な老女の姿が映し出された。バアちゃん、とつぶやいた辰也に、人様の前でみっともない、と老女が癖のあるアクセントで言った。
「辰也、そんなボーッとした顔をするんじゃなか。あんたはこれから京子さんを幸せにせにゃならん。父ちゃんと母ちゃんのことも、あんたがしっかりせにゃいけん。わかっちょるんか、コラ」
 どうなってる、と辰也が左右に目を向けた。お前はちょっとマヌケだが、いい子に育ったと老女が微笑んだ。
「京子さんと電話で話した。優しい子じゃとすぐわかった。年は取っても、オバアの人を見る目は確かじゃからな。声を聞けばわかる。大事にしんさい。オバアとの約束を破ったらどうなるか、あんたが一番よくわかっちょろうが」
 画面がロングショットになった。ベッドに正座している老女の前に、いくつもの美しい皿が並んでいた。
「お前はええ友達を持っちょる。何より大切なことじゃ。オバアと約束したろ? 友達は大事にせにゃいかんと。お前はちゃんと約束を守った。だから、お前の会社の人たちが披露宴の料理を東京から運んできてくれた。美味しかったよ、ありがとう」
 バアちゃん、と言ったきり、辰也が絶句した。両目から大粒の涙が溢(あふ)れていた。
「オバアは心臓がダメじゃから、病院からは出られん。お前の結婚式には出たかったが、どうしても無理じゃった。そしたらお前の会社の人たちが……何ちゅうたかな、あいてー? カメラで全部見せてくれた。ええ式じゃった。こんなありがたいことはない。安心してあの世に行ける。それもこれも、京子さんのおかげじゃぞ、わかっとんのか」
 わかっちょる、と辰也が顔を拭いながら答えた。男が泣くな、と老女が一喝した。
「ええか、父ちゃんと母ちゃんを大事にしろ。それよりもっと京子さんを大切にしろ。オバアが言いたいのはそれだけだ。お前の結婚式を見たから、思い残すことは何もない。オバアは疲れた。ちょっと寝る。ええな、辰也。京子さんを――」
 目をつぶった老女の顎(あご)がかすかに揺れて、そのまま動かなくなった。静まり返った会場に、バアちゃん、という辰也の叫び声が響いた。
お前は昔から本当に騙されやすい子じゃった、と目を閉じたまま老女が口を開いた。
「すまんの、京子さん。オバアの責任じゃ。こんな簡単に引っ掛かりおって、オバアは情けない……心残りは山ほどある。まずひ孫の顔が見たい。そうでなきゃ、死んでも死にきれん。お前にはまだやることが残っちょる。そこにいる皆様や、お世話をしてくれた方たちに、お礼をせい。長く喋らんでええ。お前は口べたじゃ。ありがとうございますと頭を下げろ。それでみんなわかってくれる」
 見とるよ、と笑いながら老女が手を振った。久美、とこよりは囁いた。
「マイクを新郎に渡して」
 影のように近づいた久美が、京子の手から受け取ったマイクを辰也に渡した。ありがとうございます、と振り絞るような声で辰也が言った。静かな拍手が起きていた。

6
 新郎新婦が退場し、ゲストたちが席を離れ、会場の出口に向かっていた。
 駆け寄ってきた久美が、うまくいきましたねと頬を上気させながら言った。こよりは微笑みながらうなずいた。
 健康上の理由や、遠距離に住んでいるため、結婚式に参列できない人たちのために、スカイプによるテレビ会議を応用したサービスが可能になっている。こより自身、過去に二度、同じような形で双方向中継を行ったことがあった。
 システムとして難しいものではない。特に今回は辰也と京子が勤務している会社のエンジニアたちの全面的な協力があったから、その意味では安心して見ていることができた。
 むしろ不安だったのは、新郎に対しサプライズを仕掛けることだった。こよりは経験がなかったが、他の結婚式では、新郎が怒り出した例もあると聞いていた。
 また、素人はカメラに映されていると、緊張して話せなくなることがある。今回、相手は七十代後半の高齢者で、そこが心配だったが、久美が言った通り、いい形で終わっていた。
これで独り立ちだね、とこよりは久美の肩に手を置いた。
「最後の注意だけど、音を出すタイミングがもっと早くても良かった。その方が感動的なエンディングになる。でも、全体的にはとてもいい感じだった。お疲れさま」
 ありがとうございました、と久美が頭を下げた。
「やっぱりやってよかったなって……京子さん、辰也さんのことを本当に好きなんですよ。彼のために、どうしてもやらせてほしいって頼まれて、そりゃ断れないっていうか。いい経験になりました」
 まだ終わってない、とこよりは首を振った。
「結婚式は遠足と同じ。家に帰るまでがあたしたちの仕事よ。今回、二次会もうちが任されてる。久美はすぐ二次会の会場に向かって。こっちはあたしがやっておく。次の式が一時間後に始まるから、それまでに準備を整えておかなきゃならない」
 働かされますよね、と久美が下唇を突き出した。
「でも、この仕事、嫌いじゃないです。何か、楽しさがわかってきたような気がしてきました」
 じゃあ行きます、と久美がスタッフ控室へ走っていった。楽しいことばかりじゃない、とこよりはつぶやいた。
 無理難題を押し付けてくる客もいる。本人たちはもちろん、その両親がうるさい場合もある。
 うまくいって当たり前、些細なミスがあれば、どんなクレームが来るかわからない。理不尽なことも多いし、善かれと思ってしたことが裏目に出ることもしょっちゅうだ。
 ブライダルプロデュース会社はビジネスとして結婚式、披露宴というイベントを扱っている。だが、ビジネスだけを考えていてはできないところもある。矛盾に悩み、傷つき、辞めていく者も少なくない。
