物語がつまった宝箱
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  • 5th marriage(1) 2018年2月1日更新
1
 チェックシートに丸を書き込んでいた太田原(おおたわら)が顔を上げた。
「問題ないと思います。漏れはありません」
 思わず、こよりはため息をついた。隣に座っている幸雄(ゆきお)の顔にも、笑みが浮かんでいる。
 六月三十日、土曜日の午後一時、と太田原がタブレットの画面を二人に向けた。
「挙式は弊社のチャペル、披露宴会場は徒歩七分のフレンチレストラン、“シェ・イザワ”で行われます。いわゆるレストランウェディングですね。弊社とは十年以上提携関係にありますし、伊沢(いざわ)シェフをはじめ、スタッフも信頼できる人たちです。それは草野(くさの)様もよくご存じかと――」
 草野様は止めてください、とこよりは周りを見た。ベストウェディング社のお客様相談室だった。
 今日、こよりは休日で、客としてここにいるが、太田原に丁寧語で話されると、どうしようもない違和感があった。体がむず痒(がゆ)くなってくるほどだ。
 太田原の側も同じだったのだろう。かすかな苦笑と共に、いつもの口調に戻った。
「今のところ問題はない。準備は順調に進んでいるし、草野も遠藤(えんどう)さんも、やるべきことはほとんど終わっている。社員の結婚式は一年半ぶりだから、みんな張り切ってる。協力態勢も整っているから、心配はいらない」
 お任せします、とこよりは頭を下げた。式まで後四十六日、今ならトラブルがあっても対処できるし、太田原が自らウェディングプランナーとなっている以上、トラブルが起きる可能性はゼロに近い。プロ中のプロである太田原には、全幅の信頼があった。
「四月の半ばに、招待状はうちの方から発送済み。ただし、出欠についてはあなたたちの方に返事が来ることになってる」太田原の説明が続いた。「確認なんだけど、全員分届いたということでいいのね? 出席するのは七十人ジャスト?」
 そうです、とこよりはうなずいた。親戚、友人、会社関係。両親も含め、それぞれが三十五人ずつを招くと最初から決めていた。
 まだ何人か返信が届いていない者もいるが、電話やメールで確認を取っている。この辺りはこよりにとっても慣れた作業だった。
「“シェ・イザワ”でのメニューについては、草野が自分で交渉しているから、あたしは口を出す立場じゃないけど、伊沢シェフから話は聞いてる。遠藤さん、こんなことを言うのはおこがましいかもしれませんけど、お二人の結婚式に関わっているスタッフは、全員プロフェッショナルです。素晴らしい結婚式になる、と今この場で断言しても構いません」
 ありがとうございます、と幸雄が笑顔で答えた。七十人規模の結婚式はウェディング会社にとって平均的なものだが、そのために太田原をはじめ、通常の倍以上のスタッフが動いている。同じ会社で働く者が結婚する以上、どんな小さなミスも許されない、と太田原の強い指示が飛んだためだ。
 同様に、“シェ・イザワ”の伊沢シェフも、スタッフを総動員して準備を進めている。照明、音響、特殊効果、ドレスメーカー、スタイリストその他、ベストメンバーが集まった。しかも、料金は通常以下だ。
 こんなにしてもらっていいんでしょうか、としばらく前に尋ねたこよりに、ボーナスだと思いなさいと太田原が答えた。その辺りの話は幸雄にも伝えている。礼を言う以外、できることはなかった。
「美容師とウェディングプランナーの結婚」これ以上ベストなマッチングはないかも、と太田原が微笑んだ。「遠藤さん、ヘアメイクはあなたの会社、“エア/ホワイト”さんにお任せしてるけど、それは大丈夫ですね?」
 彼女のヘアメイクはうちの安西(あんざい)社長が担当します、と幸雄が言った。
