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  • 第七酒 赤坂 ソルロンタン 2023年7月1日更新
 その日の朝食は前から決めていた。
 先月、二十四時間営業の中華料理店に行って楽しかったので、別の二十四時間営業の店も探してみようと考えたのだ。そして、赤坂(あかさか)に韓国料理店がたくさんあることを知った。
 ――きっと、二十四時間、眠らない町だからこそ、多くの店があるんだろうなあ。
 仕事終わりに赤坂の駅に着き、お目当ての店を目指した。駅から五分ほどの雑居ビルの一階だった。
 スマホの地図を見ながら歩いていたのに、つい通り過ぎてしまった。目立たないからじゃない。同じような店が軒並み、写真入りの派手で大きな看板を出しているので、逆にわかりにくくなってしまっていたのだ。それらの看板をよけるようにして、店に入った。
 想像していた場所とはちょっと違っていた。
 こないだ行った二十四時間営業の中華料理店はとても広くて開放的だった。あれだけの大きさがあり、客が入るから二十四時間やっていけるのだろう、と考えていたのだが、今朝の店はそう広くない。雑居ビルの一階の一角にあって窓もなく、薄暗い。店の半分が小上がりになっており、そこには三つの座卓が並んでいた。テーブル席は三つあった。二つは四人掛け、一つが壁に向かって置いてあり、店内に背を向けるように二つの椅子が並んでいる。
「いらっしゃい」
 恵麻(えま)が入っていくと、その二人掛けの席を勧められた。
 テーブルの上に小さなスタンドタイプのメニュー表があり、大きく雪濃湯(ソルロンタン)と書かれていた。さらに牛頬肉スタミナスープ(各種おつまみと、キムチ、カクテキ、ライス付き)と説明文が下にあった。
 他に、少し小さめの字で、スユック(特製和牛の蒸し頬肉)、チヂミ(海の幸と五種類の野菜入り)、チャプチェ(春雨、牛肉、五種類の野菜炒め)と続く。メニューはこれだけらしい。
 ソルロンタンはこの店の名物料理のようだし、朝食にちょうど良さそうだ。
 メニュー表を裏返すと、飲み物のメニューが並んでいる。
 生ビール、瓶ビール、ウーロンハイ、コークハイ、レモンサワー、梅酒サワーなどの一般的なアルコールメニューの他に、鏡月(きょうげつ)、日本眞露(じんろ)、チャミソルなどの韓国のお酒とノンアルコールドリンクがある。
 恵麻はソルロンタンに合わせて、マッコリを飲みたいと思っていた。ソフトな口当たりが朝食にぴったり合うだろうと想像していた。でもメニューにあるマッコリは、小でも千五百円と少し高い。この金額からすると量が多いのかもしれない。
「すみません」
 店員は入口のところに座っている年輩の女性が一人と、店の奥にいる、それぞれ五十代くらいの男女だけだった。奥の女性が出てきてくれる。
「ソルロンタンと生ビールください」
「はい」
 注文してしまうと、少し、手持ち無沙汰になる。目の前の壁にここの店が取材された時の新聞記事が貼ってあった。近所の韓国系企業に勤めている人のインタビューが載っていて、朝や昼はソルロンタンを食べ、夜はスユックで酒を飲む、と書いてある。
 読みながら、自分の選択は間違いではなかった、と思う。
 すぐに生ビールが運ばれてきた。サントリーのロゴが入ったガラスのビールジョッキになみなみと注がれたビールを持ち上げてグッと飲んだ。
 冷たいビールが喉を通っていく。
 今日みたいな少し蒸し暑い朝には、マッコリよりこれがちょうどよかったのかもしれない。
 はあ、とため息が出た。
 ビールの後を追うように、女性店員が皿を目の前に並べだした。
 キムチ、韓国海苔(のり)、カクテキ、豆もやしのナムルなどはすぐ何かわかるが、それ以外の小皿はわからない。合計十一の皿が並んだ。
 ――これはもう、一つ一つ、試食していくしかないな。
 端から口に入れてみる。
 最初の小皿はさつま揚げとニンニクの芽を甘辛く煮たもので、ビールに合う。次の皿は黒い豆のようなものがのっているが……。つまんで口に入れると、思った通り、甘く煮た黒豆だった。おせち料理以外で食べることはほとんどないから新鮮だった。その次は一見、大根のキムチに見えるけど、カクテキとは少し形が違う。小ぶりで半月形に切ってある。箸でつまんで口に運んだ。かりかりとした硬めの歯ごたえだ。
 ――あ、これ、なんて言ったらいいんだろう……あれか、たくあんのキムチ?
