物語がつまった宝箱
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  • 一月(1) 2018年10月1日更新
 第一印象は七秒で決まる。
 昔、社会人になりたての頃、上司にそう言われたことがある。だから初対面の相手と接するときには細心の注意をはらうように、と。後から自分でも調べてみたところ、七秒ではなく三秒だの、一分だの、はたまた〇・五秒だの、諸説あるようだったが、ともかく長い時間ではない。いずれにしても、ひとたび定まってしまった印象は後々にまで影響を及ぼす、らしい。
 刷りこみ、というほど大げさなものではないけれども、あれから十五年以上も経った今でも、誰かとはじめて会うときには、香澄(かすみ)は少し身構えてしまう。
 品のいい群青(ぐんじょう)色のカーペットがしきつめられた長い廊下に、人影はない。かすかに黄みがかった白い壁に沿って、同じ大きさのドアが等間隔に並んでいる。マホガニー調の重厚な扉には、それぞれ目の高さに真鍮(しんちゅう)のプレートがかかげられ、番号がふってある。高級ホテルの客室階のように見えなくもない。
 部屋が無人の場合には、ドアは薄く開けてある。閉じているのは、室内に誰かいるしるしだ。廊下を奥へ歩きつつ、横目で確認する。一番は使用中、二番は空き、三番と四番も使用中で、五番は空いている。
 ただし、廊下はしんと静まり返っている。話し声はもちろん、人間がいる気配すらしない。秘密厳守の業界柄、来客用の会議室は防音が徹底されている。
 ぴたりと閉ざされている八番のドアの前で、香澄は足をとめた。ひとつ深呼吸をして、笑顔を作る。
 この仕事では、気にしなければならないのは、自分自身の第一印象ばかりではない。相手の第一印象をしっかりと心に刻みこんでおくことも、同じくらい重要である。彼または彼女がはじめて会う他人に対してどのような態度でのぞむかというのは、今後の業務を進めていくにあたって、有用な情報のひとつになる。
 そして言うまでもなく、その情報を手に入れられるのは、たった一度きりだ。気は抜けない。
 軽くノックをしてから、香澄はノブに手をかける。
 重たげなドアは、実際にかなり重い。この向こう側に足を踏み入れるにはそれなりの覚悟が必要だと、ひっそりと主張しているかのように。
 
 普通、というのが、一ノ瀬慎(いちのせしん)に対する香澄の第一印象だった。
「お待たせしました」
 香澄が部屋へ入っていくと、座っていた一ノ瀬ははじかれたように立ちあがった。
 棒立ちになったまま、挨拶をするでも名乗るでもなく、もじもじしている。香澄は特に驚かなかった。彼がこういう場に慣れていないだろうことは、見当がついていた。あらかじめ本人がデータベース上に登録した履歴書に、ひととおり目は通してある。
 一ノ瀬慎、二十九歳。埼玉県出身。都内にある中堅私立大学の工学部卒。新卒採用で、これも中堅のシステム会社に入り、この春で八年目を迎えようとしている。配属先は技術開発部、職種はシステムエンジニア。入社以来、主にアプリ開発に携わってきた。直近では、大手のインターネット通販会社の受託案件を担当中。転職経験、転職活動の経験、ともになし。
「今回担当させていただくことになりました、キャリアアドバイザーの千葉(ちば)香澄と申します」
 一ノ瀬の緊張をできる限り和(やわ)らげるべく、香澄はにこやかに自己紹介した。同時に、さりげなく彼の全身に目を走らせる。中肉中背で、濃いグレイのスーツにも紺色のネクタイにも黒縁のめがねにも、これといった特徴はない。
「このたびは、一ノ瀬さんの転職を全力でお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 一ノ瀬もようやく声を発し、頭を下げた。
 七秒はすでに経過している。彼のほうは、香澄にいったいどんな第一印象を抱いたのだろう。
「感じがいい」だったら、うれしい。「頼りがいがありそう」だと、もっといい。でも「普通」だったとしても、文句は言えない。こちらも中肉中背だし、容姿だってごく平凡だ。無難な黒いパンツスーツを身につけ、パンプスのヒールは高すぎず低すぎず、化粧も濃すぎず薄すぎないつもりで、つまり、これといった特徴はない。
