原田ひ香
きっと、恵麻(えま)をずっと待っていたはずなのに、祥子(しょうこ)はなかなか口を開かなかった。 「あの角谷(かどや)さん、祥子さんと何か関係があった人なんですか?」 しかたなく恵麻が尋ねると、彼女はびくっと身体を震わせた。 「関係……そうねえ」 「もしかして、『中野(なかの)お助け本舗(ほんぽ)』と? 会社に関係している人だとか?」 すると祥子はふふふと笑った。もう観念したような笑い方だった。 「そうなの、最初はお客さんでね」 「見守り屋の?」 「いえ、彼は、亀山(かめやま)事務所に頼まれた、別の仕事で知り合ったの」 「亀山事務所」とは、「中野お助け本舗」の社長の亀山の祖父の事務所だ。 「そうだったんですか。じゃあ、政治関係の人ですか」 「そう」 「いい人っぽそうでしたよね。紳士的だし、優しそう」 祥子の笑顔が大きくなって、その時はっと気がついた。 彼女が角谷に、少なくとも何らかの好意を持っている、ということに。 「そう思った?」 「昨日、少し話しただけですけど……それでお休みになってくださいって言って、寝室を使わせてくれて、自分はどこかに行ってしまいました。朝になったら、部屋にいなくて」 恵麻は角谷からもらった封筒をバッグから出した。 「これだけ置いてあって」 祥子はそれを手に取って、じっと見た。視線の先には角谷の筆跡の文字があった。 「お金も普通より少し多く入っていました」 祥子は黙ってうなずいた。 翌朝、恵麻が共用の居間に入っていくと、シェアハウスの住人、甲田(こうだ)さよが冷蔵庫から作り置きの麦茶を出そうとしていた。 水出しの麦茶は祥子が用意してくれているもので、住人は誰でも自由に飲んでいいことになっている。ただし、容器を空にした人は、水を足して戸棚にある新しいパックと交換して入れておかなくてはならない。 それは共用トイレのトイレットペーパーがなくなったら新しいのを補充するのと同じで、ここのルールだった。 「おはようございます」 「おはよう。麦茶、飲む?」 「あ。すみません、ありがとうございます」 さよは、これもまた共用のデュラレックスのグラスを麦茶で満たして、恵麻の前に置いた。 シェアハウスの住人たちとは、特に交流はない。かといって険悪というわけでもない。すれ違えば挨拶もするし、共有スペースで一緒になれば話をすることもある。でも、そのくらいの関係がちょうどよい。皆、たんたんと生きている感じで、たぶん、祥子や亀山は契約時に入居者の人柄を吟味しているのだろう。 確か、さよは最初の自己紹介の時に「フリーランスです」と言っていたと思う。それ以上の説明はなかったが、平日の昼間も姿を見かけたり、深夜も起きている気配を感じたりするので、言われた通り、自由業なのだろうと思っていた。 さよは自然に恵麻の前に座った。 彼女は身長が百七十近くあってほっそりしている。色白で藁(わら)のような髪色がよく似合っていた。普段はいつも水色のジャージ姿だったが、今日は出かける予定があるのか、薄手のセーターにパンツを穿いている。 「今朝は早いんですね」 あまり、踏み込んだ質問はしない方がいいかな、と思いつつ、黙っているのもどうかと思って聞いた。まだ、八時だった。 「うん、ちょっと早いの」 「そうですか」 そのまま、話が途切れてしまった。グラスの麦茶が半分くらいになり、残りは自分の部屋で飲もうと思って立ち上がりかけた時、さよが口を開いた。 「……昨日、祥子さんと話してたね」 「あ、そうです。うるさかったですか」 部屋から玄関へ行くには、居間の横の廊下を通らないといけない。昨日は、住人の会社員の二人はすでに出かけていたし、二階に住んでいるさよも通らなかったので、誰も気がついていないと思っていた。 「ううん。ただ、トイレに行く時、下から声が聞こえてきて、何か話してるなあと思っただけ」 「すみません」 「ううん、ぜんぜん」 ちょうどいい機会だから、この際聞いておこうと思って尋ねた。 