 日本のたくあんに辛いタレがまぶしてあるようだ。甘味と辛味がよく合っておいしい。日本でももっと食べられてもおかしくない。韓国ではポピュラーな食べ方なんだろうか。
 ――たくあんにキムチの素を混ぜたらこんな食べ物になるのかなあ。今度、自分でもやってみよう。おかずにもおつまみにもなりそう。
 次はゼンマイの煮物だった。これはごく普通の味だった。その皿の隣に黄色くて平べったいものがある。口に入れてみたら、甘い玉子焼きをごく薄く切ったものだった。切り方が違うだけで身近な料理でもわからなくなるものだなあ、と思う。さらに、おせち料理の小魚、ごまめに唐辛子を混ぜたもの、普通の白菜の漬け物などがあった。
 白菜キムチとカクテキは、どちらも酸味が効いた本格的な味だった。特に白菜のキムチは、恵麻が時々スーパーなどで買うのとは違って、甘味はほとんどなく酸味が強いが、恵麻はこちらの方がずっと好きだと思った。
 それらをつまみにしてビールを飲んでいると、大きなどんぶりになみなみと注がれた白いスープとステンレス製の蓋付きの容器が運ばれてきた。銀色の蓋を持ち上げると、中には白飯が詰まっていた。
 先端の部分が紙で覆われた平たい韓国スプーンの紙カバーを外して、スープをすすった。これがメインデッシュのソルロンタンだろう。刻んだ長ネギがたくさん浮いていて、どんぶりの底には牛頬肉が数切れと麺が沈んでいる。 
「ああ」
 思わず、声が出てしまう。
「ああ、いい」
 身体に白いスープがしみ込んでいくようだ。滋養がたっぷり詰まっていた。塩味はほとんどない。とにかく優しい。
 スプーンを箸に持ち替えて麺をすすり込んだ。もちもちした、太めの春雨のようだった。とはいえ、その量は少なく、麺料理というより、スープの具の一部のようだ。 
 いったんスープを離れ、ご飯の容器を持ち上げて、キムチとともに一口頬張った。
 韓国では容器を持ち上げない、ご飯茶碗でさえもテーブルの上に置いたまま食べる、と聞いたことがあるのを思い出した。持ち上げると、とても行儀悪く見える、と。慌ててそれを置く。
 ――まあ、ここは赤坂だし、そんなに厳しいことは言われないんだろうけど。
 キムチの酸味が白いご飯に合っておいしい。そこにスプーンでスープを流し込む。酸味がマイルドになって、さらさらと胃の中に流れていく。やはり、これだけしっかりと発酵したキムチの方が、旨味が強いこのスープには合うのかもしれない。
 ふと見ると、テーブルの端の方に塩が置いてある。普通の飲食店にあるような、逆さに振って塩を出すタイプの容器ではなく、家庭のキッチンに置いてあるような、蓋付きの塩入れだ。中にスプーンが入っている。
 ――これだけ大量の塩があるということは、しっかりスープに投入して、自分で味付けしていいということではないだろうか。
 その容器を引き寄せて、おそるおそる、スプーンの半分くらいの塩を入れてみる。よくかき混ぜて口にしても、まだほとんど塩味がついていない。もう、半分入れてみる。やっと、ほんのり塩味がしてくる。
 ご飯をスプーンですくって、そのわずかに塩味の効いたスープに入れた。優しい味わいのおじやになった。これまたおいしい。
 牛の頬肉は、一度よく煮た塊を薄くそいであるようだ。柔らかく煮えているけど、歯ごたえもある。これもビールに合う。キムチと重ねて一緒に食べてもいい。
 スユックという料理はこれに近いのかもしれない、と考えた。夜もまた来てみたい。そんなことを思っているうちに、女性二人が入ってきて、やはり同じようにソルロンタンを注文している。人気メニューらしい。
 ご飯を韓国海苔やキムチで巻いたりしながら食べたあと、思い切って残りのご飯をソルロンタンのどんぶりにすべて投入してみた。そのスープに浸ったご飯をキムチと一緒に食べる。白いスープが徐々にピンクに染まっていく。
