物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 2nd marriage(2) 2017年11月15日更新
4
 五十人から百人規模の結婚式なら、何百回も経験しているから、流れや段取りは頭に叩き込まれている。だが、三百人規模となると、入社十年のこよりでも、二回しか立ち会ったことはない。
 その頃はまだ経験が浅く、プレッシャーを感じる余裕さえなく、気づけばすべてが終わっていた。
 今回は違う。全体の統括は植草(うえくさ)だが、こよりも重要なポジションを任されていた。
 ひと言で三百人というが、入退場だけでも普通の数倍時間がかかるし、スムーズな進行はマストだ。三百人を相手に一人で仕切ることなどできるはずもないから、他のプランナーたちとも連携を強化しなければならなかったが、ルクソール側のスタッフは初対面の者も多く、そこに阿吽(あうん)の呼吸はない。自分の持ち場だけではなく、全体を見渡す広い視野を持たなければならなかった。
 土曜日の夕方から、自分がプロデュースを担当する結婚式が有明のウェディングホールで行われていたため、こよりは現場に出ていたが、その間も翌日に控えている派手婚について、各部署のスタッフから問い合わせが何度もあった。
 挙式が始まってからもそれは同じで、ルクソールのウェディングプランナー、横川江実(よこかわえみ)、営業部主任、料理長、植草や太田原からも電話、メールやLINEが入っていた。
 ただ、今は目の前の結婚式の方が優先される。最後に新郎が招待客に挨拶するが、それを待って折り返し連絡を取るべきだろう。
 つつがなく披露宴は進行していき、エンディングを迎えていた。定番ともいうべき、新婦から両親への手紙が読み上げられ、会場がしんみりしたムードになっている。最後に新郎がマイクを持ち、感謝の言葉を述べ始めた。
 ここまでくれば大丈夫だろう、とこよりはスマホに残っていたメッセージを聞き始めた。お疲れさまです、というルクソールの横川のやや上ずった声がスマホから流れ出した。
『今日になって、新婦サイドから新たなリクエストが入りました。例のタレントの席次についてです。なるべく自分に近い席にしてほしいと……至急連絡お願いします』
 ぼくは有佳利(ゆかり)さんを一生守り、幸せにしますと新郎がうっすら涙を浮かべながら挨拶を終え、一礼した。会場から温かい拍手が沸き起こった。
 久美(くみ)、とインカムを通じてこよりは指示を出した。
「後は任せる。あたしはルクソールの横川さんと話さなきゃならない。招待客の退場整理を頼める?」
 了解です、と明るい声で久美が答えた。サンキューとだけ言って、こよりは披露宴会場の外に向かいながら横川の番号をスワイプした。
「草野(くさの)です。今、終わりました。メッセージは聞いてます。どういうことでしょうか?」
 通路を小走りに進みながら尋ねると、詳しい事情を横川が説明した。新婦の麻弥(まや)が、タレントの安芸川真実子(あきがわまみこ)を高砂から最も近い主賓席、しかも新婦と最も距離が近い“一番”席にしてほしいと言い出したという。
“一番”は披露宴が始まる際、主賓挨拶をする者が座る席で、麻弥の要望通りにすれば、安芸川真実子がその役割を担うことになる。当然だが、その後のスピーチの順番にも影響が出てくるだろう。
「既に新婦側の主賓は決まってますし、ご本人もそのつもりで準備されています。今から変更はできませんとお伝えしたのですが、麻弥さんがどうしてもと……」
 すぐそちらへ行きます、とこよりは言った。直接相談した方がいいだろう。お願いできますか、と横川が疲れた声で言った。
 幸い、有明のウェディングホールから台場までは近かった。ホール前に停まっていたタクシーに乗って、ルクソールまでお願いしますと運転手に声をかけると、そのままタクシーが走りだした。
 アイドルを高砂の新婦席の近くに座らせるのはよろしくない、とこよりは大きく首を振った。
 結婚式の主役はあくまでも花嫁だ。披露宴とは結婚する二人、特に花嫁のお披露目の場と言っていい。
 麻弥は安芸川真実子と親しい、とアピールしたいのだろう。気持ちはわからなくもないが、それは明らかな間違いだ。
 ベストウェディング社は台場のテレビジャパンから徒歩五分と近く、過去にテレビ局の社員の結婚式のプロデュースを何度も手掛けている。その中には芸能人を招待した式もあった。
