物語がつまった宝箱
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近所にできた大型ショッピングモールに客をとられ、シャッターが目立つようになったラブリ商店街。そこにはいつも、アイリッシュ・セッターのブックという犬がいた。特定の家を持たず、住人みんなに可愛がられているブックは、まるで人間の気持ちがわかっているような不思議な犬だった。

  • 空でつながる日(1) 2014年11月1日更新
 三雲君が階段から駆け降りてきて言う。
「お願いがあります!」
 まだ小学校一年生だというのに、三雲君ははきはきした口調で物怖じもせずに話す。なぜか必ず最初に宣言するかのように用件を言う。「相談があります!」とか「聞きたいことがあります!」とか。
「なんだい、わしが聞いてあげられるお願いならいいけどな」
「ぼくのうちで大きな犬を飼いたいんです。いいでしょうか」
 三雲君は駆け降りてきた階段を振り返った。辻アパートは築三十年のよれよれのアパートだ。一階に三部屋、二階にも三部屋。いまは五つの部屋が埋まっている。三雲君は二階のいちばん端の二〇一号室に住んでいる。
「このアパートでは大きな犬は飼えないんだよ。小型犬ならいいがな」
「いえ、大きな犬がいいんです。だから、お母さんが大家さんの辻さんに訊いてみたらって」
「大きな犬ってどのくらいなんだ」
 体の小さな三雲君には大きくても、実際はさほど大きい犬でないかもしれない。
「体重が十キロだって聞いてます」
「中型犬か」
「でも、もっと大きくなるかもしれません」
「子供なのかい」
「いえ、五歳くらいなんですけど、いまはすごく痩せてるから」
「病気か」
「そうじゃないんですけど」
 珍しく三雲君が言い澱んだ。困惑の瞳で見つめてくる。きれいな顔立ちの子だ。髪は少し茶色がかっていてさらさらしている。丸い瞳はいつも好奇心という光で輝いている。
 五年前に癌で先立たれた美也子とのあいだにはふたりの子供を授かった。ひとり目が男、ふたり目が女。そのふたりもいまは独立して結婚し、それぞれ埼玉と北海道に住んでいる。孫は三人。みんな小学生だ。三人ともかわいいが少々こまっしゃくれている。わしに対して平気で「禿げじじい」なんて言う。その点、三雲君は少し心配になるくらい素直だった。
「体重が十キロなのはあまりご飯を食べていなくて、痩せちゃってるんだと思います」
 三雲君は半ズボンの尻ポケットから、一枚の写真を取り出した。
「ぼくのお母さんの友達が、この子を飼ってあげられる人を探しているんです」
 写真を目にした瞬間、つい顔をしかめてしまった。がりがりに痩せこけた赤毛の犬が写っていたからだ。肋骨の一本いっぽんが皮膚の上から数えられるくらい痩せている。肉がついていないので腰の骨の形まで見て取れた。ひどい。いったいどれだけ餌をもらっていなかったのだろう。栄養不足のためか赤毛は縮れたり縒(よ)れたりして汚らしい印象があった。
「本当は二十キロくらい体重があってもいいんだそうです。オスで若い犬なので」
 悲しげに三雲君が肩を落とす。「大きくなるかも」の意味がやっとわかった。本来はもっと大きくなるはずだった。
「これは保健所かな」
 痩せこけた犬は鉄格子越しに撮られていた。床は冷たそうなコンクリートだ。
「そうです。ぼくのお母さんの友達ってこういう不幸な犬の飼い主さんを探しているんです」
「ボランティアってことか」
「あ、はい、たぶん」
 まだボランティアという言葉を知らないのだろう。三雲君は恥ずかしそうに頷いた。
「たしかにかわいそうだし、わしも飼ってあげたいよ。でもな、毎日の散歩はおじいちゃんのわしには大変だし、わしももうすぐ七十五歳だから、そのわんこが寿命を迎える前にわしの寿命のほうが来てしまうかもしれん。無責任に飼ってあげられるとは言えんな」
 三雲君は真剣な眼差しで話を聞き、ゆっくりと頷いた。子供らしくない所作だった。
「この犬はあさって殺されちゃうんです。時間がないんです」
 小さな三雲君の両手がぎゅっと握られていることに気づく。この子は、死ぬということの意味がわかっているのかもしれない。
 以前、孫たちを前にして、おじいちゃんやお父さんやお母さんが死んでしまって、ひとりぼっちになる自分を想像して怖くなったことはあるかと尋ねてみた。三人とも首を振った。わしにはあった。小学校の低学年のとき、祖父母も両親も先に死ぬのだと気づいた夜があった。
