物語がつまった宝箱
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  • 第四回 2016年4月15日更新
十月十六日
 昨夜は午前二時までかかって物理学のレポートを書いていたが、今朝起きてみると十二時を過ぎていた。とっくに物理学は終わっているという本末転倒である。南無。午後の講義はないので、冷蔵庫の中のものを適当に食べたのち、四畳半にて『ノストラダムスの大予言』をめくって過ごす。
 夕方になってから、珠子さんとの約束通りに緑雨堂へ出向いた。
 古書店には即席おしるこの甘い匂いが漂っていて、珠子さんは後藤先輩が置いていった四畳半日記を前に腕組みをしていた。「これよ」と彼女は言い、「それか」と私は言った。予言の書は残すところあと一日という段になって、ようやく真の持ち主たる私のもとへ戻ったわけである。
「後藤さんは予言にさからおうとして、報いをうけたんだと思う」
 昨夜から今日にかけて、彼女はその大学ノートの記述を仔細にしらべたという。
 四畳半日記の書き手もまた、自室の押し入れから発見された四畳半日記を読んでいる。彼もまた私と同様、過去の日記の予言に束縛されていたのである。この奇怪な呪いの連鎖の起源は知りようもない。四畳半日記から四畳半日記へ、「偉大でない日々」という本質はそのままに、住人が変わるごとに四畳半日記はアップデートを続けてきたのであろうというのが珠子さんの仮説だった。
 珠子さんが驚いたのは、四畳半日記にも、後藤先輩や珠子さんに該当する人物が登場したことである。とくに十月十二日と十三日の我々三人の動向は、四畳半日記の記述と完全に一致していた。大家さんや赤坂教授が我々の来訪を予想できたのはそのためである。
 しかし十月十四日以降、現実と記述は微妙に食い違い始める。というのも、欲に駆られた後藤先輩が四畳半日記を手放さなかったからだ。四畳半日記の記述によれば、後藤先輩は十月十四日の夕刻、四畳半日記を珠子さんに譲るはずであった。それは日記によって確定された未来であった。その予言を知りつつあらがえばこそ、後藤先輩はさまざまな災厄に見舞われたのである。さすがの先輩も「このままでは命が危ない」と屈服し、一日遅れで珠子さんに日記を託したわけだ。
「読まないの?」と珠子さんは言った。
「読んだところで何にもならないだろ」
「そんなことない。明日どこへ行けばいいか分かるよ」
 彼女の言葉にしたがって、私は最後の日付の頁を開いた。
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十月十七日
 四畳半日記に予言されていた日がやってきた。世界の終わる日だ。
 今日の朝に四畳半で目覚めたときは、じつに心が澄んでいた。何が起こるのか最後まで堂々と見届けてやろうと思った。その冒険の結果を彼女に教える約束もしたのである。
 日記にあるとおり、午後二時に宝ヶ池のプリンスホテルへ出かけていった。そこにはすでに仲間たちが集まって、私を迎える支度がととのっていた。尊敬すべき仲間たちと出会ったとき、「なんのために」と問うことは無意味になった。四畳半日記の秘密はただそこにあるだけだ。焦点を合わせるべきは、つねに「いかにして」生きるかということだけなのである。さらば、偉大でない日々――。
 そこには見たこともない世界が広がっていた。
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 日記を読み終えて、私は思案した。明日の午後二時に宝ヶ池のプリンスホテルへ行くことは分かった。しかしそれ以外のことは抽象的でさっぱり分からない。胡散臭い自己啓発セミナーに出席した人間の中身のない感想のごとし。明日、私の身に何が起こるというのか。
「私も行きたいけど、行けないから……」と珠子さんが残念そうに呟いた。
 たしかにそうだった。「その冒険の結果を彼女に教える約束もしたのである」という記述がある以上、珠子さんが一緒にホテルへ出かけていくことは許されない。それは予言に反する行為であるから、もし同行すれば彼女の身に災厄が降りかかるだろう。
 そもそも四畳半日記は私に与えられた運命なのだから、その行き着くところを見届ける役割は私自身が引き受けなければならぬ。「何が起こるか見届けてくる」と私は言った。
「ここで待ってる」と珠子さんは言った。
 緑雨堂をあとにして、私は銭湯へ行った。身を清めておこうと思ったのである。

