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  • 最終話 稲荷町 蕎麦 2023年12月1日更新
「そうなの、大阪に行っちゃうのね……」
 祥子(しょうこ)の客、梅田直子(うめだなおこ)はさびしそうに言った。
 彼女の家は老舗(しにせ)の仏壇屋だった。約十年前に息子に譲ったあと、店をビルに建て直して、一階を店舗、二階を貸し事務所にし、そこから上を賃貸マンションにしている。彼女はひとりでその一部屋に住んでいた。大通りを一本入った場所にあるからか、店の売り上げよりも、上階の家賃が主な収入源なのだと、問わず語りに説明された。
「なんだか、さびしいわ」
 恵麻(えま)は最近、直子のような、祥子の得意客の家に一緒に行くことが多かった。
 いわゆる、仕事の「引き継ぎ」というやつで、給料は祥子の方には出ない。
 それでもかまわないから一緒に行って、ちゃんと紹介したいと言ってくれた。そういう客が、祥子には何人かいた。
「本当に、お世話になりました」
 祥子が深く頭を下げると、直子は目を潤ませながら恵麻に説明した。
「祥子ちゃんが初めて来た時にはね、夜中にうちの店を勝手に開けちゃって、お客さんを接客したの。久しぶりにね」
 あの時は楽しかったわあ、とつぶやく。
「その後も夜中に店を開けたりしたんですか?」
 恵麻は二人の顔を交互に見ながら尋ねた。今後ここに来た時、店を一緒に開けて欲しいと言われたら、どうしたらいいのだろう、と考えながら。
「いえ。あれからはやってない」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「息子たちも観念したみたいで、時々、昼間に店に立たせてくれるようになったの。あたしが勝手に開けるくらいなら、自分たちの管理下でやらせた方がましだと思ったんじゃない?」
「管理下でって」
 恵麻も笑った。
「いえ、本当よ。でも、あたしが店に出るとそこそこ売り上げがあるもんだから、やっと認めてくれた」
「それはよかったですね」
「ええ。そのお給金で、祥子ちゃんに来てもらってるの」
「ありがとうございます」
 祥子はまた頭を下げた。
「でも、大阪に行っちゃうのねえ」
「祥子さんは幸せになるんですよ」
 恵麻は座を取りなした。
「そうねえ。あなたにはお幸せになって欲しいわ」
 直子が祥子を見つめる目を見て、自分はこれからこんなふうに見守り屋として客との関係を築けていけるだろうか、と思った。

 仕事を終えて、十一時少し前に直子の家を出た。いつもの時間より遅い。祥子との別れを惜しむ直子が、何杯も何杯もお茶を淹(い)れて、なかなか帰してくれなかったからだ。
「遅くなってごめんね」
「いいえ」
「恵麻さん、これからどうする? 疲れているならまっすぐ帰ってもいいけど……」
「いえ、せっかくだからどこかでご飯食べて帰りませんか?」
 祥子が大阪に発つのは、来週だと聞いていた。こうして一緒に仕事をするのも、これが最後かもしれない。
「いいの? そうしようか。遅くなったおわびに私がおごるわ」
「え? 本当ですか? どこにします? 祥子さん、行きたいお店、ありますか」
「このあたりだと、前に、ビリヤニの店に行ったことがあるんだけど……」
「ビリヤニってインド風の炊き込みご飯ですよね」
「そう。その店は安いし、ボリュームもあるし、おいしかった。だけど、恵麻さんが別に行きたいところがあれば……」
「実は、近くに立ち食い蕎麦(そば)、って言っても椅子はあるんですけど、その本店があって、一度行ってみたいなあって思ってたんですよね」
「前にも立ち食い蕎麦が好きって言ってたもんね。いいじゃない。私はあまりそういう店には行ったことがないから、行ってみたい」
「いいですか? あたしもこっちに来ること、あまりないので……」
 恵麻はスマホを出して、マップを見ながら店の方向に歩き出した。しばらくすると、店の前に立っているウルトラマンが見えてきた。
「この信号を渡ったところです」
「え? 恵麻さんが言う蕎麦屋って、あの店……?」
 祥子が戸惑い気味の声を出しながら、そこを指さした。
「はい。あれだと思います」
「ずいぶん大きなウルトラマンね」
 確かに、それは小学校中学年くらいの背丈があった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、なかなかユニークな店だね」
