原田ひ香
世の中は、ゴールデンウイークらしい。 カレンダー上では平日でも、街中に人があふれている。 恵麻(えま)にはなんの予定もない。 「ゴールデンウイーク、どうするの?」 所長の亀山(かめやま)から、会議の前にたまたま同僚と二人きりになってしまった時のおざなりな会話のような電話があったのは、四月の半ばだった。 「特に予定はないです」 会社員時代なら、もう少し見栄を張った返事をしたかもなあ、と思いながら答えた。 「実家に帰らないの?」 そんなことを言われると、もしや、親から何か連絡が亀山のところに入っているのか、と疑ってしまう。うちの娘、ゴールデンウイークにも帰ってこないようなんですが、何か予定が入っているんでしょうか、もしや新しい彼氏でもできたんでしょうか、とか。 「……まあ、帰らない、予定、ですが……今のところは」 用心しながら、そう答えた。 「そう。それはよかった」 だけど、亀山の考えていたことはまったく違っていた。 「じゃあ、お休み中、仕事入れてもいいよね?」 「あ、ええ。そういうことですか」 ちょっと気が抜ける。 「そういうことって、他にどういうことがあるんだよ」 彼はおかしそうに笑う。 「いえ。別に、でも、ゴールデンウイークに呼ぶ人いるんですか? 見守り屋なんて……」 「ま、連休が始まればわかるよ。いつもと違って、急な仕事が入る可能性がある。できたらフレキシブルに動いて欲しいんだけど、当日入って、って言われても行ける?」 「ちゃんとした人なら大丈夫です」 亀山の言葉が真実だとわかったのは、憲法記念日の前日、五月二日のことだった。 「今夜、動ける?」 ゴールデンウイークが始まってもしばらくは何も連絡はなく、「なーんだ」と思いながら、寝っ転がってYouTubeを観ていた。 「あ、大丈夫です」 慌てて起き上がった。 「場所は恵比寿(えびす)。女性、歳は水沢(みずさわ)さんと同じか少し上くらい」 「ここから近いですね」 「うん。ゴールデンウイーク、一人で暇だからお願いしたいって言ってた。ただ、ちょっと気をつけて」 「なんですか?」 「初めてのお客さんだし、少しイライラしている感じだったから。ただ暇なだけという理由で、人は見守り屋を呼ばない」 何かの題名みたいだな、と思った。『ただ暇なだけで人はあなたを呼ばない』。 「何か、もっと深い理由があるのかもしれない。地雷を踏まないように」 「電話だけでそんなこと、わかるんですか」 「まあね。本来なら祥子(しょうこ)に行かせるべきかもしれないんだけど、このお休みは子供と過ごすらしいから」 「それはいいですね」 「なんでも、祥子の元旦那と今の奥さんは奥さんの実家に行くらしくて……明里(あかり)ちゃんは祥子と過ごしたい、と言ったらしい」 なかなかの闇を感じてしまう話で、どうもうまく返事ができなかった。もしかしたら、思っているよりも早く、祥子と明里ちゃんは同居することになるかもしれない。 しかし、亀山はくったくなく続けた。 「俺も昔からのお客さんの予定が入っててね」 ふと思った。亀山はいつもそんなことを言っている気がした。彼にはいつも昔からの馴染みの客が入っているようだ。でも、本当だろうか。 「大丈夫です。頑張ります」 祥子に頼らなくても、自分も一人前にやれるところを見せたかった。 「じゃあ、よろしく。住所は……」 恵比寿から徒歩十分程度のマンションらしい。部屋の番号からするとそこそこ高層階だ。いいところに住んでるなあ、うらやましい、と思いながら電話を切った。 夕方、出かける用意をして階下に下りると、一階に住んでいる、さえりと美奈代(みなよ)がダイニングキッチンのテーブルに向かい合って座り、笑っていた。 