「あたしが朝、帰ってきた時とかうるさくないですか」 さよが午前中は寝ていることが多いことは知っていた。 「大丈夫。あんまり気にしないから」 「本当ですか」 「こういう場所に住んだらお互い様だからね」 「はい」 そのあたりで、ちょうど両方のグラスが空になった。 「じゃあ」 「そろそろ」 同時に立ち上がった時、「これから朝ご飯を食べに行くんだよね」とさよが言った。 「朝ご飯?」 「うん。生ハムの食べ放題がある店なんだけど、一緒に来る?」 「え」 思いがけない誘いに驚いた。一瞬ためらったが、生ハムは恵麻が、蕎麦(そば)に次いで、三本の指に入れてもいいくらい好きなものだった。 「ちゃんとした生ハムですか?」 「ちゃんとした?」 「国産の、ピンク色のやつじゃなくて……?」 さよは顔を上に向けて笑った。そうすると、きれいな細い鼻の穴が見えた。 「わかるわかる、国内メーカーのやつ、そういうのあるよね。でも違う。濃い赤の……なんて言うんだろう、ちゃんと熟成した、えんじ色のやつ」 「じゃあ、高いんじゃないですか? 食べ放題なんて」 「ううん。生ハムとビュッフェだけなら八百五十円。飲み物もついて」 「え、ビュッフェも? どこですか?」 「目黒(めぐろ)駅に直結しているビルの中。私は食べたら、そのまま仕事に行くけど」 「行く、行きます」 「じゃあ、コート取ってくる」 「あたしも着替えて、上着持ってきます」 慌てて、自室でカーディガンとジャケットを羽織った。 外はまだ暖かいとはいえないが、寒さは和らいでいた。目黒駅に向かう坂道を並んで歩いた。 「ここに住んでまだ一年経ってないよね?」 「そうです」 「じゃあ、春になったら大変だよ、特に桜の時期は……」 「どう大変なんですか?」 「人がすごい。休みの日は満員で店に入れなくなる。どこも高くなるし……」 「え、そんなにすごいんですか」 「このあたりはまだましだけど、中目黒(なかめぐろ)なんて通行人で渋滞になる」 「そうなんですね」 坂を上り切ったところに目黒駅があり、その駅ビルの中にさよはずんずん入っていった。 「知ってる? 目黒駅って、品川(しながわ)区なの」 「え、そうなんですか?」 さっきから、あたし、「え」ばかり言ってるなあと思う。 「そう。このあたりは目黒区じゃなくて、品川区なんだよ」 さよは慣れた様子で、フロアの真ん中にあるエレベーターで二階に上がった。迷いのない足取りで、奥の方の店へと歩いて行く。 「ここ、ここ」 そこはステーキハウスっぽい外観だった。一見、高そうに見える店だ。でも、入口に大きな立て看板があって、「朝から生ハム食べ放題 モーニングビュッフェ 八百五十円」と書いてある。さよが言った通りだった。 「こっち、こっち」 彼女の後について店の中に入ると、思っていた以上に広い。 すぐにカウンターの中にいた女性店員が気がつき、テーブル席に案内してくれた。 「どうする? 私は生ハム食べ放題にするけど」 さよはメニューを見ながら言った。 この店は生ハムの食べ放題の他に、「朝からステーキ+モーニングビュッフェ」「焼きたて卵料理+モーニングビュッフェ」、そして、ステーキと卵料理、両方ついたものもあった。 卵料理はプラス三百円で、スクランブルエッグ、オムレツ、目玉焼きの三つから選べるらしい。 「朝からすっごい量ですね。卵とステーキと、さらに生ハムなんて……」 「うん。ステーキもおいしいよ。生ハムにプラス三百五十円で、結構ちゃんとした大きさのステーキが出てくる。だけど、ステーキも食べると、生ハムがあんまり食べられなくなるんだよね。今日は生ハムだけにしよう」 「そうですか、あたしはステーキ付きにします……それから、飲み物は……」 「コーヒーと紅茶のホットとアイスが飲み放題だよ。もちろん、お水も」 「……できたら、お酒を飲みたいんですが……せっかくの生ハムとステーキなので」 さよさんは、あははは、とまたきれいな鼻の穴を見せて笑った。 