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  • 第八酒 渋谷 焼きそば 2023年8月1日更新
「……ごめんなさい。もう、あなたと話したくないです。朝になったら出て行ってもらえますか?」
 彼女は静かにそう言うと、部屋の片隅から自分のバッグを取り上げ、二つ折りの財布を出した。ぱちんとボタンを外して、たぶん、すでに用意していたと思(おぼ)しき、お金に指をかけた。五千円札、千円札、千円札……一枚、二枚と数えるようにしてテーブルの上に置いていく。
 柔らかく巻いたお札がゆらりと並ぶのを、恵麻は黙って見ていた。場のシリアスさに比べて、丸まったお札はどこかのんびりして見えた。
 だけど、ゆっくりした手つきは、その金額が彼女にとって決して安くないことを伝えていた。よく見ると、細かく震えていた。もしかしたら、怒りのためかもしれない。     
 いずれにしろ、今時、一晩九千円という金額をなんの痛みもなく、簡単に出せる人間はそういないだろう。東京に住んでいる、普通の会社員で。
「……受け取れません。すみません」
 絞り出すように言った。
「ううん。持って行って。一応、来てもらったんだから」
 手つきや表情とは裏腹に、彼女の口調は冷たく、きっぱりとしていて、誇り高かった。
「ごめんなさい。じゃあ、五千円で」
 恵麻が五千円札だけ受け取ると、彼女は、一、二、三と数えるくらいの間迷って、ひとつうなずき、「そこまで言うなら」と小声でつぶやいて、四枚の千円札を財布の中に戻した。出すのと比べて、それは矢のように速かった。
「じゃあ、私は寝室で寝ますから、朝になったら黙って出て行ってください。鍵は新聞入れのところに入れておいて」
 バッグから鍵を出しテーブルの上に置くと、彼女は寝室に入った。カチッという、鍵をかける音がはっきりと聞こえた。

 翌朝六時過ぎに依頼人の家を出て、七時には渋谷駅に着いていた。
 そのまま帰って寝ようと思ったけど、頭が冴えているし、空腹で眠れそうにない。
 ――蕎麦でも食べて帰ろうか。
 でも、今の気持ちは蕎麦では、どこか物たりない気がした。
 ふっと数週間前に観た、テレビの一場面がよみがえった。
 ――芸人さんがよく行くっていう中華料理屋さんが渋谷にあったな……。毎日のように食べに行く人もいるとか。
 テレビ画面に目を向けながら、スマホを引き寄せて、グルメレビューサイトのアプリを開き、なんとなくメモっておいたっけ。店名で検索したら二軒が引っかかり、その中の一つが早朝から開いていることを記憶していた。
 ――あそこ、もう開いているんじゃないだろうか。確か、モーニングメニューもあったような。
 確認すると思った通りだった。すぐに駅を出ると、駅前のその店に向かった。
 二十四時間眠らない街、渋谷でも、さすがに朝は閉まっている店が多い。不安になりながら恵麻が店に近づくと、その店の前にゴミ収集車が止まっていて、大きな音を立てながら、ぷんと鼻をつく臭いを上げていた。一瞬、驚いて怯んだが、けたたましいエンジン音を残して、車が去っていくと「営業中」という札が下がっているのが見えた。店のガラス戸には隙間なく、びっしりと写真入りのメニューが貼ってある。
 ――どれにしようかな。
 目立つのはやはり「朝定食 七時~十一時」という看板だ。
 ラーメン(餃子付き)定食、野菜炒め(玉子付き)定食、餃子(玉子付き)定食、マーボー豆腐定食……これらがすべて五百円。とん汁(玉子付き)定食、ハムエッグ定食、中華ぞうすい定食……などが四百五十円。そして、納豆(玉子付き)定食四百二十円、他に野菜炒め、マーボー豆腐、ハムエッグ、とん汁など一品料理が三百円だ。  
 ――どれも惹かれるなあ……。でも、テレビで芸人さんたちが好きだと言っていた、豚シャブチャーハンとか、ルース焼きそばとかも食べてみたい。ルースというのはいったいなんだろう。どんな味付けなんだろう。
 とにかく入ってみよう、とドアを開けた。
 店内には厨房を取り囲むようにずらりとカウンター席が並んでいる。それ以外に、四人掛けの席が四つ。
「いらっしゃいませ。カウンターに」