 ――やっぱり、おいしいなあ。出汁は効いてるけど、淡泊なスープだから、ご飯にもどんなおかずにも合うんだよなあ。
 ご飯入りのスープを飲み、おかずを食べながらビールを飲んでいたその時だった。
「恵麻だよね?」
 ぐっとビールを口にふくんだところに後ろから声をかけられた。振り返ると、若い男が後ろに立っていた。思わず、ビールを噴き出した。大きく咳き込む。
 下を向いて咳をしていると、慌てて店員がふきんを持って駆けつけてくれた。ありがとう、と言おうとすると、彼が店員を押しとどめ、ふきんを取った。
「大丈夫です。おれがやりますから」
 ちょっと、あんた、勝手なことしないでよ、と言いたいところなのだが、うまく言えない。
 店員が恵麻を見て、首をかしげる。この男に渡していいか、と言うように。しかたなく、うなずいた。
 店員から受け取ったふきんでテーブルを拭き、彼は自分のハンカチをこちらに渡してくれた。恵麻はそれで口元を拭いた。久しぶりの彼の匂いが鼻をかすめた。
「大丈夫?」
 言葉がうまく出てこない。
「どこに……」
 座っていたのか、と聞きたかった。
「あそこ」
 彼は小上がりの奥の方を顎で指し示した。ついたてに遮られていて見えなかったようだ。
「大丈夫?」
 もう一度、同じことを聞かれる。
「……たぶん、大丈夫。どうしてここに? こんな朝早く……」
「ん? 地方から来てくれたお客さんと一晩中飲んで、その人たちをホテルに送って、一人で朝ご飯食べてたところ。恵麻は?」
「……仕事のあとで」
 狭い店にお互いの声が響いている気がして、恥ずかしかった。無駄だとわかりながらも、声をひそめた。
 彼は恵麻が同棲して婚約までしていた男……そして、性格の不一致を理由に振られた相手、タケルだった。

「今もまだ、前の会社にいるの?」
 結局、韓国料理屋の近くのカフェでタケルと話すことになった。
 しかたない、あのまま話していたら目立つし、お店に迷惑がかかるし……とずっと心の中で言い訳している。
「……前の会社って?」
 下を向いたまま、アイスコーヒーを飲みながらぼそぼそと答えた。
「前、恵麻がいた会社だよ。ほら、恵麻が有休取っただけで係長が嫌み言ってくるってずっと愚痴ってたじゃん」
 自分の昔のことを憶(おぼ)えてくれている人がいる……今、付き合いがある人たちは昔の自分をほとんど知らない。それは気楽だったけど、こうして言われるといやな気はしなかった。
「タケ……いや、あなたはどう、最近は」
「コロナが収まってきた頃から、急に仕事が忙しくなって」
 彼はアイスコーヒーをストローでずるずる音を立てて飲む。ここに来るなり、Lサイズのコーヒーを買って一気飲みし、そのあと、もう一度、同じものを買いにいった。今飲んでいるのは二杯目だ。もしかしたら、まだ酒が残っているのか、二日酔いなのかもしれない。
「今日、会社は……?」
「いや、さっき、電話したら、今日は午後からでも、なんなら休んでもいいって言われたから。朝まで付き合わされたのは、上司も知ってるから」
「そうなんだ」
「結構、大切なお客さんだったんだけど、ご機嫌で帰ったから、上司にも褒められたよ」
 タケル……親がその名前を付ける時、漢字を「武」にするか「健」にするかで揉めた。話し合いの末、「健」に決まったのだが、言い負かされた母親が腹を立てて、役所の届け出をカタカナの「タケル」で出してしまった、と聞いた。
 両親はその頃から仲が悪かったのか、彼が小学校に入る頃には離婚し、タケルは母に引き取られた。けれど、その気の強い母親が韓国やタイ、ベトナム、マレーシアから靴やバッグを仕入れて売る、ネット販売の店を立ち上げて成功させたことで、ずっと何不自由なく暮らしていた、らしい。
