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  • 第三酒 南池袋のハンバーグ 2023年3月1日更新
 水沢恵麻(みずさわえま)が依頼人の家を出て、池袋(いけぶくろ)駅の方にふらふらと歩いていると、とても懐かしい、思いがけない看板を見つけて、はっと足を止めた。あまりにも突然だったので、一瞬、見間違えたかと思ったほどだ。
 それは、恵麻の地元にはあるが、都内では郊外や他県に行かないとなかなか出会わない店だった。以前、久しぶりに食べたくなって少し調べたのだが、近所にはないとわかって諦めていたハンバーグ中心のファミリーレストランだ。
 ――こんなところで出会えるなんて……。
 恵麻は軽く感動し、小走りになって店に向かった。
 店は雑居ビルの二階にある。ファミレスといえば、平屋造りで広い駐車場が付いているものしか知らないから、「都会だなあ」と改めて思った。
 店に着いたのは十時過ぎだった。入り口のところにある整理券発券機の前にたたずむと、券を取る前に「どうぞ、どこでもお好きなお席に」と店員さんににこやかに勧められた。
 入ってみると、確かに恵麻の他は中年のサラリーマンらしき男性しかおらず、どこでも座り放題である。雑居ビル内の店舗ということもあってあまり広くないが、まるで森の中の山小屋のようなインテリアは健在だった。
 ――懐かしいなあ。
 喜びがどんどんあふれてくる。二人がけの席に座ると、また驚いたことにメニューがタッチパネルになっていた。木製の大きなメニュー表がこのチェーン店の特徴でもあるので、これには少しがっかりさせられたが、すぐに気を取り直して、タッチパネルに触れる。
 「ディッシュ」と呼ばれる木の皿にのったハンバーグプレートが看板メニューなのだが、八時から十一時のモーニングにもちゃんと「ディッシュ」があるのが嬉しい。「ミニマムバーグディッシュ」と言って、普通より小さいサイズのセットがあり、朝にはちょうど良さそうだ。
 しかも、十時からは通常のメニューも選べるらしく、今の時間はモーニングメニューと通常メニュー、ランチメニューも選べる、奇跡の時間のようだった。もちろん、アルコール類もある。
 ――昔、親と来た時はアルコールを頼んだことはなかったなあ。あたしは未成年だったし、親も車だからご飯しか食べなかったし。今日は電車で帰るから、ビールも飲める。
 もちろん、ハンバーグを食べるつもりだったけど、他のモーニングメニューも魅力的すぎて悩ましい。
 トーストに目玉焼きやサラダ、ベーコンなどがたっぷりのったセットやトーストセットも捨てがたい。トーストはプレーンの他に、ポテトサラダをのせて焼いたものもある。これは、ポテサラを包んで焼き上げた「ポテサラパケットディッシュ」と同じポテトサラダを使っているのではないか……また、謎なのは、卵かけご飯というメニューもあって、これはご飯、生卵、みそ汁、オリジナルソースというラインナップである。
 ――卵かけご飯、めちゃくちゃ惹かれるけど、どうやって食べたらいいのだろうか……。トーストやバーグディッシュといっしょに頼むの?
