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  • 第十酒 浜松町 焼鯖定食 2023年10月1日更新
 暑くて暑くて、それでこんなことになったんだろう。
 ふらふらしながら、恵麻(えま)は思った。
 なんたって、暑すぎるから……。

 依頼人の家を朝七時過ぎに出て、浜松町(はままつちょう)駅に向かった。その時、すでに気温は三十度を超えていたと思う。改札口のすぐ横に、寿司屋があった。開店していて、入口のところに「朝定食」「朝どんぶり」と記した写真入りの大きな立て看板が置いてあった。
 ――ああ、おいしそう……そして、涼しそう……今朝はここで朝ご飯を食べていくか……。
 しかし入店しようとして、はっと気がついた。
 他に行きたいと思っていた店があったのだ。
 場所は東京駅なのだが、浜松町からなら山手(やまのて)線で数駅だ、と昨日の夜、スマホを見ながら予定を立てていた。
 その店はバターやチーズをたっぷりと使って、トーストやパンケーキ、スコーンを出すことで有名だった。滝のように流れるチーズをトーストにのせる動画は、何度もSNS上でバズっていた。しかも、ワインやビールの提供もあるらしい。ぜひ一度行ってみたい、と恵麻は思っていた。
 開店時間を見ると十時からになっている。仕事が早く終われば近くのカフェなどで時間を潰せばいいし、依頼人の様子次第ではちょうどよい時間になりそうだった。
 ――どうしよう?
 五百八十円の朝定食の写真を前にして恵麻は考え込む。その間も暑さで頭はぼんやりしている。
 ――これも悪くないけど……。
 脳の中では、どろりとチーズがとけた映像が何度もリピート再生される。そこへ冷えた白ワインをぐっと飲んで……。
 よし、ここは初志貫徹といこう、と改札を通り、山手線で東京駅に向かった。
 東京駅で降りて、その店がある丸ビルまで歩いて行った。早くもじりじりと日差しが恵麻を照りつけている。地下のレストラン街に下りると、少しだけほっとした。
 まだ店は開いていないので、近くのカフェに入った。
 冷えた店内ではこれから仕事に行くのであろう会社員や、旅行者などが思い思いに過ごしていた。チェーン系のカフェだが、丸の内の店舗は特別なのか、椅子やソファが豪華で高級感が漂う。
 そんな中でアイスコーヒーを飲んでいると、だんだん頭が冷えてきた。ふと、これから二時間以上もここで過ごさないといけないのだ、と気がつく。
 ――なんだか、十時からなら大丈夫、と思って来ちゃったけど、二時間って結構、あるぞ。
 スマホだけで時間を潰すにも限界がある。
 あたしは本当に、そこまでして大量のバターとチーズが食べたいのだろうか。
 目当ての店を改めて検索し、衝動の元となった動画を再生した。滝のような、というより溶岩のようなチーズがあった。また、パンケーキには、北海道は美瑛(びえい)産のバターが百グラムもつくらしい。
 ――そりゃ、おいしいだろうけど、百グラムもいるかな? バター。そして、二時間。 
 さらに、改めて気がついた。
 十時開店というのは恵麻がよく使っているグルメアプリの情報で、公式ホームページなどではカフェコーナーの開店時間は十一時になっていた。
 ――え? じゃあ、これから三時間?
