物語がつまった宝箱
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  • 第四回 2014年11月1日更新
 到着した賞状には『第二回コモンエリアデザインコンペティション 佳作 篠和馬殿』と書かれていた。リビングへ向かい、テレビを観てくつろいでいた父親と母親へ差し出す。
 へえ、すごいな、賞状か、額縁にいれて飾らなきゃね、偉いねえ和馬、とひとしきり和やかな喜びが返る。最後に、しかしこれが職になるわけじゃないんだよな? と父親はおそるおそる確認するように聞いた。和馬は頷き、デザイン系や、クリエイターとしてやっていく気はないから、俺は普通にどっかの会社に就職するよ、と言った。父親はやっと理解しやすい話になったとばかりに表情を和らげ、うんうんと何度も頷いた。
「お前はいつも絵ばっかり描いていて、どうなるかと思ったけど。なんとかなりそうでよかったな」
「うはは、そうね」
 父親と母親にとって自分はずっと、引っ込み思案で考えていることがよく分からない方の子どもだったのだろう。そしてこれからもそうなのだろう、と和馬はぼんやり受け入れる。
 泣くほど合わない仕事を辞めることも許されない姉と、とりあえずなんとかなればいいと言われる自分との負荷の違いは、すなわちかけられた期待の違いだ。気楽といえば気楽だ。それに、両親ははさみを持っただけで泣き出すような分かりにくい息子に、よく気を遣って育ててくれたと思う。
 ただ、この家ではずっとどこまで行ったって二番なので、俺は早くここを出た方がいいんだろう。物心ついた頃から、足もとをすうすうと気味の悪い風が吹き抜けている気分だった。おやすみー、と告げてふたたび二階へ上がり、就活情報サイトを開く。いくつかの企業をブックマークに入れ、目が疲れたのでベッドに寝転んだ。
 いい加減、卒業制作の構想をまとめなければならない。クロッキー帳をとりだし、しばらく美波の部屋で描いた花の絵を眺めてから新しい真っ白なページを開く。
 美しい孔雀がまぶたにちらついた。
 あれはなんだったのだろう。どうしてあの鳥を見てから、まるで大切な臓器を一つえぐり取られたみたいに、魂の力が抜けてしまったんだろう。作ったのは、本当に自分と変わらない、大学のキャンパスを歩けばいくらでも見つけられそうな痩せた若い男だった。よく笑っていた。
 勝ちたい、と火を吐く思いでやってきた。アートコンペに入選したのだって、今回が初めてじゃない。隣の市の図書館には、大学三年の時に和馬が描いた知の大河をイメージした油絵が展示されている。市の公募で入選したものだ。でもなぜかいつもいいところまでは行くのだけど、大賞や最優秀賞は取れなかった。
 和馬は起き上がり、これまでに使ってきたスケッチブックを棚からごっそりと持ち出してページをめくり始めた。さらに、大学に置いてあるものや、今ここにない作品の写真が入ったデジカメを起動させ、順番にデータを眺めていく。
 精密かつ色鮮やかで、どこか観る人をぎょっとさせる縮尺の狂い方をした和馬の作品は、独特だ、個性的だ、とたくさんの人に褒められた。幼い頃によく感じていた、急に周囲の景色が迫って見えたり、なにげない音や触感が一気に頭を占めたりといった過敏性。成長と共にあの不思議な感覚は薄まったものの、和馬は今でも、意識的にかつての不安定さを引っ張り出して創作に活用することができた。
 街並みを、人の顔を、花を、静物を、引き伸ばしては縮め、光る特徴を洗い出す。指が触れた様々なものの質感と温度を、色や模様に置きかえる。そういった感覚をぐしゃぐしゃに混ぜ合わせ、ふと浮かび上がる図柄を少しずつ白紙に描き出していく。アートコンペで佳作をもらった型染め作品も、こんな風に四季の山を自分の中に残る歪んだレンズにはめ込んで作ったものだ。
