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  • 第一酒 新宿 モーニング 2023年1月5日更新
 特徴的な濃いブラウンの立て看板に導かれるように店に入っていくと、すでに一番奥の席に犬森祥子(いぬもりしょうこ)が座っていた。彼女は、水沢恵麻(みずさわえま)の顔を見ると、ほっとしたように軽く手を上げた。
「おはようございます」
「大丈夫?」
 祥子は挨拶よりも前に聞いてきた。主語も述語もないけれど、恵麻にはその意味がわかった。
「あ、はい」
 そう返事をすると、祥子は笑顔になった。
「何か好きなもの買ってきたら……いや、何でも好きなものを選んでいいから、私がごちそうする。私も何か食べよう」
 祥子の前にはコーヒーだけが置かれていた。それを飲みながら待っていたのだろう。
 一緒にレジの前に立ち、モーニングやランチ、そして、たくさんの種類のビールが並んでいる写真入りのメニューを見上げた。
 新宿東口にある、お酒も飲めるカフェだった。モーニングは「モーニングセット」「モーニングミール」「モーニングプレート」「マイスターモーニング」「モーニングDX」と五種類あり、そのどれもにこんがり焼いたトーストとポテトサラダが付いていた。それ以外はゆで卵だったり、温泉卵だったり、ハム、ソーセージ、パテなど、セットによっていろいろ違う。
 その隣にはビール、黒ビール、ハーフ&ハーフなどがあった。朝から飲めるらしい。
「私……モーニングセットとビールにしようかな」
 恵麻の前にいる祥子がつぶやいている声が聞こえた。
「え。お酒飲むんですか?」
「うん。だって、仕事終わりでしょ。あなたも……朝だけど、普通の人から言ったら、会社のあとに一杯飲むのと同じことじゃない」
「なるほど、そうですね」
 恵麻は急に、自分も何かアルコールを入れたくなった。
「……やっぱり、モーニングDXと黒ビールにしよう」
 モーニングDXは一番高いモーニングセットだ。パンとポテトサラダの他に、ポークハム、ベーコン、卵、チーズがぎっしり並んでいる豪華な一皿だった。
「じゃあ、あたし、マイスターモーニングと黒ビールにします」
 写真で見るマイスターモーニングには、やはりパンやサラダの他に、肉のパテがのっていた。ビールに合いそうだ。
「いいわね……じゃあ、私が一緒に注文するね」
「ありがとうございます」
 祥子が店の女性に頼んだ。
「モーニングDXとマイスターモーニングで、それぞれ黒ビールにしてください」
「はい」
 店員がレジに打ち込む時に、言い直した。
「あ、やっぱり、一つ黒ビールやめて、コーヒーにしてください。もう一つはそのままでいいです」
「え」
 後ろにいた恵麻は思わず、叫んでしまった。祥子がアルコールを頼むというから自分も同じようにしたのに、話が違うじゃないか。
「……ごめんね、これから、本業の方でまだ働かなくちゃいけないの、忘れてた。人に会わなきゃいけないし、掃除もあるんだった。あなたはゆっくりビール飲んでね」
 なんだか、軽くだまし討ちにあったような気がしたが、ビールが飲めるのでよいとすることにした。お互い、一つずつプレートを持って、席に戻った。
「じゃあ、お疲れ様」
 祥子はコーヒーを軽く持ち上げて、乾杯のようなしぐさをした。
「お疲れ様です」
 ぐっと黒ビールを飲むと、それは苦みとともに喉を落ちていった。
「あ、おいしい」
「おいしいよねー、ここの黒ビール。もともとおいしいビールだけど、ビールサーバーの管理もちゃんとしているんだろうね」
「そうなんですね。あたし、そこまでお酒に詳しくなくて」
「私だって、素人(しろうと)だよ」
 祥子は楽しそうに笑う。
「この仕事、やっぱり、気を遣うし、他の仕事にはない疲れ方をするから、その日その日でちゃんと疲れを取った方がいいよ」
「そうですね、頑張ります」
「そんなに、気を張って頑張らなくてもいいけどね」
「はい……」
「で、どうだった? 鎌本(かまもと)さん……」
「あ」
 恵麻が今日、会ってきた人の名前だ。
「なんとか、やってきましたけど、大丈夫かどうか」
「そう」
 祥子はこんがり焼けたトーストに、バターを丁寧に広げた。それにハムをのせてパクリと食べた。
「おいしそうですね、それ」