 芸能人が披露宴に出席すると、そればかりが印象に残ってしまい、新郎新婦のためにならないと経験からわかっていた。何としてでも、麻弥を説得しなければならない。アイドルタレントを招いても、それが麻弥たちの幸せには繋(つな)がらないのだ。
「ぼくは有佳利さんを幸せにします、か」
 耳に残っていたフレーズが口をついて出た。何か、と運転手がバックミラー越しに目で尋ねた。
 何でもありません、とこよりは首を振った。タクシーがルクソールのエントランスへ入っていくところだった。

5
 翌日の挙式と披露宴の準備を終えたルクソール・ホテルのペガサスルームで、ウェディングプランナーの横川江実が待っていた。八人掛けの円卓が四十ほど用意され、純白のテーブルクロスには名札が載っていた。
 壮観だ、と改めてこよりは思った。披露宴の招待客は全国平均で約六十人前後と言われている。実際、ベストウェディング社で扱う披露宴のボリュームゾーンも六十人から八十人で、百人を超えるとスタッフの気合も違ってくるものだ。
 明日はこのペガサスルームに、三百人の招待客が集まる。ここまで大規模な披露宴はバブル期ならともかく、二〇〇〇年以降となるとなかなかないだろう。
 こより自身、三百人という数は三回目だ。ペガサスルームには横川以外誰もいないため、規模の大きさがより強く感じられた。
 横川とは過去に何度か仕事をしたことがあった。今年三十五歳だというから、こよりの三つ上になる。
 物腰の柔らかい、いかにもホテルウーマン然とした女性で、今回ルクソールとベストウェディング社の合同プロデュースという形になっていたが、格上であるにもかかわらず、上から物を言うようなこともなく、やりやすい相手だった。
 疲れた顔の横川が立ち上がって、お忙しいところわざわざすみませんと頭を下げた。有明の方はうちのスタッフに任せてきましたので、とこよりは空いていた隣の椅子に腰を下ろした。
 安芸川さんの席次のことなんですけど、と横川が高砂のすぐ前にある円卓を指した。
「先ほどもお話ししましたが、新婦主賓の上座、一番にしてほしいと麻弥さんからリクエストが入っています。それは無理ですと言ったのですが、どうしてもそうじゃないと困ると……」
 披露宴では高砂に着席する新郎新婦の前に、それぞれ主賓席が設けられる。そこに座るのは当然主賓で、基本的には会社の上司、大学の恩師など、社会的地位が高い者というのが常識だ。
 新郎の側で主賓祝辞を述べるのは、父親が所属する民自党の先輩区議で、順当といっていい。それに対し新婦の主賓が十八歳のアイドルというのでは、バランスがあまりにも悪いだろう。
「本来なら、安芸川さんは新婦の親戚なわけですから、下座の方が収まりはいいんです」でも、とまた横川がため息をついた。「麻弥さんが真実子ちゃんに主賓祝辞を頼みたいと……人気絶頂のアイドルですからね。親しい関係にあるとアピールしたいんでしょう」
 ご両親はどう言ってるんですかと尋ねたこよりに、娘の希望通りにしてほしいと頼まれました、と横川が渋い顔で答えた。
 わたしから麻弥さんに話しましょう、とこよりは手に持っていたスマホのホームボタンを押した。
「主賓席に安芸川さんを座らせるわけにはいきません。アイドルだからというのではなく、年齢が若過ぎます。主賓が十八歳というのは、さすがに無理があります。新婦友人席に着かせて、スピーチをしてもらった方が、麻弥さんにとっても、安芸川さんにとってもベストだと思います」
 小坂信秀と菊田麻弥がベストウェディング社へ相談に来たのは、ちょうど一年ほど前のことだ。ルクソールで式と披露宴を挙げることが決まるまで、こよりは麻弥と何度か打ち合わせをしていた。
 親しくなっていたし、お互いに信頼感もある。説得できるのは自分しかいないだろう。
 電話に出た麻弥は、最初こそ自分の意見を通そうとしていたが、粘り強く説得すると、三十分後に渋々ながら了解した。こよりの側も、友人席の上座にするというところまでは譲歩した。
 話が終わったのは、夜十時を回った頃だった。司会の方にはメールしておきました、とタブレットのキーボードから横川が指を離した。
「安芸川さんには友人代表のトップでスピーチをしてもらいます。その後の順番が変わりますけど、それは明日の朝確認しますので、問題ありません」助かりました、と横川が改めて礼を言った。「麻弥さんが了解してくれなかったら、面倒なことになっていたかもしれません」