 レジの前にいた若い女性店員が角の席を指す。客は男性ばかり、数人が座り、うつむいて麺やチャーハンを食べていた。
 席について、もう一度、メニューをじっくりと見る。
 朝定食とビールなら、千円ちょっとですむ。ラーメンと餃子や、マーボー豆腐も捨てがたい。今回の仕事で、本来ならもらえるはずの料金が減ってしまったことを考えると、朝定食にするのが適当だろう。だけど。
 ――食べたいんだよなあ。こういう時こそ、好きなものが食べたいのよ。
 しかし、お金が……。
「なにに、しますかー」
 急に癖の強いイントネーションで女性店員に尋ねられて、とっさに「ルース焼きそばと生ビールください」と答えてしまった。
「はい」
 注文してからも、隣の男性がマーボー豆腐の定食を食べているのを見ると、じわじわと後悔が湧き上がる。
 ――今の自分に、ルース焼きそばは贅沢品だったんじゃないか。朝定食にしたら三百円は安く食べられたのに……そして、朝定食だって、十分おいしそうなのに。
「はああああ」
 深いため息をついたところで、とん、とカウンターに生ビールが置かれた。
 その黄金色の液体と、細かい白い泡、一目でキンキンに冷やされていたとわかるジョッキを見たら、なんだか、すっと気持ちが晴れた。持ち重りするジョッキを持ち上げ、ぐっと呑む。
「ああ、おいしい」
 まだ七時すぎなのにすでに蒸し暑い。額が汗で濡れている。それを手の甲で軽くぬぐって、またジョッキを傾ける。喉に苦い液体が流れ込んで、ちょっと痛む。でも、嫌じゃない痛みだ。
「はい。ルース焼きそばできました」
 誰も、ここまで平坦に発音できないだろうと思うくらい、抑揚のない声とともに皿が置かれた。
「ありがとう」
 手に取った割り箸を割る。 
 大皿にとろみのあるあんがたっぷりかかった焼きそばがのっている。あんには、豚肉、ピーマン、竹の子の細切りが入っていた。シンプルなあんかけ焼きそばだった。意外だったのは、量がそう多くないことだ。こういう町中華はどこも食べきれないほど量が多いのかと思っていた。
 ――ちょっと足りないかな? いや、どうだろう。
 麺とあんを絡ませて食べる。麺は軽く焼いてあって香ばしい。あんは醤油とオイスターソースの味がする。麺のかりかりとしたところと、とろりとしたあんがよく合う。
 ――いい意味で予想外なところがないから、安心して食べられる。八宝菜のように具の種類が多いと、肉やエビ、うずらの玉子だけ先に食べてしまって野菜だけが残ったりするけど、これはずっとおいしいまま、食べ続けられる味だ。
 ビールをさらに流し込んだ。ごま油やオイスターソースで重たくなった口の中を爽やかに流してくれる。
 ――本当にちょうどいい味だ。この店に毎日のように食べに来る人がいることがよくわかる。
 同じようにカウンターに座っている男性客たちはささっと朝定食を食べて、どんどん帰って行った。これが客の多い昼の時間なら、恵麻も焦っただろうが、さすがに朝七時台なら問題はない。店の中にはどこかのどかな空気が漂っている。
 五、六人の男女がぞろっと入ってきた。
 皆、二十代に見える。まるで制服のように、全員黒いTシャツと黒のパンツ姿だった。ただ、それぞれ柄や形が違うので、制服でないことはわかる。どうも、何か制作系の仕事をしているようだ。汚れないようにそういう服装なのかもしれない。
 朝まで作業をしていたのだろうか。一番年嵩の男性が率先して注文をまとめている。彼がリーダーなのかもしれない。
 聞くともなしに話を聞いていると、「餃子を五枚」「チャーハン三つ」「野菜炒め一つ」などと注文が決まりかけた頃、「あ、自分、ラーメン定食いいですか」「私は肉チャーハン」などと個別の注文をしている人もいた。
 それでも、仕事がまだ残っているのか、アルコール類は誰も頼まない。
 ――仕事終わりなのか、始まりなのか。こうして、朝ご飯を食べに来る人たちは結構、いるんだなあ。一晩中働いて、まだこれからも働かなくてはいけないのだったら大変だ。
 そう考えていたら、昨晩の仕事の依頼人を思い出した。
 悪い始まり方ではなかったんだけどなあ……ため息をついたら、一緒にビールと油臭いゲップが出た。
 