「どうぞ、おかけになって下さい」
 香澄は一ノ瀬にうながした。横長の会議机を挟んで彼と向かいあう位置に、自分も腰を下ろす。黒い革張りの椅子は、ふかふかとして座り心地がいい。
 持参した大判のファイルを、手もとに置いた。えんじ色の表紙の隅に、〈PITA - CAREER〉と英字で社名をあしらった小さなロゴが入っている。
 ピタキャリアは、今年で創業二十五周年を迎える人材紹介会社、いわゆる転職エージェントだ。
 転職エージェントというのは、ひらたくいえば、転職希望者の代理人(エージェント)である。
 インターネット上で会員登録したひとりひとりに、担当者――名称は会社によって異なるが、ピタキャリアではキャリアアドバイザーと呼ばれている――がつき、人材を募集している企業との間に立って、転職活動を応援する。求人情報の紹介からはじまり、履歴書の内容や面接での受け応えについて助言したり、面接日を調整したり、内定が決まれば待遇や入社日といった条件のすりあわせにいたるまで、包括的に面倒を見るのだ。
「本日は寒い中、わざわざお越しいただいてありがとうございます」
 一ノ瀬の目をまっすぐに見て、香澄は口火を切った。
「今回の面談では、一ノ瀬さんのご希望をざっくばらんにおうかがいしたいと思っています。その上で、後日、求人の候補をこちらから挙げさせていただきます。実際に応募するかどうかは、また相談しながら決めていくことになります」
 一ノ瀬がこっくりとうなずいた。
「ではさっそく、いくつか質問させて下さい」
 香澄はファイルを開いた。一ノ瀬の履歴書を含め、数種類の資料が挟んである。
 ページをめくって、これもデータベースに登録してもらっている、事前アンケートを開いた。転職にあたって重視する条件、志望している業界、職種、年収などなど、基本的な質問事項に選択式で回答するかたちになっている。
 これを見れば、当人がどんな企業に就職したいと望んでいるのか、少なくとも必要最低限の情報は手に入る。極端な話、時間と手間をかけてこちらまで出向いてもらわなくても、条件に合う候補をみつくろって紹介することもできなくはない。
 電話やメールの連絡だけですませてしまわず、実際に顔を合わせる場を設けているのは、むろん理由がある。
 対面の会話でしか拾えない、より率直かつ詳しい情報を集めることと、彼のひととなりを把握することだ。どちらも、これから彼の転職活動を支えていく上で、重要な判断材料になる。
「まず、転職を考えはじめたきっかけを教えていただけますか?」
「ええと、会社の先輩にすすめられて……あ、その先輩は去年の秋に辞めちゃったんですけど……」
 一ノ瀬がもそもそと話しはじめ、香澄は手早くメモをとった。不明瞭な話しかたはゆくゆく改善してもらう必要がありそうだけれど、今のところ指摘はひかえる。初回の面談では聞き役に徹するのが、香澄のやりかたなのだった。
「年次がふたつ上で、おれが……あ、僕が新入社員のときに教育係をしてもらったんです。そこから親しくなって」
 以来、一緒の案件で働く機会はなかったものの、同じシステムエンジニアということもあって、なにかとかわいがってもらっていた。仕事熱心で、周囲からも一目置かれていたその先輩のことを、一ノ瀬のほうも頼りにしていた。
「だから、会社を辞めることにしたっていきなり打ち明けられたときは、かなりショックでした」
 一ノ瀬は言い、かすかに顔をしかめた。喋るのはあまり得意ではないようだが、話しているうちに、口調は多少なめらかになっている。
「辞める直前に、飲みに連れてってもらったんです。ふたりきりだったんで、そのときにいろいろ話して」
 今の会社はよくも悪くも保守的な社風で、安定している反面、似たような業務が多く、新しい技術を学べる機会が乏しい。このままではエンジニアとしての成長に限界を感じる、というのが、先輩が転職に踏み切った理由だった。