「ファンには有名だから、なんとも思いませんけど、確かにいきなりだと驚きますよね?」
「ちょっとね」
 話しながら、横断歩道を渡った。
 ウルトラマンは腰に手を当てて、首からホワイトボードを下げていた。お薦めのセットメニューなどが書かれている。ミニかき揚げ丼セット、ミニ豚ラー飯、ミニ牛すじ丼セットなど、ボリュームのあるメニューが多い。
「でも、本当に有名店なんです。それに、十一時からしかやってないから、普段は時間が合わなくってなかなか行けないんですよ」
「じゃあ、入ってみようか」
 意を決したように祥子が言った。
 店の外壁には写真とメニューが大きく貼られている。
「塩だしそばとラー油そばが人気なんですよね」
「あ、いいね」
 開店時間とほぼ同時に店の引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
 男性店主がカウンターの上に乗せていた椅子をおろしているところだった。
「もう、いいですか?」
「大丈夫ですよ。お好きなところにどうぞ」
 入口のところに券売機があった。
「何にしよう」
 祥子がまじまじとそれを見つめる。
 思っていた以上にたくさんのメニューがあった。
 もりそばや月見そばなどの普通の蕎麦屋らしいメニューが上段に並んでいる。その後に、究極の塩だしそば、ゆず抹茶もりそば、かきあげ天そば、塩だし鳥そばなどの塩だしメニュー、そして、恵麻のお目当てのラー油そばや豚ラー油そばなどが続く。他に、貝だしそば、牛すじそば、カレーそばといった個性派そばのメニューも充実している。さらに、親子丼やカツ丼、卵かけご飯など、ご飯ものも豊富だ。
「あたしは豚ラー油そばにします……あ、ちょっと高いですけどいいですか?」
 それは千円以上した。
「もちろん。なんでも好きなもの食べて。私は鶏肉の入った、塩だし鳥そばにするかな。飲み物はどうする?」
「あ、ホッピーがある! 祥子さん、一緒に飲みません? ホッピー一瓶だと結構量があるから、二人で飲む方がいいと思うんですよね」
 祥子は一瞬、驚いたように黙ったあと、「いいよ」と言った。
「ホッピー、黒と白、どっちに?」
「私はなんでもいいよ」
 購入した食券を店主に出しながら、「ホッピーは黒で、〝中〟を一つ追加してください」と頼み、一番端の席に並んで座った。
「ねえ、今の中、っていうの、何?」
「ホッピーの中身です。氷と焼酎が入ったグラスのことです」
「ああ、なるほど」
 そんなことを話していると店主に話しかけられた。
「……お二人、仕事終わりですか?」
「はい」と二人の声が重なり、思わず、顔を見合わせて笑った。
「やっぱりね。朝から飲むから、仕事が終わったんだろうなと思いましたよ」
 それだけ言うと、彼はそばを作り始めた。
「ばれちゃいましたね」
 祥子にささやいた。
「そうね」
 まず、黒のホッピー一瓶と、焼酎と氷が入ったグラス二つが、カウンターの向こうから差し出された。
 恵麻が受け取って、ホッピーを両方のグラスに注(つ)いだ。祥子がその瓶をまじまじと見て言った。
「……実は私、ホッピーを飲むの初めてだわ」
「え? 祥子さん、あんなにお酒飲んでるのに? 仕事のあと、必ず毎回飲んでたんですよね?」
「そう。だけど、ホッピーって今まで選ばなかった。だいたい、ホッピーがある店にはビールがあるでしょ? だから、無条件でビールを飲んでた。なんとなく……ここまで飲まないできてしまった、って感じ」
 祥子がグラスを傾けたので、それに自分のグラスを軽く当てた。
「乾杯」
「祥子さんの門出に」
 祥子は肩をすくめた。
「どうかな」
 ぐっと飲む。
「おいしい。あたしも久しぶりだったんです、ホッピー。やっぱり、たまにはいいな」
「本当。おいしいね。飲みやすい黒ビールみたい。これまでなんで飲まなかったんだろう」
「あたし、前付き合っていた人が」
 ふっとタケルの名前が出そうになって口をつぐんだ。
「まあまあ好きで、昔はよく飲みました」
「そうなの」
 祥子が訳知り顔にうなずいたので、恵麻ははっとした。
「もしかして、聞きましたか?」
「何を?」
「幸江(さちえ)さんから……あたしが元彼と寝たこと」
「ううん」
 祥子は驚いたように首を振った。
「幸江はそういうこと、他で話すような人じゃないよ」
「だけど、祥子さんとは親友でしょ?」