「本人とも何度か会って、打ち合わせは済んでいます。そこは任せてください」
 いいでしょう、と太田原がタブレットを自分の方に向けた。
「後四十六日です。草野、ブライダルエステは順調? もうレンタルするドレスは決めてるんだから、暴飲暴食は謹(つつし)むように、今、あたしが一番恐れているのは、当日になって“すいません、五キロ太っちゃったんですけど”とあなたが言い出すことよ」
 気をつけます、とこよりは神妙な顔でうなずいた。レンタルドレスを決めた後に、体型が変わってしまう花嫁は意外と多い。
 マリッジブルーを含め、さまざまなストレスでひと月で数キロ増減する者も珍しくない。もちろん、ほとんどがその場で補整できるレベルだが、過去にはガムテープで肌に直接ドレスを貼り付ける花嫁もいた。
 今回、こよりはジャストサイズのドレスをレンタルしているので、少し太っただけでも背中のファスナーが上がらなくなったり、ウエストが入らなくなることも有り得た。
 では、本日の打ち合わせはここまでです、と太田原が丁寧語になった。
「何か問題が発生した場合、またお二人にいらしていただくこともあるかもしれません。その時は連絡します。本日はお疲れさまでした」
 太田原に見送られる形で、お客様相談室を出た。五月十五日、火曜日、午後二時。予定通りの時間だった。

2
 結婚式が近付くと、どんなカップルでもそうだが、二人で会っていてもデートという雰囲気ではなくなる。打ち合わせ、あるいは確認のための話し合いがメインとなってしまうためで、これは仕方ないところだろう。
 こよりは三十一歳、誕生日が四月の幸雄は三十二歳だ。交際が始まった時から、べたべたに甘い付き合いをしていたわけではない。
 それでも恋人同士として、同世代の平均より少し濃いレベルではあった、と思っている。二人で会っていれば、それだけで楽しかったし、幸せだった。
 関係性が少し変わったのは、三、四カ月前に招待客のリストを作り始めた時だ。それまで二人にとって、どこかぼんやりしていた結婚式が、具体性を伴ってきたのがその頃だった。
 レストランウェディングにしたいというこよりの希望に、幸雄があっさり賛成したのは、こよりと伊沢シェフとの関係性をわかっていたからだ。
 幸雄自身、何度も“シェ・イザワ”を訪れている。店の雰囲気、伊沢の人柄、もちろん料理の味も含め、レストランウェディングにするならここしかない、というのが二人の結論だった。
 “シェ・イザワ”にはテーブル席が十五ある。定員は六十名となっているが、レストランウェディングに限り、ウェイティングルームを開放して、八十名まで収容できる。
 とはいえ、予算との兼ね合いもある。相談して、双方三十五名を呼ぶことにした。あの辺りから、恋人同士というよりビジネス的な会話が増えた、とこよりは思っていた。
 もっとも、それもよくある話だ。どんなにベタ甘のカップルでも、結婚の理想と現実に向き合わなければならなくなる時がある。
 それがいつなのかは、カップルにもよるだろうが、自分たちの場合は招待客を決めた時だった。それだけのことだ。
 仲が悪くなったということではない。むしろ、真剣にお互いのことを考えるようになった、というべきだろう。
 誰もが言うように、恋愛と結婚は違う。夢や理想だけでリアルな結婚生活はあり得ない。
 現実にはさまざまな壁がある。二人でそれを乗り越えていくのが、正しい結婚というものだろう。
「何か、実感が湧いてきたな」台場(だいば)駅まで歩きながら、幸雄がしみじみした声で言った。「あの太田原さんって人は、説得力があるよね」
 確かに、とこよりはうなずいた。説得力というより、迫力というべきかもしれない。
「ゴメンね、本当は一緒に食事したかったんだけど……」