 新しい勤め先は大手の通信機器メーカーらしい。その会社がここ一年ほど技術者の採用に力を入れているのは、香澄も知っていた。昨年社長が交代して以来、社内の風向きが変わったようだという裏事情も、実は耳にしている。
「お前もそろそろ自分のキャリアをしっかり考えろよ、って言われて。ぼやぼやしてたら、あっというまに年とるぞって」
 先輩の言葉を思い返しているのだろう、視線を宙にさまよわせながら一ノ瀬は言う。
「もともと、それっぽいこと、けっこう言うひとで。熱いっていうか、まじめっていうか。別に、今すぐ転職しろってわけじゃなくて、その選択肢を頭に入れといたほうがいいって言うんです。そうしたら、今の仕事の見えかたも違ってくるはずだって」
「いい先輩ですね」
 香澄は思わず口を挟んだ。本心だった。いい先輩だ、後輩の一ノ瀬にとっても、そしてわが社にとっても。
「それで、弊社にご登録を?」
「はい」
 一ノ瀬はうなずき、言い添えた。
「ここがおすすめだって聞いたんで」
「ありがとうございます」
 香澄は丁重に頭を下げた。いよいよ、いい先輩だ。
 彼を担当したキャリアアドバイザーが「いい仕事」をしてくれた、ともいえるかもしれない。誰だろう。後でちょっと周りに聞いてみよう。
 ピタキャリアは、規模としては業界で五、六番手にあたる。会員数や扱う求人の数では大手に及ばないながら、きめ細やかな支援には定評があって、転職に成功した会員がこうして友人知人にすすめてくれることも多いのだった。
「では、一ノ瀬さんもその先輩と同じように、エンジニアとしての能力をもっと伸ばしたいとお考えになっている……ということでしょうか」
 香澄が確認すると、一ノ瀬は少し考えてから、
「そう、です」
 と、なんだか照れくさそうに答えた。

 面談を終え、受付を出てエレベーターまで一ノ瀬を見送ってから、香澄は自分のデスクに戻った。
 十五階建てのオフィスビルの六階から八階までを、ピタキャリアは使っている。六階に受付と面談用の会議室があり、七階と八階は執務フロアとなっている。その他の階には、ピタキャリアと同じ親会社に連なる、グループ傘下の系列企業が入っている。広告代理店、不動産仲介業、旅行代理店など、業種はかなり幅広い。
 階段で七階まで上り、IDカードをかざしてドアを開錠する。広々としたフロア一面に、デスクがいくつかの島に分かれて配置されている。
 香澄の所属する、キャリアサポート部第一課は、奥の一角に位置している。
 キャリアサポート部は、およそ三十人のキャリアアドバイザーから成る、社内では最大の部署である。扱う案件の職種によって、部内はふたつの課に分かれている。営業職や管理職など、いわゆるビジネス職を希望する会員を第一課が、エンジニアや研究職といった技術職の志望者を第二課が、それぞれ管轄している。
 年明けの定期異動で、香澄は第二課から第一課に移ってきた。
 もっとも、二課にいた頃から受け持っている案件は、今後も引き続き担当することになる。ピタキャリアでは、新規の会員と初回の面談を設定する段階で、担当のキャリアアドバイザーが決まる。決まった後は、原則として代わらない。だから香澄の場合、第一課の一員となったにもかかわらず、現時点で進行中の仕事は、ビジネス職よりも技術職の担当のほうが多い。一ノ瀬の案件も、そのうちのひとつだ。
 フロアをななめにつっきって、自席をめざす。事務机も椅子もキャビネも、いかにも業務仕様の地味なものばかりだ。とりたてて古いわけでもみすぼらしいわけでもない、ごく平均的なオフィスの調度だが、六階から戻ってくると明らかに見劣りがする。
 ピタキャリアの社訓は、「お客様第一」なのだ。
「あ、千葉さん。おかえりなさい」
 デスクにたどり着いた香澄が椅子をひくと、向かいの席でパソコンをたたいていた宮崎が声をかけてきた。
「顔合わせ、でしたよね? どうでした?」
 彼も一月付で、営業部からキャリアサポート部に異動してきた。
 同じ時期に配属されて親近感を覚えているのか、単に席が近いからなのか、ひと回りも年上の香澄に向かって、なにかにつけて気安く話しかけてくる。彼は香澄と違い、キャリアアドバイザーとして働くのは今回がはじめてなので、あれこれ質問は尽きない。五年前に新卒採用で入社した当初から、ずっとキャリアアドバイザーになりたかったそうで、念願がかなってはりきっているようだ。