「……まあね。だけど、親友だからって話さないよ」
「あ、そっかー。やだ、あたし、自分から言ってしまった」
 恵麻は肩をすくめた。
「そんなこと、あったの? 彼ってあの、前に婚約してた?」
「そうです」
「また、どうして」
 恵麻は先日の出来事を説明した。
「……よくないですよね?」
「いえ、それは恵麻さんが決めることだから……」
 祥子は困ったように笑った。
「幸江さん、あたしのこと、呆(あき)れてましたか」
「そんなことないんじゃない? 幸江、恵麻さんにシェアハウスを任せてみようって言ってたから」
「あ」
 恵麻は思わず、姿勢を正した。
「そのことも、ありがとうございます」
 祥子が大阪に発(た)ったあと、恵麻がシェアハウスの管理をすることになっていた。祥子と幸江が経営している物件はもう一軒あって、そちらは男性が四人住んでいる。
 恵麻がやることは共用部の掃除と庭の手入れくらいで、八人分の管理費と家賃の十パーセントをもらうことになっていた。それ以外の時間は他の仕事をすることも可能で、引き続き、見守り屋は続ける。ただ、住人が一人でも退去すると、その分の収入は減ることになるので、きちんと管理をしないと、それが自分に返ってくることになる。
「いろいろお世話になって……」
「ううん。やっぱり、恵麻さんに頼むのが一番だもの。私たちも気心が知れた人にお願いできて、ありがたい」
「そう言っていただけると、あたしも嬉しいです」
「塩だし鳥そばと豚ラー油そば、できました」
 店主に大きな声で呼びかけられた。
「あ、あたし、取りに行きます」
 恵麻はカウンター席から立って、そばを運んだ。
「ありがとう……あら、すごい」
 祥子は恵麻のそばを見て笑った。
「本当、なかなかすごいですね」
 恵麻の丼には、一枚の大きな海苔(のり)が蓋をするように置かれていて、真ん中に赤黒いラー油と思(おぼ)しき調味料がのっていた。
「なかなかにワイルドなそばですね」
 恵麻は海苔に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「あ、これ、韓国海苔みたいです」
「おいしそう」
 祥子の方のそばは、その名の通り、透き通ったつゆが張られ、鶏肉とネギがのっていた。
「じゃあ、食べましょうか」
「はい」
 恵麻はまず、海苔を少しずらした。すると中から茹で豚とネギがのったそばが顔をのぞかせた。つゆはさほど多くなく、底に溜まっている。
 肉と麺とつゆを大きくかき混ぜて、一口すする。ラー油はそう辛くない。ごま油とそばつゆが混ざり、柔らかい豚肉と絡まって、ボリュームがありながらさっぱりした食べやすい味だった。
「ああ、これ、おいしいなあ」
 思わず、声に出して言いながら、ホッピーを飲んだ。パンチのあるそばにとても合う。
「こっちの塩だしもおいしい」
 祥子が静かに言った。
「それにホッピーも。人気があるのわかる。今まで飲まなくて損しちゃった」
「ですよね」
 恵麻は海苔を思い切って破り、細かくしてそばに混ぜ込んだ。韓国海苔のごま油の風味と海苔の旨みが、そばや肉と合わないわけがない。
 味の濃い、おつまみのようなそばだった。一口食べるごとに、ごくごくと喉を鳴らしてホッピーを飲んだ。手が止まらない。
 しばらく無心で食べたあと、恵麻は尋ねた。
「大阪に行くこと、明里(あかり)ちゃんは大丈夫なんですか?」
 すると、祥子の肩がピクッと動いた。聞いてはいけないことを聞いたかな、と恵麻は少し後悔する。
「もちろん。明里が少しでも嫌がったり、拒否したりすることがあったら、絶対に決めてない。彼女の長期休みのときはこっちに戻るつもりだし」
「そうですか」
 ただ、明里ちゃんも気を遣って、祥子さんにも言えないことがあるだろうなあ、と思った。
「それに、角谷(かどや)さんもできるだけ早く、東京に戻れるように考えてくれているし。たぶん、一年くらいで戻れるんじゃないかと思うけど」
 祥子は、あっと小さな声を出した。
「とはいえ、恵麻さんには続けてもらえる間はシェアハウスの管理をお願いするよ。私がこっちに戻ったら、規模をもっと広げるつもりだし」
「わかってます。そんなことは心配してないです」
 恵麻は少し考えて言った。
「もし、失礼な質問をしてしまっていたら、ごめんなさい」
「いえ。大丈夫。皆、それを心配するのは当たり前だし、恵麻さんとはこれからも仕事上のパートナーでもあるんだから、そのへん、はっきり話しておいた方がいいと思って」