 今日、こよりは休みだ。太田原との打ち合わせを終えた後、幸雄と過ごす予定だったが、金沢(かなざわ)エリカとその夫、博巳(ひろみ)から、どうしても会って相談したいと頼まれ、このまま台場のルクソール・ホテルへ向かうことになっていた。
 いいんだ、と幸雄が優しく笑った。
「デートはこれからいつでもできる。何しろ、結婚して二人で暮らすわけだから、考えようによっては毎日がデートみたいなもんだ。今日は譲るよ」
 駅の改札まで幸雄を送り、夜また連絡すると言って、こよりはルクソールへ急いだ。四月半ば、小坂信秀(こさかのぶひで)と菊田麻弥(きくたまや)の結婚式で起きた大トラブルの記憶が胸を過(よ)ぎったが、それはそれ、これはこれだ。
 エントランスからラウンジへ入ると、立ち上がったエリカが大きく手を振った。うなずいて、こよりは席へ近づいていった。

3
「ゴメンね、お休みだったんでしょ? 申し訳ない!」エリカが手を合わせた。「でも、ヒロくんが明日から金曜まで出張が入っちゃって、今日しか相談できる日がなかったの」
 わかってます、とこよりは革張りのシートに座った。並んでいるエリカと博巳の向かいに、二十代のカップル、そしてベストウェディング社のプランナー、牧原和佳子(まきはらわかこ)が座っていた。
「こっちがぼくの妹の美由希(みゆき)です」博巳が小柄でおとなしそうな女性を紹介した。「そして彼が婚約者の長谷部英春(はせべひではる)くん。この二人が今週の土曜に結婚するわけですが」
 おめでとうございます、とこよりは笑顔で言った。ベストウェディング社を二人が訪れた際に会っていたが、その後、牧原が担当になっている。直接顔を合わせるのは半年ぶりだった。
 結婚式そのものには、何の問題もないのと牧原が短く説明した。
「すべて予定通りに進んでる。ただ、エリカさんの方から、例のリクエストがあって、それをどうしようかって……」
 エリカのリクエストとは、彼女の祖父母に正装させた上で、記念写真を撮影したいというものだった。祖父母は二人とも七十代半ばで、結婚式を挙げていない。せめて記念写真だけでも撮影できないものか、とエリカに相談されていた。
 詳しい事情を聞いて、協力したいと思ったし、美由希と英春も了解している。予算や時間がかかることでもないので、問題はないはずだったが、サプライズにしたいというエリカの意向があったため、そこをどうするかが課題になっていた。
 難しいのはおじいちゃんなの、とエリカが声を潜めた。
「ザ・昭和の人で、今じゃ絶滅危惧種の頑固者でさ。おばあちゃんがいなかったら、お茶の一杯も入れられないくせに、ありがとうとか、そんなこと絶対に言わない。孫のあたしにはメチャメチャ甘いけど、何ていうのかな、素直じゃないんだよね。二人で並んで歩くのさえ、恥ずかしいって嫌がるわけ」
 古風な方なんですねと微笑んだ牧原に、そんな可愛いレベルじゃないとエリカが首を振った。
「サプライズにしたいっていうのは、そうじゃないとおばあちゃんと並んで写真を撮ること自体、拒否するってわかってるから。ちゃんと正装して、結婚用の記念写真を撮影してほしいなんて直接言ったら、意地になって家から一歩も出なくなる。説得なんてできない」
 どうやって美由希さんと英春さんの結婚式に呼び出すか、作戦は決めたと牧原がこよりの方を向いた。
「当日、エリカさんがおじいさまの家へ行って、そこで御祝儀袋を忘れたことにする。式の直前に気づいて、持ってきてほしいと電話で頼めば、必ず来てくれるって」
 おじいちゃんは絶対来る、とエリカが胸を張った。
「でも問題なのは、どうやって着替えさせるか、そこなんだよね」
 衣装の準備はと尋ねたこよりに、タキシードとパーティドレスを用意している、と牧原が答えた。
「サイズはご本人たちの服を測ったから、だいたいわかってる。多少の調節は現場でもできるし、ヘアメイクもスタンバイさせることにした。こう言ったら失礼かもしれないけど、年齢のこともあるから、あまり本格的にする必要はないんじゃないかって思ってる」