「うん、おいしいよ。ここの店のものはなんでもおいしい……鎌本さんってどんな人だったの?」
「真面目そうな人でしたね」
「ふーん」
「たぶん、いろいろ疲れているんだろうなあって思いました」
「最近は皆、そうよね」
 祥子はバタートーストをかみしめながらうなずいた。

 数ヶ月前、恵麻が会社を辞めると、故郷の両親がとても心配した。
 まあ、当たり前だと思う。
 学生の頃から五年も付き合ってきた。同棲していたし、婚約までしてお互いの両親や家族に紹介し、結婚式場を探し始めた時、別れを告げられたのだ。
「結婚式の話をしている時、ちょっと違うかなあって思った」
 それが彼の言い分だった。
 意味がわからない。式場巡りはまだ数軒だけ。恵比寿(えびす)にある高級ホテルを見て「やっぱり、高すぎるよねえ、無理だよね」と笑いながら言い合い、青山(あおやま)にある結婚式専用の式場を見て「悪くないね、でももう少し他も見てみよう」と話し、有名神社に併設された式場に行って「素敵だけど、和装は高いね」とうなずき合い……それだけで、どこで人生を徹底的にひっくり返す「違い」が生まれたのか、まるでわからない。
「どういうこと? 何か、あたしに悪いところがあったら言って。変えられることなら、変えるし」
 恵麻はそう尋ねた。婚約者に別れを告げられた女性なら当然とも言うべき質問だった。
「うーん」
 相手……タケルという男だった……は首をひねった。
「説明できない。だけど、たぶん、人生を一緒にやっていくことはできない、決定的な違いを感じたんだ」
 決定的な違い。
「こういうのって一度、気がついたら、もう後戻りってできないと思う。溝はどんどん深まっていく。今はまだ、恵麻のこと、そんなに嫌いじゃない。だからこそ、今別れたい」
「溝? だから、それはどんな溝?」
「だからさ、それが伝わらないから溝なんじゃないか」
 彼は禅問答のようなことを言った。
「えーと、溝の意味があたしに伝わらないということが、二人の決定的な溝、ということ?」
 少し嫌み交じりに言ってみたのだが……。
「ま、そうだね」
 彼は平然と答えた。 
 あれ? この人、こんなに話の通じない人だったっけ……。
 笑いのツボは同じだと思っていた。丁寧に説明しなくても、気持ちが通じていると感動したことも一度や二度じゃなかったのに。
 この話を通して恵麻の方がわかったのだ。彼とは「決定的に、違う」と。
 だから別れた。自分の選択だと思っている。二十六はまだ若いとまわりからは言われるが、五年も付き合った恋人との別離はきつかった。
 困ったのは住む場所だ。今まで二人で一緒に住んでいた部屋は、彼が元々住んでいた高円寺(こうえんじ)の三十四平米の部屋だった。広くはないけど、二人でなんとか住めない広さではなかったし、家賃はタケルの会社から補助が出ていて、かなり安価で住めた。高円寺はおいしい店や安いスーパーが多く、恋人と暮らすには楽しい町だったが、当然、恵麻の方が出て行かなくてはいけない。恵麻の実家は北海道で、気楽に帰れる場所ではなかった。
 住まいと恋人を両方いっぺんに失った。コロナ禍が始まって三年目の秋だった。
 それでもなんとか、練馬(ねりま)でワンルームマンションを探した。駅から十分以上かかるし、当然、ユニットバスだし、小さなキッチンがある他はクローゼットも何もなく、居室は六畳どころか五畳くらいしかない、真っ白の棺桶(かんおけ)のような部屋だったけれど、四万円台だった。タケルと住むことで家賃があまりかかっていなかったのと、結婚のためにお金を多少貯(た)められていたのが幸いして、すぐに引っ越せた。
 持っていた服やバッグ、靴などを持ち込んだだけで部屋の半分は埋まり、その脇に上京したばかりの時に買った布団(ふとん)を敷いて寝た。同棲しても布団を捨てなかったのは不幸中の幸いだった。派遣社員として働いていた会社に通う以外は、ほとんどこんこんと寝ていた。
 それが突然、会社からコロナ不況を口実に、しばらく出社しなくてもいい、と言われた。そして契約が更新されなかった。派遣会社に尋ねても、「今は新規の契約がほとんどないから、しばらく待機してください」と言われるばかりだった。
 さらに、信じられないことに、その部屋でコロナにかかった。