 朝の時間に来るのは初めてで、とにかく、迷ってしまう。
 それ以外で絶対に食べたいのが、「イカの箱舟」というメニューだ。これはイカを丸ごと焼いたもので、父親が大好きだったものだ。自分も子供の頃からつまみ食いしていたら、大好物になってしまった一品だった。
 ――そうだ、イカの箱舟を食べながらビールが飲める……大人になって良かった。
 喜びもつかの間、ミニマムバーグディッシュには、チーズ、おろしそ、エッグ、パインといろいろ種類があって、これまた迷わされる。
 うーんと考えたあと、恵麻は意を決して、タッチパネルに向かった。
 注文したのはモーニングセットの「チーズバーグディッシュ」にみそ汁、そして、イカの箱舟とビール中ジョッキ。
 ――最初は木製のメニューじゃないことにがっかりしたけど、このタッチパネル、初めて使うのに、もう昔からの友達のようになじむわあ……。
 また、池袋に来たいなあ、誰か依頼してくれないかな、と思った時、今朝の依頼人、林田杏奈(はやしだあんな)の顔が思い浮かんだ。
 
 恵麻が、亀山(かめやま)から聞いていたのは、依頼人は南池袋のアパートで独り暮らしをしている三十代前半の若い母親だということと、朝十時まで一緒にいてくれたらいいから、ということだけだった。
「ん? 池袋で、母親で、独り暮らしですか?」
 電話で依頼内容を聞いたとき、そのプロフィールに少し違和感を覚えた。
「ん……なんでも、パチンコ依存症なんだそうだ」
「え」
「パチンコやったことあるか?」
「地元にいた時、数回……」
 高校を卒業して大学に行くまでの短い期間、何もすることがなく、何度か友達に誘われて行ったことがあった。賭け事がどうとかというよりも、あまりにも音がうるさくて好きになれず、それ以来足を運んでいない。
「あれはね、やめた方がいい。俺も一度、学生時代、夢中になりかけた」
「そうなんですか」
 何度か事務所で会った亀山は冷徹そうな男で、ギャンブルをするような雰囲気はみじんも感じなかったので、ちょっと驚いた。
 とはいえ、シェアハウスに来ていた祥子(しょうこ)に「亀山社長っていつも冷静で何事にも動じない感じですよね。ちょっと怖そう……あたしが考えていることなんて見透かされそうって言うか……」と話したら、爆笑されたので、身近な人には違うのかもしれない。
「一時は親に嘘(うそ)ついて、金借りてまでやってたくらいだから」
「嘘……どんな嘘ですか」
「財布落としたから十万円振り込んで、とか」
 思わず、笑ってしまった。
「それ、まるっきりオレオレ詐欺ですよ」
「いや、俺のことはいいんだよ。それより仕事の話」
 自分から話し始めたのに、と思いながら続きを聞く。
「詳しい話は本人から聞いたらいいけど、ざっくり説明すると、夫は普通のサラリーマンで雑司が谷(ぞうしがや)に保育園児の娘と一緒に住んでいるんだと。依頼人はパチンコにはまりすぎて、夫に怒られてもやめられないから、一時的に別居しているらしい」
「なるほど……」
「雑司が谷から近い南池袋に部屋を借りて、娘の世話もある程度はしつつ、彼女はパートをしているんだって」
「別居してパチンコ依存症が治るんですか」
「どうかなあ。パチンコをやめられるまで一時的に、と本人は言っていたが、手のかかる幼児を抱えながら夫が妻を家から出すって、相当のことだぞ。俺は離婚も含めて考えていると思う」
 かわいそうに、と自然と思ってしまった。
「とにかく一度、頭を冷やせと言われているらしいが、それでも朝になるとパチンコに行きたくてしかたがなくなるんだってさ。それを止めてほしいというのが今回の依頼だ」
「わかりました」
「パチンコはだいたい十時開店だから、それまでいてくれたらいいって」
「でも十時まで見張っていても、そのあと行ったらどうしようもないじゃないですか」
「どうやらパートが十一時からだから、それまでってことらしい。本気のパチンカスは開店前から並ぶから、パートの時間まで我慢できれば行かなくて済む、ということなんじゃないか、と俺は思う」
「パチンカスってなんですか」
「パチンコにはまってるカスのことだよ」
「彼女がパチンコに行っていないかどうかはどうやってわかるんでしょう、旦那さんは」
「そういうことも含めて、向こうが話したら聞いてやればいいと思うよ」
 という会話があって、南池袋公園近くの林田杏奈の部屋に来た。最終電車で来てくれればいい、という話だったので、言われた通りにした。
