物語がつまった宝箱
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  • 第二回 2014年9月1日更新
 「お姉さん、うつ病にでもかかったんじゃないの」
 千佳はそうあっさりと言って、朝からずっといじり続けている人型のオブジェにぐるりと針金を巻き付けた。
「真面目な人ほど危ないとかよく言うじゃない」
「うーん」
「そこのガラスとって」
 あいよ、と和馬は頷き、角を丸くして磨きをかけたガラス素材が詰め込まれたダンボールを千佳の足もとへ運んだ。工芸科の教室では、学生がそれぞれの作品に用いる、一手間加えられた素材がたくさん見られて楽しい。
 浜田千佳とは南米音楽研究会で仲良くなった。週に三回ほどそれぞれが買いそろえた笛や太鼓など民族楽器を持ち寄って、それほど難しくない曲を合奏するゆるいサークルだ。ショートカットにした明るい金髪と平たくほっそりとした体つきのせいで、大きな太鼓をかついだ千佳は時々、ふらりと遠い国に旅立ってしまいそうな白人の男の子に見える。小柄だが、作るものはいつもダイナミックで、だいたい自分の身長よりも大きな作品ばかり作る。
 この卒業制作もそうだ。針金や金属片で作られた身の丈二メートルほどの人形の内部に、ラピスラズリを連想させる青や金の素材がちりばめられている。ライトを当てるとまた表情が変わるらしい。なんでも、個々の人間が体の中に持っている宇宙を表現しているのだとか。
 針金の隙間に埋め込むガラス素材を選びながら、千佳はおかしげに唇をゆがめた。
「篠くんシスコンだったんだ」
「マジですか。もうこれシスコン?」
「わざわざ様子を見に泊まりに行くとか、どう考えたってシスコンでしょ。第一、お姉さんいくつよ。うちらの七つ上ってことはー」
「今年二十八かな」
「もうとっくに大人じゃん。なにかいやなことがあっても自分でなんとかするって。むしろうちらの方がやばいよ。人の心配してる場合じゃないよ」
「やばいよなー」
 刻一刻と大学四年の残り時間が過ぎていく。九ヵ月後の卒業式に出席している自分は無事に卒業制作を提出し、なにかしらの就職先を勝ちとって明確な人生の進路を決めているはずなのだが、いまだになんの実感も自信も湧いてこない。
 千佳が休憩に入るのを待って、購買で買ったおにぎりをかじりつつお互いの就活の情報を交換した。面接で聞かれた内容について、OBからもらったアドバイスについて。めんたいこのおにぎりをがぶりと頬ばり、千佳はバイト先の健康機器を製造している企業から、卒業後はこのままデザイナーとして来ないかと誘いを受けたことを明かした。
「今はホームページの運営スタッフとして雇われてるんだけど、メインで商品のパッケージを作ってたデザイナーさんが退社することになって、その後任にって。もしやるなら今からぽつぽつ仕事を教えて、時給も上げてくれるって」
「なにそれ、めちゃくちゃうらやましい」
「でも契約社員なんだー。それに、やっぱりできたばかりで業績が全然安定してない会社だし、不安っちゃ不安。親も反対してる」
「あー」
 とはいえ、パッケージデザインは就活を始めた頃から千佳がやりたいと言っていた仕事の一つだ。頭を抱えて悩んでいる彼女のつむじを眺めつつ、和馬は二つ目のおにぎりのフィルムをはがした。白い表面に、塩昆布がはみ出ている。千佳がゆるりと顔を上げた。
「そういえば、篠くんが入選したこないだの学生向けコンペ、パーティあったんでしょう。そこで、なんかいいことなかったの?」
「名刺はそこそこもらったし、一応ぜんぶに挨拶とお礼のメール送った。連絡先を書いたカードもありったけばらまいてきた。けど、今のところ一件も連絡なーし」
「やっぱりそんなに簡単にはいかないかあ」