二人とも会社員で、セミロングの茶色い髪に丸顔で、いつも似たようなアースカラーの服を着ている。一見、姉妹のようによく似ているし、仲がいい。 「おでかけですか」 ダイニングキッチンのそばを通ると、さえりが声をかけてきた。彼女は身長百六十センチくらいで、美奈代が百五十五センチくらい。背が少し高いだけで、なんとなく、さえりがお姉さんに見えた。 「仕事に行ってきます」 祥子から聞いているのか、二人は恵麻が見守り屋の仕事をしているのを知っているようだった。 「お気をつけて」 「お二人は、ゴールデンウイークはどこか出かけないんですか?」 二人は顔を見合わせて笑った。 「私は五、六、七日は彼氏と伊豆(いず)に行ってきます」 「あたしは同じ日程で妹と京都に言ってきます」 美奈代が「ゴールデンウイークに家族と旅行なんて終わってるんだけど」と言って、肩をすくめた。 「いえいえ」 実家にさえ帰らない人間はもっと終わってるんだろうか、と考えながら家を出た。 恵比寿までは目黒(めぐろ)からだと電車に乗るほどの距離でもないし、かといって、歩くには少し距離がある。シェアハウスには共用の自転車が一台あって、誰も使っていなければいつでも使っていいことになっていた。 家を出ようとすると、その自転車が家の前に停まっていたので「使おうかな?」と一瞬考えたのだが、帰りに朝酒をする可能性もあると考え、乗るのをやめた。 目黒から山手(やまのて)線に乗り、恵比寿で降りた。依頼人の家は東口方面で、山種(やまたね)美術館の近くにあるらしい。 ――このあたり、結構、坂が多いよなあ。 少し息を切らしながら、閑静な住宅街にあるマンションまで歩いた。 当然、オートロックのマンションだろうと思っていたら、そうではなかった。広いエントランスを抜けると住民たちの郵便受けが壁に並んでいて、その奥にエレベーターが見えた。意外と古い建物らしい。 部屋番号を確認し、最上階の十階に上がった。依頼人のドアのチャイムを鳴らすと、待ち構えていたかのようにすぐに開いた。 「いらっしゃい」 亀山が言っていた意味が少しわかった。 依頼人の高野真希(たかのまき)は左手にワイングラスを持っていて、それは赤ワインで満たされていた。 「中野(なかの)お助け本舗の水沢恵麻です」 「わかってる。どうぞ」 彼女の後について部屋の中に入った。 外観は古く見えたが、中に入るとそれほどでもない。ただ、天井が少し低いような気がした。 玄関からまっすぐに廊下が延びており、トイレと風呂場のドアがそれぞれあった。廊下の奥にガラスがはまったドアがあり、その向こうはダイニングルームになっていた。 「いらっしゃい」 彼女はもう一度言って、恵麻をソファに座らせた。ダイニングルームにはソファセットと大きなテレビ、背の低い本棚があった。 「何か飲む?」 「いえ……一応、飲み物は持ってきています」 恵麻は自分のリュックから、水のボトルを出した。 「ああ。そうか。今、いろいろ物騒だもんね。面識のない人のうちで何を飲まされるかわからないよね、同性でも」 決して、そういう意図ではなく、ただ自前で用意していただけなのだが、真希は一人で納得してうなずいている。 「いえ、別にそういうわけでは」 「ううん、あたしはそういうの、気にしないから」 訳知り顔でうなずいた。 真希は隣のキッチンから赤ワインのボトルとピスタチオが山盛りに乗った皿を持ってきて、テーブルの上に置いた。 「よかったら、食べる?」 「はい。ありがとうございます」 悪い人ではないらしい。 真希は大柄でラグラン袖の大きめのカットソーにスパッツをはいていた。長い髪はアップに結っていて、きちんと化粧もしている。どこか大まかな、雑に描いた絵のような顔立ちだった。 とはいえ、美人だという人もいるかもしれない。 