「いらっしゃい」
 八畳一間の小ぢんまりした部屋だった。夫のマンションと行ったり来たりしているということだから、このくらいで充分なのだろう。部屋の入り口を入ったところに小さなキッチンとユニットバスがあった。
 杏奈はフーディーにスキニーパンツ、という軽装で迎え入れてくれた。ほっそりとしていて化粧気もなく、茶色く染めて軽くカールした髪を一つに結んでいて、今時の普通の若い母親に見える。目がくりっとしていて、きれいな人だなと思った。
 とても、亀山が言う「パチンカス」には見えない。
「ごめんなさい、ここに誰かを呼んだことがなくて、スリッパとかないの」
「あ、気にしないでください。大丈夫です」
 そういう時のために、携帯用の部屋履きを用意していた。恵麻はなくてもいいと思ったけれど、「時々、スリッパがないと入れない部屋もあるから一応、持っていた方がいい」と祥子からアドバイスをもらったのだ。
「スリッパがないと部屋に入れないってどんなところなんですか」
「とても足をつけられないくらい汚れた部屋もあるし、床が冷たいこともあるし……まあ、あなたもいろんなところに行けばわかる」
 そう言いながら、祥子は遠くを見ていた。過去に思いを馳せている顔だった。
 部屋履きを履いて中に入ると、本当に必要最小限のものしか置いていない部屋だった。目立つのは小さなベッドと衣装ケースだけ。
「亀山さんという人には話したけど、ここは仮住まいだから」
 杏奈は、恵麻の視線を感じたのか、説明した。
 祥子には、あまり室内をじろじろ見たり、何か訝(いぶか)しがっていると相手に気づかれないようにと言われていたのに、ついやってしまった、と焦る。
「そうなんですね」
 何事もなかったようにうなずいた。
「ここで頑張って、絶対、家に戻るから」
 彼女の声は独り言のようにも聞こえ、どう返事をしていいものか、迷った。
「明日、仕事があるなら、ずっと起きているわけにもいかないですよね」
 話を変えた。
「そうなの。私はベッドに横になってもいいかな」
「もちろん。わたしは横にいますから、もし話したいことがあればなんでも聞きます」
 杏奈はすでにシャワーを浴びたという。あなたも、よければどう? と言われたけど、それは断った。彼女はスキニーからスウェットパンツにはき替えて、ベッドに横になった。恵麻はその隣に、壁を背にしてしゃがみ込んだ。
「そんなところで、ごめんなさいね」
「いいんです。慣れてますから」
 電気を消して、枕元の照明だけにすると、杏奈は仰向けになった。
「……百日、だいたい三ヶ月、我慢できれば戻ってきていいって言われているの」
 まったく、なんの前置きもなく、話し始めた。
「今、どのくらいですか」
「一ヶ月……ううん、三週間くらいかな」
「つらい……ですか」
「そうね、つらいね。子供とずっと一緒にいられないのがつらい……娘は杏里(あんり)って言うの。私から一字取って杏里……夫が、杏奈ちゃんみたいにかわいくなってほしいって言ってつけたの」
 では、旦那も、少なくともその時は彼女を愛していたのだと思った。
「旦那さんも大変ですね。一人で杏里ちゃんの面倒を見て」
「今は、義理のお母さんが時々、東京に来てる」
 ということは、パチンコのことは、親たちにも共有されているのか。
「杏奈さんのご両親は来てないんですか」
「……このこと、言ってない。夫にも言わないでって頼んでる。娘がパチンコ好きで別居させられているなんて知りたくないでしょ」
 自虐的に説明しつつ、依存症という言葉は使わないんだな、と思った。
「子供の写真、見る?」
「はい」
 基本的には依頼人には逆らわないように、と言われていたので、実はさほど興味はなかったが素直にうなずいた。
 杏奈がスマートフォンを開いて見せてくれた。待ち受け画面には幼い女の子が笑顔いっぱいに写っていた。
「かわいいですね」
「今、三歳」
 いわゆるかわいい盛り、という年齢ではないだろうか。
「母親失格だよね、私」
 杏奈の声に涙がにじんでいる気がした。
「それなのにね、時々、どうなってもいい、もう、家族を捨ててもいいから打ちたいって思う時があるの。特に朝。開店前の時間になると胸がドキドキするの」
「失格なんてことないですよ」
 そうは言ったものの正直言って、気休めの言葉でしかなかった。どうして? と聞き返されたら、何も答えられない。恵麻も内心では「母親としてどうなの?」と思ってしまう。だから、つい聞いてしまった。