「朝からよく食べて、よく飲むんだね。感心した。確か、アルコールメニューがあったはず」 女性店員に恵麻はステーキ付きのモーニングビュッフェ、さよは生ハム食べ放題のみのモーニングビュッフェを頼んだ。そして、アルコールメニューも持ってきてもらう。 ビールは国産の生ビールの他に、黒ビール、ハーフアンドハーフ、隅田川(すみだがわ)ブルーイングというペールエールなどがある。ワインもスパークリング、白、赤が各四種類ずつあって、どれもグラスで頼めるのが嬉しい。他に、カクテル、ウイスキーなどたくさん種類がそろっている。 スペインのシラー種のぶどうを使った赤ワインがあり、それにしようかと思った時、スパークリングワインの中に「濃厚な赤の微発泡ワイン」というのを見つけた。 「これください。赤のスパークリングワイン。エミリア・ランブルスコ」 「はい。かしこまりました。ビュッフェ台に生ハムとサラダ、前菜などがありますので、こちらのお皿を使ってお召し上がりください」 テーブルの上に楕円形の白い皿が置かれていた。ちょっと小ぶりで、内心少しがっかりしたが、何度もおかわりできるので大きさは関係ない、と思い直す。 「じゃあ、行こうか」 注文が終わると、さよは待ち構えていたように、立ち上がった。 ビュッフェ形式というのは本当にわくわくする。 ホテルや旅館の朝食ビュッフェに比べたら小さいが、このビュッフェも十分楽しい。 まず、メインイベントの生ハムが、プレートにどっさり盛られて置いてあった。それを自分の皿に取った。薄切りの生ハムは柔らかく、バラの花のように皿の上で咲いた。 そのすぐ横にサラダのボウルが置いてあった。カットされたレタスのグリーンリーフが盛られている。それを生ハムのバラの横に葉っぱのように添えた。 前菜は角切りの牛肉の煮込み、一見ミートソースのように見える肉のソース状のもの、そして、白っぽいソーセージのボイルの三種類があった。どれもおいしそうだったが、たくさん食べてしまうと、ステーキもあるし、肝心の生ハムが食べられない。恵麻は用心して、一つずつ皿にのせた。 それらの前菜の間に、カットされたパウンドケーキのようなものががあったので、それも一切れだけ、皿の端に置いた。 その横に飲み物が並んでいた。さよが言っていた通り、アイスコーヒーやアイスティー、ミネラルウォーターなどがある。アイスティーを取ったら、もうそれ以上は持てなくて、恵麻はスープとパンをひとまず断念して、いったん引き返す。テーブルに戻ると、そこにはすでにスパークリングワインが置いてあった。 さよは先にテーブルに戻っていて、生ハムとレタスをごまがついたパンにはさんでサンドイッチにし、頬張ろうとしているところだった。 あまりこちらに気を遣わないそういうところに、「付き合いやすそうな人だなあ」と思った。 「先に、いただくね」 恵麻が座ると、さよはパンにかぶりついた。 「その食べ方、いいですね」 「うん。私も、今日これから仕事じゃなかったら、飲むんだけどね」 さよは恵麻のスパークリングワインをうらやましそうに見ながら言った。 「さよさんはいつも、どんなお酒を飲むんですか」 「私はビール派かなあ……ああ、黒ビールが飲みたい」 「黒ビールと生ハムのサンドイッチ、いいですね」 「うん、この組み合わせ、最高だよ。持って帰りたいくらい。さすがにそれはしないけど」 恵麻は濃厚な赤のスパークリングワインを一口飲んだ。濃厚と言うだけあって、色もすごく濃い。そして、結構、甘い。 「どう?」 さよさんが上目遣いで言った。 「おいしいです。ほら、ぶどうジュースですごく濃いやつ、あるじゃないですか。あれにアルコールを入れて、発泡させた感じ。飲みやすくて、すいすい飲んじゃいそう」 「いいね」 「よかったら、一口飲みますか」 恵麻はグラスをさよの方に押し出した。 「ううん。