 慌てて、スマホの時計を見る。まだここに来て二十分しか経っていない。
 待てない、やっぱり、待てない。
 ああ、なんで、あの時、もうちょっとちゃんと情報を確認しなかったのだろう……。つい数十分前の自分の行動が悔やまれる。あまりに暑くて、なんだか、衝動的に改札を通ってしまったのだ。
 ――帰ろう。いや、わざわざ交通費を使って来たのに……でもダメだ。二時間はともかく、三時間はとても待てない。この時間、いったい、どうしよう……。
 自分の愚かさに腹が立って、とはいえ、今すぐ立ち上がる元気も勇気もない。
 ぼんやりしていると、先月会食をした時の、所長の亀山(かめやま)や先輩の犬山祥子(いぬやましょうこ)との会話が思い出された。
 特に祥子が、「以前付き合っていた角谷(かどや)とまた連絡を取り合っている。このまま遠距離で付き合いを再開し、その後は大阪に行くことも考えている」という話には衝撃を受けた。
 亀山もそれに反対ではなく、祥子が本気なら、大阪でできる仕事も考える、と話していた。祥子はシェアハウス経営の収入もあるし、お金はなんとかなる、というところまで話していた。言葉以上に気持ちは角谷と大阪に向かっているのかもしれない。
「でも、お子さんはどうするんです? 明里(あかり)ちゃんは」
 思わず、聞いてしまった。
 祥子はその時一番苦しそうな顔をした。
「あの子も小学校の高学年だし、いずれにしろ、会えるのは月一回もないの。だったら、その時だけ東京に帰ってきたらいいかもしれないと思って。どちらにしても、シェアハウスのこともあるし、時々東京には来るつもりだから」
「なるほど」
 うなずきながら、お母さんが近くにいて会おうと思えばいつでも会えるというのと、時々、上京するのとではずいぶん違うなあ、と内心考えていた。
 シェアハウスの管理の一部を恵麻に任せたいという話まで出ていた。もちろん、別に給料はくれるらしい。
 恵麻にとっては悪い話ではないが……その時に、ネットライターのような仕事をすると言ったら、驚いていたようだった。
 考えていると頭が痛くなってきた。
 恵麻は意を決して立ち上がると、食器を返して駅に向かった。
 また山手線に乗って戻る。まるでさっきまでの行動を逆回しにしているように……。
 電車が浜松町に近づくに連れて、だんだんお腹が減ってきた。
 さっき気になった店に行ったらいいんじゃないか。あの寿司屋の朝定食か朝どんぶりを食べたら少しは元気になるかも……もしかしたら、お寿司もあるかもしれない。
「降ります」
 小声で言いながら、乗ってくる人をかき分けてプラットホームに降りた。
 改札口を抜けて、また、さっきの……小一時間前にその前に立った店に入った。
「いらっしゃいませ」
 中年女性がすぐに迎えてくれた。
 真ん中にカウンターがあり、ぐるりと厨房を取り囲むようになっている。他に二人掛けと四人掛けのテーブル席がいくつかあった。
 カウンターにはちょうど、男性客ばかりが一つずつ席を空けて四、五人座っていた。その間に座ることも可能だが、少しだけ気詰まりだ。
 お好きな席へ、と言ってもらったのだからそれに甘えることにしよう、と二人掛けのテーブル席に着く。
 テーブルの上には外の看板と同じメニューがあった。裏を返すと、生たまご、山芋、納豆、おしんこなどのトッピングの他に、しらすおろしやきんぴらごぼう、鮪ぶつなどの小鉢ものが並んでいる。
「何になさいますか。今日の焼き魚は鯖と赤魚、煮魚は鯖の味噌煮になります」
 女性店員がまた声をかけてくれた。白い割烹着に三角巾、お母さんのように親しみやすく、どこか品のある人だった。
「今の時間、お寿司はないんですか?」
「お寿司は十時半からになります」
 少し気の毒そうに彼女は答えた。
「じゃあ、焼き魚定食の鯖と……鮪ぶつの単品、それから生ビールありますか」
「今日は生ビールができなくて、瓶ビールなら」
「じゃあ、それで……」と言いかけたところで、壁に「稲波」(いななみ)という日本酒のポスターが貼ってあるのが目に入った。無濾過純米酒、一回火入れと書いてあるのも、意味はよくわからないがおいしそうだ。
「あの、稲波というの、飲めますか」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、それで」
 まず最初に、稲波の小瓶がやってきた。霜がついてきんきんに冷えたグラスを見たら、やっと元気になってきた。手酌で注いで、ぐっと飲み干す。