 最近、気分が落ち込みやすいので、夜一緒にいて話し相手になってくれないか、という依頼が入ったのは一昨日のことだった。
「……三十過ぎの女性で、ここ数年はコロナのこともあって、会社は週に一、二回行けばいいだけのほぼ完全なリモートワークだったのに、この五月くらいから毎日出社するようになったんだって。それで、どうも具合がよくない、と。えーと」
 亀山はいったん、話を止めてから言った。
「福山さゆみ、三十一歳。溝の口在住」
 メモを読んでいるらしい。
「具合って、体の具合ですか?」
「落ち込むと言ってたから、心の方もなんだろう。コロナの間は家に閉じこもっていて、飲みに行ったりできなくてつらい、と思っていたけど、出勤し始めたら、実は家にいた時の方が楽だった、今の会社は自分に合ってないって気がついたと言っていたよ。この頃、そういう人多いみたい」
「ちょっとわかる気はします。会社が合ってなかったってわかっちゃったんですね」
「ただ、本当のところはどうなのかね」
「本当のところ?」
「本当にその人が会社と合わないのか、それとも、急に出社し始めたことで慣れなくて、ちょっとつらいのをそう感じてしまっているのか……遅く来た五月病みたいなものかも」
「彼女の思い過ごしだと?」
「まあね。そこまで本格的に会社と合わない、会社勤めが合わない、とかじゃなくて、ただ、だるいだけかも」
 だるいと感じるのだって、十分、会社と合わないってことなんじゃないか、と思いながら、恵麻は電話を切った。
 依頼人、福山さゆみが住んでいるのは、東急田園都市線の溝の口駅から歩いて十分ほどのアパートの一室だった。
「いらっしゃいませ」
 カンカンと音を立てて外階段を上がると、さゆみの部屋がある。ちょっと古いけど、キッチンのほかに二部屋ある2Kの間取りで、広かった。彼女は猫を抱いていた。
「……築年数はかなりいってるんですけど、広くて猫が飼えるので」
 さゆみが言いわけするようにつぶやいた。
「コロナの前からここに住んでいたんですか」
「はい。だけど、猫を飼い始めたのは、コロナが始まってからです」
 その時、猫が体をくねらせてさゆみの腕から逃げた。
「失礼します」
 靴を脱いで入ると、その猫が後をついてきた。
 玄関からすぐの部屋がキッチンで、続く部屋がダイニング、奥が寝室だ。
「猫、大丈夫ですか?」
 恵麻の脚に頭を擦り付けている猫を見て、さゆみが尋ねた。
「はい……でも、動物を飼っている依頼人さんのところに来たのは初めてです」
「え。動物がいるところはダメなんですか」
「いえ、違います。ダメではなくて初めてってことだけで」
 よく見ると、さゆみの唇のあたりが震えていた。
「……ですよね、あのホームページにも書いてなかったし」
「大丈夫です」
「よかった」
 なんだか、少し話がずれる、というか、行き違うなあと思った。
 居間にソファセットとテレビが置いてあったので、そこに向かい合わせに座った。猫はまだ、恵麻の足下にいて、こちらを見上げていた。
「会社、大変なんですか」
 さゆみは飲み物などは出してくれなかったし、聞いてもくれなかった。恵麻は手持ち無沙汰になって尋ねた。
「大変というか……大変ということにやっと気がついた、というか」
 さゆみは猫を引き寄せて、抱きかかえようとしたが、彼(か彼女)は手からすり抜けて、キッチンに行ってしまった。その仕草が、なんだか、飼い主がこれから重い話をするのに感づいて、嫌がっているように見えた。
「もともと、課長とも係長とも気が合わなかったんですよ」
 さゆみは猫の後ろ姿を目で追いながら言った。
「この会社嫌だなあと思っていた時に、コロナが流行りだして」
「ああ」
「課長は部下に対してはきつくて、ちくちく嫌みばっかり言うわりに、自分はたいして仕事をしなくて、でも部下の手柄は自分の手柄、っていうタイプで。係長はとにかくお調子もので、その課長におもねっていて。だから、気軽に課長の悪口とか言えないんですよ。いつも係長が見張っているような感じなんです」
「なるほど」