 彼女のことはわかっているつもりです、とこよりは小さくうなずいた。麻弥は多少わがままだが、素直な性格をしている。きちんと説明すれば、納得してもらえるという自信があった。
 人気アイドルが親戚にいると、友人に見栄を張りたかっただけなのだろうし、その気持ちはわからなくもない。過去にも、似たようなケースは何度かあった。
 後は明日の式と披露宴がスムーズに進行してくれるのを祈るだけですね、とこよりは言った。私は泊まり込みです、と横川が苦笑を浮かべた。
「これだけ大きな式になると、会社が部屋を空けてくれるんです。ホテル勤務のいいところなのか、悪いところなのか、そこはわからないんですけど……体は楽かもしれませんが、どんな小さなことでも確認の連絡が全部私の方に入ります。ほとんど眠れないんじゃないかなって」
 もうひと踏ん張りです、とこよりは立ち上がった。明日は朝七時にルクソールのチャペルに集合することになっている。少しでも休んでおきたかった。
 本当にありがとうございました、とこよりを見送るために席を立った横川が、エレベーターホールに続くドアを押し開けた。
「でも、うまくいくと思いますよ。明日は晴れると予報も出てますし、遠方から来る招待客は今日からホテルに泊まっています。その他の準備も万全ですから、終わり良ければすべて良し、となるんじゃないでしょうか」
 無音でランプが光り、エレベーターの扉が開いた。新郎とも話したんですけど、と横川が言った。
「いい結婚式にしたいとおっしゃっていました。これから彼女を幸せにしていかなければならないから、はじめの一歩が大事ですよねと」
 お疲れさまでしたとお互いに頭を下げると、扉が閉まった。エレベーターがゆっくりと降り始めた。

6
 ルクソール・ホテルは台場駅から徒歩三分の場所にある。まだゆりかもめが走っている時間だったから、こよりはまっすぐ駅へ向かった。
 幸せにします、という言葉が頭を過(よ)ぎった。今日の結婚式でも、新郎がそう言って最後の挨拶を終えていた。
 明日もそういうことになるのだろう。新郎の挨拶の最後をしめくくるための、定番の言葉だ。
 それは一種の決まり文句で、そう言えば収まりが良くなると誰もがわかっている。幸雄が横浜の実家へ挨拶に来た時も、お嬢さんを幸せにしますと言っていたのを思い出した。
 もちろん、そう言わなければならないのは当然だ。お嬢さんのことを幸せにできるかどうかわかりませんが、結婚させてくださいと言われたら、親だって返答に困るだろう。
 ただ、その言葉にうっすらとした違和感があった。幸せになりたい、と思っている。それは誰もが同じだろう。不幸になりたくて結婚する者はいない。
 ただ、男性の側が一方的に“幸せにします”というのは違う気がしていた。自分も幸雄を幸せにしたい。二人でいることが、お互いの幸せという関係でありたい。
 それなのに、男性の側だけが“幸せにします”と約束するのはなぜなのか。
 つまらないことを考えているのはわかっていた。仕事先の相手へのメールの頭に、“いつもお世話になっております”と書くように、それは定形の挨拶に過ぎない。
 意味はなくても、それを書いておけば万事丸く収まる。定型には定型の力があるのだ。
 だけど、と改札の前で足を止めた。結婚とは何なのか。どちらかが一方的に依存するのではなく、お互いが協力して、幸せな生活を築いていくべきものではないのか。
 女性の権利や立場について言っているつもりはないし、それを認めろと主張しているのでもない。ただ、何かが違っていないか、という思いがあった。
 スマホを自動改札に当てて構内に入り、いつものように電車に乗る前にスマホの画面を開いて、着信やメッセージの確認をした。
 ウェディングプランナーは常在戦場だ、と教えてくれたのは太田原だ。抱えている案件は、同時にいくつもが並行して進んでいる。
 どんなに些細なことでも、連絡や確認が必要な場合があった。そして、新郎新婦とは些細なことが気になるものだ。
 その場で決断しなければならないこともあるし、すぐ連絡を入れておいた方がいい件もある。逆に、あえて時間を置いた方がいい場合もあった。
 そこはケースバイケースだが、常に確認は必要だ、というのが太田原の教えだった。トラブルを拡大させないために、最もベストな方法はそれだと、こよりも十年の経験を通じて学んでいた。