「はい」
 そして、祥子は話を変えるように言った。
「このおそば、本当においしいね。塩だしもさっぱりしつつ、こくがあってお酒にも合う。私の好みだわ」
「そうですか」
 ふっと、コロナ前ならこういう時、お互いに一口ずつ分け合ったりしたけど、今はちょっと躊躇(ちゅうちょ)するな、と思った。コロナはいろんなことを変えていったけど、自分たちの無防備な無邪気さみたいなものも奪っていった。
「ねえ、ホッピー、もう一杯ずつ飲まない? 私、おごるから」
「いえ、次はあたしが出します。次は白にしますか」
「いいね」
 恵麻は券売機でホッピーのチケットを買った。
 二杯目のホッピーを、祥子はおいしそうに喉を鳴らして飲んだ。
「こっちはまたさらに癖のない、普通のビールみたい」
「そうですね」
「でも、私は黒の方が好きかなあ」
「わかります。黒くらい、癖があってもいいですよね」
「おいしい。新しい味に出会えたわ。ホッピーを勧めてくれて、ありがとう」
「そういえば、あの方、どうなりました? ほら、あの、南池袋(みなみいけぶくろ)のお母さんで……」
 自然に、周りに聞こえないように、声が小さくなった。客は二人しかいなかったが。
「ああ、パチンコの人?」
「はい」
「今、頑張ってるよ。恵麻さんに見つかったあと、それを正直に旦那さんに話して、すごく怒られたらしい。もう信じられないとまで言われたけど、今は真面目に自助グループに通ってる。今度こそ、頑張るって」
「そうですか」
「旦那さんに私のことも話したみたい。そしたら、彼が依頼してくれて、時々、話したり見張ったりしてる」
「よかった……気になってたんですよね」
 二人でもう一杯ずつ、中をお替わりして飲んでいると、十二時近くになってきた。
 恵麻は最後にどうしても聞きたいことを尋ねた。
「祥子さんがまた、角谷さんとやり直そうと思ったのはなんでなんですか?」
「……恵麻さん、やっぱり、なんでもはっきり聞くねえ」
 祥子は苦笑いした。
「すみません。でも、もう三杯目だし。ちょっと酔ってきたんで」
「ふふふ。恵麻さん、絡み酒だったの?」
「これは絡むって言いませんよ。ただの質問です」
「質問酒か。そういう人、いるよね。酔ってくるとやたら質問する人」
「それに祥子さんが大阪に行ったら、もう、なかなかこうして飲めないかもしれないし」
「そんなことないよ。恵麻さんも大阪に遊びに来てよ」
「あ、ぜひ。行きます。で、なんでなんですか? 彼のことは?」
 祥子は困ったように微笑んだ。
「そうねえ」
 首を傾(かし)げた。
「いろいろある。角谷さんはいい人なんだけど、ちょっと不安定なところもあって、時々、よくわからなくなる。でも、私たち……私と明里のことを一番考えてくれている人でもある。これまで彼とうまく行かなくなった時のことをもう一度、思い出してみたの。そしたら、そのすべてがお互いに遠慮しすぎて、考えすぎていた時なのね。だったら、もう少しお互いを信頼して、話し合ったり相談したりしたら、もっとうまく行くんじゃないかって思った」
「ふーん」
「こんな当たり前のことに気がつくのに、四年以上もかかってしまった」
 祥子はホッピーのグラスを持って、一口すすった。
「ただ、やっぱり、一番大きかったのは……」
「だったのは?」
「好きだから」
「へっ?」
 祥子のストレートな答えに驚いて、恵麻はグラスを置き、祥子の顔を見た。彼女は照れていたが、まっすぐこちらを見ていた。
「好きだから。角谷さんが」
「……そうですか」
「うん……だから、明里が私を必要とするなら、その時はどんなにお金を使っても、何度でも東京に来ようと思ってる。ただ、今、角谷さんを離してはいけない、と思って」
「すごいですね」
 恵麻は思わず、つぶやいた。
「何が?」
「そこまで……はっきり自分のことがわかることがです」
「そうかな?」
 祥子はもうまったく照れていなかった。ただ、静かに小さくうなずいた。
「あたしも、どうしようかな」
 恵麻の方がどこか恥ずかしくなって、グラスに口をつけたままつぶやいた。
「元彼のこと?」
「はい」
「付き合いを復活させるつもりなの?」
「まあ、あれから時々、彼の方から連絡が来ていて」
「そう……だけどさ」
「はい」
「これは老婆心、というか、恵麻さんが私の妹だったら、というくらいの気持ちで言うんだけど」