 ――冷えていても米の香りがわかる。少し癖はあるけどいい酒だ。きっと寿司や魚にも合うに違いない。
 冷酒を楽しんでいるところに焼鯖定食が運ばれてきた。トレイの上に鯖と白いご飯、味噌汁、それに小鉢に入った鮪ぶつがのっていた。他に小袋入りの海苔と醤油。
 まず、鯖の脇に添えられている大根おろしに醤油をかけ、鯖を箸で一口大にほぐして頬張る。脂がのったいい鯖だ。
 ――こういうのでいいんだよなあ、という見本のような味だ。今は大量のバターやチーズなんかいらない。SNS映えもいらない、そんな味。
 まあ、そうは言っても、あの店も一度くらいは行ってもいいけれど、と独り言つ。
  
 その日の依頼人は浜松町に住んでいる人だった。
 羽田(はねだ)空港で働いている、恵麻より少し年上の高木加代(たかぎかよ)という女性で、これまでも何度か呼んでくれたことがあった。
 最初に自己紹介し合った時、「もしかして、客室乗務員ですか?」と尋ねると、しっとりした笑みを浮かべ、「違うの、空港ラウンジで働いている」と答えてくれた。
「へえ、お綺麗だから、てっきり。でもすごいですね」
 ラウンジというのが今ひとつぴんと来なかったが、確かに、帰郷する時などに空港に行くと、構内の地図に必ずあるなあ、と思い出していた。
「すごくないよ。でも昔は成田(なりた)空港のラウンジで働いている人なんかはタクシーで送迎してもらったりしてたらしいけど」
「ええっ、タクシーで? すごっ」
「航空業界、華やかなりし頃、ね。あの頃は客室乗務員やグランドホステスなんかも皆、タクシーだったらしいよ。今じゃ考えられない」
「そうなんですか」
「私も前はグランドホステスだったの。でも、タクシーなんか使ってないよ。羽田だったし。非正規職員だったからコロナの時に解雇されて……一度は違う仕事をしていたの。前職で知りあった、空港をよく使うお客さんが紹介してくれた会社で事務とかやってたんだけどね」
 やはり、華やかな職場じゃないかと思った。お客さんが次の職場を心配して探してくれるなんて、恵麻が勤めていた会社ではあり得ない。
「でも、やっぱり、私はこの世界が好きなのね。空港の中が。だから、アルバイトでもいい、それこそ、清掃の仕事でもいいからって探したら、やっとラウンジのアルバイトが見つかって」
「アルバイトでもすごいです」
「でも、ANAとかJALとかのラウンジじゃないの。クレジットカード会社がやってるラウンジだから、そんなに豪華じゃないけどね」
「ラウンジ、行ったことないです」
「大きな部屋にテーブルや椅子が並んでいて、Wi-Fi使い放題で、フリードリンクがあって……まあ、カフェみたいなところかなあ。羽田のラウンジは建物の高い場所にあって見晴らしもいいし。とにかく、静かでお客さんはほとんど仕事してるか、読書してるかだから、仕事も楽だよ」
「空港で働くのって、そんなにいいんですか?」
「なんだろうね。空港がとにかく好きなの。あと、きちっと制服着て、きれいにお化粧してる自分も好き。今はただ、少なくなったドリンクを補充したり、受付で出入りする人をチェックするくらいの仕事だけど、でも、楽しいの。ただなんとなく働いている子も多いけど、私みたいに空港が好きだから空港ばかりで働いている人も少なくないよ。いつまでもあそこにふさわしい自分でいたいと思う」
 そんなに好きな場所があるなんて素敵だと思った。
 加代は髪が長く、家にいる時はゆるいアップにしていた。ネイルも派手ではない色をきちんと塗っている。恵麻と会う時は素顔に近いが、メイクをしたらきっとかなり華やかになるのだろうということは容易に想像ができた。空港で働いている人というのは、結局自然と、客室乗務員的な風貌になっていくのかもしれない。
 年齢は教えてくれなかったけれど、見た目から、自分より少し上だろうと思っていた。それを加味しても三十代前半かな? と予想していたが、ずいぶん昔の航空業界の事情を知っているし、話しているうちに三十五歳以上かもしれないと考えるようになった。
 自分を呼んでくれた理由は「ただ、なんとなく」だと言っていた。ラウンジは朝六時から夜九時までやっているので、友達と時間が合わないのだとも説明された。でも、もしかしたら、年齢的にもだんだん昔の友達と合わなくなってきていて、その寂しさを恵麻で埋めているのかもしれない、とも思った。