 これが思いもかけないほど苦しい経験だった。ほとんど人に会っていなかったのに、いったい、どこでうつったのか、まったくわからなかった。
 高熱でもうろうとし、部屋の中で咳(せき)をし続けた。ガラスが刺さったように喉が痛く、身体の節々がぎしぎしと音を立てるようにきしんだ。
 このまま死んでしまうのではないか、と思った時、部屋の中にマスクとメガネ、白い防護服のようなもの(後に、それは使い捨てのレインコートだと知った)をまとった人たちがいて、自分を見下ろしているのに気がついた。驚いたけど、彼らにあらがう気力がまったくなかった。
「大丈夫?」
 その人の声は高くもなく、低くもなく、柔らかかった。
「これを飲んで」
 たぶん、経口補水液だと思われるものを口から流し込まれた。だけど、むせてしまって吐き出した。
「すみません」
 無意識に謝っていた。喉がまた、ちぎれるほど痛んだ。
「いいのよ、謝らなくていいの」
 彼女(たぶん、声から女性だと思われた)は丁寧に、恵麻の口元を拭いてくれた。
「我々は、水沢恵麻さんの、お父さんとお母さんから頼まれて来たんだよ」
 もう一人は男性の声だった。
「恵麻さんから連絡がない、風邪気味だって言ってたから、何かあったんだと思う、って心配していた」
「鍵は……?」
「大家さんに開けてもらった。我々はそういうことには慣れてるんだよ。大家さんに事情を話して開けてもらった」
 二人が目を合わせて笑ったような気がした。
「大家さんは今、入り口のところにいらっしゃるわよ。何か言うことある?」
 どうしていいのかわからなくて、首を横に振った。
「とにかく、解熱剤を持ってきたから、それを飲んで」
 彼女が今度は、ゆっくり薬を飲ませてくれた。
「どうする? ここにいたい? それとも、病院に行く?」
「……わかりません」
 どうしたらいいのかわからなかった。だけど、もう一人にもなりたくなかった。気がついたら、涙があふれてきた。
「大丈夫、泣かなくてもいいの。もう絶対、一人にしないから」
 彼女はまた優しく顔を拭いてくれた。

 その時、白い服を着ていたのが今、目の前にいる祥子だった。そして、男性は便利屋「中野お助け本舗」の社長の亀山(かめやま)。祥子には子供がいるし、亀山も人とたくさん会う(その多くは年配者だった)仕事だから、感染を気にしてそんな大仰な服装になったらしかった。
 二人はそこでいろいろ話し合い、大家や両親とも相談して、救急車を呼んでくれた。幸い病院にコロナ専用病棟のベッドの空きがあり、そのまま入院することになった。その時が一番つらい症状で、十日間ほどで退院できた。やはり二人はそろって迎えに来てくれた。
 その頃には二人の正体がおぼろげながらわかってきていた。親とスマートフォンで話して、事情を説明してもらったのだ。
 祥子は五反田(ごたんだ)のあたりに住んでいて、シェアハウスを経営しながら、亀山の仕事を手伝っているという。亀山の祖父は大臣経験もある大物で、彼を筆頭に、一族は北海道で地方議員をしていたりする実力者揃(ぞろ)いで、そのため、東京在住の同郷の人たちの世話もしているらしい。
 娘を心配した両親が亀山家の人に相談し、それで、祥子たちが家に来てくれたのだった。
「どうする? このまま家に帰る? それとも、うちの家にくる?」
 祥子はそれが当たり前のように、簡単に尋ねた。
「うちの家? シェアハウスのことですか?」
「そう。昔は外国人旅行客を相手に民泊やってて、最初は割にうまくいったから、一軒家を借りて手を広げようとしたところにコロナが来ちゃってね。そのまま、シェアハウスになったの。今、女の人が三人住んでる」
「それも五反田なんですか?」
「ううん。目黒(めぐろ)から少し歩いたところ、大鳥(おおとり)神社のあたり」
 恵麻から今の家の家賃を聞くと、祥子はうなずいた。
「うちより一万くらい高いね。でも、一人の方が気楽かな?」
「はい……」
 同意したものの、本当は今自分がどうしたいのか、よくわからなかった。今からあの部屋に帰るのは少し寂しいし、お金の心配はあっても、知らない人ばかりのシェアハウスに行くのも気持ちが乗らなかった。
「まあ、今夜は家に帰りなよ。それでまた何かあったら連絡してよ」
 亀山が言った。
「はい」
