物語がつまった宝箱
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  • 3rd marriage(2) 2017年12月15日更新
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 結婚式が始まった。危惧していたトラブルはひとつも起こらなかった。
 新郎、新婦、共に自分のするべきことをわかっていたし、両家の両親、特に新婦の父、正成も堂々とバージンロードを歩いていた。
 牧師による結婚宣言に続き、二人が結婚証明書にサインをして、それですべてが終わった。
 チャペルの外に出た二人を待っていたのは、アフターセレモニーだった。ゲストたちが用意していた祝福の花びらを投げるフラワーシャワー、そして青空に向かって色とりどりの風船が放たれるバルーンリリース。
 挙式に関して、特別なイベントはない。フラワーシャワーやバルーンリリース、あるいはその後の記念撮影なども、通常の流れと変わらない。
 全体の集合写真の撮影は、ベストウェディング社が契約している専属のカメラマンが行うが、個別にそれぞれのゲストが自分たちのカメラ、スマホやタブレットなどで撮影を始めていた。
 インスタグラム、ツイッター、フェイスブック、さまざまなSNSに撮ったばかりの写真をアップするのは、ある種の義務なのだろう。麻弥の友人たちは、プロカメラマンより真剣な表情で、自分が撮った写真をチェックしていた。
 撮影の中心となるのは新郎新婦だ。新郎あるいは新婦とのツーショット、グループショットの順番待ちの長い列ができ、それ以外にも親戚一同、会社の同僚なども集まって撮影を始めていた。その輪の中に新郎新婦を入れようとする者もいる。
 通常の挙式とは違い、二百人という大人数が出席しているため、予想以上に時間が長引いていた。披露宴は十二時スタートだから、それまでに間に合うのかとスタッフの誰もが不安になったが、披露宴会場にお進みくださいと全員で声をかけると、ようやく移動が始まった。
 最後まで残っていたのは麻弥の友人たちで、この辺りは女性特有の感覚なのだろう。アタシが一番麻弥と仲がいいの、とアピールしたいということなのか。
 だが、こよりたちも対処には慣れていた。ストップをかけるのは久美たちで、こよりの仕事は新郎の小坂を控室まで戻すことだった。
 少し離れたところに立っていた小坂に、ご案内しますと声をかけた。
「控室でメイク直しと服の最終チェックを終えた後、新郎新婦控室にお入りいただくことになります。披露宴の招待客は三百人いらっしゃいますので、全員が席に着くまで少しお待ちいただくことになるかと……」
 小坂は振り向かなかった。こよりの声が聞こえていないようだ。何かに気を取られているのがわかった。
 小坂の視線を追うと、百メートルほど先を四十歳ぐらいの女性が歩いていた。まだ幼い男の子の手を引いている。
 どこかから、バンザイという叫び声が風に乗って聞こえてきた。若い男たちの声だから、小坂の友人たちなのだろう。
 一瞬目を離したこよりが顔を戻すと、小坂が速足で歩きだしていた。控室は逆ですと声をかけたが、小坂の歩くスピードは速くなるばかりだった。
 何が起きているのかわからないまま、こよりはその後を追った。小坂がチャペルの地下駐車場へ降りていく。
 待ってくださいと大声で言ったが、振り返らない。ほとんど駆け足になっていた。
 さっきの女性が子供を型の古いファミリーカーに乗せ、運転席に回った。追いついた小坂がその腕を摑み、何か話しかけている。もうやめなさい、と女性が抑え付けるような声で言った。
「結婚おめでとう。あなたは彼女と幸せになりなさい」
 首を振った小坂が、女性の両手を握ったまま、ゆっくり頭を下げた。謝っているようだ。二人はどういう関係なのか。
 嫌な予感を胸に、こよりは近づいていった。それにも気づかないのか、二人は早口で何か言い合っている。口論や言い争いではない。小坂が口にしていたのは、自分が間違っていたという言葉だった。
「純子(じゅんこ)先生とでなければ、ぼくは幸せになれません」
 小坂が真剣な表情で言った。落ち着きなさい、とたしなめるように女性が言った。怒っているのではなく、身についた口調のようだ。