「最優秀賞の人や、同じ佳作でももっと昔からある有名な賞だったらちょっとは違うんだろうけど」
「篠くんはやっぱりデザイナー志望なの? ファブリックが好きなんだよね」
 鈍くうなって、和馬は唇を曲げた。
「なんかこう」
「うん」
「いまさらなんだけど」
「はい」
「あんまり俺、クリエイター系、向いてないかも」
「はあ? なんで。賞まで取っといて」
「いやいや。最優秀の人の、めちゃくちゃきれいで居たたまれなくなった」
「あ、あの孔雀。私もホームページで見た。ねー、きらっきらしてたね」
「取材とか、仕事とかも、ぜんぶあの孔雀が持ってったし」
「うーん」
 ずず、と千佳はパックの甘い紅茶を吸い上げる。少し考え込むような間を空けて、首を傾けた。
「ほとんどの人はさー」
「うん?」
「そんな、褒められて、ぜひうちと一緒にお仕事しましょう、なんて笛や太鼓で迎えられるわけでなく、やらせてくださいしっかりやりますって言って、仕事に就くわけじゃない。新人なら、なおのこと」
「うん」
「だから、孔雀がそのパーティに漂ってた仕事を総取りしたことと、篠くんがクリエイターになるかならないかは、ぜんぜん関係のないことだと思う」
「それはその通りだと思う」
「ふむ」
「その通りなんだけど、なんか急に、ほんとにそれがやりたいのか分かんなくなった」
 なにそれ、と千佳は顔をしかめた。
「一番になれなかったからイヤになったの?」
「なのかなあ」
「ただのナルシストじゃん。篠くんのせいで選考に漏れた人たちがかわいそう」
「浜田はそういうのないの?」
「あっても表には出しません」
 千佳は首を振りつつ作りかけの作品の前へ戻っていく。和馬もゴミをまとめて席を立った。
「そろそろ行くわ」
「うん、そのうちそっちにも遊びに行くね。ナルシストの作品、こきおろしてやるわ」
「おお」
 昼の休憩を切り上げ、和馬は工芸科の教室を後にした。自分が所属している総合デザイン科が入っている棟へ歩き出す。
 渡り廊下の途中で足を止め、すっかり青草が茂ったキャンパスをぼんやりと眺めた。朝方に雨が降っていたせいか、気温が上がり始めた外はうっすらと蒸して、植物の香りが濃い。
 校舎沿いに設けられた花壇で、初夏の陽気な花々に埋もれながら、周囲の賑わいをすうっと吸い取る端正な白百合が一輪、まばゆい花を開いていた。職員の誰かが手をかけているだろうとすぐに分かる、立派な花づきだ。
 あの花は切れない、と和馬は習慣のように思う。あれを切ったらとても目立つ。すぐに大人にばれてしまう。
 ふいに花を見つめていた幼い姉のまっ黒い瞳を思い出した。ぱちん、と刃を重ねる小さなはさみの音が聞こえる。

 はじめにそれを教えたのは母親だった。催し物かなにかでもらった記念の花束がしおれてきたのだけれど、捨てる踏ん切りがつかない。そう言って古いガラスの大皿に水を張り、水面に花だけを切り落とした。
「こうすると少しだけお花が長持ちするのよ」
 畳に正座した母のそばで、たまたま姉弟で並んで手元を眺めていた。やってみたい、とまず美波が言い、母から銀色の花ばさみを受け取った。まずは小さな花を、おそるおそるぱちん。二回目はもう少し力強くぱちん。ぱちん、ぱちん。次第にいくらか大きめの花を狙って、光るはさみが泳ぎ出す。
 自分が幼稚園の空色の上着を着ていた時期だから、美波もまだ小学生だったのではないかと和馬は思う。母の膝にもたれ、花切りに熱中する姉の横顔を眺めていた。普段は卵をかき混ぜるのも、玄関の前を掃くのも、「カーくんもやってみな」とすぐにやらせてくれるのに、美波は珍しく道具を手放さなかった。じっと目を見開いて夢中になっている。
 楽しんでいるのだとは分かったけれど、和馬も子どもだったのですぐに焦れた。面白そうなのに、お姉ちゃんがズルをしてやらせてくれない!
