彩瀬まる
自転車をこいでJRの最寄り駅へと向かい、快速電車に乗って二十分ほど揺られた。時々すれ違う下り電車は通勤客で息苦しいぐらいに混み合っているが、上りはがらがらに空いている。そういえば、毎日大学へ行くのに使っているけれど、こんな時間にこの電車に乗るのは初めてかも知れない。ぼんやりと白い車内灯を見上げる。 駅前のガストの奥まった席では、美波がポテトフライをつまみながらビールを飲んでいた。一度帰宅したのか、勤務帰りのスーツ姿ではなく、薄手のニットとジーンズを合わせている。 「お待たせ」 「うん」 「俺も飲む」 向かいの席へ座り、少し迷って和馬もビールを注文した。グラスが凍ったように曇ったジョッキが運ばれてくる。乾杯代わりに持ち上げて、和馬は冷たいビールをあおった。 目を合わせないまま気まずい数分が経ち、これ、と美波がテーブルの上に数枚のプリントを置いた。 「捨てていいのか分からなかったから」 美波の部屋で書いていたエントリーシートの下書きだ。今後のためにとっておきたいものと、捨てるつもりだったものが入り混じっている。礼を言って受け取った。しゃべる言葉に迷うものだから、あっという間にビールが半分になる。 「悪気はなかったんだ」 ようやくしぼり出した言葉に、美波は答えず、じっと和馬を見つめた。緊張に歯を食いしばり、和馬は容赦のない姉の目線を受け止める。 「仲良くしたい」 「あんたにとって仲良くっていうのは、プライバシーがないってことなの?」 「違います」 奥歯を噛んだまま首を振る。やがて、美波は目の力を緩めて残りのビールを飲み干した。母親に似た、どんな堅苦しい説教が続くのだろうと身構えていたら、彼女は思いがけないことを言った。 「一発だけひっぱたかせて」 「……は?」 「それで喧嘩は終わりにしよう」 美波は、特に自分がそれまでと違うことを言っているとは、思っていないようだった。こざっぱりとした顔をしている。和馬はおそるおそるテーブルに身を乗り出し、目を閉じた。 薄い風が肌へ触れた、一瞬後。パンッと想像よりもずっと鋭い音を立てて頬が張られ、顔の左半分が熱く痺れた。隣のテーブルに座っていた中年の夫婦が驚いてこちらを振り向く。 「いっ……てー」 「おお、いい音した」 「信じらんない。思いっきりやったな」 「人を叩いたの初めて」 「はあ」 「よし、あんたの番」 奇妙なことを言って、美波は先ほどの和馬と同じようにテーブルへ身を乗り出した。和馬はまばたきを繰り返す。 「は? なんで俺が姉ちゃんを叩くの」 「喧嘩、してたでしょう。ずっと」 アイシャドウで陰影の足された二つの目が、じっとこちらを見つめてくる。それでようやく和馬は姉の言っている喧嘩が、煙草の告げ口についてではないと気づいた。叩く手つきが、やけに強かった理由も分かった。 美波は目をつむり、心もち顎を上向けて顔を差し出す。和馬はぼんやりと姉のまつげを眺めた。叩いたら、許すことになる。自分をここまで引きずってきた怨念を手放さなければならなくなる。 テーブルに乗せた手が、のりで接着したように動かない。 「和馬?」 呼びかけに、指先がぴくりと震えた。俺は許したくなんかないんだ。腹の底から火のような衝動が込み上げる。だって、恨んでいるのは楽しかった。別に姉や両親を理解したかったわけではなく、お前は頑張っているね立派だね尊敬しているよと褒められたかったのだ。自分が望むように自分を評価して欲しい。それが和馬の思う、仲良くだった。 ひたひたと体の中で膨れ上がるものを姉へ向けて吐き出すことも、割り切って飲み下すこともできず、身動きが取れない。ふいに目を開けた美波はこちらを見つめ、ふっと唇の端を上げた。 「よわむし」 「……女に暴力とか」 「よわむしはだめなんだよ」 指先へ、ふいに力が流れ込んだ。