物語がつまった宝箱
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  • 第一回 2018年11月1日更新
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 綿をちぎったような雲が浮かんでいる。
 駐車場に停めた車から降りて、ぼんやり空を見上げていると、早く早くと娘の沙南(さな)が腕を引っ張った。目の前にドリームブックスという電飾の大きな看板があった。
 日曜の午後、京王(けいおう)井の頭(いのかしら)線富士見ヶ丘(ふじみがおか)駅と浜田山(はまだやま)駅の中間、青梅(おうめ)街道沿いにあるドリームブックスに寄るのは、私と沙南、妻の宏美(ひろみ)の毎週の習慣だった。
 沙南は店内のキッズルームで遊ぶため、宏美は二階のDVDレンタルショップで海外ドラマのまとめ借りをすること、そして私は書棚の間を回って、今週の一冊を探すことが目的だ。
三人の利害が一致し、週に一度、ドリームブックスで三十分ほどを過ごすことになった。二カ月前、沙南が小学校に入学してからも、それは変わっていない。
 私たち門倉(かどくら)家の親子三人が暮らしているのは、杉並(すぎなみ)区の富士見ヶ丘駅から徒歩二十分ほどの2LDK賃貸マンションだった。富士見ヶ丘は典型的な住宅街で、駅周辺には飲食店と美容院が数店、そして歯医者から整形美容外科まで病院だけはフルセットで揃っているが、それ以外は何もない町だ。
 住環境としてはベストだが、不便なことも多かった。二十三区内に住んでいるのに、車がなければ買い物ひとつできないというのはいかがなものか。
 更に困るのは、富士見ヶ丘の駅前に書店がないことだった。私は自他共に認める読書好きで、本が手元にないと落ち着かないところがある。
 ドリームブックスはいわゆる郊外型複合書店で、二階にDVDレンタルショップとキッズルームが併設されている。沙南を連れた宏美が二階へ上がっていくのを見届けてから、私は一階フロアを見渡した。
 今から約三十分間、完全な自由時間が与えられる。私にとって週に一度、心の安らぐ三十分だ。
 子供の頃から本が好きだった。今年四十歳になるが、同世代以上の者なら多かれ少なかれわかってもらえるだろう。
 スマートフォンどころか携帯電話もない中高生時代を過ごした私たちにとって、娯楽といえばテレビと本が最も身近だった。六歳の沙南には想像もつかないだろうが、そういう時代があったのだ。
 もちろん、私と同世代の人間がすべて読書好きだったかといえば、そんなことはない。スポーツに熱中する者もいれば、ゲームばかりしている者もいた。いつも小説を読んでいた私は、むしろマイノリティだったかもしれない。
 だが、それは個人の嗜好(しこう)の問題で、何を趣味にするかは本人の自由であり、私が最も好んだのは読書だった。
 特に好みがあるわけではなく、その時面白そうだと感じた本を読む。それが私の読書法だ。
 ベストセラーだから、話題になっているから、賞を獲(と)ったから、著者が有名だから、そんなことには関係なく、書棚の間を歩いていれば、読むべき本はわかる。三十年以上、書店に通っている者として、その能力には自信があった。
 置いてある本が、一週間でがらりと変わることはない。新刊はともかく、おそらく七割以上の本が先週と同じ場所に置かれている。もしかしたらひと月、半年ということもあるかもしれない。
 ずっとそこにあったにもかかわらず、ある日突然その本が光って見える時がある。背表紙のタイトルが、目に飛び込んでくることがある。今がこの本を読むべきタイミングですよ、と教えてくれるサインだ。
 そんな時、迷わず私はその本を手に取ってレジに向かう。そうやって買った本に外れはなく、確実に、絶対に面白い。
 ただ、書店に行くたび、いつもそういう現象が起きるわけではなかった。月に一度、多くて二度ほどだろうか。
 今日はどうなのか。淡い期待を胸に、ゆっくり書棚の間を歩き続けた。