 電話の着信はなかったが、メール三件、そしてLINEが四件入っていた。すべて仕事ではなく、プライベートなものだったので、ゆりかもめに乗っている時に返事をすればいいだろう。急ぎの用件はなかった。
 だが、最後のLINEの着信表示を見て、足が止まった。TAKASHI。徳井孝司(とくいたかし)だ。
 一昨日、“シェ・イザワ”で孝司と五年ぶりに会った。素知らぬ顔をしていたが、内心焦りがあった。
 五年前まで付き合っていた元彼だ。孝司がフランスへ修業に行っていなかったら、結婚していたかもしれない男。
 もちろん、それは過去の思い出で、誰にでもそんな相手はいるだろう。五年ぶりに再会したからといって、何がどうなるというものでもない。
 だから、連絡しなかった。三カ月後に結婚式を控えている身として、そんなことをしてはならないという意識があった。
 開くと『結婚おめでとう』という短い文章があった。もう二時間以上前に送られてきていたLINEだったが、足を止めたまま、こよりはスマホに触れた。
『ありがとう。でも、日本に帰ってきていたなら、連絡ぐらいしてほしかったな』
 すぐ既読がつき、一分も経たないうちに返信があった。
『悪かった。連絡しようと思ってたけど、いろいろ忙しかったんだ』
『冷たくない?』
 文字を打ちながら、こよりは小さく笑った。恨み言を言うつもりはなかったし、帰国したばかりの孝司が多忙だったのはわかるつもりだ。
 それにしても、ひと言だけでいいから言っておいてほしかった。突然の再会は心臓に悪い。
 二十代半ばの恋は、女性にとって重いものだ。本気で孝司に恋をしていたし、孝司もそうだったろう。いくら五年前とはいえ、忘れたわけではない。
 しばらく待っていると、長文のLINEが入った。伊沢の店に戻ることは決まっていたが、フランス修業について力を貸してくれた人、世話になった人、修業先のレストランを紹介してくれた人などに、挨拶回りをしなければならなかったという。
『“シェ・イザワ”のスーシェフになることが正式に決まったのは、先週の頭だった。昔の同僚、先輩後輩はほとんどいない。まず環境に慣れなきゃならなかった。こよりにだけは連絡しようと思ってたんだけど、つい後回しになった。ゴメン』 
『失礼じゃない?』ジョークだとわかるように、スマイルのスタンプを続けて送った。『まあ、いいんですけど。孝司もすごいよ、いきなりスーシェフなんて。グランパはよっぽどあなたの腕を認めてくれてるんだね』
『そうでもない。タイミングも良かったんだ』今までいたスーシェフが独立することになった、と孝司が絵文字入りのLINEを送ってきた。『むしろ大変だよ。抜擢といえば聞こえはいいけど、ぼくより年上のスタッフもいる。あいつは何なんだって話にもなるさ。こよりが思ってるより、男の嫉妬は怖いんだぜ』
 わかってるつもりとLINEを返して、こよりはホームに降りた。ちょうどゆりかもめが入ってきたところだった。
 十時半、新橋行きの車両は空いていた。座席に座りながら、ひとつだけいいかな、とLINEを送った。
『三年前かな? 孝司がパリから南仏の店に移る時、メールをくれたよね』
『そうだった』
 すぐに返事が来た。料理の腕は上がったのだろうが、LINEを打つスピードも速くなったようだ。
『しばらく連絡しない、と書いてあった』考えながら、こよりは文章を作っていった。『少なくとも二年は日本に戻れない。新しい店にも慣れなきゃならない。時間がないんだって』
 既読になったが、返事はなかった。今だから言えるけど、とこよりは続きを書いた。
『あの時、初めて孝司のことを忘れようって思った』
 本当にそうだった、と少し感傷的になりながらLINEを綴(つづ)った。
『あたしたち、はっきり別れてなかったでしょ? それまではメールとか、電話で話したり、そんなこともあった。嫌いで別れたわけじゃない。だから、踏ん切りがつかなかった』
 こっちも同じだ、と孝司がLINEを送ってきた。ため息のスタンプがついていた。
『ニースやプロヴァンスで修業をするのは、いい経験になるってわかってた。でも、どうしたって長くなる。こよりに甘えてたところがあったから、それも含めて連絡しないと決めた。君のためにもその方がいいと思ったんだ』