重い腕を持ち上げ、平手を美波へ向ける。叩く、と仕草で示すと、彼女は再び目を伏せた。息を止めて、手を振り上げる。 神妙に顔を差し出す姉が、重たげに傾ぐ百合の花に見えた。力が、あまり入らない。けど、無痛にできるほど辛くなかったわけでもない。結果的に、遊びで叩くよりも少し強いぐらいの、美波のそれとほとんど重さの変わらない一打になった。俺の恨みなんてこんなものか、と口元が歪む。光るはさみの刃を重ねる。 パンッ、と乾いた音が店へこだまして、美波が頬を押さえた。 「いったー!」 「おお」 「信じらんない。普通ほんとに叩く?」 「自分がやれって言ったんじゃん」 指の先まで、大きな心臓になったみたいに脈打っていた。半分残っていたビールを急いであおり、ようやく息の仕方を思い出す。 会計は美波が持ってくれた。財布を出しかけたら、就職してからでいい、と首を振られた。ふわふわと雲を踏むような心地で連れ立って駅の改札口へ歩く。 「それじゃ」 「気をつけて帰りな。酔っぱらいに絡まれないように」 「うん。姉ちゃんも」 千葉へと帰る電車の方が、美波が待つ電車よりも早く来た。おやすみ、と手を振り合ってホームで別れる。 少し離れて眺める美波は、なんだか見知らぬ他人のようだった。酒のせいか、それともひっぱたいたせいか、頬に血の気が差している。への字に結ばれた唇は厚く、眉を鋭角的に整えているため、やたらと気が強くてとっつきにくそうに見える。ただ、ぱっちりと見開かれた目はみずみずしく濡れていて、何気ない一言で傷つけることもできそうだ。もしも血のつながりがなかったら、俺はこの女に好感を持っただろうか。それとも、避けて通っただろうか。わからない。 ふっと視線の交わりを断って疲れ顔のサラリーマンで混み合う車内へ乗り込んだ。人に押され、流されて、座席と扉の間の狭いスペースに落ちつく。大きく揺れて、電車が再び動き出した。手持ちぶさたに、四つ折りにしてジーンズのポケットにしまっていたエントリーシートの下書きの束を取り出す。 びっしりと書き込んだ志望動機や大学での学習内容に対して、この段落はいらない、この辺りが説明不足、などなど、ところどころに美波の赤字が入っている。やっぱり親切な姉だ、彼女との和解は大切なことだと胸に甘いものがにじみ出す。 三ページ目、何月にはこういった業種の募集が始まる、二次募集もあるから気をつけろ、といった欄外の書き込みの最後の一行に目が止まった。 【遊びみたいな楽なことでお金を稼げるかも知れないんだから、もっとそういうデザイン系とかも受けたら?】 前ならなんらかの怒りや悲しみが湧いただろうに、驚くほど心が凪いでいた。授賞式の会場で、自分は確かに商品だった。絵筆を握る指先を通り抜けた膨大な時間。それが和馬にとってどういうものか、けして美波には伝わらない。銀行勤めの彼女の苦しみを、福利厚生の整った給料のいい職場を辞めたがるなんてバカだな、と和馬の無意識があざわらったように。 だからといって、どうということもない。美波も自分も、そんな蚊が一匹いるかいないか程度の雑音に、いちいち傷つかなくていいのだ。 和馬はプリントの束を折り、ふたたびジーンズのポケットへ差し込んだ。黒い鏡のような車窓へ顔を向ける。この電車を降りるまでに、これからなにを欲しがるのか決めよう。そうしたら、その先で誰にも褒められなくても、俺は俺の一番の味方になるだろう。 和馬は夜の街を透かして向かい合う、痩せたトカゲのような男の目を、まるで初めてそうするように息をつめて覗き込んだ。(完) ご愛読ありがとうございました。
2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に『骨を彩る』『神様のケーキを頬ばるまで』など。