 文庫の棚の奥で何かが光っているとわかったのは、十分ほど経った頃だった。近づいていくと、棚に差してある本の背表紙が目に入った。中勘助(なかかんすけ)『銀の匙(さじ)』。
 中学生の頃、国語の授業で読書感想文を書いた記憶があった。正直なところ、あの時私はこの本を面白いと思わなかった。
 退屈で、読むのが苦痛だったほどだ。内容もほとんど覚えていない。
 だが、どんなことでも出会いにふさわしい時がある。あの頃、私にとってこの本は読むタイミングが早すぎたのだろう。
 あの時の中学生が高校、大学を経て、社会人になり、結婚をして子供を授かった。今なら違う想いがあるはずだというサインが出ていた。
 手を伸ばそうとした時、不意に光が消えた。なぜだと思ったが、私より先に『銀の匙』を棚から抜き出した者がいたのがわかった。
 若い男だった。二十代後半だろう。一七五センチの私より少しだけ小柄で、ジーンズにトレーナーというラフな服装だった。いわゆるフリーターかもしれない。
 背中を向けていたので、顔は見えなかったが、小脇に抱えていた数冊の本と『銀の匙』を重ねて、レジに向かっていった。やや右肩が下がった、独特な歩き方の男だった。
 先を越されたと思ったが、こればかりは仕方がない。返せというのもおかしな話だし、私の方が先に目をつけていた、とも言えないだろう。
 彼は彼で『銀の匙』を読みたいと思い、迷わず手を伸ばした。それが私より早かっただけのことで、その本を譲ってもらえないかと強引に頼み込むわけにもいかない。
 本の側にも権利がある。私ではなく、彼を選んだということなのだろう。
「何かあった?」
 沙南の手を握った宏美が近づいてきた。右手にDVDの入った大きな黒い袋を持っている。
 特になかったと答えて、空いていた沙南の左手を握り、店を出た。六月十二日日曜日、よく晴れた初夏の午後だった。

Part1 ~第一種接近遭遇~ 銀の匙 

1

 翌日の月曜、いつものように朝七時に家を出て、富士見ヶ丘駅から井の頭線各駅停車に乗り、私が勤務するリリービールセールス社、略称リリーBS社がある銀座へ向かった。
 始業時間は九時半なので、八時過ぎの電車に乗っても十分間に合うのだが、一時間以上早い電車に乗るのは、個人的な習慣だった。
 この時間の乗客の多くは、四つ先の永福町(えいふくちょう)駅で快速電車に乗り換える。その方が渋谷(しぶや)に早く着くからだが、そこでできた空席に座って、ゆっくり本を読みながら渋谷までの時間を過ごすのが私のルーティンだった。
 僅(わず)かな時間だし、そのまま寝てしまうこともある。どちらでも構わなくて、のんびり過ごすことが私にとって重要だった。
ただ、今日に関して言えば、最初から少し早めに出社するつもりだった。
 去年の暮れ、そして今年の四月と、私が課長を務めている営業二部三課の課員が二人続けて退職していた。一人は家業を継ぐため実家に帰り、もう一人は結婚のためで、トラブルがあったわけではなかったが、私も含め七人の課から二人減というのは、大幅な戦力ダウンだ。
 二人とも、半年以上前から退職の意向を会社に伝えていたから、どう対応するか考える時間はあった。いくつか案が出たが、結局社内異動と中途採用というオーソドックスな方向に落ち着いた。
 リリーBS社には四月に新入社員が入っていたが、一年間は試用期間だし、十月までは総務部預かりという内規があったため、彼らを三課に迎え入れるわけにはいかない。人が足りないというのは、私のところだけではなく、他の部署からも要請があったから、それを含めて中途採用試験を行なうことが決まった。
 予定では三人採用ということだったが、最終的に四人になった。好景気のため、どこの会社も人手不足が深刻な問題になっているので、一人でも多い方が現場としては助かる。喜ばしい話だった。
 社内異動の方は三月の末に異動の内示が出て、中途採用試験を通った四名と共に配属先が決定したという噂が流れていたが、第二営業部の藤堂(とうどう)部長が私を喫煙室に呼んだのは、先週火曜日の昼だった。
「販売戦略室の織田真里(おだまり)が、三課に行くことになった」