 やりたいー! と声を張り上げる。母親に「ミッちゃん、カーくんにもやらせてあげて」とうながされ、美波は我に返ったように顔を上げた。体温の染みたはさみを受け取り、和馬は茎を持って、母親の手を借りながら花と茎の境目へ刃を当てた。
 ふいに、ぞっとした。花がやめてと訴えている気がした。水分がたっぷりとつまった青い茎も、人の肌に似たなめらかな花びらも、今にも声を上げそうなくらいに生きている。生きているものを刃物で傷つけるなんて、したことがない。こわい、ととっさに思う。こわい、こわい、こわい! 和馬は幼い頃からそんな風に、急に周囲のものが接近して視界をいっぱいに塗りつぶすような、ささいな感情や刺激がやけに拡大されて感じられるような、意識が過敏になる瞬間があった。
 母親の指に力がこもるのと同時に、やだあ、と弾けるように泣いた。やだ、やだ。うまく理由を伝えられずに身をよじる。刃物を持っているときに動くと危ないでしょ、と叱られつつその場を離れた。
「大きなはさみがこわいのかしら」
 呆れたように母親は肩をすくめ、じゃあもっとやりたい、と手を出した美波にはさみを渡した。
 ぱちん。ぱちん。ぱちん。切り離された花がゆらゆらと頼りなく水へ漂う。得意げに顔を上げた美波はぐずる和馬と目を合わせた。にっと唇を持ち上げ、よわむし、と笑う。
 よわむしじゃないっ、と和馬は顔を歪めた。母親が慌てて美波を叱る。
「ミッちゃん! こら」
「よわむしはだめなんだよ!」
 姉の笑い声は、まるで賑やかな管楽器のようだった。
 その日から、しおれかけた花を切って飾り直すのは美波の役割になった。
 もともと花が好きで、切り花を買ってくることが多かった母は、始末が楽になったと喜んだ。捨てるか捨てないかで迷ったら、娘のおもちゃに降格させてしまえばいいのだ。
 母は「お花を浮かべちゃって」と言う。けれど美波はこの遊びを「生首あつめ」と呼んだ。和馬は意味が分からずに首を傾げる。
「ナマクビって?」
「人の頭のこと。時代劇でよく言ってるでしょ。お花のてっぺんだけ集めるから」
 今思えば、美波はあえて残酷な言葉を使いたい年頃だったのだろう。お花って、茎とか葉っぱとか無い方がかわいいよね。そんなことを言って水に浮かべた花をつついたり、水滴を落としてどのくらいの重量で花弁が沈むのか実験したりしていた。
姉に遊ばれて水底に落ちていく花を眺めながら、和馬は、お花は怒らないんだろうか、と思っていた。いつも観ているアニメではああいう風に悪いことをすると、お花たちは泣きながら「助けて」と言う。花をぐしゃぐしゃにした子どもは悪い子と見なされ、正義の味方に叱られる。
 でも、お花にひどいことの一つもできないから自分は「よわむし」なのかも知れない。今日もそうだった。幼稚園のお迎えの時間に、気の弱いゆうくんが体の大きなたっくんにおもちゃを取られて泣いていた。それを見ていた母親は「ゆうくんが困ってるから、早く助けてあげなさい」と言って和馬の背を押した。けれどたっくんの甲高い声やぎろぎろと動く大きな目、いつも積み木を乱暴に振り回しているささくれだらけの茶色い手が急に目の前に迫って見えて、和馬は動けなくなった。だってあの子にぶたれたら、ものすごく痛い。
 やだあ、と首を振って母親の足にしがみつく。頭の上から「おねえちゃんなら、すぐにやめなさいって言えるのにね」と残念そうな声が降ってきた。正義の味方になれないことも、姉よりもダメだと言われることも、同じくらい悲しかった。
 母親を喜ばせるには、お姉ちゃんみたいにならなければならない。お花はきっと痛くない。むしろ、そのまましぼんで死んだら捨てられるのだから、長生きできて喜んでいるはずだ。そう自分に言い聞かせ、花ばさみを持つ美波の背中をつついた。
「やってみたい」
「いいよ。じゃあカーくんこっちにおいで。はさみ一緒にもとう」
 そう言って、しおれかけの水仙を渡される。ほっそりとした青い茎を、冷たく光る刃で挟んだ。指に力を入れて、ぶ厚い刃をゆっくりと閉じていく。
 みじ、と細かいものがちぎれる感覚が皮膚へ伝わった。みじ、みじ。茎が潰れ、傾いだ花が不思議そうにこちらを向く。ぴくん、と和馬の心臓が跳ねた。奥歯を噛んで、こわくない、と自分に言い聞かせる。お姉ちゃんもやってるし、悪くない。いいこと。お花、痛いだろうか。
 息を止めてぱちんと刃を重ねた瞬間、鼻先を生ぐさい匂いがふっとよぎった。折り紙で作ったような角張った花が落ち、水面にぽたんと波を立てる。
 水仙の悲鳴は聞こえなかった。怯えを押し切るよう、和馬は更にはさみの刃を開く。ぱちん、ぱちん、ぱちん。細くか弱い茎よりも、太くしっかりした茎の方が切ったときに痛そうだ。大きくて鮮やかな花を生首にすると、強かったものをねじふせて、子分にしたみたいでどきどきする。
 ね、別にこわくないでしょ。頭の後ろで美波がささやく。うん、と頷きながらも、水仙の冷たさがしばらく指から消えなかった。

(つづく) 次回は2014年10月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に『骨を彩る』『神様のケーキを頬ばるまで』など。