「お願いします」
「ちゃんとはっきりさせた方がいい。彼の気持ちを。恵麻さんが彼とやり直したいなら。本当に本気でまた付き合うつもりがあるのか、なんとなく今の関係をだらだら続けていたいだけなのか、彼に聞いてみて、言質(げんち)を取った方がいい」
「あ、そうですね」
 恵麻はその時気がついた。
 ずっと見守られていた。あの部屋でコロナに感染して一人で倒れていて、二人に助けられた時からずっと、祥子と亀山に見守ってもらっていた。
「……本当にありがとうございます、祥子さん」
 祥子は不思議そうに、小さく首を傾げていた。

 次の日、恵麻は目黒(めぐろ)駅で待ち合わせをして、タケルと会った。会うための場所として中華料理店を予約したのは恵麻だった。祥子に相談したら、おいしい餃子屋がある、本店は蒲田(かまた)だけど、目黒の店もかなりおいしいし、安い、と教えてくれた。
「お待たせー」
 タケルは少し遅れて、軽い挨拶と共にやってきた。
 二人でビールと餃子をたくさん頼んで、楽しく食事をした。
 昔みたいに。
「……驚いたよ。恵麻が誘ってくれるなんて」
 最初に頼んだ餃子を食べ終わり、追加の料理をいくつか注文したあと、タケルは目元を赤くして言った。
「そう?」
「うん。いつも俺からだったから」
「そうだっけ?」
「再会してからは」
「まあね」
 そう、あの赤坂(あかさか)で再会してから、今ひとつ、よくわからない関係が続いていた。
「あなたはどうしたい?」
「え? 何が?」
 赤い顔で不思議そうにしている彼に、少しむっときた。
「あたしははっきりさせたい。前みたいに、よくわからない理由で振られたり、いきなり一緒に住んでいた部屋から追い出されたりはしたくない。一緒にいたいなら、ちゃんと、付き合うということをあなたの口から聞きたい」
 タケルはあっけにとられたような顔になった。
「じゃなきゃ、ここでお別れ」
 彼が口を開こうとしたが、それを止めた。
「あ、あと、結婚以外で一緒に住むのもなし。あたしは今、シェアハウスの生活に満足してるし、そこの管理人もすることになってるから。それをあなたのために変える気はない」
「……わかりました」
 タケルはうなずいた。
「何が?」
「恵麻……さんとこうやってご飯を食べたり、一緒に何かをするには、ちゃんと付き合わないといけない、それをはっきり約束しないといけない、ということ」
「そういうこと」
 恵麻にもわかっていた。
 約束をしたところで、関係は永遠ではないし、何かが保証されるわけでもない。今、ここで彼が宣言してくれたところで、「やっぱり、やめた」と言われたらおしまいなのだ。嘘(うそ)つき、あの時、あんなこと言ったのに、と数時間、責めることくらいはできても。
 ただ、少なくとも、今、彼に選択させることはできる。
「恵麻は今、どのくらい俺に気持ちがある? って聞くのはいけないんだろうな?」
 彼は上目遣いになって尋ねた。
「別にいいよ。あなたにそのつもりがあるなら、もうしばらく試してみるのはいいかもしれない、と思ってる」
 祥子と角谷の話を聞いて、もう一度、自分もタケルに関わってみようか、と考えていた。
「恵麻と別れてから、やっぱり、何かが足りないなって思った。前に別れたのは……そうだね、恵麻がここまではっきり言ってくれているから自分も話すけど、結婚することが怖くなった。自分の人生を決めることが」
「うん」
「でも、離れてみて、一緒にいたいなあと思うのは恵麻しかいないし……恵麻が試してみたいって言ってくれるなら、俺もそれに乗りたいって思う」
 彼は頭を下げた。きちんと、そのつむじのところまで恵麻に見せた。
「前は、傷つけてごめんなさい。もう一度、やりなおしてほしい」
「わかった」
「わかった?」
 前の別離は突然すぎて、彼のことも、二人の関係もよくわからなかった。また別れることになるかもしれないが、いずれにしろ、気が済むまでやってみよう。自分の心の中を奥までのぞきこんで、そういう結論に達した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 恵麻は自分が笑っていることに気がついた。

(おわり) ご愛読ありがとうございました。 この作品は来年秋、単行本として小社から刊行予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。