 まだ他言無用だ、と藤堂部長が声を潜めた。織田ですか、と私は首を捻った。
 リリーBS社は総合飲料品メーカー、ファイブスターリフレッシングHD傘下で、ビール・発泡酒・いわゆる"第三のビール"業務を扱っているリリービール社が分社化された際、販売部門だけを独立させて立ち上げた子会社だ。
 リリービール社の傘下には開発、生産、物流、その他数社の子会社があり、リリーBS社はその中で最も規模が大きい。社員数二百五十人、東京を中心に東日本全域をカバーしている。ちなみに、大阪には西日本リリーBS社がある。
 もともとウイスキー酒造メーカーとして明治四十年に創業された五つ星ウィスキィ株式会社は、その後ワインやブランデーの製造と輸入販売を手掛けた後、清涼飲料水部門を立ち上げ、更には健康飲料、食品、化粧品、栄養サプリメント、最近では医薬品にまで業務を拡大している巨大総合飲料品メーカーだが、ビールについては後発だった。
 国内四大メーカーの中で、長い間最下位に甘んじていたが、二〇一〇年に三位に浮上し、この数年はトップツーに迫る勢いだ。
 その理由のひとつが、二十五年前、前社長が常務の頃新設した販売戦略室だというのは、業界でもよく知られた話だった。
 それまで経験則や営業マン個人の勘、あるいは人間関係によって販促していたやり方を改め、POSシステムを導入し、納品数のデータ分析によって適性な数字を把握したことで、効率的な販促活動が可能になった。
 営業マンが余剰時間を新たな販促活動に充(あ)てることで、リリービールの売れ行きは伸びていったが、その中核となっていたのが販売戦略室だ。
 織田真里は横浜海浜(よこはまかいひん)国立大学の理学部数学科卒で、大学院に進んだ後、リリーBS社に入社している。今年二十九歳で、まだ五年の経験しかないが、その能力は突出しており、現在は販売戦略室室長補佐を務めていた。
 数年以内に室長になるのではないかという噂を聞いたことがあったが、そんな彼女がなぜ営業部に異動してくるのだろう。
「本人の希望なんだ」
 現場のことを知らないまま、数字やデータを振りかざすのはよろしくないと思ったらしい、と藤堂部長がプルームテックをくわえた。
「彼女は真面目だからな。考え方としては正しいと思うね。現場と軋轢(あつれき)があるのは、門倉くんだってわかってるだろう」
 軋轢というほどでは、と私はさっきと逆方向に首を捻った。ただ、実際のところそういう側面があるのは本当だった。
 営業マンの勘だけに頼るというのは古いと、誰もがわかっているが、コンビニエンスストアとは違い、私たちの取引先は直営店やフランチャイズではない。そこにはさまざまな人間関係や過去の経緯がある。データだけを押し付けてくる販売戦略室に、多くの営業マンが反発心を抱いているのは、部長の言う通りだった。
 中途採用の四名からもう一人回すということだったが、火曜日の時点ではまだ誰と決まっていなかったようだ。その辺りは、課長である私が関与する問題ではない。
 お任せしますと頭を下げただけだったが、先週の金曜日の朝、今度は部長席に呼ばれた。加瀬夏生(かせなつお)という二十八歳の男が来ることになった、と藤堂部長が言った。
「慶葉(けいよう)大学卒、安河(やすかわ)商事のエネルギー営業本部で、石油の輸入業務を担当していたそうだ」
 外苑前(がいえんまえ)に本社ビルがある安河商事といえば、日本五大商社のひとつだ。いくら世間に疎(うと)い私でも、それぐらいは知っている。
 エネルギー営業本部にいたというが、安河商事の中でもエリートしか配属されないことで有名な部署だ。つまり、加瀬というその男は将来を嘱望(しょくぼう)されたエリート社員ということになる。
 石油とビール、共通点は液体ということしかない。給料だって下がるだろうし、安河商事本社勤務だった男がわざわざ酒造メーカーの子会社に転職するなどあり得ない。意味不明で、不気味ですらあった。
「何かその……やらかしたとか、そういうことなんでしょうか」