「……いつからパチンコを始めたんですか」
「学生の頃、地元でね……私は千葉県出身なの。海のきれいな街。その街から千葉市にある大学に通っていた。当時付き合っていた彼氏がパチンコ好きで、手ほどきされたの」
「その時から夢中に?」
「ううん、彼に付いていっただけ。むしろ、パチンコに行くと彼がかまってくれなくなるし、嫌いだったのに」
「じゃあ、はまっていたわけではないんですね?」
「ええ。大学を出て、東京に来たの。地元にはやりたい仕事がなかったし、一度は東京で働きたくて。派遣社員として働いた会社で、正社員の夫と知り合ったの」
「その時、パチンコは?」
「その時もやってなかった」
 杏奈は深くため息をついた。当時の自分を思い出すように。
「真面目で優しい人と結婚できて……彼は正社員だし、まわりにもうらやましがられて、嬉しくてたまらなかった。パチンコしようなんて思いもしなかった」
「じゃあ、いつから」
「結婚してすぐ、夫の転勤で、岡山に行ったの。自分の仕事も辞めて」
「働き続けることは考えなかったんですか」
「まったく。派遣社員でいつ切られてもおかしくないような立場だったし、私も専業主婦に憧れがあった。岡山では家賃も安かったし、それを全額会社が補助してくれてたから、お給料だけで十分暮らして行けたし」
「それがどこで」
「向こうに行ったら急にさびしくなっちゃったの。誰も知っている人がいなくて……。友達もいないし。子供ができるまでは主婦ってすごく楽で暇。朝ご飯作って、夫を送り出したら夕方まですることがない。向こうで車の免許を取ったんだけど、いつも行くスーパーがある国道の並びにパチンコ店があって……本当に何の気なしに入ったの。時間つぶしというか、昔行ったことあるなあ、くらいの気持ちで。お小遣いももらっていたし、多少は自分の貯金もあったから」
「最初から、儲(もう)かったんですか」
「ううん。ぜんぜん。初めての人ってビギナーズラックで結構出るって言うけどね。まあ、私は厳密には初めてじゃないけど……とにかく、五千円くらいあっという間に消えて、それが悔しくて……五千円って私には大金だから。それでやめるってことにならなくて、次の日にはぜったい取り返してやるって、また行ってしまったの……」
「それからはまったんですか」
「そう。気がついたら、貯金なんてすぐになくなっていた。やばかったのは、夫のお金に手をつけたこと。当時、夫は私に銀行のキャッシュカードを預けてくれていたの。必要な時におろしていいって言ってくれてたから……それも最初はほんのちょっと借りて、勝ったら戻せばいいって思ってたんだけど、だんだん戻せなくなって」
「旦那さん、気づいたんですか」
「その頃は気づいてなかった。お金おろしたの? って言われた時はちょっと服買ったとか友達が結婚したからお祝いを贈ったとかごまかして……あのままだったら本当にやばかったかも。だけど、子供ができていったんは収まったから、夫が気づく前に一度はやめられた」
「でも、また始めちゃったんですね」
「さすがに子供が生まれて、しばらくはそれどころじゃなかったんだけどね。でも子供の出産祝いを親や親戚、友達なんかからもらって、急に現金が手元に入ったのね。それに子育てが大変であればあるほど、『やりたい、やりたい』っていう気持ちがこみ上げてきて……」
「でも、子供いますよね? どうしてたんですか?」
「託児所付きのパチンコ店を見つけたの。家から少し離れた場所だったけど、行きたくてたまらなくって。だけど、さすがに乳児じゃね。電話してみたら、一歳以上じゃないと預かれないって言われて」
「そうですよね……もしかして、駐車場に子供を置いて、とか」
「さすがにそれはやらない」
 杏奈が強く首を振って否定してくれたので、ほっとした。
「最初は夫に頼んだの。土日にね。数時間でいいから子供のめんどうを見てもらえないか、って。美容院に行くとか、買い物に行くとか理由をつけて。だけど、それだけじゃぜんぜん時間もお金も足りなくて。結局、働きたいとお願いして保育園に入れたの。夫は、まだ小さいし、少しかわいそうじゃない? って反対してたけど、最後は折れてくれた。仕事を探して、娘を保育園に預けて……働く時間を夫にはごまかして伝えて……」
 その時のことを思い出したのだろう。杏奈は涙ぐんだ。