やめとく、今日はちょっとしらふじゃないと、だめなの」 「ふーん。さよさんの仕事ってなんなんですか? 確かフリーランスなんですよね?」 さよは一瞬、黙り込んで生ハムを口に入れ、咀嚼している。しばらくしてぽつんと言った。 「いろいろやってるけど、今はネットのライター。いわゆる、こたつ記事って言われるものを中心に書いてた」 「『こたつ記事』? なんですか、それ」 「知らない? ほら、ネットとかで、テレビや雑誌、SNSの情報を組み合わせて記事にしてるやつ……こたつでテレビを観ながら書けるから、こたつ記事」 どてら姿のさよがこたつの前で記事を書いている姿が思い浮かんだ。 「へえ、そんなふうに言うんですか。知らなかった。ネットで話題になるの、最近、ほとんどああいうのですよね」 「ギャラは安い値段だけど、PV稼げれば、そのぶんお金が入ってくる……だけど、私がこの仕事を選んだ理由は、それだけが理由じゃないの」 「それだけじゃない?」 「私、ずっと芸人の松本(まつもと)さんが好きでさ」 「あ、松本人志(ひとし)さん?」 「うん。まっちゃんが本当に好きで、いわゆる、松本教の信者」 さよは照れたように笑った。 「十代の頃からずっとファン。本も読んでるし、テレビ番組も全部観ているし」 「それで、記事を書いてるんですね」 すると、さよは小さく首を横に振った。 「松本さん、こういうこたつ記事とか大っ嫌いなんだよ」 恵麻は驚いた。松本さんのファンであることと、彼が嫌いなことをあえて仕事にしているというのがどうしても結びつかない。 「だけどね、だからこそ、できることがあるんじゃないかって思ったの。ああいう記事、私もいろいろ読んで、ひどいのもたくさんあるって知って、それなら、自分が正しい記事を書いたらいいんじゃないかって思ったの。正確な情報がちゃんと伝われば、間違った内容や、センセーショナルな記事を駆逐できるんじゃないかって」 「すごい。そんなこと考えてもみなかったけど、確かに本当のファンなんですね」 「だから、私なりに頑張ってたつもりなんだけど……」 「どんなふうにされてたんですか」 「とにかく、番組はちゃんと録画して、正確な言葉を一字一句そのまま書くようにした。変な憶測やこちらの感想は入れない。あと、彼の本も読み込んで、できるだけ、彼の言わんとすることが伝わるように書いてたんだけど」 「それって、結構、大変そうですね」 「うん、大変だった。時間かかるし、たいして、PVものびないし、お金にしたら微々たるもの。それでも、少しは読んでくれる人が出てきて、ネット上で間違った内容が伝わった時に、『こっちの記事を読んで欲しい、正確に書かれてるから』って引用してくれる人とかも増えて……まあ、もちろん、松本さんの記事だけを書いているわけじゃないよ。SNSとかで炎上している人について書いたりもした。そういうのは比較的早く書けるし、P Vもわりと稼げる」 「今日、しらふで行くのって、そのお仕事と関係あるんですか」 「うん」 さよは目を伏せた。 「でも、松本さんはそういう記事が嫌で、この間、情報番組やめちゃったでしょ。だったら、私ももうやっててもしかたないかなあって。今日は契約している編集部に、やめるって言いに行くんだ」 「でも、松本さんの番組は他にもありますよね」 「そうだけど……私もちょっと疲れたのかな。頑張っても、あまり報われないし」 「あたしにもちょっとわかる気がしますよ。深夜ラジオとか時々聞くけど、それが記事になってるのを読むと、ぜんぜん、違うふうに書かれてるって、思う時ありますから」 「え」 さよが顔を上げた。 「ラジオとか、聞くんだ! じゃあ、あなたも記事書かない? ラジオ方面は書く人少ないからきっと喜ばれるよ」 本人はやめようとしているのに、手を取らんばかりにして言う。 「いやいや、私なんて、無理ですって。文章なんてうまく書けないもん」 恵麻は慌てて、顔の前で手を振った。 