 そうですね、とこよりはうなずいた。七十代の老夫婦に、二十代の新郎新婦のようなメイクを施すのは無理があるだろう。
「でも、エリカさんが言うように、どうやって着替えさせるか、そこが解決できないと記念写真も何もない」下手したら、美由希さんと英春さんの結婚式に支障が出るかもしれない、と牧原が言った。「あまり無理なことはできないし、しない方がいいと思ってる」
 君が説得するしかないんじゃないかと言った博巳に、とても無理、とエリカが男のように腕を組んだ。
「さっきも言ったけど、ホントに頑固なわけよ。正面突破は厳しいって。かといって、騙(だま)し打ちってわけにもいかないし……」
 協力したいと思っています、とそれまで黙っていた英春が口を開いた。
「お義姉さんの気持ちもよくわかりますし……ただ、式にはぼくたちの会社の同僚、上司も招待しています。取引先の関係者もいます。そういう人たちに不愉快な思いをさせるのはさすがにちょっと……」
 本末転倒だよな、と博巳がうなずいた。美由希と英春は同じ会社に勤めているので、周囲に迷惑をかけられないという立場は、こよりもよくわかっていた。
 エリカの両親から話してもらってはどうかと勧めたこよりに、それも考えたけど、とエリカが渋い顔になった。
「父も母も、止めた方がいいって言ってる。特に父はおじいちゃんの息子だから、性格もよくわかってる。絶対嫌がって、怒り出すだろうって……怒ると、おじいちゃんは手がつけられなくなるんだよね、マジで。美由希ちゃんたちに迷惑がかかるだろうって言うの」お父さん、自分からは何も言えないって、とエリカが深いため息をついた。「それはあたしもそう思う。おじいちゃん、父にはすごく厳しいんだよね。説得するなら、あたしの方がまだましだと思うけど、素直にうなずくとはとても思えない」
 うまくいけばいいけど、失敗したら修羅場だよと博巳が言った。
「君の家に結婚の挨拶に行った時のことは、ぼくもちょっとしたトラウマになってる。ご両親は喜んでくれたけど、おじいさんは顔を真っ赤にして怒っただろ? お前みたいな若造に大事な孫はやれんとか、大騒ぎになってさ。お義父さんに何か言われるのは覚悟してたけど、まさかおじいさんがあんなに怒るとは思ってなかった。それだけ、エリカを可愛がってるってことなんだろうけど」
 だよね、とエリカが頭を抱えた。
「あの時、興奮したおじいちゃんが心臓が痛いって言い出して救急車呼んだっけ……今になって思うと、あたしたちが結婚できたのが不思議なくらい。ヒロくんと話すようになったのだって、最近だもんね」
 やっぱり止めた方がいいかもしれませんね、と牧原がため息をついた。
「わたしの本来の仕事は、英春さんと美由希さんの結婚式をつつがなく無事に終えることです。その立場から言わせていただくと、無理なことはなるべくしたくない、というのが本音なんです」
 ですよね、と肩を落としたエリカに、もう少しだけ考えてみましょう、とこよりは言った。
「エリカさんのおじい様、おばあ様への気持ちはよくわかりますし、それ以上にお二人のためにもなることだと思うんです。何十年も連れ添ったご夫婦に結婚を記念する写真がないというのは、ウェディングプランナーとして、残念な気がします。中止にするのは、いつでもできるでしょう? 何かいい手があるかもしれません」
 その後、二時間かけて話し合ったが、結局祖父をどう説得すればいいのか、解決策は見つからなかった。解散したのは夜六時だった。

4
 三日後の金曜日、こよりは“シェ・イザワ”にいた。ひと月ほど前、スペインで結婚式を挙げた新婚夫婦が、親族と親しい友人だけを招いて食事会を開くことになり、そのプロデュースを依頼されたためだ。