 みんな先に死ぬ。この世から消えてなくなる。
 その不在が怖くて、布団の中で泣きじゃくった。死という観念が胸にすとんと落ちてきて理解した夜だった。三雲君も同じように泣いた夜があったんじゃないだろうか。
「うーん、しかしなあ、わしは飼えないしなあ。今日これから誰か飼えそうな人を探してみるが」
「だから、最初にお願いですって言ったんです。この犬はアパートでぼくが飼います。それを認めてもらいたいんです。いいでしょうか」
 凛とした声で三雲君がもう一度言う。
「だが一応、規約というものがあってな」
 辻アパートで飼っていい犬は小型犬のみだ。犬種で言えばチワワやパピヨンだ。柴犬などの中型犬のサイズは禁止となっている。
「わかってます。お母さんから聞きました。けれど、その決まりごとを変更してもらいたいんです」
「それはできんよ。アパートに住んでいる人の要望で規約を変えていたら大変なことになってしまう。それに大きな犬を飼っちゃいけないのは、吠えたりどたばた騒がしかったりすると、ほかの部屋の人に迷惑になってしまうからだよ」
「じゃあ、吠えないようにしつけます。どたばたもさせません。約束します」
「残念だけどその約束は成り立たんだろ? 犬は吠えるもんだ。どたばたするのをやめろと話して聞かせても、犬は人間の言葉を理解できん」
 三雲君はうつむいた。普通の子供だったら、泣き喚(わめ)いて我を通しているところかもしれん。孫たちなどひどいもんだ。
 しかし、三雲君は口を真一文字に結んで顔を上げた。たった六歳の子供に気圧(けお)されてしまいそうになる。
「やってみないとわからないと思います」
「あのね、三雲君。こっちは大人なんだ。ある程度どんなふうになるか想像がつくんだよ」
「辻さんは大きな犬と暮らしたことあるんですか」
「ない。しかし、わかるぞ」
「なんで飼ったこともないのにわかるんですか」
「経験はなくても知識ってもんがあるからの」
「地球上の全部の犬が吠えたりどたばたしたりしてうるさいという知識ですか。それって本当ですか。一匹くらいはまったく吠えなくておとなしい静かな犬だっているかもしれないですよ」
 食い下がる三雲君の頬が上気して桃色に染まっていく。必死さが伝わってくる。この子なら本当にきちんと犬をしつけられるかもしれない。そんな考えが頭をもたげてくる。
 いやいや、認めるわけにはいかない。半年前の騒動を思い出して首を振る。あきらめてくれるように強い口調で言った。
「駄目だ! 決まりは決まりなんだよ! 大きな犬は飼えないって決まってるんだよ!」
 一瞬、三雲君が泣き顔になる。口で息を吸う音がかすかに聞こえた。嗚咽を漏らす前は、口を開けて息を吸いこむもんだと孫たちを見て知っている。
 しかし、三雲君の口はまた真一文字に結ばれた。丸くて大きな目がさらに見開かれる。
「だったら、ないしょにしてください」
「ないしょ?」
「ぼくがなんとか吠えたりうるさくしたりしないようにしつけますから、この犬を飼うことをぼくと辻さんだけのないしょにしてください」
 相手が大人だったら冗談を言うなと鼻で笑っているところだ。
「ないしょってわしにもう話してしまっているじゃないか。ないしょになんかできんだろう」
「辻さんがぼくの仲間になればいいんです。いっしょにないしょにしましょう」
 子供の道理だ。だが、共犯関係を結ぼうと提案してくるなんて、なかなか頭が回る。度胸もある。
「わしもね、味方になってあげたいよ。けど駄目なんだよ」
「どうしてですか」
「わしはこのアパートに住むみんなのためになるように、管理していかなきゃならないんだ。三雲君のためだけに考えを変えるわけにはいかん」
「違います。ぼくのためじゃないんです。この犬の命のためなんです」
 いったいどっちが筋が通っているのか揺らぎそうになる。命のために。それは大切で重い。だが、現実の枠組みを広げて、なんでもよしとしていたらきりがない。
 困惑しているとアパートの外階段を降りてくる足音がした。鉄製の階段を駆け降りる甲高い音だ。硬めのゴムサンダルの足音。三雲君の母親だった。
「こら、三雲。あなた会長さんを困らせちゃ駄目じゃないの」
 この辻アパートが建つラブリ商店街の会長をやっているため、多くの人はわしを辻さんではなく会長と呼ぶ。三雲君の母親である小泉さんもそのひとりだ。