 純子というその女性は小柄で、物静かな雰囲気だが、声も冷静そのものだった。
「聞きなさい。あなたは幸せになれる人よ。奥さんを大切にして、わたしのことは忘れなさい。その方が誰にとってもいいのは、あなただってわかっているでしょう」
 車のドアを開けようとした純子の細い手を、小坂が押さえた。
「幸せはぼくが決めることで、ぼくの問題です。あなたがいなかったら、ぼくは幸せになれない」
 先生、という言葉に独特の響きがあった。純子の態度や口調に、こよりは学生だった頃を思い出していた。純子は教師なのだろう。
 あなたは勘違いしている、と純子が腕を振った。小坂が無言でその顔を見つめている。
「わたしとの間に、何があったわけでもない。あなたはたった今、結婚を誓ったばかりじゃないの。彼女との結婚はあなたが決めたことで、今さらやめますとは言えないでしょう」
 やめます、とはっきりした声で小坂が言った。
「麻弥との結婚はぼくが決めたことですが、間違いだったと気づきました。両親が積極的に話を進めたのは確かですが、それは言い訳に過ぎません。もっと前に断わるべきだった。すべてはぼくの責任です。麻弥に何と詫びればいいのか、それさえわかりませんが、ぼくが対処します。あなたに迷惑はかけません」
 もうかかってる、と苦笑を浮かべた純子が、世の中ってそんなに簡単じゃないの、とつぶやいた。わかってます、と小坂がうなずいた。
「だけど、やっぱりぼくは純子先生とでなければ幸せになれない。この九カ月、何度も連絡を取ろうとした。電話やメール、LINE、しつこいぐらいだったと思います。今日、挙式の直前にも、あなたにLINEを送った。何も答えてくれませんでしたけど」
 答えることなんて何もない、と純子が顔を背けた。二人の間に沈黙が流れた。今しかない、とこよりは前に進み出た。
「失礼します。本日は小坂様と菊田麻弥様の結婚式で、既に式も終わっています。何か事情があるのはお察ししますが、今日のところは……」
 何もありません、と短く言った純子がドアを開けて車に乗り込んだ。待ってください、と小坂がタキシードのジャケットを脱いでこよりに渡した。
「これも預かってもらえますか」差し出したのは結婚指輪だった。「こちらのホテルにも、ベストウェディング社さんにも、ご迷惑をおかけして申し訳ないと思っています。ですが、ぼくは麻弥と結婚できません。彼女を、純子先生を愛しているんです」
 エンジンを掛ける音がしたが、小坂の動きの方が速かった。車の前に回って、行手を塞(ふさ)ぐ。
「どういうことでしょうか」嫌な予感が当たった、とこよりは唇を噛んだ。「小坂さん、何があったのか知りませんが、あまりにも非常識だと思います。あなたは挙式を終え、披露宴を控えている身ですよ。こちらの女性とどういういきさつがあったにせよ、当日になってこんなことをして、許されると思ってるんですか? 麻弥さんやご両親は言うまでもありませんが、三百人の招待客に対して、失礼過ぎると思いませんか?」
 ぼくの責任です、と小坂が肩を落とした。
「麻弥をはじめ、両親、親族、友人や会社の同僚にどうやって謝罪し、償えばいいのかわかりませんが、このまま結婚しても麻弥を不幸にするだけです。その方が彼女に対しても周囲に対しても、礼を欠くことになると思っています」
 聞きなさい、とこよりは小坂の腕を強く摑んだ。披露宴の時間が迫っている。どんな手段を使ってでも説得しなければならない。
「子供みたいなことを言うのは止めなさい。ウェディングプランナーではなく、人生の先輩として忠告する。あなたがしていることはめちゃくちゃで、誰もあなたを許さない。今後の人生にも大きく関わってくる問題になる。今は黙って披露宴に出なさい」
「ですが――」
 新婚旅行で大ゲンカして、帰国直後に離婚したっていい、とこよりは摑んだ腕に力を込めた。
「他にもやり方はあるでしょう。一年待って別れたら、周囲も納得する。世の中には最低限の常識ってものがある。ルールを守れない人間を待っているのは、不幸な人生しかない」
 小坂が運転席の純子と、助手席の子供を見つめた。まさか、とこよりは口に手を当てた。