「生まれて初めて空港に行ったのが成田空港で……家族と一緒の韓国旅行だったんだけど、その時、空港ってかっこいいなあと思って」
 加代はうっとりした声になった。
「空港に恋をしたんですね」
「そう!」
 加代は顔をほころばせた。
「いいこと言うね、恵麻ちゃん」
 最初に加代の部屋に来た時にはお互いにもう少し緊張感があったと思うのだが、数回呼ばれるうちに、空港への憧れや、若い頃、お客さんにしてもらったこと――ラウンジを利用するたびに名前で呼んでもらい、カウンターに呼びだしてまるで専属のようにかわいがってもらったり、海外土産をもらったりした思い出話を、あけすけに語ってくれるようになった。
 恵麻はまったく想像もつかない世界の話ではあるけれど、空港は北海道の実家に帰る時に使うので、知らない場所でもない。
 すごいですね、かっこいいですね、と素直に思ったことを言っているだけなのに、それだけで加代は恵麻を気に入ってくれたようだった。
「今度、田舎に帰る時、ラウンジに寄ってよ」
「ええ? いいんですか?」
「私が受付で、上司とかいなかったら、中にただで入れてあげられるから」
「わ、嬉しい」
 浜松町の駅前には高いビルやタワーマンションが並んでいる。きっとお金持ちばかりが住んでいる場所なのだろうと考えていたけれど、加代の部屋に来るようになって、そればかりでもないことを知った。
「浜松町に普通に住んでいる人っているんですね。最初に住所を聞いた時はびっくりしました」
「え? そう? 探せば、十万円以下の部屋も結構あるよ」
 加代の部屋は狭いワンルームで、建物はかなり古いらしく、外壁は少しくすんでいる。だけど、部屋の中は比較的きれいだ。
「ここからなら、羽田までモノレールで一本でしょう? 通勤がすごく楽」
「でしょうねえ」
 最初に呼ばれた時に気がついたことがもう一つある。加代は深夜番組をよく観ているらしく、お笑い芸人に詳しかった。そういう話が合うのも、時々呼んでくれる理由なのかもしれなかった。
 数ヶ月前、スマホのアプリで聴けるラジオの存在を教えてくれたのも加代だ。恵麻がラジオをよく聴くと話したら、大きくうなずいた。
「ラジオってテレビよりもゆるいじゃない? でも、ラジオアプリはさらにゆるい番組が多いから。特に、まだ売れてない芸人さんはなんでも話しちゃうからおもしろいよ」
「へえ」
「最近、ちょこちょこテレビに出てる、コダイコ、いるじゃん?」
「はい。大学のお笑いサークル出身の人ですよね?」
 恵麻は彼らの姿を思い浮かべながら言った。
 背が高くて痩せているヤスと、同じく背が高いのに太っているタマオのコンビだ。意外とない体形の組み合わせだから、一度深夜番組に出演しているのを観ただけで憶えた。
「そうそう、恵麻ちゃん、わかってるねえ」
 加代は喜んだ。
「私の周りじゃ、コダイコ知ってる人ほとんどいないよ。友達でも、働いてるところでも……とにかく、彼らのラジオ番組、すごくおもしろいんだよ。結構、めちゃくちゃなことを言ってる」
 加代は思い出し笑いした。
「へえ。でも、コダイコ、最近売れてきてるんじゃないですか?」
「そうだけど、ラジオアプリは昔の録音もそのまま残っているから。二年くらい前の収録も聴けるよ」
「へえ、そうなんですか」
 恵麻もすぐにアプリをダウンロードして、コダイコのラジオ番組を聴くようになった。
 同じシェアハウスに住む、さよに誘われたウェブライターの仕事はまだ始めていなかった。一応、ウェブメディアの運営会社の人を紹介され、記事ができたらいつでも送って、と言われてから、すでに二ヶ月以上が経っていた。
 恵麻がテレビやラジオから記事を作っていても、おもしろいと思ったネタはすぐに他の人に記事にされてしまうし、なかなか記事が書けないものは「他の人にはウケないかな……」と自信がなくなってしまい、結局、送らずに終わってしまう。
 昨夜会った時、加代にその悩みを話していると、彼女が「そういえば、ちょっとおもしろい話があるかも」と言った。
「なんですか?」
「ほら、ベテラン芸人の竹下(たけした)っているじゃん」
 竹下は司会をやったりはしないが、バラエティ番組のひな壇にいるとその受け答えが上手でおもしろく、存在感のある芸人だった。最近は役者業もやっているらしい。
「あ、いますねえ」
「コダイコがラジオ番組を始めた頃、言ってたんだけど、その竹下が気に入った女の子を落とすためにコダイコのヤスを利用したんだって」