 家まで送ってもらったのに、恵麻には「実は今、仕事がないんです」ということまで打ち明ける勇気はなかった。たぶん、そんなことを言ったら、すぐに親元に連絡される、言いつけられると疑っていた。彼らを手配してくれた親には感謝しているが、婚約破棄されてから心配ばかりかけているから、たぶん、実家に帰ってこいと言われる。でも、故郷にはまだ帰りたくなかった。
 一人でまた、棺桶みたいな部屋に帰ってきたら、寒くてぶるっと震えた。それでも、なんとかヒーターにスイッチを入れて、布団を敷いて毛布にくるまった。十日間空けていたからか、部屋はなかなか暖まらなかった。入院中、軽症者用の四人部屋でまわりにはいつも人がいて、呼べば看護師さんが来てくれる環境から放り出されたのだ。思っていた以上に、病み上がりの身体に孤独がしみた。
 気がついたら祥子に電話していた。
「すみません。シェアハウスの部屋、まだ空いてますか?」
「大丈夫よ? 今すぐ、迎えに行こうか」
 電話越しの声は優しかった。

「鎌本さんの依頼はどういう感じだったの?」
「……そうですね」
 恵麻は、祥子と同じようにトーストを頬張った。恵麻がいつもスーパーで買う、一斤八十九円の格安の食パンとは違う、しっかりした噛(か)みごたえだった。高級パン屋のパン・ド・ミーを少し軽くしたような。
「最初は緊張しました」
「まあ、そうだよね」
「祥子さんは初めて仕事した時、一人で行ったんですか?」
「どうだったかな?」
 彼女は首をかしげる。
「たぶん、最初から一人で行ったと思う」
「すごいですね。あたし、たぶん、一人では無理でした」
 シェアハウスに入ってしばらくすると、恵麻に仕事がないということは祥子たちにもやっぱり伝わってしまった。ほとんど部屋にこもっているし、お金は極力使わないようにしている。もしも、仕事について尋ねられたらどうしよう、なんてごまかそう、うまくいかなかったらここからもまた放り出されるのだろうか、とびくびくしていた。
 そんなある日、共用スペースの掃除に来ていた祥子とばったり会った。
 午前十時くらいで、恵麻は朝ご飯を食べていた。キッチンに置かれている冷蔵庫に、「水沢恵麻」と書いた八枚切りのパン袋と卵のパックを置いていた。毎食そこから一枚と一個ずつ出して調理して食べる。パンはキッチンに置いてあるトースターで焼き、卵はゆで卵にしたり、目玉焼きにしたりしていた。
 その日はトーストと目玉焼きを食べていた。目玉焼きには共用の調味料の塩だけをかけていた。
 時間をかけて、ゆっくり食べた。今日は他に食べるものがなかった。
「……見守り屋、やってみない?」
 仕事は休みなの? とか、今どこで働いているの? とか、そんなことは聞かれずに、いきなりそう問われた。
「え」
「亀山がやっている『見守り屋』の仕事。営業時間は夜二十二時から翌朝五時まで。人の家に行って、一晩、その人を見守るの。お話ししたり、ただ傍(かたわ)らでその人が寝ているのを見ているだけのこともある。前は私と亀山でやっていたけど、私はシェアハウスや民泊の仕事で忙しくてね。今まではコロナの影響もあって、どちらもたいして依頼はなかったんだけど、最近、ぼちぼち復活してきているから、誰か手伝ってくれないかなって思ってたの」
「……いいんですか?」
「毎日、パンと卵だけ食べているの、心配」
 祥子はバッグの中からラップに包んだおにぎりを出して、手渡してくれた。
「これ、ラップに包んで握ったから、私の手垢(てあか)は付いてないよ。鮭(しゃけ)とおかかが入ってる」
「そんなの……大丈夫です」
「でも、今の若い子は、そういうの、気にするでしょ」
 祥子のおむすびは塩加減がちょうどよかった。食べていたら、ちょっと涙がにじんできた。流れるほどではなかったけれど。
「……仕事、ないの?」
 祥子に静かに尋ねられると、素直になれた。
「はい」
「コロナで?」
「はい」
「今は皆、つらいよね……でも、まだ前の家は契約しているの?」
「……はい」
 もしかして、ここが合わなかったら帰る場所がない、と思ったら、お金がかかるとわかっていても、なかなか解約できなかった。毎日、ひもじい思いをしても。
「でも、結婚資金を貯めていたので、少しなら貯蓄はあります」
「それはよかった。でも、少しずつ仕事してみたらどうだろう?」
「はい……あたしにできるでしょうか」