 どうして男は“君のために”とか平気でそんなことが言えるのだろう。スマホを握ったまま、こよりは首を捻った。
 男の“君のために”は、いつだって“自分のため”だ。だから、余計に傷つく。それを理解できる男はめったにいない。
 返事をしないでいると、追いかけるように孝司のLINEが入った。
『こよりがウェディングプランナーという仕事が好きで、頑張っていたのはわかってた。会社を辞めてニースに来い、なんて無責任なことは言えないし、立場はアルバイトと変わらないから、二人で生活なんてできるはずもない。別れたいわけじゃなかったけど、あの時はああするしかなかった』
 どうして今になって、こんなことを言うのだろう、とこよりはLINEを読み返した。
 あの時、フランスに来てくれと言われたらどうしたか。たぶん、行かなかっただろう。
 でも、言ってほしかった。いろんなタイミングが合って、そんなふうに誘われたら、もしかしたらニースへ飛んで行ったかもしれない。それだけ孝司のことを好きだった。
 結局、誘われることはなかったし、その頃こよりは仕事が面白くなり始めていた時期だった。自分の方からニースへ押しかけることなど考えられなかったし、そのつもりもなかった。
 つまり、二人ともタイミングを逸していたのだろう。縁がなかったのだ。
 恋愛とは、結婚とは、そういうものなのかもしれない。何かひとつ、小さなきっかけだけでも、物事が転がり出すことがある。でも、何もなければ、何も動かない。
 あたしたちには風が吹かなかった。最初から、それは決まっていたことなのだろう。
『彼にはぼくのことを話さない方がいいと思う』孝司のLINEが続いていた。『隠すとか、そういう意味じゃない。誰だって、元彼の作る食事なんて嫌だろ?』
 こよりもそのつもりだった。幸雄(ゆきお)が怒るとは思っていなかったが、感情として不愉快になるのはわかりきったことだ。
 結婚式、そして披露宴は二人にとって大事なイベントだ。不快な思い出を作るための場ではない。
『どんな夫婦だって、秘密はある』あたしは彼に言わない、とこよりはLINEを送った。『だから、あなたも黙っていて。このまま知らない者同士、ということにした方がいい』
 こよりと孝司が付き合っていたことを知る者は、ほとんどいなかった。こよりは入社して一年しか経っていなかったから、伊沢ともそれほど親しくなっていなかったし、“シェ・イザワ”で働いていたスタッフたちも、半人前の見習いシェフの恋愛を気に留める暇などなかったはずだ。
 ベストウェディング社のスタッフもそうだ。“シェ・イザワ”と提携関係にあったが、見習いシェフと入社二年目の社員が交際していたとは、思ってもいなかっただろう。
 親しい友人には、交際している男性がいると話していたが、若いシェフということぐらいしか言っていないし、五年前のことを覚えている者などいるはずもない。
 覚えているのは志保ぐらいだが、口止めするまでもなく黙っていてくれるだろう。こういうデリケートな問題に関して、女同士の結束は固い。
 悪いことをしていたわけではない。自分もそうだが、幸雄も交際していた女性が何人かいた。
 それはお互い了解している。この歳でそれぞれ誰とも付き合ったことがない、という方が珍しいだろう。
 披露宴の料理を作るのが、こよりの元彼ということが問題なだけで、それだけの話だ。いちいち言う必要はない。黙っていた方が幸せなことが、世の中にはたくさんある。
『とにかく、結婚おめでとう。それが言いたかった。お祝いしないとね』
 孝司の送ってきたLINEの裏に、誘いの意味が込められているのがわかった。深い意図はないのだろう。結婚を控えた前カノを誘って、どうにかしようなどと考えるような男ではない。
『考えておく』
 それだけ送って、スマホをバッグにしまった。結婚直前、マリッジブルーになっている女性の多くが、昔の男と会ってトラブルを引き起こす。そんなケースを何度も見ていた。お互いにそんなつもりはなくても、一夜を共にしてしまうようなことだ。
 そんなわけにはいかない、と首を振った。幸雄を愛している。裏切るようなことはできない。
 バッグの中で、LINEの着信音が鳴ったが、無視して窓の外を見た。ゆりかもめが竹芝の駅に近づいていた。

(つづく) 次回は2017年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。