十月十七日
 四畳半日記に予言されていた日がやってきた。
 昨夜は銭湯帰りの清らかな身体でたっぷり眠って目が覚めた。天気は上々、気分は爽快。世界の終わりだろうが、恐怖の魔王だろうが、どんとこいという気分だった。どんな結果が待ち受けているにしても、四畳半日記に束縛された日々から、ようやく解放されるのだ。「自由万歳! 天下無敵!」と呟きながら、私は自転車にまたがって宝ヶ池を目指した。
 ホテルに到着したのは午後一時四十五分頃である。昼下がりのホテルはしんとして、今にも神秘的なことが起こりそうな気配が漲っている。おそるおそるロビーに入っていったとき、私は驚いて立ちすくんだ。中庭から差し込む光の中に、後藤先輩が立っていたからである。まだ絆創膏を貼っていたが、顔色は幾分マシになったように見える。修羅場は去ったのだろう。
「世界の終わりを見届けに来たよ」
「そんなことして、日記が怒りませんかね」
「俺のことは十月十七日の四畳半日記には何も書かれていない。ということは、俺がこれから何をしようと俺の自由だ。あれだけひどい目にあって一文の得にもならなかったんだから、せめて終わりを見届けたいよ。でないと俺があんまり可哀想じゃないか」
 我々がロビーで囁きあっていると、一人の背広姿の若い男性が歩いてきた。「失礼ですが、松本さんですか」と訊かれた。私が「はい」と頷くと、男性は「やはり」と笑みを浮かべた。
「君を待っていました。会合は地下の宴会場で開かれます。案内しましょう」
 我々は歩きだしたが、男性は厳しい顔で後藤先輩を止めた。
「あなたの参加は予定されていません」
「じゃあ、俺はここで待っていよう。幸運を祈るよ」
 先輩は不敵なガンマンのごとく、両手を挙げてニヤリと笑った。
 ひっそりとしたホテルの階段を辿って、男性と私は地下へおりていった。
「君が読んだ四畳半日記は僕が書いたんだ」男性がニヤリと笑って言った。「君の日記もまた、次の学生に読まれることになる。偉大なる遺産ってわけだ」
 私は何と言っていいのか分からず黙っていた。
「戸惑うのも無理はない。いずれ分かるさ――」
 音が吸い取られてしまったように静かな廊下を進んでいくと宴会場についた。両開きの扉の脇には、「四畳半日記の會」という表示がある。
「ようこそ、四畳半日記の會へ」
 男性は重い扉を開け、私の背中を押すようにした。
 会場に踏みこんだ私を迎えたのは、濃密な男臭さと骨太な拍手であった。立食パーティの会場には二十人以上の男たちがいて、笑みを浮かべて私を見ていた。今になって思えば、その笑いは期待と憐憫と優越感の混合であったのだろう。彼らは世代もばらばらで、私を案内してくれた男性のような二十代ぐらいの若々しい人物もいれば、車椅子に座って眼光鋭く会場を睥睨(へいげい)している和服白髪の老人もいる。いずれにしても貫禄ある男たちで、それなりの社会的地位にあるようだ。幾度か新聞やテレビで見かけたことのある重鎮的人物もまじっている。
 やがて正面の壇上に上がったのは赤坂教授だった。
「我が結社の新しい仲間、松本清弘君を歓迎いたします」
 あらためて拍手が起こったのち、会場はしんと静まり返った。
 赤坂教授は「君が戸惑うのも無理はあるまい――」と語りだす。
「ここにいる誰もがそうだったし、今は亡き先輩諸氏もまた、同じ戸惑いをもってこの結社に迎えられたのだから。しかし君は選ばれたのであり、この幸運に感謝すべきである。『四畳半日記』とは何であるか。それは遥か昔から連綿と続けられてきた、偉大でない学生の無益な日常に他ならない。何のために四畳半日記があるかと問うても無駄なことだ。四畳半日記、その時空を超えた愚かな繰り返しを直視したうえで、君がこれから如何に生きるか――それが問われている」
 ジロリと私を睨む教授の目は、軟弱な獲物を狙う鷹の目であった。
「君がいかに偉大さのカケラもない、路傍のボロ雑巾のような日々を送ってきたか――我々はイヤというほど知っている。それは我々自身の不毛な四畳半時代そのものだ。無益な日々、無益な恋、無益な妄想。ハッキリ言おう、今の君にはなんの値打ちもない。しかしどんなに救いがたいマヌケであっても、立派な学生に更正させる鉄壁のカリキュラムを『四畳半日記の會』は提示する。手段は選ばん。泣き言は許さん。我らは社会的有為の人材を多数輩出してきた。学問、仕事、結婚……人生のあらゆる局面において、我ら全会員が総力を結集し、君をして正しき道を歩ましめる。君は確固たる目的意識と強い意志をもって、有意義な人生を送る。自堕落に生きる自由を除けば、何もかも思いのままだ。これまで君の生きてきた世界には何の価値もないと知りたまえ。不毛なる世界は今日をもって終わりを告げ、新しい世界が始まるのだ。選ばれた人間としての自覚をもち、人生の新地平を切り開くことを期待する。以上だ」
 立て板に水で語り終えると、赤坂教授は私を手招きした。