「なんか、することなくてねえ」 しばらく黙っていると、彼女の方からため息交じりにそう言われた。 これは、確かに、亀山から伝え聞いていた通りなのかもしれない。 「あたしさあ……愛人やってるのね」 え、と大声で返事しそうになったのをぐっと堪(こら)えた。地雷を踏むなと言われたことをとっさに思い出したのだ。 「……そうなんですか」 大きくもなく、小さくもなく、熱くもなく、冷たくもなく……なんの感情も差しはさまない声を出せた自信があった。 「そうなの」 それから、彼女はしばらく黙った。 「……いつからですか?」 しかたなく質問してみた。 「うーん。コロナが始まった、少しあとくらいかなあ」 あ、意外と最近なんだと思った。 「その前は会社員とかだったんですか」 「ううん。その前はこの近くの、キャバクラとスナックの間くらいの店で働いていて」 「はい」 ここから、彼女の身の上話が始まるのかなあ、と思った。 「愛人て、こういう休みの時、本当にすることないのね」 いや、身の上話が始まるのは、まだまだ先のようだった。 朝、八時過ぎに真希の部屋から出ると、彼女が寝静まった頃にスマホで探した、二十四時間営業の中華料理店に向かって歩いた。 二十四時間営業の店には今まで行ったことがない。 深夜はともかく、今は朝八時だ。いったい、自分の他に、どんなお客さんがいるんだろう? ネットで見る限りは、モーニングなどのセットメニューはなさそうだった。 昨夜とは逆方向に恵比寿駅まで歩き、そこを通り過ぎてまた坂を少し上ったところに店があった。雑居ビルの二階の窓から、赤い提灯がさげてあるのが見える。いかにも中華料理店という風情で、看板も赤い。入口に「24H GRAND MENU」と書かれた看板があり、大きな北京(ペキン)ダックの写真が貼ってあった。北京ダックが一推(いちお)しの、人気メニューらしい。 中に入ると、赤と青を基調とした華やかな店内の半分だけ電気がついた状態で、静まりかえっていた。男性店員が一人、テーブルでまかないらしき料理を食べている。 「いらっしゃいませえー」 恵麻に気づくと、彼は少し訛(なま)りのある日本語で言って立ち上がった。 「一人です」 窓際の明るい席に案内された。 店内にはもう一組、三人連れの男性がいて、朝からビールを飲んでいる。カジュアルな服装だった。旅行者か、近くに住んでいる人かもしれない、と思った。 テーブルの上に大きくて厚くて重いメニュー表が置いてあった。驚くほどたくさんの料理が並んでいる。 まずはもちろん、名物の北京ダックが写真入りで「本窯焼き北京ダック」と出ており、食べ方が丁寧に紹介されていた。なんでも「三度食べるとクセになる」北京ダックらしい。 次のページには「特別鴨(かも)料理」として、鴨の前菜、鴨の点心、鴨の熱菜がずらりと何十種類も並んでいる。その次のページには水餃子(すいぎょうざ)がびっしり。これまた、二十種類以上の水餃子があって、「オーダー後、手包みいたしますので、多少お時間がかかります」と期待を煽ることが書いてある。次が前菜のページ。一般的な中華の前菜と呼べるものはほとんどそろっているんじゃないか、という三十五種類がずらり。その次も前菜とサラダと野菜料理。さらに次はこの店の「最強料理八選」として、スペアリブ炒めや酢豚などが並び、加えて、麻婆(マーボー)が豆腐やナス、春雨(はるさめ)などの六種類。それから、牛肉、豚肉、それぞれの内臓料理、海鮮料理、羊肉料理、玉子料理、鶏肉料理、春餅巻セットなどと続き、やっとスープや粥(かゆ)、ご飯もの、麺類などが出てくる。次のページは点心、餃子、小籠包、デザート……でやっと終わったと思ったら、その後にまた、中国火鍋、重慶(じゅうけい)焼魚、重慶麻辣香(マーラーシャン)鍋などの特別料理が続く。