「すみません。うちの三雲が困らせたみたいで」
 小泉さんは三雲君と並ぶと、深々と頭を下げた。
「いやいや、三雲君はそこいらの子供と違ってちゃんと大人の話が通じるので、困ったりしとりませんよ」
「この子が犬を引き取るんだってどうしても聞かなくて。このアパートじゃ飼えない決まりがあるって言っても納得しないから、機会があったら会長さんに訊いてみなさいって言ったんです。そしたら家を飛び出していっちゃって」
 質問するだけでなく、直談判までするあたり、さすが三雲君だ。行動力があって、共犯関係を結ぼうと提案する知恵もある。小学校ではすでに秀才との評判が立っているらしい。
 小泉さんの教育がいいのか、それとも、別れてすでにいない旦那さんがいい影響を与えていたのか。噂好きで有名な美容室すずらんの柴田さんによれば、小泉さんは旦那さんと価値観がどうしても合わなくて離婚したのだとか。
 別れた旦那さんは大手の銀行員で、はきはきとした聡明な人だった。ラブリ商店街で夏祭りが行われたときは、率先して働いてくれて人当たりもよかった。一方で小泉さんはふんわりした感じの人だ。よく言えば人が好さそうで、悪く言えばぼうっとしていて頼りなさそう。三雲君は旦那さんに似たのかもしれない。
 少しばかり鼻が高いのは、近所でも評判がいいこの三雲君の名づけ親になってやったことだ。いまではふたつのアパートの家賃収入で食べているが、かつては書道教室を開いていた。書道教室に通う生徒に弟や妹が生まれたときに命名のアドバイスをしていたら、名づけ名人なんて呼ばれるようになった。漢字に詳しいだろうからと頼られていたのだ。
 三雲君が生まれたのは夏の真っ盛りのことだった。名付けに悩んで窓から外を見たら、みっつの大きな入道雲が青い空のさらに高いところを目指してにょきにょきと伸びていた。美しい光景で三雲と思いついた。小泉という名字と相性がいいことは、『怪談』で有名なラフカディオ・ハーンが証明している。日本国籍を取得してから名乗った小泉八雲はいい名前だ。
「ほら、そろそろスイミングスクールの時間よ」
 小泉さんは三雲君の手を取り、もう一度深々と頭を下げてから去っていく。三雲君はまだなにか言いたげな顔をしながら、アパート裏手の駐車場へ手を引かれていった。週二日、水泳教室に通い、週一日は立川の学習塾に通っているのだそうだ。
 子供にそれだけの習い事をさせる余裕があるなら、こんな古くてよれよれのアパートに住まなくてもいいのに。自分で経営しているアパートでありながら、そんなことを思った。

 明くる日の夕方、うとうとしていると玄関のチャイムが鳴った。三雲君だった。
「誰か飼ってくれる人は見つかりましたか」
 まっすぐ見つめて尋ねてきた。言葉に詰まる。実を言えば、三雲君が訪ねてくるいまのいままで、犬の一件を忘れていたのだ。どんなに胸を痛めた話でさえ、さらりと忘れてしまうことがある。年齢を重ねれば重ねるほどその傾向は強まっていく。心が鈍磨していくのだ。申し訳なさと恥ずかしさで、三雲君の眼差しを受け止められない。
「ほうぼう探してみたんだが、見つからなくてのう」
 間に合わせで嘘をつく。情けなくなりながら、必死に頭の中で飼ってくれそうな人を探す。
 長男の嫁は幼いころに犬に噛まれ、大の苦手だと言っていた。長女の一家が買ったマンションは小型犬でさえ駄目なところ。
「わしが飼ってやれればいいんだがなあ。保健所のあの犬を一生面倒見られるほど、わしの寿命が長いとは思えんからなあ。いまはがりがりに痩せてるが、元気になったらたっぷり運動が必要な犬種かもしれん。そうしたときやはり面倒は見切れんからな」
「だから、ぼくが」
 三雲君はなにかを言いかけて、やめてしまう。
 本当は辻アパートで飼わせてくれと頼みたいのだろう。母親の小泉さんにたしなめられて、言い出せないのだ。
 こちらとしてもなにも言ってあげられなくて、渋い顔を作って頷くしかなかった。ものわかりのいい大人のふりで、しかたないんだよ、なんていうふうに。すると、三雲君がぼそぼそとしゃべり始めた。
「辻さんは知っていますか。犬ってお出かけしていた飼い主が家に近づいてくるのを、ぴぴっと知る能力があるって」
「耳がいいから足音を覚えているのかな。たとえば革靴の音とか」
 昨日、小泉さんは鉄製の階段を硬いゴム製のサンダルで降りてきた。とても印象に残る。