 海外で挙式をするカップルは年々増えている。両親や兄弟だけを呼んで、現地で結婚式を挙げ、そのまま新婚旅行を楽しむというプランの方が予算的に安くあがるということもあり、人気も高い。
 ただ、そうは言っても結婚式は二人だけのものではない。親族などに結婚相手を紹介するというセレモニーも必要だ。
 食事会なら、土日にこだわらなくてもいい。“シェ・イザワ”のような名店でも、人数を抑えれば比較的予約が取りやすいのも、平日に行うメリットのひとつだ。
 七時に始まった食事会が終わったのは夜十時だった。手配していたタクシーに新婚夫婦を含め全員が乗ったことを確認して、こよりは厨房に回った。
 お疲れさまでしたと声をかけると、出てきたのは孝司(たかし)だった。
「どうだった? 皆さん、満足してくれたかな」
 わかってるはず、とこよりは微笑んだ。客の満足度は戻ってきた皿を見ればわかる、というのが伊沢の口癖だったが、こよりが見ていた限り、どの皿もきれいになっていた。メインの山形牛と子牛肉のロティについては、ソースさえ残っていなかったほどだ。
 それならよかった、と孝司が両手を差し出した。かすかに指先が震えている。
「全部任せるってオヤジさんに言われたのは、今日が二回目なんだ。伊沢シェフの名前で出すんだから、プレッシャーだよ」
 信頼されてるってことじゃない、と肩を叩いたこよりに、そこまでポジティブにはなれない、と孝司がこぼした。
「オヤジさんはもう一軒レストランを開くつもりだ。外に出ることが増えてるのはそのせいで、その分こっちにかかる負担も大きいんだけど……思い出した、頼まれてたことがあったんだ。君の結婚式で出すワインをテイスティングしておくように言われてる。すぐ持ってくるから、テーブルで待ってて」
 言われた通り店のテーブルに座っていると、白と赤、二本ずつボトルを抱えた孝司が厨房から出てきた。
「バタール・モンラッシェ2004、コルトン・シャルルマーニュ」
 レ・マッキオーレ スクリオとクロ・サン・ドニの赤、とボトルを並べた。どれも二万円クラスの高級ワインだ。こんなの無理よ、とこよりは首を振った。
「素人のあたしにだってわかる。高価過ぎるって。料理だけでも通常の予算をオーバーしてるんだから、ドリンクについてはノーマルでいいって伝えてある」
 オヤジさんの好意だよ、と孝司がモンラッシェのボトルネックにソムリエナイフで切り込みを入れた。
「あの人は君のことを可愛がってるし、身内と同じだって言ってる。いいんじゃないかな、好意に甘えても」
 孝司はソムリエではないが、ソムリエナイフの扱いは巧みだった。本場仕込みということなのだろう。
 素早くコルクを抜いて、テイスティング用の大きなグラスに少量のモンラッシェを注いだ。
「赤、白、どっちも一本ずつ決めておけって。もう開けちゃったんだから、今さら遠慮してもしょうがない。とりあえず試してみてよ」
 ワインについて語れるほど舌が肥えているわけではない。この十年で千組以上の結婚式に立ち会ってきたが、式で供されるワインについては、予算の範囲内で決めることがほとんどだ。
「好みでいいんだ。比べて好きな方を選べばそれでいい」ぼくも一杯いただくよ、と孝司が頬に笑みを浮かべた。「ホテルだったらボトル一本四、五万はする銘柄だからね。めったに飲むチャンスはない。これも役得かな」
 結婚おめでとう、と孝司がグラスを掲げた。ありがとうとグラスを合わせると、澄んだ音がした。
 香りを吸い込んでからひと口飲むと、ありきたりな表現だが、口の中一杯に芳醇(ほうじゅん)な香りが広がっていった。
「ワインについて蘊蓄(うんちく)を垂れる人って、あんまり好きじゃないけど」グラスを回しながら、こよりは鼻を近づけた。「何か言いたくなる気持ちはわからなくもない。感動を表現しないと、気が済まないってことなのかな」