 辞めざるを得ないような大きなミスをして、その責任を取るために退社し、うちに転職してきたというなら、わからないでもない。セクハラかパワハラかモラハラか、それとも横領か痴漢かもっと大きな犯罪か。
 いずれにしても、トラブルメーカーはごめんだ。私は穏やかに生きていきたいというそれだけの男で、他に望みはない。ただの一市民、一課長に過ぎなかった。
 そんな奴を採用するわけないだろう、と藤堂部長が唇の端だけを上げて失笑した。
「人事だって調べたし、リリービール本社も確認している。わたしも面接に加わったが、顔を見ればまともな人間なのはわかるさ。優秀な男だよ。君はつまらんことを気にする癖があるが、心配しなくていい」
 どこか私を軽んじるような言い方は、この人の癖だった。藤堂部長はリリービール社本社から出向しているが、そのせいもあるのかもしれない。子供は親に従っていればいい、ということなのだろう。
 私にとってやりやすい相手ではないが、上司は上司だ。ありがとうございますと頭を下げて、自分のデスクに戻った。
 加瀬夏生を含め、中途採用の四人を私はまだ見ていない。オリエンテーションという名の業務説明会が続いていたためだったが、その後、六月十三日月曜の午前十時、総務が三課に連れていくと連絡が入った。早めに出社すると決めたのは、そのためだ。課長がその場にいなかったら、洒落(しゃれ)にならない。
 だが、問題はなかった。私を乗せた井の頭線は、ひたすら順調に渋谷駅を目指して走り続けていた。

2
 リリーBS社の最寄り駅は東京メトロ銀座(ぎんざ)駅だが、会社は銀座六丁目にある。いつものように駅近くのファーストフード店で少し時間を潰(つぶ)してから、九時二十五分、電車の自動改札のようなゲートにICタグをかざし、社屋に入っていった。
 建物は四階建てで、社史によると昭和三十年竣工というから、かなり古い。正面から見ると幅は狭いが、奥行きが広いという鰻(うなぎ)の寝床のような造りになっていた。
 一階は総務、経理など事務関係の部署、二階から四階に、それぞれ営業一部、二部、三部が入っている。四階には販売戦略室やコンピュータールーム、社長室や役員室もあった。
 営業二部は三階にあり、主な業務は飲食店への個店営業だ。私たち全員の名刺にはWSという肩書がついているが、それはウォークインセールスの略だった。
 フロアには八つの課があり、それぞれ課員は七、八名だ。二十三区を六つの課で分け、二つの課が都下を担当している。
 加えて、北海道、東北、甲信越、北関東、東海の五エリアを各課で分担している。例えば私が課長を務めている営業二部三課は、中央区、江東区、江戸川区を担当し、新潟、長野、山梨の三県を営業エリアとしていた。
 フロアに足を踏み入れたのは、九時二十八分だった。三課で一番早く出社するのは私だが、今日に限っては四人の課員全員が既に席についていた。
 新しく二人の社員が三課に来るためだ、とわかった。一人は社内一スキルの高いデータ分析のプロフェッショナル、もう一人は天下の安河商事からやってくる男だ。気にならないわけがない。
 社内異動の織田真里はともかく、加瀬夏生に関して、彼らはほとんど情報を持っていない。加瀬が来る十時までに、私から何らかの情報を得ようと考えているようだ。気持ちはわからなくもない。
 いずれにしても、月曜の朝は定例の会議がある。おはようと言った私に、会議を始めましょうと主任の小峠敦司(ことうげあつし)が立ち上がった。名門英光(えいこう)大学野球部出身で、やたらと声が大きい三十三歳の独身男だ。
 うなずいて会議室に向かったのは、由木理水(よしきりみ)という二十八歳の営業ウーマンだった。三課では一番若いが、入社後すぐ配属されたので、課長の私の次に歴は長い。フェミニンな雰囲気のルックスだが、性格はかなり男前で、ガハハの姐(ねえ)さんと呼ばれている。
 その後に続いたのは、渚哲也(みぎわてつや)、三十一歳で、一年前三課に来たが、それまでは経理部員だった。この一年、営業マンとして働いていたが、どこか腰が引けているところがあった。下が入ってくれば、多少なりとも変わってくれるのではないかと期待していたが、どうなるかはわからない。