 褒められるのは嬉しかったけれど、作っていて楽しい、と思うことはあまりなかった。勝ちたい、の方がいつだって強かった。周りの美術の才のない、自分と比べれば勘の鈍い子に、普通の子たちに、美波に勝ちたい。この家ではだめでも、この世のどこかで認められたい。
 けれど、あの輝く孔雀からはこうすれば賞に入れる、こうすれば認めてもらえるといった、周りを見回す媚びた目線がまったく感じられなかった。ただただ奇妙なもの、この世に今までなかったものを作り出す喜びがあふれていた。この先にはああいう化け物しかいない。本当に作ることが好きなら、千佳の言う通り、他の人間がどうであろうと、挑むことに関係はないはずだ。
 ごつ、とクロッキー帳の端っこに額をぶつける。和馬はうすうす、自分の動力の起源に怨念じみた濁りがあると気づき始めていた。作りたい、楽しみたいよりも、許されたい、に近い、生ぐさい弱さだ。それが作品から臭う。だから、よくできてるね、細かいね、独特だねと言われても、観る人の心に入っていけない。
 ふと、リビングでうつむく、美波の泣き顔がちらついた。
 なにも泣かなくてもいいと思う。うちの親が頑固なことなんて、とっくに美波は分かっているはずだ。ただ、許されることを期待しているみじめな泣き顔は、まるで自分を見ているみたいで落ちついた。いい歳した娘に口うるさく干渉する両親も馬鹿だが、それに屈する美波も馬鹿だ。そしてその馬鹿な姉に憧れてきた自分も大馬鹿だ。
 和馬は息を吐いた。考えがまとまらず、クロッキー帳にうねうねと無意味な図形が増えていく。

 煙草を見つけたのは、五回目の訪問のときだった。
 引っぱったカーテンのすそが、なにかに引っかかったのだ。目を下ろすと、そこにはハートマークが入った女性向けのメンソール煙草の箱と、銀色のオイルライターが落ちていた。
 両親は喫煙者を、他の人の迷惑を考えない人間だ、と過剰に毛嫌いしている。ドラマで喫煙シーンがほんの数秒流れるだけでも顔をしかめる人たちだ。幼い頃から繰り返しその嫌悪を表明されるうちに、なんとなく和馬も、煙草とはとても悪い、だらしない、堕落した人がたしなむものだと思っていた。
 だから、美波の部屋にそれが転がっていたのは衝撃的だった。なんだかいけないものを見つけてしまった気分で目をそらす。
 ぱちん、と頭のなかで悪いことをするはさみが鳴った。姉は今でも、秘密のものをベッドの下に隠すのだろうか。もしかしたら、煙草以上に両親の意向に歯向かう、悪いものを。
 思いつきは、初めて南天の実を見たときに感じた誘惑とそっくりだった。あらがいがたい波のように、思考の善悪を塗りつぶして手足を動かす。風呂場からは、断続的なシャワーの音が流れてきている。美波はまだ上がってこないだろう。
 和馬はシーツに手をつき、敷き布団がつい先ほどまでしまわれていたベッド下の空洞を覗いた。ベッドの上半分、冬物衣類らしき布製品を詰めたカラーボックスの向こうに、数冊の本が見えた。転職、マナー、プロが教える。暗がりから辛うじて拾い上げた単語に、じわりと脳が、喜びで痺れる。

 小さな花をたくさん集めることはできても、大きくて目立つ花は盗れない。それが花泥棒の限界だ。
 実家のリビングの正面には、三畳ほどの小さな庭がある。園芸好きの母親が様々な花とハーブを育てている、こまごまと手の尽くされた宝石箱みたいな庭だ。実は和馬は、何度か母の庭から花を切ったことがある。叱られたあとの気晴らしによくやった。マーガレットもラベンダーも切ってやった。たとえばれたとしても、ものすごく叱られるだろうけれど、心のどこかに許される自信があったのだ。欲しかった、いやだった、叱られて、かなしかった。ただそう言えばいい。