「あの子はあなたの息子さん? それなら、どうして結婚の話を進めたりしたの?」
 違います、と小坂が大きく首を振った。
「タクヤくんはぼくの子供じゃありません。純子先生とご主人の息子です」
「ご主人って……あなた、彼女と不倫してたってこと? あなたよりずいぶん年上に見えるけど、十歳、もっと上? あなたもあなただけど、彼女も彼女ね。いったいどういうこと?」
 純子先生はぼくの高校時代の担任です、と小坂が運転席を指した。
「高校の入学式で初めて彼女に会って、恋をしました。ぼくは十五歳で、彼女は二十七歳、ちょうどひと回り年上です。単なる憧れとかマザコンとか、そんな風に思うかもしれません。ぼく自身、おかしいと思ってたぐらいです。でも、高校の三年間、ずっと彼女のことだけを考えていました。高三の冬、十二月に告白したんです」
 ない話じゃないけど、そんなのは青春の一ページでしかないと言ったこよりに、そう思うのは当然です、と小坂がうなずいた。
「小雨が降る寒い日でした。校庭に呼び出して、先生のことが好きですと言いました。もちろん、あっさり断わられました。その頃、純子先生は同じ高校の矢吹(やぶき)先生と付き合っていたんです」タクヤくんの父親です、と助手席に目を向けた。「でも、そうじゃなくても断わったでしょう。生徒と担任、十八歳と三十歳です。誰がどう見たって無理な組み合わせですよ」
 常識がないわけじゃないのねと言ったこよりに、皮肉はやめてくださいと小坂が苦笑した。
「それでも諦めきれなくて、大学に合格したら一度でいいからデートしてくださいとお願いしました。ぼくは翌年の二月に大学受験を控えてたんです。お茶ぐらいなら付き合う、と純子先生は言ってくれました」
 それしか言いようがないでしょう、とこよりは言った。
「無下に断われば、あなたの受験に差し支えると考えた。担任として、正しい対応だと思うけど」
 大学受験は全滅して、一浪しましたと小坂が乱れた前髪を直した。
「聖王大に合格したのは、純子先生に告白した一年二カ月後でした。ぼくは合格発表の掲示板の前から、高校の職員室に電話を入れて、純子先生に合格したから約束通りデートしてくださいと改めて申し込みました。彼女も困ったと思いますが、こっちも必死です。何とか説き伏せて、次の日曜に二人で会いました」
 他意はなかったはず、とこよりは目をつぶって小さく息を吐いた。
「教え子が大学に合格したことが嬉しかっただけよ」
 純子先生もそう言ってました、と小坂が肩をすくめた。
「デートといっても、昼に会ってランチを一緒にするだけ、という約束でした。会ってすぐ、純子先生は矢吹先生と交際していること、結婚するつもりだとぼくに言いました。だから、二人で会うのは今日だけだと……二人が結婚されたのは翌年で、純子先生が三十三歳の年でした」
「それで?」
「初めて二人きりで会ったのに、いきなりそんなことを言われたら、誰だって落ち込みますよ」ぼくは十九歳でしたからね、と小坂が整えたばかりの前髪をくしゃくしゃにした。「かわいそうだと純子先生も思ったんでしょう。ランチが終わったら帰ることになっていましたが、夕方まで一緒にいてくれました。その何時間か、ぼくは自分がどれだけ純子先生のことを好きか、ずっと話し続けていたと思います。それで何がどうなったわけじゃありません。日が暮れて、ぼくたちは帰ることにしました」
 こよりのスマホが鳴っていた。新郎がいないという連絡だとわかっていたが、今は小坂の話を聞くことが先だった。全部聞いた上でなければ、説得はできない。披露宴会場に連れていっても、また逃げ出すだけだ。
「店を出て、駅まで並んで歩きました。バス停まで送って、それがその時のすべてです」
 いい思い出ですこと、とこよりはため息をついた。ぼくは純子先生のことを忘れられませんでした、と小坂が言った。
「大学の四年間で、何十回、何百回かもしれませんが、メールを送り続けました。返信はなかったし、電話に至っては着信拒否されました。これは後の話ですけど、スマホに登録していた電話番号のためにLINEが自動で登録されて、それからはLINEも送りましたけど、既読さえつかなかった。手紙だって何通書いたかわかりません。返事はありませんでしたけど」