 軽く頭を下げて私を追い抜いていったのは、係長の永島(ながしま)さんだった。さん付けなのは、年齢は二歳上、年次はひとつ上だからだ。どうも苦手だとつぶやいて、私は会議室に入った。
 明治四十年、酒造メーカーとして創業された五つ星ウィスキィ株式会社は、二〇〇五年にファイブスターリフレッシングHDを中心とした持株会社に体制を変更していたが、はっきり言って古い体質の会社だ。今も終身雇用制度を謳(うた)っているし、人事も年功序列による場合が多い。すべてではないにしても、年齢が大きなウエイトを占めるのが実情だ。
 二年前まで、私は三課の、永島さんは一課の係長だった。その年の人事異動で私が三課長に昇進し、永島さんは係長のまま三課に移ってきた。
 年上の部下というのは、誰にとってもやりにくいものだ。特に永島さんはユニークというか個性的というか、独特なキャラクターの持ち主で、単純に言えば極端な個人主義者だったから、なおさら扱いが難しかった。
 どんな業種でも、営業にはチームプレーの側面があるはずだが、それができない人で、だから係長に留まっているのだろう。藤堂部長もそれをわかっていたから、新任課長の私に押し付けたのだろう。
 部長ともなると、人を見る目があるもので、揉(も)めるより黙って受け入れた方が面倒がなくていいと思ってしまう私の性格を見抜いていたのだろう。
あれから二年、私たちの関係は変わっていない。それは会議室での席順にも表われている。一番奥の席は永島係長の指定席になっていた。
 年長なのだから当たり前だろうという顔をしているし、私はとにかく波風を立てたくないと思っているから、そのままになっていた。
 永島さんが奥の席にいるため、私はドアに一番近い席に座らざるを得なかった。バランスを考えると、どうしてもそういうことになってしまう。
 営業二部の八つの課はすべてそうだが、課員は日報の提出を義務付けられていた。基本的には誰と会い、どんな打ち合わせをしたのかという箇条書きレベルのものだが、特記事項や共有すべき情報、他社の動向などが書き添えられている場合もあった。
 月曜朝の定例会議では、その日報に基づいて各課員がそれぞれ業務の進捗状況を報告することになっていたが、今日はそれどころじゃないでしょうと席に着いた小峠が口を開いた。
「織田はいいとして、安河商事から来る男のことは何も聞いてません。どんな奴なんです?」
 加瀬夏生、と理水が落ち着いた声で言った。名前だけは聞いてるよ、と小峠が前傾姿勢を取った。
 詳しいことは何も知らない、と私は手を振った。
「先週の金曜、部長から聞いただけなんだよ。安河商事のエネルギー営業本部で、石油の輸入を担当していたようだ。慶葉大卒、二十八歳って言ってたかな。別にいいだろう、もうすぐ本人が来るから、直接聞けばいいじゃないか」
 文学部らしいです、と渚がぼそりと言った。
「安河のエネルギー営業本部って、取引先はいわゆる石油メジャーですよね。そんなところにいた人が、何でビール会社に来るんです? しかも、うちはリリービール社の子会社で、販売専門の会社じゃないですか」
 全員の顔にハテナマークが浮かんでいた。おかしいと思いませんかと声を潜めた渚に、確かに、と理水がうなずいた。
 横領とかですかね、と小峠が物騒なことを言った。
「それとも顧客情報の流出かな? 慶葉大出で安河商事って言ったら、エリート中のエリートですけど、逆に言えば世間知らずのお坊ちゃんじゃないですか。タフなネゴシエーションなんか、できっこありません。うまい話に乗せられて、犯罪まがいのことをやったとか――」
 ちょっとボリュームを下げてくれ、と私は言った。小峠は典型的な体育会出身の営業マンで、声が大きい方が勝つと信じているところがある。
 それとも人間関係、と理水が首を傾げた。
「偏見ですよ。偏見ですけど、慶葉の文学部出の優秀な人って、どこか変人っぽいと思うんですよね。コミュニケーションがうまく取れないみたいなところ、あるじゃないですか。その加瀬さんって人も、社内で浮いて、居辛(いづら)くなって辞めたんじゃないかなって……」