 二人で暮らしていた高円寺(こうえんじ)の部屋はタケルの会社からの補助も出ていたが、彼の母親が保証人になってくれたことですんなり借りられたと聞いていた。不動産の書類にはタケルの収入証明書だけでなく、母親の昨年の課税証明書まで付けた。そこには一千万以上の金額が書かれていて、一緒に店に行った恵麻は何か見てはいけないものを見てしまった気がした。
「本当はもっと収入あるんだよ」と彼は不動産屋の窓口で、店員が席を外した時に言った。
「だけど、税金対策で、そのくらいの収入に自分で決めてるんだって。ほら母ちゃん、社長だから」
 そんなことを人前で話していいのか、恵麻の方があたりを見回した。
 母親の手厚い庇護の下で育ったからだろうか、タケルは少し幼い。痩せている、というより線が細く、私服でいるといつも大学生に間違えられた。その繊細さ、軽く見えるけど優しいところが以前は好きだった。
 しかし今朝は、スーツを着ていたし、客を接待していたという話を聞いた後だからだろうか、別れた頃より大人に見えた。いや、あれから一年以上経っているせいかもしれない。
「恵麻はどうしてるの? 今の仕事は? さっき、仕事のあとだって言ってたよね」
 そう尋ねてから、「あ」と目を見張った。
「もしかして、夜のお仕事……?」
「違うよ」
 思わず、背中を叩いてしまった。
「なわけないでしょ。こんな格好で」
 Tシャツにチノパンを穿いて、小さなショルダーバッグを斜めがけにしていた。
「でも、仕事の後、私服に着替えたのかもしれないじゃん」
 いってえな、と言いながら彼は少し嬉しそうだった。
「着替えたって、髪や化粧でわかるでしょ」
 それに、いくらなんでもこんな小さくて安っぽいバッグを持ったホステスはいないだろう。
「まあ、そうだけど、赤坂だから」
「……今は見守り屋をしてるの」
 話さないつもりだったのに、叩いたことで気持ちがほぐれたのか、つい口が滑ってしまった。
「見守り屋……?」
「夜、人を見守るの」
 簡単に「中野(なかの)お助け本舗(ほんぽ)」の説明をした。
「ふーん。そんな商売があるんだなあ」
「まあ、まだ見習いみたいなものだけど」
「どこに住んでるの?」
「目黒(めぐろ)のシェアハウス」
「そうか……今朝もその見守った人の家から来たのか?」
「そう……」

 今日行ったのは、赤坂の元芸者さんの家だった。赤坂駅から歩いて十分ほどのところにあるマンションの一室で、少し古いけど広い部屋だった。指定された夜八時頃に行くと、五十代の女性、江原瑠璃子(えはらるりこ)が迎えてくれた。
「ご苦労様」
「よろしくお願いします」
 出勤前の彼女はすでに着物を着て、髪を大きく結って待っていた。
 ファミリー用と思われるマンションで、廊下もトイレも広々としていた。ただ、天井が少し低かった。それもまた、どこか、由緒あるマンションに見えた。
「広いおうちですね」
 お世辞ではなく、本心から褒め言葉がもれた。
「……母がどうしても最期まで赤坂にいたい、赤坂で死にたいって言い張ったので、買った家なの。広いばっかりで古くてねえ」
「そうなんですか」
 ダイニングルームに行くと、木綿のワンピースを着たおばあさんがソファに座っていた。
「母の波子(なみこ)です」
「……その髪型に赤の口紅は合ってないんじゃないの? 下唇も紅が少しはみ出してる」
 恵麻が自己紹介する前に、波子は娘に向かってずけずけと言った。
「あら、そう?」
 瑠璃子は素直に、ソファの上に置いてあったバッグからコンパクトを出して、鏡をのぞき込んだ。
「臙脂(えんじ)になさい」
「でも、これ、椿屋(つばきや)さんに結ってもらったんですよ。口紅も椿屋さんで勧められたの。そんなにおかしいかしら」