 けれど美波は一度もはさみを母の庭へ向けなかった。いつも奥歯を噛んだようなしかめっつらで、庭の正面で冴え冴えと咲いている大輪の百合を見つめていた。
 よわむし! と小さな姉の背中へ、大学生になった和馬は呼びかける。

 あの百合が、やっと切り落とされる。いい子で、えらそうで、実際にえらかった美波と、ようやく対等になれるかも知れない。しっかり者の姉と気弱な弟という染みついた役割を脱ぎ捨て、初めて同じ目線で話ができるかも知れない。リビングで泣く姿を見たときから予感がしていた。自分が姉の部屋を訪ねたのは、べつに彼女が心配だったわけではなく、ただ強固なものにヒビが入る甘美な音に引き寄せられたからだろう。
 翌朝、美波の部屋からそのまま大学へ向かい、講義とゼミに出席して家路についた。夕暮れの空を透かす電車の窓に映る自分の顔は、心なしか頬の辺りがゆるんでいた。和馬は口を結び、しかめっ面でこきこきと左右に首を傾ける。
 自室に鞄を置くと、すぐに母親が顔を出した。
「おかえり、お姉ちゃん元気にしてた?」
「んー普通」
「そう。もう夕飯できるから、下りてきなさい。今日はお父さん遅いって」
「へーい」
 いつも通りのなめらかなやりとりに、ふっと胸がなごんだ。
 父親も母親も、そりゃ堅苦しくて融通の利かない部分はあるけれど、基本的に面倒見のいい、いい人たちだ。美波に口うるさいのも、美波が好きだからだ。だから、話せば分かってくれるはずだ。ガラにもなくそれを確かめたくなって、階段を下りる母親を呼び止める。
「なあ、煙草ってそんなに悪いの」
 母親は怪訝そうな顔で振り返った。
「なによいきなり。あ、あんた興味持ったんじゃないでしょうね。ダーメーよ、あんなの。周りの迷惑だしくさいし、肺がんになっちゃうわよ。今どき吸ってるのなんて、私は馬鹿ですって言って歩いてるようなもんよ」
「いや、でもさ、吸ってる人なんてそこら中にいるじゃん」
「そりゃあ自己管理のできない人は世の中にたくさんいるでしょう。あんたはそうなるなっていうのよ」
 とりつく島もない母親の叱り口調は美波にそっくりだ。むしろ、美波が母親をまねているのだろう。でも美波は馬鹿でもないし、自己管理のできない人間でもない。違う、と文脈で示せば、きっと分かってくれる。腹に力を込めて口を開く。
「俺の仲良い友だちや、姉ちゃんだって吸ってる。そんな大げさに悪く言わないでよ。うち、そういうヘンケンとか多いし、ちょっとなくした方がいいと思う」
「なにそれ。美波が煙草を吸ってるの?」
 母親の眉間にぎゅっと鋭いしわが寄る。あ、これはよくない流れだ。
「へ、部屋に煙草があっただけで、友だちが箱を置いてっただけなのかも知れないけど」
「そうだとしても、一緒に吸ってるに決まってるじゃない。悪ぶっちゃって、いつまでたっても子どもなんだから」
 はあ、と苦い溜め息をつき、母親はそれだけ言って階段を下りていった。
 和馬はあっけにとられてその背中を眺める。まるでぶよぶよと衝撃を吸収する、ぶ厚いゴムの壁を叩いているみたいだった。思えば、煙草以外にもたくさんあった。あの子と付き合ってはダメ、あの子と仲良くしなさい、から始まって、両親が定めた正しさは家の内外のさまざまなものを絶え間なく裁き続けた。そして、自分たち姉弟もその評価を受け継いでいる。
 じゃあ、その正しさから離れて生きていくにはどうすればいいんだろう。俺はずっと、姉のようにクラスの弱い子を助けられなかった自分を、きらい続けなければならないのだろうか。