 問題発言だ、と永島係長が舌打ちした。偏見が過ぎる、と私もうなずいた。
「どこの大学を出たって、そういう性格の人間はいるし、それが悪いってことでもない。そんなことで安河商事が社員を辞めさせるはずがないだろう。何万人も社員がいる超大企業だぞ。向いてる部署に異動させれば、それで済む話じゃないか」
 それじゃ、どうしてうちなんかに来るんですと小峠が長机を叩いた。うちなんかってことはないだろう、と私は苦笑した。
「ファイブスターリフレッシングHDは、傘下のグループ会社、関連会社を合わせれば社員数二万五千人だぞ? 誰が見たって大企業だ。そこまで卑下することはない」
 自分の発言に説得力がないのは、よくわかっていた。親会社がどれだけ大企業であっても、リリーBS社はリリービール社の子会社で、社員数二百五十人の中小企業に過ぎない。安河商事と比較すること自体、不遜というべきだろう。
 織田さんもわからないんですよね、と理水が言った。
「一年先輩なんで、それなりに知ってるつもりです。本人が営業への異動を希望したって聞いてますけど、正直、向いてないんじゃないかって」
 いいんじゃないの、と小峠が舌を出して笑った。
「データ女も現場の厳しさを知っておくべきなんだよ。POSが、消化率がって、口を開けば数字のことしか言わないだろ? それがあの女の仕事だっていうのはわかってるけど、最前線で苦労してるのは俺たちなんだ。営業マンが相手にしているのは人間で、コンピューターじゃない。いいさ、みっちり鍛(きた)えてやろうじゃないの」
 女という言い方は止めろと私が注意した時、ノックの音がしてドアが開いた。顔を覗かせたのは人事課長の東尾(ひがしお)だった。
 私とは同期で、プライベートでも親しくしている。お互い、遠慮する間柄ではなかった。
 ちょっと邪魔すると言って入ってきた東尾が、後ろに立っていた二人に顔を向けた。
「今日から三課に配属される織田真里さんと加瀬夏生くんだ。これから藤堂部長に挨拶しなきゃならないんだが、世話になる部署の方が先だと思ってね。自己紹介ぐらいしておくか?」
 うなずいた真里が半歩前に出た。小柄で、身長は一五〇センチほどだろうか。薄いピンクの縁の眼鏡と長い黒髪、化粧っ気はほとんどなく、大学を卒業したばかりの新入社員のようだった。
 会議で話すときは堂々としているが、自分のことを話すのは苦手らしい。五年いた販売戦略室から異動してきました、とぼそぼそと小声で言った。
「今までとは仕事の内容が違いますし、営業の現場に出るのは初めてですから、何かと不慣れなこともあるかと思います。わからないことばかりですので、いろいろ教えてください」
 永島係長を除き、その場にいた全員が軽く手を叩いた。東尾が促すと、明るいグレーのスーツを着た加瀬がかすかな笑みを浮かべて、ゆっくりと口を開いた。
「加瀬といいます。去年の秋まで安河商事で働いていましたが、縁あってこちらでお世話になることになりました。前職は一応営業なんですけど、全然畑違いの分野ですから、まっさらの新人だと思ってください。よろしくお願いします」
 不思議なトーンの声だった。少し関西風のアクセントが交じっているためかもしれない。のんびりした喋り方、ということになるのだろうか。
 聞く者によっては、間延びした感じを受けるかもしれないが、私はそう思わなかった。どう表現していいのかわからないが、ちょうどいい、というのが率直な感想だった。
 前に出るのでもなく、後ろに引くわけでもなく、過不足なくありのままの自分について語っている。二十八歳と聞いていたが、もっと老成した感じすらあった。
 彼が三課長の門倉、係長の永島さん、小峠主任、と東尾が順番に私たちを指さしていった。
「加瀬くんはうちの会社自体が初めてだから、まずは顔と名前を覚えることから始めるんだね。新卒の社員とは違うから、即戦力として働いてもらうことになるけど、いきなりってわけにもいかないだろう。その辺は門倉課長の指示に従えばいい」
 はい、と加瀬が返事をした。どうするんだ、と東尾が私に顔を向けた。
「教育係っていうか、誰につけるか決めたのか?」