「いったい、何やってたんだろう、私。まだ乳児の子を預けて。もちろん、ちゃんとした理由があって預けるのはまったく問題ないと思うんだけど、私は自分のパチンコのために。ご祝儀なんてあっという間に使い果たして、自分が働いたお金は全部パチンコ……食費や日用品の費用もぎりぎりまで削ってパチンコ。負けたお金を取り返すために夫の貯金にも手をつけて……でもね、生活費や夫の貯金を使ってる時の方が、勝てた時の興奮がすごいの。パチンコやってる人は『脳汁』なんて言うんだけど、いわゆるエンドルフィンよね、それがどーっと出る感じでたまらないの」
「それで旦那さんに気づかれたんですか」
「ううん、なぜか、岡山にいる間は気づかれなかった……気づかれたのは東京に戻ってから。夫が東京で高い家賃を払っていくくらいなら、家を買おうと言い出して、雑司が谷にマンションを買って……その時、夫に君からも少し頭金を出してほしい、出してくれたら所有権を共有名義にするから、と言われて、頭が真っ白になった。結婚する時、百万くらいの貯金はある、と言っていたから、覚えていたんでしょうね。でも、もう、そんなもの一円も残ってなかった。親から借りるとかすればよかったのに、あまりにも焦ってしまって、私ちょっと取り乱してしまって……私のお金を当てにしてるなんて最低、とか言っちゃって。夫、びっくりしていた。結局、うちの親が少しお金を出してくれることになったんだけど、あの頃から怪しんでいたんじゃないかな」
「そうなんですね」
「東京に来てからは、子供を保育園に預けて、昼間、少しだけ働いてあとはパチンコ。歩いて行けるところにたくさん店があるし、新宿や渋谷にも行けるし、さらに夢中になった。また夫の貯金を使って、勝ったら戻しておいたり……でも、だんだん戻せなくなって、夫には杏里の服を買ったとか言ってたんだけど、結局、ごまかしきれなくなった。何度か、何にお金を使っているのかって問い詰められて、そのたびに私は取り乱して、泣き出して、私が信じられないのかとか言って……ついに夫が興信所に依頼して、パチンコに行っているのがばれたの。夫は最初は不倫を疑ってたみたい。証拠を突きつけられて、怒られて、私もすぐ謝って、絶対やめるって誓うんだけど、我慢できなくてほんの少しだけって思って始めて、ばれて、またけんかしてのくり返し。夫はパチンコ自体よりも、私に嘘をつかれるのが許せない、疲れたって」
 それはそうだろう。恵麻は聞いていて、正直、夫にも同情した。
「半年くらいそれをくり返して、もう本当に我慢できないって……夫の両親も田舎(いなか)から出てきて、怒られるって言うより、ほとんど説得されるような感じで、家を出された。夫がここを借りてくれたの。家賃の一部を出してくれてる。で、パチンコがやめられないと、家に戻れないってことになった」
「……杏奈さんがパチンコをやってるか、やってないか、旦那さんにはわかるんですか」
 亀山と話した時にも疑問に思ったことを聞いてみた。
「それはもちろん、毎日、見張られてるわけじゃないけど、私みたいな人たちが集まる自助グループに入って定期的にミーティングに通うことを約束してる。そこではさっきみたいな話をするの。そこでどんなことをしたのか、話したのか、夫に報告することになってる。それにね、夫は私がパチンコに行ったらきっとわかると言うの。というか、次に嘘をついたらおしまいだって。パチンコに行っても、ちゃんと『行きました』って正直に言えば、許してくれる。でも三ヶ月の猶予をまた一日目からやり直し。だけど、行ったのに行ってない、と嘘をついたらもう絶対に許さない、その時は離婚だって。一回でも離婚だって」
 なるほど、それはある意味、見張っているより強い約束だなと思った。そして、何度うらぎられても、杏奈の夫はまだ彼女を愛しているのだということも。
「それで、やっと一ヶ月経ったんですね」
「うん。実は一回だけ、破ってしまって、その時はすぐに夫に言ったの。そしたら、許してくれた。でも、やっぱりかなりがっかりしてたけどね。もうあの人のあんな顔見たくない」
「それなのに、今回、わたしを呼んでくれたのはどうしてなんですか」
 杏奈は深いため息をついた。
「目に入ってしまったの」
「何が?」
「去年の終わりくらいから、新しいタイプの台が入ったって……スマスロって言うんだけど知ってる?」
「いいえ」
 知るわけがない。
「スマートパチスロ、略してスマスロ。まあ、一言で言うと、スマホとスロット台が連動しているのね。これまではメダルを使ってゲームしてたんだけど、それがスマホを使って入金できるというわけ」