いったい、何種類の料理があるのか、とても数え切れない。果てしない数である。 いかにも中国料理の店だなあとわくわくしつつ、こんなにたくさんのメニューを瞬時に二十四時間出せる厨房というのはどうなっているのだろう、とも思う。 さあ、感心ばかりしていても始まらない。いったい、何を食べよう……。 前菜の中にある、ジャガイモ千切りさっぱり味、という料理はきっとさっと火を通したジャガイモのサラダだろう。恵麻の好物でもあるので最初の一皿として頼むことにした。二百六十円という手頃な値段からして、きっと量もほどよいに違いない、と思う。 それから、せっかくだから少し鴨も食べたい。さすがに北京ダック一羽を平らげるのは無理だから、代わりに、「北京ダック春巻き」はどうだろうか。それから、水餃子も食べたいな……。 「すみません」 男性店員に声をかけた。 「はい」 「注文お願いします。ジャガイモ千切りさっぱり味、北京ダックの春巻き、四川麻辣スープ餃子をください。それに、生ビールを」 どれも二百円から四百円台の料理で手頃な値段だった。 彼は軽くうなずいて、奥に引っ込んだ。 注文を終えて、開け放たれた窓から外を見る。いい天気だけど、まだ暑くはない。涼しい、いい風が入ってくる。周りはビルが立ち並んでいる場所だけど、こうしているとどこか、海外に来ているような気持ちになってくる。 「……そろそろ、海外旅行にも行きたいなあ」 つい独り言をつぶやいていると、新しく二人の男性客が入ってきた。彼らは男性三人連れのテーブルにまっすぐに向かって行った。知り合いらしい。 「どうも、どうも」 「終わった? 大丈夫?」 「はい、あれから、ちょっと連絡が入って……」 聞くともなしに聞いていて事情がわかった。彼らは近くの会社で働いている同僚同士らしい。どうやら昨夜から会社で徹夜作業していたエンジニアのようで、仕事が終わった人から順にこの店に来て朝酒を飲んでいたようだ。 「あの人には参りましたよ」 「まあ、飲んで飲んで」 皆、ハイペースでビールやハイボールをあけている。 ――二十四時間営業の店って、こういう使い方もされてるんだなあ。 彼らのテーブルにもつまみのような皿はあるが、どちらかと言うと酒ばかり飲んでいるようだ。 同じように深夜働いていたものとして、共感がわいた。 それに、二十四時間営業の店の朝というのは、どこかのんびりしていて、それがまた意外といいものだ、と思った。 「はい」 簡潔な言葉とともに、恵麻のテーブルにもビールが運ばれてきた。 「ありがとうございます」 ぐっとあけると、喉をほろ苦くて爽やかな液体が通っていった。 それとともに、昨夜のことが思い出された。 「愛人て、こういう休みの時、本当にすることないのね」 「……楽でいいじゃないですか」 思わずそう言ってしまうと、真希は恵麻の顔をまじまじと見た。 やばい、これは亀山の言う、地雷を踏んでしまったことになるのかな、と思ってどきりとする。 しかし、真希は笑い出した。 「なるほどねえ、そういう考え方もあるか」 よかった、まだ、機嫌を損ねてはいないらしい。 「まあ、そうは言ってもこっちはそこまで嫌いな男の愛人をやるほど落ちぶれてもないからさ」 「なるほど。好きなんですね」 文字通り、愛した人の愛人をやってるわけか。それはそれで、切ないのかもしれない。いや、楽なのかな。嫌いな人の愛人やるよりは楽だろう。 「いえ、それほどでも。別に彼に惚(ほ)れてるわけでもないのよ、そこまでは」 どっちなんだよ、と聞きたいところだが、やはり複雑な気持ちなのかもしれない。これが地雷なんだろうか。 嫌いな男の愛人をやるほど落ちぶれてはいないが、彼に惚れていると思われるのも嫌らしい。 