 一応、と私は小峠と渚を交互に見た。どんな会社、どんな職種でも同じだと思うが、新しく入ってきた者をいきなり現場に出すことはない。しばらくの間は業務についてレクチャーし、その後アシスタント的な形で先輩と一緒に動くのが普通だろう。
 それは課長の役割ではなく、本来なら永島係長に任せたいところだったが、そういうタイプの人ではないし、断わられるに決まっていた。
 三課で働いた期間が一番長い理水が教育係にふさわしいのだが、二人より年下だから、負担になるだろうと判断して、小峠に加瀬を、渚に真里を任せることにした。
 小峠と真里が合わないのはわかっていたから、必然的に小峠と加瀬、渚が真里と組むことになる。渚に対しては、真里に仕事を教えることで、彼自身学ぶ機会になればという思いもあった。
「その辺はよろしく頼むよ。人事部としては、皆さん仲良くやってくださいってことだけだ」これは社会人の先輩としてのアドバイスだけど、と東尾が二人に目をやった。「焦る必要はないからね。ひと月で一人前になってくれなんて思ってない。その点、門倉はいい上司だよ。細かいことを言わない男だ。さて、それじゃ藤堂部長のところに行こう。他の課長たちにも挨拶をしないと――」
 会議室の内線電話が鳴り、近くにいた私と加瀬、真里の三人が一斉に手を伸ばした。受話器を取った真里が、藤堂部長ですと東尾に言った。
「待ってるんだとおっしゃってますけど……」
 すぐ行きますと受話器に向かって大声で言った東尾が、二人の背中を押して会議室から出て行った。あれが安河商事か、と小峠が短く刈っている頭を掻(か)いた。
「ぼんやりした面(つら)してましたね。何ていうか、期待外れだな。特に何があるって感じじゃ……」
 草食男子、と理水がつぶやいた。二人の会話に渚も加わったが、私は別のことを考えていた。
 いや、思い出していたと言った方が正しいだろう。昨日、書店で『銀の匙』を私より早く手に取り、レジへ向かっていった若い男。あれは加瀬だった。
 間違いない。電話を取ろうとした時の手の動きで、それがわかった。
 昨日は後ろ姿しか見ていなかったし、今日はスーツ姿だったため、印象が違ったから、最初は気づかなかったが、会議室を出て行く背中を見て確信した。右肩が少し下がった独特な姿勢は、昨日のあの男とまったく同じだった。
私から『銀の匙』を奪っていったのは、加瀬だったのだ。
 加瀬も杉並区に住んでいるのだろうか。リリーBS社の社員は、通勤アクセスの関係で、銀座線、丸ノ内(まるのうち)線、日比谷(ひびや)線沿線に住んでいる者が多い。
 私が富士見ヶ丘のマンションで暮らしているのは、不動産会社で働いている宏美の兄に、子育ての環境として最高だと勧められたこと、宏美の実家が千歳烏山(ちとせからすやま)で比較的近いためだ。知っている限り、京王井の頭線沿線の駅から通勤している社員はいなかった。
 とはいえ、わざわざ調べるほどのことではない。これから同じ課で働くのだから、いずれわかるだろう。
「課長、聞いてます?」
 小峠の大声に、私は顔を上げた。全員が私を見ていた。
「歓迎会の日時、早めに決めましょうよ。ビールを売ってる会社なんです。やることやらないと、示しがつかないっていうか」
 むしろあの二人のスケジュールを確認するべきなんじゃないかと言うと、それもそうですねと立ち上がった小峠が会議室を飛び出していった。考えるより先に走り出す男だ、と改めて思った。

(つづく)

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著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京生まれ。2001年『リカ』で第二回ホラーサスペンス大賞を受賞し、小説家デビュー。エンターテインメント小説を幅広く手がける。
    著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』『波濤の城』『ウェディングプランナー』(以上すべて祥伝社刊)など多数。