「では松本君に決意のほどを語っていただこう」
 私は壇上に引き上げられ、背広姿の男たちを見下ろした。
「あの……なんと言えばいいのか……」
 そのとき胸中に湧き上がってきたのは怒りであった。四畳半日記の束縛が終わりを告げたと思いきや、いっそうタチの悪い罠にはまりこんだも同然ではないか。なんというウザさ、なんという余計なお世話。やはり四畳半日記は予言というよりも呪いであったのだ!
 私が言葉に詰まっていると、会場からは「どうしたどうした」「しっかりしろ」と野次が飛ぶ。赤坂教授は目をぎらぎらさせ、「決意のほどを語れ!」と迫る。
 そのとき会場のドアが大きく開いた。後藤先輩が立っていた。
「松本君、郷里のお父さんがたいへんらしいぞ!」
 私は「失敬」と言って壇上から降り、会場を駆けぬけて先輩のところへ行った。外へ出て扉を閉め、「父がどうしたんです?」とあらためて訊くと、先輩は「嘘に決まってんじゃないの」と飄々(ひょうひょう)と言った。そして上着を脱ぐと、扉の取っ手に通して手際よく縛り始める。
「助けてくれるんですか」
「君が立派な学生になって困るのは俺だもん。世界で一番見下せる相手だから」
 ぐいぐいと内側から扉が押され、会場の男たちの怒声が聞こえた。「逃げられないぞ」「行く先は分かってる」などと言っている。後藤先輩は扉に背中を押しつけたままニヤリと笑った。「ここは俺にまかせて早く逃げろ」という台詞を、私は生まれて初めて現実で聞いた。
 かくして私は宝ヶ池のプリンスホテルから逃げだしたのである。
 あの不気味な連中からすぐに身を隠さねばならぬ。さもなくば、確固たる目的意識と強い意志をもって有意義な人生を送る何かそんな感じのものに改造されてしまうではないか。
 汗だくになって自転車を走らせて浄土寺の下宿に戻り、最低限必要なものをリュックに詰めた。こちらは四畳半生活者であるから、荷物といっても大したものはない。私自身の日記帳も忘れずに鞄に入れた。だからこそ、今こうして書いているわけだ。
 数分で旅支度を完了してアパートを飛びだし、次に向かったのは緑雨堂である。この奇怪な顛末について、珠子さんは知る資格があるからだ。
 汗だくの私が緑雨堂に駆けこむと、珠子さんが驚いて立ち上がった。
 「どうしたの? 何があったの?」
 私は精算台の内側に身を隠して、「追われてるんだよ」と言った。
 私は彼女と額を突き合わせるようにして、宝ヶ池のプリンスホテルの奇怪な出来事を語った。珠子さんは「秘密結社ね! フリーメイソンみたい!」と興奮している。後藤先輩の活躍に対しては彼女も一定の敬意を表し、自分もその場にいられなかったことを悔しがった。
「……それで、どうするつもりなの?」
「とりあえず逃げてみようと思う」
「なにそれ、超面白そう!」
 そのとき、緑雨堂の前に数台のタクシーが停まるのが見えた。追いつかれたらしい。
 すると珠子さんは『国木田独歩全集』を押し倒して精算台から飛びだし、本棚を蹴り倒しそうな勢いで走っていった。表の硝子戸に「閉店」の札を下げて鍵をかけたとき、タクシーから降りてきた背広姿の男たちが近づいてきた。彼らは硝子戸を叩いて何か言ったが、彼女は聞く耳持たずに引き返してきた。「裏口よ! 裏口!」と楽しそうに笑っている。
 我々は積み重なった本の隙間を抜けて、緑雨堂の奥へもぐりこんでいった。暗がりに目が馴れるにつれ、古本に埋もれたドアの一部がうっすらと見えてきた。邪魔になる古書を片端から持ち上げて背後にまわし、バリケードのように積んでいく。ようやくドアノブが見えたとき、古書店の入り口の方からバキッと何かを蹴破るような音が聞こえ、男たちの怒号が流れこんできた。
 しかし珠子さんは、すでに裏口の鍵を開けていた。彼女は右手でドアノブを握り、左手で私の手を摑んだ。彼女の手は素敵に柔らかく、意外なほど熱く、軽羹のようにしっとりとしていた。
 本日十月十七日をもって、呪われた「四畳半日記」の記述は終わっている。これから私が何をしようとも私の思いのままだ。今後起こる出来事の一切は、私自身の日記帳に書きこまれることになるだろう。それこそが私自身の四畳半日記である。
「行こう!」と私は言い、我々は緑雨堂の裏口から外へ逃れた。
 そこには見たこともない世界が広がっていた。

(おわり) ご愛読ありがとうございました。

著者プロフィール

  • 森見登美彦

    2003年『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。07年『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞を受賞。10年『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞を受賞。著書に『新釈走れメロス 他四篇』などがある。