「こういう話、誰にもできないからさ。友達にも、ましてや家族にも」 「そうですか」 「高校や大学時代の友達には普通の会社員をやってるって言ってる。だから、皆、『O Lのお給料で恵比寿に住んでるの?』とか驚かれる。大学の友達には実家が税金対策に買ったマンションに住んでるって説明してるけど、高校の友達にはうちの実家が貧乏って知られてるから、古いマンションで事故物件だから安いのって嘘ついてる。面倒くさいよ」 真希の話は次々に飛んだ。 「彼、もう、奥さんには愛情ないのね、だけど娘と息子がいて、そのためにしかたなく一緒にいるんだって」 「子供たちは何歳なんですか」 「さあ……大学生ぐらいじゃない?」 ずいぶん大きな子だな、と思った。もう、子供のために一緒にいる年齢でもないだろうと思うが、他人の……それも依頼人の愛人の家庭のことに口出しする必要などない。 「ここのマンションの家賃を出してもらって、それ以外に三十万お手当にもらっている」 「すごいですね」 それくらいが相場なのか、多いのか、少ないのかもわからない。 それでも、彼は月五十万くらい、彼女に使っているのだろう。 「彼、一流企業の役員なんだけど、しょせんサラリーマンだからあんまり自由に使えるお金ないのね。そのくらいが精一杯って言われて……ああ、もっとお金持ちがいいよお。サラリーマンじゃなくて、実業家がいいのに」 家賃を払う必要がないうえに、三十万ももらっているのに真希はまだ足りないというのか。 「他に何か仕事はされてないんですか」 「ううん。まあ、前のお客さんとは時々会うけどね。ご飯食べさせてもらったりする人は何人かいる。それでいくらかお小遣いもらったり……中には、僕の愛人にならない? とか言う人もいるよ」 「そういうの、掛け持ちとかできないんですか」 真希は赤ワインをぐびっと、喉が鳴るように飲んだ。 「コロナの前は店に出ていて、月に百万近く稼いだ時もあったんだよ。ほら、景気もよかったじゃん。インバウンドとか言われて。だけど、コロナになってすぐにゼロ。店が閉まって、本当にすぐゼロになっちゃった。そしたら、昔のお客さんから連絡が来て、援助してくれることになったの。それが今の彼。だけどさ、コロナの三年で、あたしもババアになったじゃん。あたしの若さ、返して欲しいよ。政府。あたしの最後に稼げる時間を奪ったんだよ。政府、そういうのもちゃんと補助して欲しい。それ、何千万にもなると思う」 本当に彼女の話は取り止めもない。ただ、酔っているからかもしれないけど。 「彼もさ、コロナ終わったんだから、そろそろ店に戻ったら、とか言ったりするの。そんなことある? あたし、その間に若さ、失ったんだよ。それなのに、そんなこと言う? 政府に責任とってほしい」 責任は政府にあるのか、彼なのか。 しかし、ここで口を出すのは藪蛇(やぶへび)になりそうなので恵麻は黙って聞いていた。 「うすうす、気がついているのかもしれないなあ」 「何がですか」 「友達とか。あたしが愛人やってることに」 真希の話にはなかなかついていけない。 「はい、どうぞ」 また、シンプルな言葉で、テーブルにばん、と皿が置かれた。 ジャガイモ千切りのさっぱり味、ジャガイモのサラダだ。 え、と思わず声がもれた。 二百六十円という値段とは思えないほどの量だったからだ。直径十二、三センチくらいの中皿にドレッシングで和えた山盛りのジャガイモの千切りが乗せられている。少しだけ混ざっているにんじんの千切りと上に乗ったパクチーが鮮やかだ。 「いただきます」 頬張ると、しゃくしゃくとした、硬すぎず軟らかすぎないジャガイモの歯ごたえが嬉しい。千切りにしたジャガイモにさっと火を通しただけで食べる料理は、中華にはよくあって、いろいろな味付けがされているけれど、ここのジャガイモのサラダは酸味のある、ドレッシングタイプだ。