 それでも、久美ではないが、楽しくなる瞬間があるのは本当だ。達成感、喜び、感動がある。素敵な式をありがとうございましたと感謝されれば、それだけで嬉しくなる。だから、この仕
事が好きなのだろう、と改めてこよりは思った。
 同時に、心の中に違う思いも浮かんだ。自分の結婚式はどうなるのだろう。
 あと、三カ月。目の前に迫っているのに、どうしてポジティブになれないのか。
 そんなことはない、と強く首を振った。前向きではある。幸雄(ゆきお)と結婚したいと心から願っているし、彼を愛している。それは幸雄も同じだろう。
 何となく足踏み状態が続いているが、それはマリッジブルーの症状に過ぎないとわかっていた。挙式を控えた新婦の四分の三がマリッジブルーに陥る、という現実がある。自分がそうなっても、何の不思議もない。
 何してるの、と耳につけたインカムから太田原の声が聞こえた。
「十二分押してる。披露宴会場の後片付けはスタッフに任せて、あなたはチャペルに戻りなさい。急いで、ぼんやりしてる暇なんてない」
 イエッサーと答えて、こよりは出口に向かった。辰也と京子、その両親がゲストたちと挨拶を交わしていた。

7
 この日、三組目の披露宴が終わったのは、夜八時半だった。
 ウェディングプランナーとして、こよりがメインで仕切ったのは、三組目の有野(ありの)というカップルで、新郎新婦共に三十二歳、偶然だがこよりと同じ歳だった。
比較すると、三十歳から三十五歳のゾーンが一番うるさく、はっきり言えばワガママだ。特に新婦の側にその傾向が強いのは、複雑な感情が胸中にあるためなのだろう。
 幸い、有野夫妻はそれほど面倒な客ではなかった。少し物足りなく思えるほどで、つつがなく披露宴が終わっていた。
 披露宴会場は、会社が契約しているフレンチレストラン“シェ・イザワ”だった。シェフの伊沢泰二(いざわやすじ)はポール・ボキューズの孫弟子にあたり、フランスを中心にヨーロッパ各国で腕を磨いてきた有名な料理人だ。
伝統的なフレンチの手法を崩さずに、和食や中華の食材を取り入れるなど、頑固で職人気質(かたぎ)なところはあるが、柔軟な考え方ができる男だった。
 披露宴が終わり、新郎新婦、そしてゲストを送り出してしまうと、ウェディングプランナーの仕事はほとんど残っていない。各部署のスタッフにお疲れさまでしたと声を掛けてから、厨房へ向かった。レストランウェディングの場合、シェフに挨拶をするのは慣例だ。
 そうでなくても、こよりは伊沢に会ってから帰るつもりだった。入社した年からだから、付き合いは十年になる。フレンチのシェフであるにもかかわらず江戸っ子気質の伊沢とは、どういうわけか最初から気が合った。
「お疲れさまでした、グランパ」
 厨房を覗き込んで声を掛けると、グランパは止めろ、と独特のしゃがれ声で伊沢が言った。六十歳になったばかりで、こよりの父より二つ上だ。おじいちゃんという年齢ではないが、親愛の念を込めて、いつもそう呼んでいた。
「こよりんぼも、いよいよカウントダウンだな」シェフ帽を外した伊沢が厨房から出てきて、手近の椅子に腰を下ろした。「そろそろメニューを決めなきゃならんが、どうする? 何かリクエストはあるのか?」
 もう少し待ってください、と向かいの席にこよりも座った。二十歳そこそこの男がコーヒーを運んできて、二人の前に置いた。料理学校を出たばっかりの見習いなんだ、と伊沢がカップに口をつけた。
「最近の若い奴らはしっかりしてるよな……別に待つのは構わんし、何でも言ってくれ。外ならぬこよりんぼの披露宴だ。金のことなんか気にすんな。最高のスペシャリティを作るよ」
 ありがとうございますと頭を下げたこよりに、やけに素直じゃねえかと伊沢が苦笑した。
「どうした、腹具合でも悪いのか? いつもだったら、何か言い返してくるところだろう」
 何もないです、とこよりもコーヒーをひと口飲んだ。
「今日は出ずっぱりだったんで、さすがに疲れちゃって……もう、あたしもそういう年齢なんですね」
 何を言ってやがる、と伊沢が鼻をすすった。こよりはうつむいて、コーヒーカップをかき回した。
 疲れているのは本当だが、年齢のせいではない。結婚式と披露宴の間に幸雄からLINEが入っていたが、それが頭から離れなかった。
 こよりたちの披露宴をシェ・イザワで行うことは最初から決まっていた。伊沢の言うように、披露宴の料理の相談をする時期になっていたから、メニューをどうするか、と幸雄にLINEしていた。返ってきたのは「任せるよ」のひと言だけだった。
 幸雄が何を考えているかは、わかっていた。餅は餅屋ではないが、結婚式も披露宴もこよりはプロフェッショナルだ。
 伊沢と親しいことも幸雄は知っているし、予算との兼ね合いや、さまざまな事情を考え合わせれば、こよりに一任するのがベストということなのだろう。
 確かにその通りで、ブライダルプロデュース会社に相談してくるカップルの九割以上が、新婦側に決定権がある。披露宴のメニューもそのひとつで、シェ・イザワでのレストランウェディングにすると決めたのもこよりだ。
どんな料理を出すかについて、こよりの方が詳しいし、これまでの関係もある。幸雄としては、任せるよと言う以外なかっただろう。
 だが、この辺りが女性心理の複雑なところで、何か言ってくれてもいいんじゃないか、とこよりは思っていた。理屈として、論理として、幸雄が「任せるよ」としか言えないこと、そしてそれが正しいこともわかっている。でも、何か言ってくれてもいいんじゃない?