 髪のあたりを手で触りながら尋ねるが、波子は自分が言ったことをもう憶えていないのかそれには答えず、「帯留めの位置が低いわね」と言った。
 すると、瑠璃子は恵麻に、ちょっと待っててね、と言って、部屋を出て行った。洗面所で直すらしい。
「この人は誰なの?」
 波子が恵麻の方を見ずに大声で言った。
「……亀山(かめやま)先生の事務所の方なんですよ」
 すると、波子はやっと焦点が合った目で、恵麻をじっと見た。
「あなた、亀山先生のところの人?」
「あ、はい。亀山社長のところで働いています」
 ここに来る前から、「いろいろ説明するのは面倒だから、亀山先生のところの人だと言ってくれ」と瑠璃子から念を押されていた。
 瑠璃子は洗面所から戻って、帯のあたりを触りながら「これでどう? お母さん」と言った。
「それより、瑠璃子。この人、亀山先生のところの人だって」
「そうよ。今夜はあたし、店に出なきゃいけないし、廣乃(ひろの)もお座敷があるでしょ? だから、この方に来ていただいたの」
 瑠璃子がこちらを見たので、恵麻は「水野(みずの)恵麻と申します」とやっと自己紹介した。
 波子は立ち上がって、きれいなお辞儀をした。
「江原波子です」
「あら、お母さん、今夜はずいぶん礼儀正しいわね」
 瑠璃子は嬉しそうに笑った。 
「亀山先生のところの人が来るなら、そう言ってよ。こんな格好で、恥ずかしい」
 波子は自分のワンピースを見下ろす。
「大丈夫、このお嬢さんは、亀山先生の家の人じゃなくて、そこで働いている人なのよ。お母さんのことはちゃんと話してある」
「話してあるって、何を言われたのかわかったもんじゃない」
 ねえ、と彼女は恵麻に同意を求める。恵麻は首をかしげて、笑ってごまかした。
「どうして、亀山先生のところの人が来たの、言ってくれたらよかったのに」
 まだ、ぶつぶつ言っている。
 江原家は、波子、瑠璃子、その娘の廣乃、と三代続く芸者一家なのだという。皆、一度は結婚しているけれど、今は全員離婚している。波子は芸者をやめてから赤坂で会員制のバーを始め、今は瑠璃子が引き継いで経営している。廣乃だけがまだ現役の芸者だが、こことは別のマンションに住んでいて、母の店に出ることもあるという。
「亀山先生には本当に、昔からお世話になっているんですよ」
 瑠璃子の方を見ると、笑顔でうなずいた。適当に調子を合わせてほしいということだろうと思った。
「こちらこそ、お世話になっております」
「亀山先生はお元気ですか?」
「あ、はい」と、思いますと心の中でつぶやく。
「先生には本当に、いろいろよくしていただいたんですよ」
 おほほほほ、と彼女は口をすぼめて笑った。
「やっぱり、お母さんは亀山先生のお名前を聞くと元気になるわね」
「だって、とってもよくしていただいたもの……毎年の踊りの会には必ず来ていただいたし、今の時期は暑気払いに屋形船を仕立ててね……先生が事務所の方と、大切な後援会の方と、芸者衆を呼んでくださって、本当に楽しかったんだから」
 波子はうっとりと胸のあたりで手を組む。
「……じゃあ、お母さん、あたしは行ってきますよ。何かあったら電話してくださいね。この水野さんにも話してありますから、困ったことがあったら、なんでも相談してね」
「あらそうなの。行ってらっしゃい」
 瑠璃子が部屋を出て行きつつ、こちらに目配せをするので慌ててその後を追う。「よかった、今夜はお母さん、ご機嫌だわ」
 彼女は笑った。
「本当に、急にごめんなさいね。最近はあたしが店に出ることもあんまりないし、いつもはオープンの時だけ顔を出して、夜は戻ってこられるんだけど、今日は大切なお客さんが来て、あたしも娘も明け方近くまでかかるかもしれないの」