 ピタキャリアでは、同業他社から転職してきた経験者でもない限り、新入社員にはキャリアアドバイザーをやらせない。将来のかかった相談を持ちかけてくる会員の身になってみれば、妥当な方針だろう。まずは営業部でこの業界のいろはを学んだ上で、適性に応じてキャリアサポート部に異動する、という流れが多い。
 中途採用で入社した香澄も、最初の三年は営業部にいた。その後、キャリアサポート部の第一課と第二課で四年ずつ働き、今月からまた一課に戻ってきたのだ。
「ええと、二十代のエンジニアでしたっけ? いけそうですか?」
 宮崎の言う「いけそう」とはすなわち、その会員の学歴や職歴、希望している条件、本人のやる気といったもろもろの要素を考えあわせ、最終的に内定までこぎつけられそうか、という意味になる。むろん、先のことは誰にもわからないのだが、順調に進みそうかどうかくらいは、一度会えばだいたい予測がつくものだ。だてに八年もこの仕事をやっているわけじゃない。
「どうかなあ」
 あいまいな返事にとどめ、香澄は腰を下ろした。
「え、なんですか、なんか問題でもあるんですか?」
 宮崎が眉をひそめ、矢継ぎ早にたたみかける。
「エンジニアだったら、今って完全に売り手市場でしょ? あっ、もしかして、コミュニケーションとれない系とか? 理系だとたまにいますよね、コンピュータ言語でしか話せないやつ」
 そういうわけではない。宮崎ほど饒舌(じょうぜつ)ではないものの、一応コミュニケーションは成りたっていた。要領よくふるまえるたちではなさそうだが、香澄の質問にはひととおり適切な答えが返ってきた。
 経歴も悪くない。宮崎の言うとおり、エンジニアは市場でも一定の需要がある。アプリの開発経験も評価されるはずだ。たとえば先輩の転職先のような、エンジニアどうしが社内で切磋琢磨(せっさたくま)しあえるような環境も、探せば見つかるだろう。給与は現状より下がらなければそれでいいと言っていたが、積極的に働くつもりなら、もっと好待遇もねらえるかもしれない。
 もし、積極的に働くつもりなら。
 そこが、香澄は気になっている。一ノ瀬は、真剣に転職を考えているにしては、どうも受け身なように感じられたから。
 先輩の話だけはそれなりに喋ってくれたけれど、その後は終始、香澄の質問に短く答えるばかりだった。意欲というか意気ごみというか、どうしても転職したいという強い気持ちが、あまり感じられなかった。成長の機会がないという点以外に、今の職場に不満はないかとたずねても、特になにも、と返事はそっけなかった。
「彼が本気で転職したいのか、ちょっとまだよくわからない」
 香澄が言うと、宮崎はいぶかしげに眉を寄せた。
「へ? 転職したいから、面談に来てるんじゃないんですか?」
「それはまあ、そうなんだけど」
 一ノ瀬は本当に、心から転職したいと望んでいるのだろうか。仲のよかった先輩に影響されて、一時的にその気になっているだけではないか。
 はっきりとした転職の意思がなくても、軽い気持ちで、あるいは興味本位で、入会してくる会員はときどきいる。基本情報さえ登録すれば、ネット上で公開されている一部の求人は閲覧できるし、適性診断や年収査定といった関連プログラムも試せる。会社としても、潜在的な転職希望者を集める目的で、そういった、いわば「様子見」の会員も歓迎している。
 気軽に入会しやすいのは、転職支援のサービスが完全に無料だからだろう。
 一般的に、転職エージェント会社の大半は、会員個人からは報酬を一切受けとらない。収入源は、求人を出している企業が負担する紹介手数料である。
 正式に採用が決まると、入社することになった社員の初年度の年収の、何割かにあたる金額がピタキャリアに支払われる。割合は各社と結んでいる契約の内容によって異なるが、三割前後が多い。年収五百万円の案件ならだいたい百五十万、一千万円なら三百万円が、こちらの売上となると同時に、担当したキャリアアドバイザーの成績ともみなされることになる。