 訴えられてもおかしくない、とこよりはつぶやいた。
「あなたがしていたことは、ストーカー行為に当たる。その頃はストーカー規制法がなかったかもしれないけど」
 ぼくもそう思います、真面目な顔で小坂がうなずいた。
「非常識だったのはわかっています。純子先生のことが好きで、忘れられなかった。でも、それは僕の都合で、純子先生にとっては迷惑だったでしょう。五年前、矢吹先生との間にタクヤくんが生まれたと高校の友人から聞いて、ようやく諦めなければいけないとわかりました。社会人になって二年目のことです。もっとも、十年間思い続けていた人のことを、簡単に忘れることはできませんでしたが」
 こよりは運転席に目を向けた。純子がまっすぐ前を見つめている。小坂の声は聞こえているはずだが、表情は変わらなかった。
「わたしにも、同じ相手に十年片思いしている友達がいる」だからあなたの気持ちはわからなくもない、とこよりは言った。「そういう人は意外に多い。悪いことじゃない。でも、それならどうして麻弥さんとの縁談を進めたの?」
 麻弥と知り合ったのは、ぼくが純子先生のことを諦めようと決心した頃ですと小坂が言った。
「グループ交際というか、友人の一人という関係でした。彼女がぼくに好意を持ってくれたことは何となく伝わってきましたし、いい子だなとぼくも思っていました。二人で会うようになり、自然と交際が始まって……ぼくは彼女のことを好きでしたし、だから結婚すると決めました。草野(くさの)さんの会社へ行ったのは、一年ぐらい前でしたよね? あの時点で、ぼくに迷いはなかったんです」
 それなのにどうして、とこよりは一歩小坂に近づいた。
「ひと回り年上の女性教師に憧れ、恋をした。何年も忘れられなかった。そこまではいい。でも、あなたが彼女と二人だけで会ったのは一度だけで、何があったわけでもない。その後、連絡を取ろうとしたあなたを、彼女はずっと無視し続けた。最後に会ってから、ずっとよ? 諦めようと決心したのは正しい判断だし、遅すぎたぐらいだと思う。麻弥さんという素敵な女性と知り合い、結婚を決め、今日という日を迎えた。どうして今日になってその結婚をやめようとするのか、それがわからない」
 去年の六月、高校の友人から連絡があったんです、と小坂が駐車場の天井を見上げた。
「矢吹先生が亡くなられたから、葬式に行かないかと……肝臓ガンだったそうです。まだ五十歳でした。矢吹先生はぼくが入っていた卓球部の顧問でしたから、もちろん行く、と返事をしました」
 それは彼女と会えると思ったからでしょうと言ったこよりに、否定はしませんと小坂が笑った。
「葬儀場へ行く途中、友人が教えてくれました。純子先生と矢吹先生は、あまりうまくいってなかったみたいだと……ぼくが高校にいた頃から、矢吹先生は酒癖が悪いという噂がありました。もちろん、生徒に暴力をふるうとか、そんなことは一度もなかったですし、学校で酒を飲むわけでもありませんから、ぼくたちには関係がないことです。でも、妻である純子先生、息子のタクヤくんにもDV行為があったそうです。それ以上のことは、彼も知らなかったんですが」
 去年の六月といえば、タイムスケジュール的には結婚式会場を探していた時期だ。ルクソールから日程を押さえたと連絡があったのは、六月だったはずと言ったこよりに、そうです、と小坂がうなずいた。
「麻弥との結婚が正式に決まり、周囲も含め、ぼくたちはその準備を始めていました。そんな時、ご主人の葬儀の席で、純子先生と十年ぶりに会ったんです。彼女の顔を見た瞬間、ぼくは自分の間違いに気づきました。間違いというか、純子先生のことを諦めたのは本心じゃなかったとわかったんです。諦めよう、忘れようとしたのは事実ですが、そんなことできるはずもなかった。ぼくは純子先生のことを、初めて会った時から好きで、その気持ちは何ひとつ変わっていなかったんです」
 思い込みに過ぎないと首を振ったこよりに、葬儀のひと月後、ぼくは高校へ行って純子先生に会いましたと小坂が言った。
「放課後、純子先生が学校から出てくるのを、校門の前でずっと待っていたんです」
 それは典型的なストーカーの手口よ、とこよりはもう一度首を振った。
「はっきり言うけど、引くわ。わたしが彼女だったら、その場から警察に通報したかもしれない」