「え? 竹下って結婚してなかったですか?」
 確か、少し前に長く付き合っていた糟糠(そうこう)の妻、ならぬ彼女と結婚したはずだ。今は子供もいる。
「うーん。その頃はもしかしたら、まだ、独身だったかな。話したのは二年前でも、その件が起きたのはもっと前かも」
「独身の時も彼女はいましたよね?」
「うん。とにかく、ひどい目にあった、って愚痴ってたよ。まあ、ラジオアプリなんて誰も聴いてないと思って話しちゃったのかもしれない」
 加代はスマホをいじって、その回を出してくれた。
 すぐに、コダイコ二人の会話が始まり、確かに、コダイコのヤスが竹下に夜中、呼びだされた話をしていた。若い女性はヤスのファンだった。竹下はヤスを呼んであげるという口実で女性を誘ったらしい。
 ヤスは二人の盛り上げ役をさせられ、しかも、二軒目に行くために三人でタクシーに乗る時、最後に乗り込もうとしたら、竹下に「お前はもういいから」とドアを閉められたらしい。ヤスは深夜、六本木(ろっぽんぎ)のど真ん中で電車もなく、お金もなく途方にくれた、と説明していた。しかも、次に竹下に会った時、「あれからどうなったんですか?」と尋ねると、竹下はにやっと笑って親指を立て、サムズアップのサインをしたという。つまり、その女の子とはうまくいった、ということなのかもしれない、と。
「わあ、これ、結構、やばい話じゃないですか」
 恵麻は驚いて叫んだ。
「二年前だと、竹下も今ほどテレビに出てなかったし、つい話しちゃったのかね。でも、これ、使えない?」
「いけるかも。でも書いていいですか? 加代さん」
「いいよ、いいよ。私のネタでもないし、私はネット記事なんて書く可能性ないもん。まあ、コダイコのスキャンダルならちょっと抵抗あるけど、竹下は別にかまわないよ」
 竹下の太った赤ら顔を思い浮かべる。少し図々しく、声が大きくて、恵麻もあまり好きになれなかった。
「この女の子も嫌がってたって言ってるし、ちょっとセクハラ、パワハラの臭いもありますね。万が一、ホテルに無理矢理、連れ込んだりしてたら、ちょっと問題になるかも」
「そうなのよ。でも、いかにも竹下がやりそうよね」
「これ、頑張って書いてみようかなあ」
「いいんじゃない? 採用するかしないかは、その会社次第だし」
「ですね」
 恵麻はスマホでざっと検索してみた。竹下とコダイコの話はまだ誰も書いていないみたいだった。

「やってみようかなあ」
 鯖とご飯を一緒に口に入れながら、ついつぶやいてしまった。
 少し昔の話とはいえ、誰にも知られていないというのがいいし、竹下は最近、テレビで観ない日はないという芸人だ。
 さよからせっかく紹介してもらった会社だし、亀山たちにも話したのに、まだ一つも記事が出来上がっていないのが恥ずかしかった。
 ――とりあえず、一記事、書いてみよう。
 小鉢に入った鮪ぶつはいい色をしている。赤いところとピンクのところがほどよく混じりあっている。玉子焼きが二切れ添えてあるのもいい。
 全体に軽く醤油をかけ、わさびをのせながら口に入れた。
 ――あ、いい。かなりいい鮪だ。さすが、寿司屋だなあ。
 ピンクの部分は中トロらしく脂がのっているし、赤身も臭みがなくておいしい。
 鮪でご飯が進む。しっかりした味わいの日本酒とよく合う。醤油をかけた玉子焼きも箸休めにいい。
 ――思っていた以上に満足度の高い食事になったなあ。
 あまりに暑かったことも、今の自分自身の問題も少し横に置いて、恵麻は微笑んだ。やっぱり、おいしいご飯とお酒はいい。
 帰りにレジのところで勘定をしていると、女性店員が「生ビールは普段はあるんですが、今日はたまたまなかっただけです」と教えてくれた。
「そうなんですか。ありがとうございます」
 加代の家の近くだし、また、来ることもあるかもしれない、と思った。
 改札口に向かうと、たくさんの人が自分とは逆向きに駅から出て来るのとすれ違った。皆、シャツやブラウス姿でひと目で会社員だというのがわかる。世の中はとっくに動き始めているらしい。
 恵麻は電車に乗りながら、加代に教えられたアプリを開き、コダイコのラジオを聴き直した。
 帰ったら、今日こそ、記事にしたいと思った。

(つづく) 次回は2023年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。