「それとどういう関係があるんですか」
「私も詳しいことはうまく説明できないけど、今までのようにメダルを使わないことで、いろんな規制から逃れることができて、ギャンブル性が高い台を作れるらしいの」
「ギャンブル性?」
「そう、つまり、なかなか出ないけど、出る時はたくさん出る、一発逆転できる、お金が儲かるということ」
「なるほど」
「ネットやYouTubeではその話題でもちきりよ。パチスロの動画は見ないようにしていたんだけど、最近はお笑い芸人さんなんかがパチンコ店と組んでいろんな番組やってるから、自然にお勧めに上がって来ちゃうの。お笑いの人たちの動画なんかを観ていると」
「そういうことですか」
「スマスロの動画をつい観ちゃって……観てたら、打ちたい気持ちが胸の中にわき上がってきて、もう、我慢できなくなった。このままじゃダメだと思った。今、行かないと損しちゃうような気持ちで、心がざわざわして眠れないの」
「あたし、子供もいないし、結婚もしてないから、あまり偉そうなことを言える立場ではないですけど」
「うん」
「だけど、やっぱり、お子さんのためにも、我慢するしかないんじゃないですか」
「わかってる、そんなこと」
 杏奈は言い捨てた。
 しばらく、暗闇の中で気まずい沈黙があった。
「……言い過ぎましたよね、すみません」
 何かあったら、とりあえず、謝るように、祥子にも亀山にも言われていた。
「私もわかってるの、そんなこと」
「そうですよね」
 そのまま、杏奈は壁の方に身体(からだ)を向けた。でもなかなか寝つけないのは、何度も寝返りを打ったり、ため息をついている気配でわかった。

 気の毒な人……。
 朝になっても杏奈はあまり話をしてはくれず、気まずいまま、部屋を出てきた。
 ――あたしにももう少し、言い方があったんじゃないかな。まだよくわからない。
 反省しているところに、イカの箱舟とビールが先に出てきた。
「お待たせしました」
「あっ」
 思わず小さく声が出てしまうほど、大きなビールジョッキだった。飲み切れるだろうか。ジョッキの小、中、大とあったら、やっぱり中だろうという程度の軽い気持ちで頼んだのだが、もう少し考えれば良かったかもしれない。
 でもぐっとビールをあおった瞬間、今日はこのくらい飲んでもいいんじゃないかと思った。ハードな相手だったし。何より、ビールがおいしい。もう一度、メニューを見てみると、このチェーンが小樽(おたる)で作っている自社製のオーガニックビールらしい。
 ――これならいくらでも飲めるよ……味が濃くておいしい。それに。
 依頼主である杏奈と嫌な感じで別れてしまったことが気にかかる。もしかして、事務所にクレームなんて入れられたらクビになるかもしれない。いや、それ以上に、亀山や祥子に怒られたりしたら……ものすごくめんどうくさい、と思う。
 ――こんなふうに朝からビールを飲むのもこれが最後になったらどうしよう。
 そんなことを考えていると、いくらでも飲める気がした。
 気分を変えるかのように箸(はし)を取って、イカを食べる。端の一切れを上にのっている焼いたマヨネーズを落とさないように注意しながら口に入れた。
「やっぱり、めっちゃ、おいしい」
 自然に声が出るほどだ。昔から大好物だから味は知っているけど、やっぱりおいしい。イカはプリプリしていて、歯ごたえがありつつ、柔らかい。醤油(しょうゆ)ダレがかかっていて、そのタレだけ口に入れると少し甘い。ハンバーグのソースとも違うけれど、これがイカとマヨネーズに合う。
 これだけでも十分満足、と思っていたところに、「お待たせしました」とハンバーグの皿が来た。
「あー」
 やっぱり、また声が出てしまう。通常メニューよりかなり小さめなハンバーグだが、朝だし、ちょうどいい。
「すみません、ソース追加できますか」
「はい。すぐ、お持ちいたします」
 地元でもやっていた裏技だ。お願いすれば、追加で小さい容器に入ったソースを持ってきてくれる。
 たっぷりチーズがのったハンバーグを一口。チーズも追加できるけど、今日はこのくらいで十分だ。柔らかいハンバーグ。最近は肉の旨みがぎゅっと詰まったハンバーグや生焼けのたたきみたいなハンバーグも流行(はや)っているけど、日本人が子供の頃から食べ慣れているのは、こういうものじゃないだろうか。
 追加のソースが来たので、ハンバーグとご飯の上にかける。これを混ぜるようにして食べるとこれまたうまい。ビールにも合って、ごくごく飲んでしまう。