 自分でもどうかと思いました、と小坂が頭を掻(か)いた。
「でも、あの時のぼくに他の選択肢はなかったんです。ぼくの姿を見て、純子先生は驚いていましたが、とにかく話だけでも聞いてくださいと頼んで、近くの喫茶店へ行きました。ただ、自分の気持ちを確かめたかった。葬儀場では挨拶しかしていません。本当に今も彼女のことを心から愛しているのか。もしそうなら、麻弥との婚約を解消しなければならないと思ったんです」
 そうしてくれていればよかったのに、とこよりはハンカチで額の汗を押さえた。後悔しています、と小坂がうなずいた。
「会ってすぐ、純子先生へのぼくの気持ちは何も変わっていないとわかりました。ご主人が亡くなられたばかりの純子先生に、あなたのことが好きですとか、そんなことを言うのは間違ってるとわかってましたが、思わずその場で気持ちを伝えようとしたぼくに、純子先生は婚約おめでとうと言いました。ぼくの友人から、ぼくと麻弥の婚約のことを聞いたそうです」
 スマホが断続的に鳴っている。もう少しだけ待ってと、こよりは小坂の顔を見つめた。
「婚約は破棄しますと言ったぼくを、馬鹿なことを言うのはやめなさいと純子先生は叱りました。ぼくが何を考えているか、わかっていたんでしょう。小坂くんは昔の思い出に酔っているだけで、何も見えていない、目を覚ましなさいと……」
 わたしもそう思う、とうなずいたこよりに、それだけじゃありませんと小坂が鼻の頭を掻いた。
「小坂くんが麻弥さんとの婚約を解消して、私に交際を申し込んだとしても断わると、はっきり言われました。主人を亡くしたばかりで、そんなことを考えている余裕はない。五歳の息子もいる。教師としての仕事や責任もある。世間体だってある。十二歳年下の元教え子と交際するなんて、学校やPTAが知ったら何を言われるかわからない。小坂くんは勢いでそんなことを言ってるけど、本当に付き合ったら、後で必ず後悔する。十二歳年上の子連れ女との交際に賛成する者はいない。親だって友達だって反対する。あなたには私を幸せにできない。そう言って席を立ちました」
 誰でも同じことをする、とこよりは時計を見た。もう時間がない。
「あなたは大きな勘違いをしています。あなた自身が彼女に恋をし、今もその気持ちが変わっていないというのは、その通りなんでしょう。でも、彼女の方は? あなたのことを嫌っているとは言わないけど、少なくとも、あなたのことを愛してはいない。単なる先生と生徒という関係でしかないんです」
 同じことを言われました、と小坂がため息をついた。
「学校へ戻ると言った純子先生に、校門までで構わないから送らせてくださいと言いました。もうぼくには、それしかできることはなかったんです。一緒に歩いていた時、矢吹先生が亡くなったのは自分の責任だと純子先生は言っていました」
「どういう意味?」
「結婚した女が自分のことを見ていないとわかれば、あんな風に浴びるように酒を飲むしかなかっただろうと……」
 彼女も小坂のことを忘れていなかったと言いたいのだろうか。思い込みというより、そこまでくると妄想と言うべきだ。
 あなたにはわからないでしょう、と静かに小坂が首を振った。
「校門から学校に入っていく彼女の後ろ姿を、ぼくは見つめていました。純子先生はまっすぐ校庭へ向かったんです。足を止めたのは、高三の時、ぼくが告白したあの場所でした」
 妄想さえ通り越している、とこよりは半ば呆れながら言った。
「それならそれで、どうして婚約を破棄しなかったの?」
 ぼくも思い込みだとわかっていたからです、と小坂が答えた。
「純子先生があの場所に立っていたのは、ただの偶然に過ぎないと思いました。その後もぼくは純子先生に連絡を取ろうとしましたが、彼女は一度も返事をしてくれなかった。その間もぼくと麻弥の結婚式の話は進んでいましたし、止めることはできませんでした。昨日、ぼくは純子先生にメールを送りました。明日、台場のルクソール・ホテルで結婚式があると……ぼくにとって、最後の賭けでした。そして、彼女はここへ来てくれたんです。それがすべての答えだとぼくは思っています」
 初めて顧客に使う言葉ですがと前置きしてから、あなたは馬鹿ですとこよりは言った。