「雨上がりの草原を野兎が駆け抜けていくような、そんなことを言う奴は信用できない」孝司がコトーのボトルネックにソムリエナイフを当てた。「無理な表現をしなくても、美味しいか美味しくないか、それだけで十分だよ。ワインは素直に楽しめばそれでいいんだ」
 一時間ほどかけて、四本のワインを飲み比べた。その間にほとんどのスタッフが帰り、店に残ったのはこよりと孝司だけになった。
 四本のワインを、二人で飲み干すことなどできない。あくまでもテイスティングだ。それでも、それなりにアルコールが回っていた。
 会話を続けながら試飲を続けた。結局白はコルトン、赤はスクリオを選んだ。途中から、話すことは過去の思い出がメインになっていた。
 あの頃は楽しかった、あの時は本当に腹が立った、あんなことがあった、あそこへ遊びに行った、そんな話だ。
 話していて、単純に楽しかった。二人には二人だけの過去がある。いちいち説明や前置きをする必要はなく、ただ話せばそれだけで通じた。
 人は誰でも過去を美化する。実際には付き合っている間、何度もケンカをしているし、嫌な思いをしたこともあったが、それは時間がきれいに忘れさせてくれていた。残っているのはいい思い出だけだ。
「来月の末、君は結婚する」おめでとう、と孝司が繰り返した。「今が一番幸せなんじゃないか?」
 かもしれないとうなずきながら、こよりはセンチメンタルな気分に浸っている自分に気づいていた。孝司のことは、すべて思い出になっている。その感覚は、幸雄にはないものだ。
 理由ははっきりしている。幸雄とは現在進行形で続いているからだ。まだ思い出が熟成していない、ということなのだろう。
「でも、忙しいっていうのが本音かな」こよりは自分でスクリオをグラスに注いだ。「プランナーとして、たくさんの結婚式に関わってきた。でも、それはあくまでも他人の結婚式で、自分のじゃない。当たり前の話だけど、全然違う。自分たちで決めなきゃならないことが多くて、結婚式だハネムーンだって、浮かれた気分にはなれない」
 幸せかい、とグラスをテーブルに置いた孝司が視線を向けた。まあね、とうなずきながら、さりげなく目を逸(そ)らした。
 幸雄との結婚について、幸せだという実感がある。彼を愛しているし、愛されている。その意味では幸せだ。ただ、男と女では結婚に対してどうにもならない温度差がある。
 ベストウェディング社に勤めてから十年、一人暮らしをしてきた。決して短くない時間だ。それなりに作り上げてきた生活のペースがある。
 結婚すれば、それを一気に変えざるを得ない。二人で暮らすことになれば、どんなに愛し合っていても、気を遣わなければならなくなる。十年間のうちに身についた習慣が、そんなに簡単に変えられるのか、という不安があった。
 それだけではない。結婚すればこよりは幸雄の名字になる。結婚とはそういうもので、それ自体は納得していたが、あらゆることが変わるのは女性の側だ。
 会社では旧姓をそのまま使うことになっているが、提出する書類、出勤簿、精算伝票など、公的なものは遠藤姓になり、プライベートでも免許証、保険証、パスポート、カード類、すべての名義を変えなければならない。 
 誰でもそうしていると言われればその通りだが、負担がかかるのは女性の側だ。難しいことではないし、一度名義変更すれば済む話だとわかっていても、ストレスはストレスだった。女性がマリッジブルーになるのは、それも理由のひとつなのだろう。
 結婚後のことも考えなくてはならない。こよりも幸雄も子供を作るつもりだったが、精神的肉体的な負担は、比べるまでもなく女性であるこよりの方が遥かに上だ。しかも子供を産めば、しばらくの間子育てに専念することになる。
 ベストウェディング社は出産・育児休暇制度が完備されているし、そのためにさまざまなケアをしてくれることになっている。その水準は高いが、それでもキャリアがストップするのは事実だ。なるほど、世の中少子化が進むわけだ、とこよりはつぶやいた。