「最初は一緒に行ってあげるから大丈夫」
 それで、いつも祥子が行っているという新宿(しんじゅく)二丁目に住んでいる老女の家に行った。
 そこは以前、夫婦で時々祥子を呼んでいたようだった。でも、コロナで夫が亡くなり、それからはしばしば呼ばれるようになったらしい。
「……祥子ちゃんは見守り屋を始めた頃からうちに来てくれたわよね」
 白い髪をひっつめにした、細身のおばあさんは懐かしそうに笑った。もちろん、恵麻は仕事の助手なので、その日は自分の分の料金は請求しない。亀山からは見習い代として本来の八割ほどのお金が払われることになっていた。
 白いシャツにグレーのベストを着ているのがとても似合っている。都会のおばあさんはおしゃれだなあ、といつも思う。
 彼女からの提案で、三人でネットで配信されている映画を観た。シャーロック・ホームズの妹が事件を解決する映画だ。
「シャーロック兄弟のお母さんが魅力的ねえ」
 最初はそんなふうに楽しく話していたのだが、おばあさんは三十分もすると眠ってしまった。
「いつもこうなの、いつもね」
 そう言いながら、祥子はおばあさんに毛布をかけた。
「でもね、これでいいの。一人だと、最近、なかなか寝付けないんだって」
「あたしたち、このあとどうするんですか」
 恵麻は自然に小声になってしまった。
「このまま最後まで映画を観ましょう。あとは朝まで起きていて、彼女が起きたら話をして帰りましょう」
「起きていなくちゃいけないんですか?」
「そうね、起きてないと、仕事にならないからね。人がそばにいて、いつ目が覚めても自分を見守ってくれている、と思いたい人がいるのよ」
 そのまま、空が白く明けるまで、低い声でおしゃべりしていた。
 次に行ったのは目黒川の近くの家で、年老いた犬の見守りだ。
 その時は祥子は家まで付いてきてくれたが、途中で帰った。その犬は認知症の症状が出ているのか、前は部屋の中をうろうろ歩いて、壁に頭を押しつけたまま方向を変えられなくなったりするので、見守っていたらしいのだが、今はもうほとんど歩けない。ただ、ずっと自分のベッドで寝ていて、それを脇で見守るだけでよかった。
 ぐっすり眠っているシーズー犬……たぶん、心の底から安心している……を見ていたら、なんだか急にこの仕事の意味がわかった気がした。そっとなでると、彼の体温は熱く、かすかに耳を動かした。
 そんなふうに研修期間があって、やっと人間を一人で見守ったのが昨日から今朝にかけてのことだった。

「どんな方だったの?」
「五十代の女性で、あたしくらいの娘がいるって言われました」
「そうよね、女性だったし、亀山の「お助け本舗」には男と女と若い女の子がいる、って言ったら、ぜひ、若い女の子にって言ってたから……」
「ずっと、あたしのことを聞いてました。どうしてこの仕事をしているのか、とか……あたしが婚約を破棄されたって言ったらすごく興味持ったみたいで、詳しく聞きたがって」
「そうだったの……ご自分の話は?」
「ほとんどされませんでした……あたしの話を聞くだけ。それでよかったんでしょうか?」
「え、何が?」
「ただ、あたしが話をするだけで……」
「お客様がそれをのぞんだのならいいのよ」
「そうですか……」
 見守りの仕事についてわかってきたつもりでも、新しい客を前にすると戸惑いがあった。
 今日の客……鎌本滝子(たきこ)は何を考えているのかわからない客だった。亀山からは、五十代の女性、できたら若い女性に来てもらって話し相手になってもらいたい、娘が結婚して家を出てから寂しくてたまらないから、という理由が告げられただけだった。
 ただ、恵麻が最近「婚約解消された」と言った時だけは薄く微笑(ほほえ)んで、「今の時代、結婚だけが幸せじゃないから」と言った。彼女が多少でも感情を表したのは、その時だけだった。
「どう? 続けられそう?」
 思わず、首を少しかしげて……慌ててまっすぐに戻して、うなずいた。あまりにも不安そうだと、辞めさせられてしまうかもしれない、と思って。
 まるで、恵麻の気持ちを見透かしたように、祥子は笑った。
「それなら大丈夫かな」
「はい」
「あのね、まだ決めなくていいけど、今後派遣の仕事に復帰する気はないの?」
「あ」
「いえ、どちらでもいいんだけど」