「あなたには女性のことが何ひとつわかっていない。彼女があなたのことを少しでも好きだったら、電話にも出ていたし、メールやLINEにも返事があったでしょう。あなたは会いたいとか、そんなことも書いていたはずだけど、気持ちがあったら一も二もなく、すぐ会いに行く。それが女性というもので、年齢差も立場も関係ない。あなたは何もわかっていない、本物の大馬鹿よ」
 かもしれません、と小坂がうなずいた。披露宴会場に行きましょう、とこよりは腕を摑んだ。
「緊張でお腹を下したとか、言い訳はわたしが考えます。まだ間に合います。とにかく披露宴を済ませて、それから先のことを考えたって――」
 キャンセルしますと小坂が言った。お金のことはどうするんです、とこよりは声を低くした。
「当日キャンセルは全額負担です。あなたたちはルクソールの全宴会場を貸し切り、招待客は三百人います。料理だけでも一人五万円で、今キャンセルすれば御祝儀も何もない。それに麻弥さんの側から、損害賠償請求や慰謝料の支払いも要求されるでしょう。総額いくらになるか、わたしにも計算ができないほどの高額です。少なくとも一介の会社員であるあなたに払える金額じゃない」
 小坂が目を伏せた。もっと重大な問題も発生します、とこよりは言葉を重ねた。
「あなたの勝手な都合で、何百人もの人間が迷惑を被(こうむ)ることになる。友人も、会社の人たちも、あなたのことを信用しなくなる。その意味がわかりますか? 社会人として失格の烙印を押された人間が、彼女や子供を幸せにできるなんて思えません。区議会議員のお父様のことも考える必要があるでしょう。区民の信頼を担う立場です。あなたのような無責任な息子がいる父親を、誰が信じると? あなたは自分の勝手な都合だけで、関わっているすべての人を不幸にしようとしている。どうしてそれがわからないんですか?」
 それは、と言いかけた小坂を制して話を続けた。
「初恋の年上の先生と結婚して、実の子でもない子供に愛情を注いで育てるなんて、美談でも何でもない単なるエゴです。違いますか」
 ですが、このまま結婚すれば確実に麻弥は不幸になります、と小坂が言った。
「結婚証明書にサインはしましたが、婚姻届は出していません。彼女の戸籍はきれいなままなんです」
 そういう問題じゃないとボンネットを強く叩いたこよりに、もっと重要なことがありますと小坂が静かな声で言った。
「今、結婚をやめれば、すべての責任はぼくにあると誰もが考えます。実際、その通りですからね。麻弥は怒り、悲しみ、ぼくを罵倒し、非難するでしょう。両親や親族もそうです。誰もが麻弥に同情します。あんな男と結婚しなくてよかったと、周囲の友人たちは慰めるでしょう。その方が麻弥のためだと、ぼくは信じています」
 もう一度はっきり言いますが、純子先生はあなたに好意なんか持ってませんとこよりは言った。
「女は好きな男がいたら、会わずにはいられない。彼女にとって、あなたはどうでもいい男なの。それが現実なのよ」
 それなら、どうして彼女はここへ来たんですか、と小坂が微笑んだ。何かを確信した笑みだった。
 あなたは何もわかっていないとつぶやいて、こよりは車から離れた。
「披露宴の開始時刻を十分過ぎました。今頃、全スタッフがバックステージで走り回っているでしょう。わたしはあなたを強引にでも披露宴会場に引っ張っていかなければならない立場ですが、そんなことをしても無駄でしょうね。お色直しの時にでも逃げますか?」
 主賓挨拶の前に席を立ちますよ、と小坂が胸を張った。わたしは単なるウェディングプランナーです、とこよりはうなずいた。
「あなたの人生をコーディネートする立場ではありません。これからどうするか、あなたは自分の判断で決めればいい。あなたを止める権利はないんです。でも、あなたをかばう義理もない。会社にはありのままを報告します。新郎が勝手な都合で披露宴をキャンセルしたと伝えます」
 こよりはスマホを取り出した。構いません、と小坂が頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしたことはわかっています。必ずお詫びに伺います」
 そんなことはどうでもいいから、とこよりは車の前に回った。