「記事なんて書いたことないし」 「皆、同じだよ。ネットにたくさん載ってるじゃん、あんな感じで書けばいいんだよ。ほら、私みたいに。私は夢破れたけど、ファンの人の言葉が正しく伝わるようにするって、悪い仕事じゃなかったんじゃないかな、って思ってる。だって、その記事から話題になって人気になった番組もたくさんあるんだよ。要は嘘の切り取りはせずに、興味を持ってもらえることを目指すこと」 恵麻も、記事を書くかどうかはともかく、何か、フリーランスで働くことができないか、いつか会社員に戻るとしても、副業でできることはないかと考えてはいた。 悪い話ではないと思ったが、いかんせん、自信がない。 「まあ、考えといて。その気になったら、いつでも紹介できるから」 さよは恵麻の表情で察したのか、それ以上、勧めてはこなかった。 「ありがとうございます」 ステーキが運ばれてきた。 さよが言っていた、小ぶりだがちゃんとした大きさのステーキである。これが生ハム食べ放題に三百五十円足しただけで食べられるのは悪くない。 ステーキにはアイスクリームのような形に盛られた一口サイズのライスまで付いていた。 「わ、おいしそう」 「ね、結構、ちゃんとしてるでしょ」 「はい」 ナイフを入れると、すっと切れた。ミディアムに焼かれた肉はとても柔らかい。ソースはオニオンと醤油(しょうゆ)の味がした。これがとてもご飯に合う。もっと、ご飯を食べたいくらいだった。 生ハムもおいしかったが、ステーキとご飯と濃厚なスパークリングワインの相性がとてもよかった。 「ねえ、生ハムを最初に食べたのっていつ?」 さよが生ハムでレタスを包んで口の中に入れながら尋ねた。 「うーん、どうだったっけ。確か最初は、ほら、日本のメーカーのピンク色の生ハムで、コンビニでも買える」 「ああ、さっき言ってたやつね。私も最初はあれかな」 「ちょっと生肉みたいで、びっくりしたんですよ。母が買ってきて、サラダにのせてくれたんだけど、おっかなびっくりで食べて。普通のハムよりしょっぱいけどおいしいなあ、と思いました」 「あれはあれで、悪くないよね」 「それで……次は小学生の時に、地元の洋食屋さんのサラダかなんかに今みたいな濃い色の生ハムがのってて、すごい、めちゃくちゃ、おいしいって思いました」 「小学生で、外国産の生ハムか。やっぱり、恵麻さんて若いんだね」 「いや、さよさんだって、そんなに歳が違わないでしょ」 「やだ、私、来年は四十だよ。生ハム食べたの、東京に来てからだもん」 「え! 同じくらいかと思ってました。少し上とは思ってたけど……」 お互いに顔を見合わせて、笑った。 「ねえ、昨日、祥子さんと話してたのって、もしかして角谷さんのこと?」 笑って距離が縮まったと思ったのか、さよは恵麻に顔を近づけてささやいた。 「え、さよさん、角谷さんのこと、知ってるんですか?」 「知ってるも何も。あのシェアハウスを始めたばっかりの頃は、角谷さんも一緒だったんだよ。あそこの住人は女性ばかりだから、あんまり来なかったけど、私が入居した時は彼と亀山さんが荷物を運ぶのとか、ダイニングの模様替えとか手伝ってたもん」 「へえ、そうだったんですか」 「角谷さんと祥子さんは民泊始めたけど、コロナで観光客が来られなくなって、それでシェアハウスに変えたんだよね。私も仕事が一時的になくなって、前の家を出た時に拾ってもらった。再就職できたら出て行くつもりだったけど、なんか、居心地よくて、そのまま居着いちゃってる」 「そんなことまで知ってるんですか」 「角谷さん、ちょっといい男だったでしょ?」 「え、まあ」 「あの人、祥子さんと完全に終わったのかなあ?」 探るように聞かれたけど、なんと答えていいのかわからなくて、困ってしまった。すると、さよは、あはははは、と大きな声で笑った。 「冗談、冗談。でも、あの二人、どうなんだろう?」 「……まあ、なかなかむずかしいようです」 それだけ答えた。 