 具体的な料理名や食材を挙げろという意味ではない。そもそも、こより自身そこまでフランス料理に詳しいわけではなかった。
 ただ、それでも言えることはあるだろう。メインは肉でいいのか、牛なのか鳥なのか羊なのか。幸雄は好き嫌いのない男で、パクチー以外はどんな物でも食べるが、それでも好みはあるだろう。
 A5クラスの黒毛和牛じゃないと嫌だ、と言われても困るが、牛でどうかな、羊もいいんじゃないか、こよりはどっちにしたいの、ご両親は何が好きかな、そんな返しがあってもいいはずだ。     
任せるよ、というのは、こよりに対する信頼感から来る言葉でもあったが、ニュアンスとしては“好きにしなよ”に近い。少なくとも、こよりの感覚ではそうだった。
 幸雄の名誉のために言っておくと、正解は前者で、プロであるこよりを信じているから、そういうLINEを送ってきただけのことだ。それは百も承知だったが、どこか物足りなかった。
 一般論として、結婚式とは、披露宴とは、そして結婚そのものも、二人の共同作業であるべきだろう。幸雄もそう思っているはずだし、こよりもそうあるべきだと考えていた。
それなのに、どこか任せっ放しな感じがした。少なくとも、こよりがそう受け取ってしまったのは本当だ。
 よろしくない、とひとつ頭を振って席を立った。これは典型的なマリッジブルー症候群だ。あらゆることをネガティブに捉え、すべてが間違っているように感じてしまう。
 そんな女性たちを、今まで何百人と見てきた。意味がないとわかっていた。
「四月になったら、相談に来ます。その時はよろしくお願いします」
 いつでも来い、とコーヒーを飲みながら伊沢がうなずいた。
「遠藤も一緒に来りゃあいい。一度、あいつとも飲まないといかんな」
 今年の一月、幸雄を連れてシェ・イザワを訪れ、伊沢に挨拶をしていた。こよりを娘のように可愛がっている伊沢は、内心複雑な思いがあったようだが、あれはなかなかの男だな、と後でこよりに言った。伊沢としては最高級の誉め言葉だった。
 そうしますと答えて、こよりはスマホの画面に目をやった。本社に戻っている太田原に報告をしなければならなかったし、他にも連絡を取る必要のあるスタッフがいた。
 失礼しますと頭を下げて、厨房を出たところで、もう一度スマホを確認した。幸雄から昼以降連絡はなかった。
 少し迷ったが、番号を呼び出して電話をかけてみた。ツーコールで幸雄が出た。
「今、終わった」
 お疲れさま、と幸雄が言った。優しく、包み込むような声だ。
「マジで疲れた。三組だもん」
 わかってる、と幸雄が同情するように言った。
「わざわざ電話しなくてもよかったのに、疲れてるだろ」
 少し元気出た、とこよりは通路を歩きながらうなずいた。
「ホントだよ。声聞いたら、ちょっと気分が上がった」
 へへへ、と照れたように幸雄が笑った。何となく、同じようにこよりも笑った。幸雄の気遣いが嬉しかった。
「会社に連絡して、何もなかったらそのまま帰る。立ちっ放しだったし、お風呂に入りたい」
 気をつけて帰れよ、と幸雄が言った。
「まだ寒いし、夜道は暗い。帰ったら、いつものようにLINEするように。オッケー?」
 オッケー、と答えて通話を切った。同時に、着信音が鳴った。太田原、という表示に、はいはいとうなずいて、こよりはスマホを耳に当てた。

(つづく) 次回は2017年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。