「課の雰囲気もぎすぎすしてたんだけど、リモートワークになって、普段は自宅で仕事して、会議はオンラインでやって、週一回だけ出社して、忘年会とか送別会とか、そういうの一切なし、ってことになったら急にうまくいくようになったんですよ」
「へえ」
「何回か、ズーム飲み会までしたんですよ! 私たち。それが結構、楽しくて。課長の三歳の娘が乱入してきた時は本当にかわいいなって思った」
 さゆみはその時のことを思い出したように微笑んだ。
「あんな人にも家族がいるんだな、って。だったら、家族のために、そりゃ手柄も横取りするよなって思えたり。係長が酔って、『サライ』とか歌った時には、あ、係長、結構、歌がうまいんですよ、皆泣いちゃったりして」
 恵麻も思わず、笑った。
「私も猫を飼いだしたことを皆に報告したりしてね。あの頃は楽しかったなあ」
「でも、今はそうじゃないんですか」
「はい」
 さゆみはうなずく。
「通常勤務に戻っても、今度はうまくいくかもって思ったんです。三年前とは段違いに、私たち、お互いのことを知っていましたし」
「でも、そうじゃなかったんですね?」
「ダメでした。もう、出勤し始めて数日でげんなりしました。やっぱり、課長は部下のミスに細かくて嫌みなやつで、係長は謎に明るくて、ウザくて……これがこれからいつまでも続くと思うと本当にうんざり」
 さゆみは深いため息をついた。
「まあ、やっぱり、環境が変わると人間関係も変わるってことですかねえ」
「たぶん」
「……あの、うちの亀山に聞いたんですけど、体の調子も悪いって……」
 おそるおそる切り出すと、さゆみは大きくうなずいた。
「そうなんです。気がついたのは二週間目くらいかなあ。金曜日が待ちどおしくて、土日が本当に楽しかったんです。でも日曜の夜になると急に落ち込むというか、気持ちが重くなって、『ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ』ってどんどん憂鬱になるんです」
「ああ、そうですよねえ。会社員は」
 口では同意しつつ、自分はもう、そういう、曜日で気持ちが上がったり下がったりすることはないよなあ、と考えていた。今の仕事をするようになってから、決まった出勤日というようなものがない。逆に言えば、土日も働かなくてはならないが、日曜日の夜の憂鬱からは解放された。
「それが前より激しくなった感じなんです。金曜日は朝からぐうううっと」
 さゆみは指をグラフを書くように動かした。
「気持ちが上がってきて、お昼食べるくらいには『あと半日だ』って楽しくなってきて、三時、四時、五時……とどんどん上がっていって。金曜日に退社する時は最高潮。これから自由で、あの課長や係長の顔を見なくてもいい二日間があるんだって」
「最高の二日間ですね」
 恵麻は笑ったが、さゆみは硬い表情のままだった。
「でも、日曜の夜が最悪なんです。気持ちがどおっと沈みます。日曜のお昼ご飯を食べるくらいからつらくて、憂鬱で憂鬱で」
 また、指を振り上げて、宙に線を描いて見せた。
「こうなってたのが、ずどーんと下がって」
 さゆみの指はテーブルにつくほど落ちた。
「気持ちの波が激しいですね」
 あまり、何も考えずに口にした言葉だったが、彼女は大きくうなずいた。
「私もそう思って、ネットやなんかで検索したんです。同じことを考えている人いないかなあって。そしたら引っかかってきたんですけど、そういう気持ちが激しく上下するのって精神的にもあんまりよくないんですって。いわゆる、脳の物質? そういう喜びを司る物質ががーっと出て、逆にがーっと少なくなるみたいな、激しい上下があると、精神的に問題が起きやすいらしい」
「そうなんですか」
「それを知ってから、なんだか怖くなっちゃって」
 さゆみはかたわらにいる猫を見た。彼(か彼女)は気がついたら、彼女の隣で丸くなっていた。
「自分も、もしかして病気になったりするんじゃないかと思って」
「まあ、今の環境を変えるか、自分を変えるかしかないですよね」
 恵麻は自分自身が仕事をやめたことがあったから、何気なくそう言った。
 すると、彼女は黙ってしまった。猫に手を伸ばして、背中をなでている。