 キャリアアドバイザーの中には、担当する会員に複数の内定が出た場合、必ず最も年収が高い――言い換えれば、紹介手数料が最も高額となる――会社を推(お)すと公言している者もいる。本人だって、年収は高いに越したことはないのだから、と。
 それも一理ある。
 あるのだけれども、そんなふうに自分の定めた正解へ会員を誘導することを、香澄はどうしてもためらってしまう。反面、適切な助言ができなければ、キャリアアドバイザーとしての存在価値がない。できる限り本人の適性や価値観を的確に把握した上で、公平な意見をのべるように心がけているつもりではあるものの、正直なところ、自分の言っていることが果たして本当に正しいのか、よくわからなくなってくるときもある。
「それならそれで、いいんじゃないの」
 後ろから声をかけられて、香澄と宮崎は同時に振り向いた。
「そういう会員さんをやる気にさせるのも、僕たちの仕事でしょ」
 石川課長がにこにこして香澄たちを見下ろしていた。
「はいっ」
 宮崎が威勢よく答えた。なぜか立ちあがっている。
 香澄の背筋も自然に伸びた。口もとはほころんでいても目が笑っていない、彼のひんやりした笑顔には、いつまで経っても慣れることができない。
 石川は香澄より四つか五つばかり年上の、四十代の半ばで、二課と一課の課長を数年ずつ務めている。近いうちに部長に昇進するだろうと社内ではもっぱらの評判だ。もし来期の異動で就任すれば、史上最年少の部長となるらしい。香澄とはちょうど入れ違いに、一課から二課へ、また二課から一課へと動いていたので、今回はじめて直属の上司と部下の関係になった。
 香澄がまだ、今の宮崎のような新米キャリアアドバイザーだった頃に、石川が担当している会員との面談に同席させてもらったことがある。
 面談の相手は、新興の製薬会社に勤める、二十代後半の男性会員だった。事前にデータベースを閲覧したところ、希望している転職先は同じ業界の、しかし現職よりもはるかに大手で名の知れた優良企業ばかりだった。言葉は悪いが、ちょっと高望みしすぎなんじゃないか、と香澄はひそかに首をひねった。本人にその自覚がないとしたら、少々やっかいなことになるかもしれない。
「一応書いてみたんですけど、やっぱ無理ですよね」
 面談にやってきた彼が、恥ずかしそうにそう言ったので、香澄はひとまず胸をなでおろした。
 ところが、石川は力強く首を横に振ってみせた。
「そんなことはありません」
 会員も香澄も、ぽかんとして石川の顔を見た。
「もちろん、今のままでは難しいかもしれません。でも、これからしっかり努力していけば、最終的には希望をかなえられると思います」
 そして実際に半年後、彼は第一志望の企業から内定を勝ちとった。
 会員本人の期待を越えるような転職を実現すべし、というのが石川の信条だ。目標は高すぎるように見えるくらいがちょうどいい。よりよい自分をめざして全力を尽くすことが、人間的な成長につながる、という。高嶺(たかね)を見上げて足をすくませている会員を叱咤激励(しったげきれい)し、履歴書の文面から面接の想定問答まで、一言一句、細かく厳しく指導にあたるらしい。「石川道場」と社内の一部では皮肉まじりに呼ばれている。
「ソフィアに案件を確認してきます」
 ことわって、香澄は席を立った。
 石川は正しい。キャリアアドバイザーが及び腰になってはいけない。転職によってよりよい道がひらけると信じて、最善を尽くすのがわたしたちの仕事だ。

(つづく) この続きは2020年9月刊行の単行本『あなたのご希望の条件は』でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 瀧羽麻子

    兵庫県生まれ。京都大学卒業。2007年『うさぎパン』で第二回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。著書に『左京区七夕通東入ル』『ふたり姉妹』(小社刊)『乗りかかった船』『ありえないほどうるさいオルゴール店』などがある。