恵麻はシンプルにごま油と塩で味付けされたものが好きだけど、この店のもおいしい。こうして食べるとジャガイモもヘルシーに感じられる。ビールをぐっと飲むと、酸味もジャガイモの旨味も爽やかに流されていった。 「ほいっ」 また、ごく簡単な言葉で北京ダックの春巻きがテーブルに置かれた。もう、なんか、このあっさりした接客が楽しくなってくる。 赤い皿にカットされた春巻きが六つ、これまたなかなかの量である。横に黄色いタレが入った小皿が添えられている。なめてみると、マスタードを酢で溶いたもののようだった。 そのまま一口で食べると、揚げたてでぱりぱりしておいしい。中身に甘味がある。目をこらして春巻きの中を見ると、北京ダックの細切りの他にネギや春雨、竹の子などが入っているようだ。甘味は北京ダックのものだろうか。そのままでもおいしいが、酢マスタードをつけて食べると、ちょうどよくその甘味が緩和される。 もしかしたら、皮を切り取った北京ダックの「身」の部分を細切りにし、さらに甘く味付けして使っているのかもしれない。それで、この値段なのかも。その段でいくと、この店の「鴨料理」は皮から肉まで、この北京ダックを無駄なく使っているような気がした。でも、ぜんぜんかまわないと思う。今時、せっかくの肉を捨てるようなことは許されないし、値段も安いのだから。 酸っぱいジャガイモと甘い春巻きをビールとともに楽しんでいると、四川麻辣のスープに入った餃子が運ばれてきた。 ラーメンを入れるくらいの大きさの丼に、たっぷりのスープと六個の餃子が入っている。もうそんなに驚かないが、これがワンコイン以下で食べられるのはなかなかお値打ちである。手包みの餃子はぷるぷるしているし、スープは辛く、酸っぱく、これまたビールに合う。 気がつくと、もう一組の客のテーブルはまた人数が増えたようだ。 皆、わあわあと仲間に迎えられ、「お疲れ様」「まずはビールね」「こっちはハイボール」と楽しく注文している。 仕事終わりにああやって飲むということは、きっといい職場環境なのだろう。見た目はちょっとおたくっぽい服装をしたおじさんたちだけど、なんだか、うらやましくなった。恵比寿に職場があるくらいだから、もしかしたら、ああ見えて、世界の最先端を行っているIT企業なのかもしれない。彼らは腕利きのエンジニアか、プログラマーなのかも。 いや、別にそんなエリートでなくても、ああいう、和気藹々(わきあいあい)とした職場で働いているだけで十分、人生の成功者だ。 少しだけ、集団で働いている「会社」というものが懐かしくなった。また、ああいう場所で働くことはあるんだろうか。 自分は会社を辞めたあと派遣で働いてきた。多少、パソコンの技術もあり、検定試験も受けていて、コロナ禍になるまで、そう職場で困ることはなかった。だけど、派遣されていく職場に安定や安らぎというものもなかった。 もう少し、仕事についてちゃんと考えた方がいいのかもしれない。 職場という意味では、今の「中野お助け本舗」もそうなのだけど。 三人しかいないけど、一応、あたし以外に他の人もいることだし。今度、あの二人と飲みに行こうか、誘ったらどんな顔をするだろう、と考える。 いやいや、と一人で首を振った。 もしも、三人で食事に行ったとしたら、そのお勘定は誰が払うのだろう。普通に考えたら亀山が払ってくれそうだけど、もしかして誘った恵麻にその義務があるのだろうか。少なくとも、割り勘くらいはしなくてはならないのだろうか。店の予約は誰がするんだろうか。やっぱり、自分か。そんなことを考えると、めちゃくちゃ面倒くさい。 派遣先では同僚たちと飲みに行くようなことはほとんどなかった。