「……コロナの分類が変わって求人とかも増えてきたって聞きますし、福山さんもぱっと仕事を変えちゃったら」
 あまりにも長く沈黙が続いたので、恵麻はもう一度、言ってみた。
「そういうことじゃないんですよ!」
 さゆみは急に叫んだ。
「え?」
「だから、そういうことじゃないんです。そんなに簡単に仕事なんてやめられないし、新しいところにも行けないし」
「あ、あ、すみません」
 一応、謝ってみたものの、さゆみの耳には入っていないようだった。
「そんなことを言われるために呼んだんじゃないんですよ」
 そして、言われてしまったのだった。
「……ごめんなさい。もう、あなたと話したくないです。朝になったら出て行ってもらえますか?」

 昨夜のことを思い出しつつ、スマホを見ながら焼きそばを食べていたら、急に社長の亀山から電話がかかってきて驚いた。周りを見回し、声をひそめて電話に出た。
「はい」
「ああ、恵麻さん? 大丈夫だった?」
「あ。あの……」
 さゆみからもう連絡が行ったのか、と驚く。
 彼女から何か言われるかも、クレームが入るかもとは思っていたが、料金もかなり安くしたし、大丈夫かと思っていたのに、もう社長に連絡したのか。
「それは……すみません」
「いや、彼女から申し訳なかった、って連絡があったよ」
「え?! 福山さゆみさんからですか!?」
「うん。なんか、行き違いがあって、怒ってしまったけど、私も悪かったって」
「あ、そうですか……」
 あんなに怒ってたけど、悪い人じゃなかったんだ、とほっとした。
「いえ、あたしも調子に乗って言い過ぎたかもしれません」
「そうだったのか。まあ、この商売、ただ人のことを見守ってればいいようなものだけど、それなりにむずかしいこともあるからね」
「はい……」
「基本的には向こうの言うことを、はいはいと聞いてればいいんだから」
「まあ、そうですね」
 途中まではそういうつもりだったのだ。自分でもどこで怒らせてしまったのか、よくわからない。
「でも、福山さん、言ってたよ。夜中に目が覚めてしまったけど、あなたが隣の部屋にいてくれるってわかってたから、ちょっと安心だったって」
「あ、そうですか」
「夜中に一度、ドアを開けたんだって。そしたら、恵麻さんが起きていてくれてるのが見えたから、ほっとしたって」
「あ……」
 見ていてくれたんだ。
 誰かが見ている。ちゃんと仕事していれば誰かが見ているって本当だったんだ。
「それでそのあとはぐっすり眠れたって。申し訳なくて、朝、謝ろうと思ったらもういなくなってたから言えなかったって。残りのお金は振り込みますって言ってた」
「そうでしたか……もうよかったのに」
「まあ、いいじゃん。よかったじゃん」
「はい」
「だけど、今後はもう少し気をつけてね」
「ありがとうございました」
 電話を切ると、また、ため息が出た。
 ふと、LINEのアプリに、新着通知の数字が付いているのが目に入った。開くと、それは、元恋人……タケルからのメッセージだった。
 あの日、偶然会った後、ほんの挨拶程度のメッセージを送ってきた。「この間はどうも。元気そうでよかった」というような。それに簡単なスタンプとは言え返事をしてしまったのが悪かった。気を許していると思われたのか、それからちょこちょこ来る。
 今朝のも「おはよう。今日も暑そうだね」という簡単なものだった。
 ずっと無視してきたのに、たぶん、さゆみのことが無事に終わって、少しほっとしたからだろう……つい返事をしてしまった。
「今朝は仕事だった……ちょっと疲れた」
 送ってしまってから、しまった、と思った時にはすでに既読マークが付いていた。
 どうしよう、と思いつつ、スマホを閉じた。
 お勘定をして、店から出ると、すでに蒸し暑いだけでなく、日差しも強くなっている。
 しかしそんなことよりも、今はバッグに放り込んだスマホの中身が気になっていた。
 どうしよう。
「あーあ」
 自分を誤魔化すために、少し大袈裟なくらい大きくため息をつきながら、恵麻は渋谷駅に向かって歩いて行った。

(つづく) 次回は2023年9月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。