「わかってます。亀山から聞いています」
「事前にわかってればショートステイをお願いできたんだけど……今日は急だったから。でも、コロナが落ち着いて、やっとお客様が来てくれるようになったから」
 お客を逃したくないのだろう。
「よかったわあ、亀山の坊ちゃんに赤坂でばったり会って、見守り屋なんて商売をしてます、ってお聞きしてて助かりました。普段、訪問介護の人に来てもらったりすると、ちょっと不機嫌になることがあって……自分はまだ介護されるような人間じゃないって言うの。実際、そこまでボケてるわけじゃないけど、一人にするのはちょっと不安で。それにわがままな人ですから誰にでも預けられるわけではなくて」
「いえ、そんな」
「それで、ぴん、と来たんです。亀山事務所の人が来たと言えば、母もきっとそう機嫌悪くはならないんじゃないか、って。ほんと、思った通りだった」
 瑠璃子は笑った。本当にきれいな人だ、と思った。実家の母と同じくらいの年頃なのに、三十代後半にしか見えない。
「助かります。それではよろしくお願いします。早ければ二時頃には戻りますから」
 瑠璃子は軽くお辞儀をして出て行った。
 ぱたん、とドアが閉まった後、波子のところに戻りながら、あんなに文句を言われながら、瑠璃子が化粧や着物についての、波子の注意を素直に聞いていた姿はどこか微笑ましかったな、と思い出した。
 ずっと仲がいい、一緒に生きてきた母娘なのだろう。

「なんだよ、思い出し笑いして」
 瑠璃子の家のあれこれを振り返っていたら、自然と笑顔になっていたらしい。
「なんか、おもしろいことでもあったの」
「ううん、それは秘密」
「どうして」
「個人情報だもの」
 守秘義務があるわけではないし、亀山からもそこまで厳しく言われているわけではないが、元衆議院議員の重鎮と、赤坂芸者の話を簡単に聞かせるわけにはいかない。
 それにちょっと楽しい夜だった。
 波子とテレビを観ていたら、彼女はすぐにソファで眠ってしまい、仕事は簡単だった。夜中の二時頃には瑠璃子と廣乃が戻ってきた。廣乃は「お祖母ちゃんの顔を見てから帰るわ」と家に寄ったのだ。
 廣乃は日本髪を結って、顔を白く塗り、裾を引きずる黒紋付きの着物を着ていた。そんな本格的な芸者姿を間近で見たことはなかったので、思わず、「わあ。すごい。きれい」と声が出てしまった。
 気を良くした廣乃はそこで少しだけ、お引きずりの着物の裾捌きを見せてくれた。目を覚ました波子は、それにも「腰の位置が高い、なってない」と口やかましく注意していた。
 最後には芸者姿の廣乃と写真まで撮ってもらった。
 もう帰ってもいいけど、このまま泊まっていきなさいと言われ、ソファに寝かせてもらった。瑠璃子は、波子が問題なく恵麻と過ごしたことを喜んでくれ、また呼ぶと約束してくれた。
「ふーん、そうか……」
 タケルはちらちらと恵麻の顔を見た。
「なあに? なんなの?」
「いや、まあ、恵麻はどうしてるかなって時々、心配してたけど、元気そうでよかった」
 その言葉で、恵麻ははっとした。
 心配してた? 何を言ってるんだろう。価値観が違うだとか、なんだとか言禅問答のような言い訳をして、彼の方が同棲や結婚から逃げ出したんじゃないか。
「うん、元気だよ」
 恵麻は彼の顔を見返した。
「結構、楽しくやってる」
 そして、へらへら笑っていたタケルが真顔になるくらい、その顔を見つめた。
「あなたに心配なんてされるいわれはない」
「……わかったよ。ごめん」
 恵麻は立ち上がった。そして、一度も振り返らずに、カフェから出て行った。

(つづく) 次回は2023年8月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。