「じゃあ、私、そろそろ行くね。今日は自分を元気づけようと思って、ここに来たんだ。でも、もう行かなくちゃ」 「あ、ありがとうございます」 恵麻は慌てて頭を下げた。 「ううん、こちらこそ。まあ、また、朝ご飯、食べに行こうよ。他にも目黒雅叙園(がじょえん)の朝食ビュッフェとか、値段は高いけど結構いいよ」 さよはどうして急に自分を誘ってくれたんだろう、と恵麻は思った。まさか、角谷のことを聞くためでもあるまい。 「朝ですか」 「うん。私、朝食食べに行くの好きなんだ。夜や昼より安くて、しかも空いていて豪華な気分が味わえるから」 じゃあね、と手を振って出て行った。 「頑張ってください」 その後ろ姿に、つぶやいた。 久しぶりに人と話しながら食べた朝ご飯は、とても楽しかったけれど、一人になるとそれはそれで、ほっとした。 ステーキもまだ残っているし、生ハムもまだまだ食べたい。 恵麻は軽く手を上げて女性店員を呼び、赤ワインをもう一杯頼んだ。今度も少し迷って、カベルネとメルローを使ったフランスワインにした。思った通り、こくのある味で、肉によく合う。 空になった皿を持って、さらに料理を取りに行った。 生ハムをもう一度取って、その隣りにサラダを盛った。まだまだ食べられそうだ。小さめのフランスパンがあったので、それも取った。スープもカップに入れる。 テーブルに戻り、さよの真似をしてサンドイッチを作った。パンは柔らかく、ベトナムのサンドイッチ、バインミー用のパンにちょっと似ている。生ハムとレタスをはさみ、ドレッシングもかけてかぶりついた。 これもまた、いける。 ――生ハムはどんな食べ方をしてもおいしいなあ。 オレンジ色のクリームスープを口の中に入れると、海老の香りが広がった。この店は夜はオマール海老などのメニューもあるらしく、その殻で出汁を取ったのか、予想していたより、ずっと本格的な味と香りだった。 一人になると、昨日、祥子と話したことが次第に脳裏に蘇ってきた。 恵麻は祥子のことが好きだった。恩人でもあるし、仕事も住むところも用意してくれた。何より、自分を気にかけてくれているようで、時々声をかけてくれる。これが、都会でひとりぼっちになってしまった、と感じていた恵麻にとってはありがたかった。かといってあまりべたべたせず、そのバランスも居心地良かった。また決断が速くて、アドバイスが的確なのも頼りになる。 でも、昨日の祥子は、ずっと歯切れが悪く、様子がおかしかった。 「……私ね……付き合ってたの、角谷さんと」 やっぱり、と心の中でつぶやいた。 「コロナが始まる少し前くらいかな。付き合うことになった時、彼から一つの提案があったの。一緒に、外国人相手の民泊をやらないか、って」 「ああ、あの頃、流行りましたよね」 「そう。私には一つの目標というか、夢があって……私バツイチなんだけど」 「最初の頃、ちらっと聞きました」 それは祥子たちに助け出された時、コロナが治ってもなかなか立ち直れず、愚痴ばかりこぼしていた時期に教えてくれたのだ。 私もバツイチだよ、と。 一度結婚できただけでもいいじゃないですかあ、とまた泣いてしまったのだが、でも、それを教えてもらって、少し気が晴れたのも事実だった。 「子供もいて」 「え」 それは初耳だった。 「娘は夫の方に引き取られてるの。今は夫の再婚相手と暮らしてる」 うまく返事ができそうもないので、黙っていた。 「だから、私は娘を引き取って一緒に暮らすのが夢なんだけど、角谷さんはそのことも考えて、新しい仕事というか商売ができないかって提案してくれたのが民泊。最初は自分の家や部屋の一室を貸して、順調にお金が貯まったら、別の家を借りたり買ったりして、どんどん規模を広げていこうって……」 そして、もちろん、その後のことは恵麻にもわかった。 「同居はしていなかったけど、五反田の近くの同じマンションの中にそれぞれ部屋を借りて、行き来する生活で、私はいつかはそこに娘も呼べたらいいなと思ったの。