 ――本当においしいなあ。できたら、次は卵かけご飯とポテトサラダをのせたトーストも試したい。ビールに合うだろうなあ。でも、イカの箱舟は外せない。
 ついハンバーグやご飯ばかり食べていたけれど、サラダを忘れていた。細切りの大根に、これまた特製のマヨネーズがかかったサラダは、恵麻の母の大好物で、これだけを追加注文するほどだった。子供の頃は「野菜も食べなさい」と母が頼んだものを無理に口に入れられ、あまり好きじゃなかったけど、今はその気持ちがわかる気がした。ソースとマヨネーズが混ざった大根も悪くない。母は少しでも野菜を摂らせたかったのだろう、と思うと胸がちくっと痛んだ。
 ――あー、本当に堪能した。また、絶対来よう。
 恵麻は大きく息をついた。

 店を出て、一番近くの地下鉄の階段を目指した。少し酔っていたし、昨夜は寝ていないので眠たい。
 ――帰って、夕方くらいまでぐっすり寝よう。
 階段を下り始めて気がついた。駅への階段があるこのビルは、パチンコ店だった。
 ――こんなに近くに店があるのか……。
 階段の踊り場にパチンコ店に通じるガラスの扉がある。杏奈と話したことを思い出して、ふと立ち止まり、店の中をのぞいた。
 思っていたほど混んではいない。人気機種のところはまた違うのかもしれないが……目に付くところに飲料の自動販売機があって、すべて無料と書いてある。
 ――あれ、店に入った人は皆、無料になるのだろうか。
 気になって、重いガラス戸を押して中に入ってしまった。店の中を通って地下鉄の駅方向に直接行けそうだったので、ここを抜けていこうというくらいの軽い気持ちだった。
 自動販売機をちらりと見たあと、杏奈が言っていたスマスロというのはどれだろう、ときょろきょろした時だった。どきっとした。
 スロットを打つ、杏奈がいた。
 彼女はスロット台の前にかじりつくように座って、打っていた。部屋にいた時と同じグレーのフーディーのフードをかぶっていたので、すぐに彼女だとわかった。
 どうしよう……。このまま、知らん顔で帰ってしまおうか。
 たった一晩、依頼人と雇われた者として会っただけの関係である。彼女がどうなるかなんて、自分の知ったことではない。
 だけど、恵麻はどうしても動けなかった。その細い肩や腕から目を離せなかった。
 声をかけようかどうか迷っていると、急に杏奈がこちらを振り返った。視線を感じたのかもしれない。
「あ」
 彼女の驚愕(きょうがく)の表情を見て、逆に胸がつまった。こちらが悪いことをしたような気持ちになった。
「違うの、これは違うの」
 恵麻が何かを言う前に、杏奈が立ち上がり、泣きながらそこにしゃがみこんだ。まわりの人が振り返るほどの号泣だった。
「違うのー、そんなんじゃないのー」
「いえ、杏奈さん、大丈夫です」
 なだめようとしたけれど、あまりにも取り乱していて、恵麻もどうしたらいいのかわからない。
「お客様、どうかしましたか」
 従業員の男性が騒ぎを聞きつけて、駆け寄ってきた。
「あ、知り合いです」
 恵麻は杏奈を抱きかかえて立ち上がらせようとした。
「家に帰りましょう、ね」
 杏奈は泣きながらうなずいた。
「彼に言わないで」
「え」
「夫に言わないで」
「……あたしはその人、知らないから」
 恵麻はとっさに言った。
 彼女の泣き声が小さくなった。涙だけが流れ落ちた。やっと立ち上がらせて、歩き始める。
「お客様! スマホを解除しないと」
 台とスマートフォンが連動していると従業員の男性に言われた。杏奈にスマホを取り出させ、彼に言われるまま恵麻が操作して、解除した。
「今日、パートは?」
 店を出たところで尋ねた。
「休んだ」
 彼女の声は耳を近づけないと聞こえないくらい、小さかった。
「家まで送って行きましょうか?」
 彼女はうなずいて、また言った。
「彼に言わないで」
「だから、その人をあたしは知りませんから。あたしを雇ったのは杏奈さんです」
 少し安心したようにうなずいた。その様子が悲しく、どこか癇(かん)にさわった。だからつい、言葉を足してしまった。
「それを言うか言わないかは杏奈さん自身で決めることです。あたしが決めることじゃない」
 恵麻の声の調子に気づいたのか、彼女はまた声を上げて泣き出した。
 長い一日になりそうだった。

(つづく) 次回は2023年4月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。