 マリッジブルーの主な原因は、環境の大きな変化にある。昔とは違い、結婚しても仕事を続けたいと女性たちは考えている。結婚する時期が遅くなるのは、当然だろう。
 ただ、こよりの中には違う想いがあった。幸雄との結婚を強く望んでいる。彼と結婚したいと願っている。
 それは確かだったが、漠然とした不安があった。本当に幸雄と結婚したいのか。
 そうではなく、ただ「結婚したい」のではないか。親や友人、会社の手前、世間体も含め「結婚しなければならない」と思い込んでいるだけではないのか。
 そんなことはない、と強く首を振った。幸雄と一緒にいたい。できるだけ長く共に過ごしたい。
 そのためには結婚がベストな選択だ。その判断に迷いはない。
 しばらく黙っていた孝司が、幸せならいいんだと大きく息を吐いた。幸せだけど、と言いかけたこよりのバッグの中で、着信音が鳴り始めた。画面に志保(しほ)の写真が映っている。
「もしもし、どうしたの? こんな時間に」時計を見ると、夜十一時を回っていた。「何かあった?」
ジョージくんがねえ、と志保が尖(とが)った声で言った。幸雄の後輩で、結婚式の二次会の幹事を務めてくれる彼のことだ。
「何から話せばいいんだろ……要するに、ジェネレーションギャップなんだよね」
 ゴメン、と手振りで謝って、こよりは店の外に出た。二次会を何だと思ってるのかな、と志保が文句を言う声が続いている。
「進行表を作ってきたのはいいんだけど、九割がゲームやら何やらで、しかも男女をくっつけようって意図がミエミエなわけ。聞いたら、ジョージくんも今彼女がいなくて、探してるんだって? そりゃ二次会は出会いの場って側面があるのはホントだけど、それにしたって主役はこよりと幸雄さんでしょ? 幹事がメインになって、どうすんのよ」
 うまくやってよ、とこよりはスマホを摑(つか)んだ。
「志保だったら、その辺仕切れると思って頼んだわけだし」
 努力はするけどね、と志保が疲れた声で言った。
「まあ、ジョージくんの言うことも、わかんなくもないんだ……楽しい方がいいじゃないですかって彼は言うんだけど、そうかもしれない。あたしなんか、もう落ち着いちゃってるから、独身同士くっつこうが離れようが、どっちでもいいやって思ってるんだけど、彼にしてみればそうもいかないのかなって」
 年齢と立場の差かな、とエントランスの壁にこよりは背中を預けた。かもしんない、と志保が力のない声で笑った。
「言われてみると、あたしらも若い頃は楽しくなきゃダメ、みたいなところがあったじゃない? でも、今はやっぱりきちんと形を整えなきゃって思っちゃう。もうオバサンですよ」
 そこまで言わなくても、とこよりは苦笑した。あんたが羨ましいよ、と志保がまたため息をついた。
「うちみたいに出来婚で、結婚式も挙げてないと、あんたみたいにウェディングドレス着て親や友達を招いて、ちゃんと結婚式をするのはいいなって、本当に思う。周りも祝福しやすいし……うん、その意味じゃやっぱし形も大事だね」
 あたしもそうだけど、幸雄は友人を大事にする、とこよりは言った。
「今の話だと、確かにジョージくんはやり過ぎっぽいけど、あたしたちのことより、来てくれる人たちが楽しんでくれる方が嬉しい。まだ時間はあるから、相談してみてよ」
 了解、と志保が通話を切った。飲み過ぎたかな、とこよりはふらつく頭を押さえた。そろそろ帰った方がいいだろう。
 エントランスのドアを開けて、徳井(とくい)くんと名前を呼んだが、返事はなかった。厨房(ちゅうぼう)に戻ったようだ。
 先に帰るねと言い残して、駅へ向かった。見上げると、空に星が三つ光っていた。

(つづく) 次回は2018年2月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。