最初の数ヶ月はうまくいってたのよ。私の部屋に、海外からの女性旅行者を泊めたり……ああいう民泊は日本ではただ単に、部屋を貸す商売ととらえている人が多いけど、本当はその国の人と同じ家で暮らしたい、日本の生活を体験してみたい、という旅行者もたくさんいるの。だから、結構、海外のお客さんが来てくれた。それで、手を広げようと思って、この家を借りたの」 「でも、ダメだったんですね」 「うん。そうなの。コロナが流行って、旅行者が入国できなくなって……そのあたりからだんだんおかしくなっていったのね、私たちも」 祥子はお茶を飲んで、ため息をついた。 「結果的にはシェアハウスにして正解だったんだけど、そこまでが大変だった。お客さんは誰も来ないのに、家賃だけは毎月払わないといけないでしょ。すぐに解約したい気持ちもあったんだけど、ここまで民泊やシェアハウスに向いた物件はないし、大家さんもそれを承諾してくれてるところってなかなかないから、踏ん切りがつかなくて。来月は大丈夫じゃないか、再来月にはコロナも収まるんじゃないかって、引き延ばしてしまって……コロナに関する支援金はなんでももらったし、公庫からもお金を借りたわ。コロナで娘にもなかなか会えないことが続いて、それもまた、焦りになった。娘を引き取りたい、一緒に住みたいってそればかり考えてしまって。角谷さんも結構、援助してくれたのに、この商売を勧めてくれた彼のことも、少し恨んでしまったくらい」 「あの頃は皆、つらかったですよね」 気がつくと、慰めるような口調になっていた。 「結局、思い切って、マンションを出て私はこちらに住むことにして、シェアハウスとして募集をかけたら、コロナで雇い止めになった人とか、店が休業して働けなくなったクラブなんかに勤めていた人とかが来てくれて、すぐに一杯になったの」 「祥子さん、前はここに住んでいたんですか」 「そう。入居希望者が多くなったから、今は別の場所に移ったんだけどね。別の物件も借りて、男性だけのシェアハウスもやっている」 「すごいじゃないですか」 「でも、それから彼とはギクシャクして、そのまま……彼も大阪の方に仕事があって戻って来れなかったりして、五反田のマンションを出て、今の小さな部屋に移ったの」 「ふーん」 「今、思うと、あの五反田のマンションが鬼門だったのかも。民泊をして、娘を引き取るつもりで、広くて家賃も高い部屋にしたから。自分たちには分不相応だったのかも、って思う」 祥子は弱々しく笑った。 「……角谷さん、今、住んでる部屋を引き払おうかなって言ってました」 「しょうがないね」 それだけですか、一度話された方がいいんじゃないですか、と言いたかったけれど、口には出せなかった。同世代の友達なら、絶対にそう言ったと思う。でも、祥子には子供もいるし、複雑な事情が絡んでいるのがわかって、気安くアドバイスなどできなかった。 ため息をつくと、赤ワインの匂いがした。 スマホの時計を見ると、ここに来て五十分が経っている。一時間という時間制限があるから、そろそろ出なければならない。周りのテーブルも埋まってきた。 サンドイッチの最後の一口を、赤ワインで流し込む。喉が少しひりついた。その痛みが何かを思い出させた。 機会があったら「ちゃんと話し合った方がいいんじゃないでしょうか」と忠告したかった。なぜなら、祥子と角谷には、自分と婚約者の間にあったような、険悪な雰囲気がなかったからだ。 痛みの記憶は、破局の後、しばらく部屋で安ワインばかり飲んでいた時のものだ、と気がついた。あの頃は、本当に地獄だった。 やっぱり、彼女に言わなくてはならない。 ダメになっても、このまま、別れてしまってお互いに悔恨を残すよりずっといいはずだから。(つづく) 次回は2023年6月1日更新予定です。
1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。