忘年会と暑気払いだけは各部署で行われていたけど、自由参加だった。どこからか紙が回ってきて、「出席」か「欠席」に○をつけた。会費も明記されていた。たぶん、一度か二度は行ったことがある。 やっぱり、誘うのはやめよう。世代の違う人の考えていることはわからない。 これまで、コロナのこともあって、集まってじっくり話すことはなかった。話は電話か、シェアハウスのダイニングルームで手早く済まされた。 「中野お助け本舗」はその名の通り、中野に事務所があるらしい。そこにさえ行ったことがない。 一度は行ってみたいような気がする。 やっぱり、誘ってみようかな……。 しばらく考えて、まあ、いったん、保留にしておこう、と思う。 朝一の胃袋も、酸味、甘味、辛味に刺激され、さらに活発に動き始めたようだ。 ずいぶん、たくさん食べたけど、もう少し食べられそうな気がしてきた。 メニューを引き寄せて、「飯、麺」のページをじっくりと確かめる。 チャーハンは、玉子炒飯、キムチ炒飯、鶏肉の炒飯など定番の他に、燻製(くんせい)シャケ・レタス炒飯や芽菜(ヤーツァイ)と唐辛子、豚肉の辣(ラー)炒飯など、なかなかの個性派もそろい、そして、ここにも名物北京ダック炒飯がある。 いずれも千円近い値段のものが多いところを見ると、この店なら結構な量がありそうだ。 麺類はいきなり最初に「アーミー焼きそば」というまったく味が想像できないものから始まっており、難易度が高そうだ。もちろん、こちらも量があるように思えた。 ――うーん。さすがに食べきれないか。諦めるかなあ。 考えながら次のページをめくると、スープ類の横にお粥と書かれた場所があった。 あ、お粥ならお腹に入りそうと嬉しくなる。値段も手頃だ。 ちょうど、男性たちのテーブルにビールを運んできた男性店員を呼び止めた。 「すみません、鶏肉ピータン粥、お願いします」 彼は黙ってうなずいた。 今日、見守りに行った依頼人、彼女は彼女なりに、幸せなのかもしれない。 彼女は一通り、話すだけ話すと(相変わらず、取り止めもなく)、ことんと自分の寝室で寝てしまった。 そのあとは、ダイニングのソファで時間を潰して、朝になったので、部屋を出てきた。 話の最後の方で「このコロナの三年で、熟女用のキャバクラしか雇ってくれなくなったし、彼に飽きられたら、もっとおじいさんと付き合わなくてはならないかもしれない」と嘆いていた。 コロナの三年間は本当にいろいろなものを人から奪っていたのだ、ということはわかった。 きっと、恵麻にも思いもよらない「奪われたもの」がたくさんあるのだろう。そして、それは今後、数年の間にじわじわと皆の前に炙り出されてくるのかもしれない。 「お待ちどう」 鶏肉とピータンのお粥がテーブルに乗った。 これまた、大きなラーメン丼にたっぷりの中華粥、それに鶏肉とピータンがごろごろと入っている。 一緒についてきたレンゲでピータンと粥をすくい、口に入れた。中華粥は出汁が利いているものが多いが、ここのはあっさりしている分、米そのものの旨味が感じられた。口の中でピータンを噛むと、その癖のある味が粥で薄まり、むしろ強い甘味となって迫ってきた。 「おいしい」 その味をビールで流し込むと気持ちが少し和らいだ。 真希の喪失感を思った。この仕事は、人の悲しみやつらさをほんの少し、持ち帰ってきてしまう。 彼女はこれからどうやって生きていくのだろう。 こうして考えるのも、仕事の一部なんだろうか。亀山や祥子は最初に、そんなことは言っていなかったけど。 ただ今は、この味を静かに楽しみたいと思った。(つづく) 次回は2023年7月1日更新予定です。
1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。