 早く来なさい、と呼ばれて我に返った。行かないわけにもいかずに階段を下りる。食卓には湯気を立てるひき肉入りのコロッケと、青菜としらすの和え物が並んでいた。
 食べるのは親の正しさに屈するみたいだ。けど、お腹が空いた。情けない気分で箸をとり、コロッケを割る。母親はリビングでどこかに電話をかけている。
 一時間後、美波からスマートホンに電話がかかってきた。
【もう二度と来ないで】
「口がすべった。ごめん」
【なんなのあんた。いちいち来るたびに母さんに告げ口してたわけ?】
「違います」
 耳が痛むくらいに張りつめた沈黙が落ちる。和馬は息を吸って、口を開いた。
「姉ちゃん早く転職してよ」
【はあ?】
「俺もうこんな家やだ。姉ちゃんの味方になる。あの二人の石頭、かち割って」
 心を打ち明けながら、甘い水が体の中にあふれる。姉弟は、このめんどくさい親からの圧迫をずっと共有してきた仲間のはずだ。口を動かしながら、母親に声をかけたときの感覚と近い、ふわふわと心地いい期待が込み上げる。
 それなのに、電波越しに美波は和馬の訴えを鼻で笑った。
【甘ったれんな。イヤなことがあったなら自分でなんとかしなさい。私に寄りかからないの】
 容赦のない冷たい声に、和馬は突き飛ばされた気分で声を荒げた。
「自分だって甘えてただろ! いい歳して、ガキみたいに泣いて、自分の仕事のことも親に決めてもらうとか、どんだけ主体性がないんだよ!」
【そんなのあんたに関係ないでしょう。あんた、今まであんたが好き勝手する分、誰が我慢してきたか分かってる? いっつもいっつもそう、さっきみたいに自分のことしか考えないで! ぜんぶ後始末は私!】
「頼んでねえし! 自分で好きでそうしてきたくせに、恩着せがましいんだよ!」
 ああだめだ。姉ちゃんはずっとこらえてきて、俺はずっと悲しかったから、一度腫れ物を針で破ると憎しみがあふれて止まらない。俺はぜんぶ間違ってるし、姉ちゃんもたぶん間違っている。出口がないことばかり言っている。それはなんとなく分かるのに、どこをどう変えればいいのか分からない。
 でも、美波のことは好きなのだ。世の中がこわいものばかりだった頃、当たり前のように手を引いて歩いてくれた横顔をいつまでだって覚えている。気がつけば、歯の根に痛みを感じるほど強く、奥歯を噛みしめていた。記憶につながった家族とのいさかいは、まるで自分自身の体に刃物を突き立てて手術をしているみたいだ。
 ひとしきりわめき合い、息を荒げて黙り込んだ。先にしゃべってなるものか。俺は傷ついたんだ。美波が気を使ってなにか言うべきだ。そう当たり前のように思った瞬間、やっぱり俺はずっとこの人に甘えてきたんだな、と胸が軋んだ。
【和馬、聞いてる?】
「……き、聞いてる」
 和馬の屈託など知らぬ様子で、美波はあっさりと口火を切る。先ほどよりもトーンを抑えた大人の声だ。
【今からちょっと出てきなさい。私も途中まで行くから】
「へ?」
【どこで待ち合わせる? 市川あたりまで行こうか?】
「き、錦糸町! 錦糸町まで行く。てか姉ちゃんどこまで来る気だよ」
【錦糸町ね。じゃあ駅前のガストで待ってる。電車終わっちゃうから早く来な】
 通話がぷつりと切れた。和馬は濡れた目元を乱暴にぬぐい、急いで短パンをジーンズにはき替えた。どこに行くの、とリビングでくつろいでいた母親に声をかけられ、ちょっと出てくる、と噛み合わない答えを返す。

(つづく) 次回は2014年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に『骨を彩る』『神様のケーキを頬ばるまで』など。