「必ず麻弥さん、ご両親と連絡を取ると約束してください。謝罪以前に説明の義務があるでしょう。その約束をしてくれなければ、わたしはここから一歩も動きませんよ」
 約束します、と小坂が後部座席のドアを開いた。何か言おうとした純子が、かすかな微笑を浮かべ、そしてアクセルを踏むと、車は駐車場を出て行った。
(さて、どうしよう)
 こよりは遠ざかっていく車を見つめながら、スマホを見つめた。画面全体を着信マークが覆い尽くしている。
 小坂はすべてが間違っている。初恋の女性教師が忘れられなかったなんて、ひと昔前の少女マンガでもあり得ない設定だ。忘れられない相手がいるのは、男も女も同じだが、それはある種の幻で、現実とは違う。
 小坂は純子を美化しているだけだ。ひと回り年上の、連れ子のいる女性と幸せになれるはずもない。そんな器用な性格なら、もっと早い段階で手を打っていただろう。
 結婚式当日になって本当の気持ちに気づいたなんて、ただの寝言だ。小坂は後先考えず、ただ突っ走っているだけで、何の成算もない。考えてすらいないだろう。本物の馬鹿なのだ。
 何より、純子の気持ちを理解していない。彼女の本心がどこにあるか、それすらわかっていない。
 女心と秋の空、と昔から言うが、確かに真実を突いているところがある。気まぐれだし、センチメンタルな感情に流されやすい。
「それなら、どうして彼女はここへ来たんです?」
 自信たっぷりに小坂は言ったが、女とはそういうものだ。
 純子も小坂のことを嫌いではなかったのだろう。こよりも三十歳を超えてわかったが、年下の男が可愛く見える時がある。好意を示されれば、それだけで嬉しくなる時もある。
 ただ、それがリアルではないと知っている。二、三歳下ならともかく、五歳以上離れていたら、可愛いとは思うけれど、リアルに交際、そして結婚まで行き着けるのかどうか、それはわからない。
 十年以上前、自分に告白してきた高校生のことを、純子も忘れてはいなかった。矢吹という教師との結婚生活も、決して順調ではなかったのだろう。
 夫が病死し、その昔、告白してきた男性と会い、あなたのことが今も好きですと言われれば、嬉しくないはずがない。だから、思わせ振りなことを言った。
 今日、ここへ来たのは、祝福するつもりだったのだろう。あるいは、ただの気まぐれだったのかもしれない。何となく見ておこう、ぐらいの感覚でルクソール・ホテルまで来たというのが、一番正しいのではないか。
 自分のことを好きだと言っていた男性が結婚すると聞けば、多少なりとも気になるものだ。だから、ちょっとだけ覗いてみた。それだけのことに過ぎない。
 結婚式に現れて、花嫁を奪っていったダスティン・ホフマンの『卒業』は一九六七年の映画だ。あの映画でホフマンがそうだったように、小坂も何も考えていない。
 確実に不幸な人生が待っている。絶対に苦労する。間違いない。
 でも、と鳴っているスマホを耳に当てながら思った。
 ちょっと羨ましいぞ。

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 その後起きたことについて、ベストウェディング社、ルクソール・ホテル関係者一同は記憶を封印した。花嫁がウェディングドレスを着たまま、泣きながらパレットタウンを疾走したこと、その父親の怒り、招待客の呆然とした姿、そして披露宴会場で土下座して詫びた区議会議員、小坂信太郎(しんたろう)の姿。
 麻弥からこよりに一度だけ電話があり、恨み言と執拗なクレームを一時間以上聞かされたが、それで済んだのは運が良かったと考えるべきなのだろう。
 ベストウェディング社自体は大きな損害がなかったから、誰も処分されなかったが、ルクソール・ホテル営業本部宴会課では、すぐに大きな人事異動があった。一週間後、菊田家が小坂家に対し、慰謝料請求の訴訟を起こしたことも聞いた。
 小坂信秀が勤めていた会社を辞めた、と噂で聞いたのはしばらく経ってからのことだ。それ以外、小坂の話を聞いたことはなかったし、口にする者もいなかった。

(つづく) 次回は2018年1月5日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。