「どうしようかなあと思って。派遣会社の登録はしていて、コロナにかかったあと、実は一度連絡もらったんです。でもなんだか、身体がきつくて……LINEでわけを話して、『身体の調子が悪い』って言ったら、本調子に戻ったら連絡くださいって言われました」
「そうなの? じゃあ、すぐにでも復帰できるの?」
「どうでしょう。たぶん、あたしと条件が合う仕事があって、こちらがOKすればできると思うんですけど」
「もちろん、無理しなくていいんだよ」
「わかってます。ありがとうございます」
 祥子と亀山が、同郷といえども、ここまで気を遣ってくれているのが、ありがたかったし、不思議でもあった。
「ただ、派遣の仕事って、コロナ禍でも思ったんですけど、やっぱり不安定で、いつ切られてもおかしくないので、ちょっと迷ってるんですよね。前からやってみたかった仕事とかフリーランスとかの仕事を探してみようかと思って」
「なるほど。もしよければ、仕事を探しながらでも、うちの仕事を手伝ってくれたら、すごくありがたいけど」
「はい、こちらこそ、ありがたいです」
「ただ、本当に、気を遣わなくていいんだからね。派遣とか、会社員の仕事に戻りたいならいつでも言って」
「わかりました」
 
 祥子が帰って行ったあと、恵麻はゆっくりと続きを楽しんだ。
 黒ビールはまだ半分以上残っている。
  ――あの人はとてもいい人だけど、やっぱり、一人で飲むのは違う。
 しみじみと残りのビールを飲み、パテを食べると深いため息が出た。つらいため息、というより、疲れがすべて身体から出ていく……デトックスのようなため息だった 
 ――そう言えば、祥子は最後に「何か、好きな食べ物はある?」と聞いてきたな、と思いだした。
「蕎麦(そば)、ですね」
「え、若いのに渋いね」
「実は、立ち食い蕎麦が好きなんですよ」
「え。立ち食い? これまた、若い子にしてはめずらしい」
「そうですか? でも、最近結構、流行ってますよ。テレビとかでもモデルさんが立ち食い蕎麦ファンとかで特集されたり……あたしはそんな優雅なものじゃないけど、東京に来たばっかりでお金がない時に……今もないですけど……有名なお店の立ち食い蕎麦をたまたま食べたらめちゃくちゃおいしくて。それから結構、ネットで調べたりしてよく行きます」
「へえ。いいじゃない! 立ち食い蕎麦。結構、朝からやってるでしょ」
「はい。やってますね。お酒飲めるところもありますよ」
「ますますいいね。そういうところで、仕事終わりにご飯食べて帰る、とか決めたら、気持ちも楽しくなるし、やる気も出るんじゃない」
 立ち食い蕎麦の食べ歩きとかしてみようかな、と思った。
「祥子さんもそうだったんですか」
「私は……ランチのご飯にお酒を注文して飲むのが自分へのご褒美だった」
 ――確かに、仕事終わりに立ち食い蕎麦にビールか日本酒を注文して食べられたら、すごくいいなあ。
 急に次の仕事が楽しみになってきた。
 黒ビールをぐっと飲み干す。
 ――本当は祥子もお酒を飲みたかったのではないだろうか。でも、仕事があるから我慢してたのかな。それとももしかして、こちらに気を遣って、お酒を頼みやすいように注文するふりをしてくれたのか。
 皿の上のパテやポテトサラダはまだ残っていた。今日もらったギャラで、もう少し飲もうと思った。
 恵麻はレジの前に行って、地ビールの小瓶を頼んでみた。ちょっとした贅沢(ぜいたく)だ。
「乾杯」
 自分で自分に小声で言って、飲む。瓶ビールの口が唇に当たる感触がなんとも楽しい。つるりとして優しい。これもまた、価値のうちだと思う。味は一杯目より、苦味は少ないのに味わいが濃く、喉にしみた。
「おいしい」
 なんとか、やっていけそうだ。
 その時、まるで天から降りてくるように、そう思った。自分の頭のずっと上からその言葉が脳の中に差し込まれたように。
 祥子に同じことを聞かれた時よりはっきりとわかった。
 あたしはなんとかやっていけそうだし、なんとかやっていかなければならないのだ、と。この東京で。
 あまり深く考えるとまた不安が戻ってきてしまいそうで、恵麻はビールをぐっと飲み干した。

(つづく) 次回は2023年2月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。