「けど、靴を変えてもわかるんですって。男の飼い主さんが、女の人が履く踵の高い靴を履いて帰っても、下駄を履いて帰っても、飼い主さんだってわかるんですって。テレビで実験をやってるのを見たんです」
「歩幅か。歩幅でわかるのかもしれんぞ」
「竹馬に乗って帰ってもわかるって実験の結果が出ていました」
「じゃあ、においか」
「出かけた先でお風呂に入って、服を全部取り換えて帰っても、わかるって」
「すごいのう。超能力みたいだ」
 三雲君は大きく頷く。
「いろいろ変えてもわかるんだそうです。最終的にはほんのかすかなにおいでわかるんじゃないかって。もしかしたら、飼い主さんの心臓のリズムを覚えていて、わかるのかもしれないって」
 そういえば、飼い主が心筋梗塞になるのをあらかじめ察知して、飼い主から離れなかった犬のエピソードをテレビ番組で紹介していた。心臓の鼓動がいつもと違うリズムを刻むのに犬が気づいたのかもしれないとか。
 同じテレビ番組では、海外の発作対応犬という補助犬を紹介していた。補助犬とは盲導犬や聴導犬、それから介助犬たちのことらしい。海外にいる特別な補助犬である発作対応犬は、てんかんや発作性の病気を患者のにおいから予測し、対応できるように訓練されているのだそうだ。まさに超能力だ。
 感心していると三雲君がまたぼそぼそと言う。
「ねえ、辻さん。犬にそこまでいろんなことがわかるなら、昨日見せた写真の犬は、これから自分が殺されちゃうのもわかるんじゃないのかな」
「え、どうしてだい」
「いっしょに捕まえられている犬や猫の足音やにおいや心臓の音が、殺されるたびに消えていくんですもん。そういう場所に自分がいるんだって絶対にわかりますよ」
 三雲君は静かな表情をしていた。静かに耐える大人の表情をこの子はすでにしていた。
「ボランティアをやっているお母さんの友達が、あの写真の犬に会いに行ったときの話を聞いたんです。尻尾を振ってすごく甘えるんですって。頭をごしごしすりつけてくるんですって。死ぬってわかっていても、自分を殺す人間たちに甘えるなんて、かわいそうじゃないですか。こういうかわいそうなことを知っちゃったときって、どうしたらいいんですか。ぼく、わかりません」
 長く生きているとわかることがある。
 大人になるということは、それがすべてじゃないと知っていくことだ。
 行きたかった高校や大学がすべてじゃない。なりたかった職業がすべてじゃない。好きで好きでしかたなかった女性もすべてじゃなかった。
 そのときはそれしかないと、すべてだと思っていたものも、時が過ぎてみればすべてではなかったと気づく。築き上げた価値観も、手に入れた地位も、自分を取り巻く家族や知人との関係性も、すべてのように考えていたがそうではなかったのだな、とゆるやかに気づいていく。
 しかし、それは長く生きたから気づけたこと。幼い三雲君にはわからないことだ。
 つまり、いま三雲君にはあの犬の命がすべて。純真な彼の心に宿るすべて。
 長く大人をやっている自分には、忘れてしまった繊細で重い悲しみ。
 わしも若いころはもっと高潔な意志に溢れていた。生きるのも死ぬのも、ほかの命のためにありたい。そう考えていた時期もあった。しかし、美也子を亡くしてから、強くなにかを思うことはなくなってしまった。死ぬのはいやだが、自分の人生はこんなものだろうと納得をして、なだらかに終わりを迎えるつもりだった。
 三雲君は違う。始まったばかりだ。わしから見ればまだまだ生まれたてだ。そんな彼のために奮起しなくてどうする。大人としての姿勢を見せなくてどうする。
「わかった。あの犬を三雲君の家で飼うのを許可しよう。その代わり、条件があるんだ」
 条件を三雲君に耳打ちする。三雲君は瞳を輝かせ、勢いよく頷いた。子供らしい無邪気な笑みをやっと見せてくれたのだった。

(つづく)  次回は2014年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 関口尚

    2002年『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。07年『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。『君に舞い降りる白』『シグナル』『はとの神様』など著書多数。