原田ひ香
中野(なかの)お助け本舗(ほんぽ)の社長と先輩と、一度落ち着いて話したいと思っていたら、まるでその願いが通じたかのように、社長の亀山(かめやま)から暑気払いに三人でご飯でも食べようという連絡が、会社のグループLINEで届いた。なんでも食べたいものを言って欲しい、とあった。もちろん、社長のおごり、らしい。 ほぼ、同時に祥子(しょうこ)から個別のLINEで「恵麻(えま)ちゃんが食べたもの、なんでもリクエストするといいよ。少し高いものでも大丈夫なはず」というメッセージが来た。 それを受けて、ちゃんとしたフレンチとか一度食べてみたいんですけどいいですか? と送ると、しばらく経ったあと、誰かが予約さえしてくれればかまわない、という返事だった。 祥子がグループLINEの方に、じゃあ私が予約する、前にうちの娘と初めてフレンチを食べた店があるから、と代官山(だいかんやま)のフレンチレストランのアドレスが送られてきた。 「お前ら、遠慮ってものがないのか、遠慮は」 約束の日、隠れ家風フレンチレストランの奥の席で、祥子と一緒にシャンパンを飲んでいると、少し遅れてやってきた亀山が叫んだ。 「遠慮しているじゃない」 祥子が白い麻のワンピース姿でシャンパングラスを片手に言った。こういう服装をしていると、この人は本当にきれいに見えると恵麻は思った。 「上席を社長用に空けておきました」 ね? と恵麻の方を見て笑った。 それごときで……とぶつぶつ言いながら、亀山は座る。 「最初のお飲み物はいかがいたしますか?」 ソムリエの男性がすぐやって来て、亀山に聞いた。 「俺もシャンパンにするかな」 「女性の方々からは、コースの他に生牡蠣(なまがき)も追加注文いただいていますが」 亀山はぐっと二人をにらんだ。 「追加⁉」 「すみません、牡蠣と追加料金がかかる牛フィレ肉も頼んじゃいました」 亀山が来る十分ほど前に着いていた祥子と恵麻はすでに「一番高いもの」の注文をすませていたのだった。 「こんなに高いもの……勝手に、いいんでしょうか?」 恵麻がおじけづくと、「いいの、いいの」と祥子はひらひらと手を振った。 「あの人、最近、結構、羽振りがいいみたい。選挙も近くありそうで、見守り屋以外にもなんだかいろいろ仕事を頼まれてるみたいよ。だから、このところ、私たち忙しいじゃない?」 「確かに」 社長の亀山が稼働していないから、自然に、恵麻と祥子の出番が増えているのだった。 「あたしは助かるんですけど」 「まあね、私も」 祥子はちらっと舌を出した。 「でも、その分、亀も潤ってるみたいだから」 なんだか、今夜の祥子はこれまでと違う……ちょっと浮かれているようにも見えた。 「じゃあ、遠慮なく頼みます……」 というような会話が交わされていたのだった。 「それじゃあ、かんぱい」 亀山のシャンパンが運ばれてきたので、三人で軽くグラスを合わせた。 「いつもお世話になっています」 祥子が言っている「羽振りがいい」というのも嘘(うそ)ではないのかもしれない。文句を言いつつ、亀山は頭をさげた。 「こちらこそ。ありがとうございます」 恵麻はグラスをぎこちなく傾けた。 今でこそ、コンビニでもスパークリングワインが売られていて簡単に手に入る時代だけど……やっぱり、こういう店で出てくるものはひと味違うな、と恵麻は思った。 細長いフルートグラスの底から湧き上がる泡が驚くほど細かい。喉ごしもきりりとしている。そして、氷のように冷たい。 「ああ、おいしいなあ」 つい、つぶやいてしまう。 「そう? そんなに喜んでくれると、飲ませ甲斐があるなあ。おかわり、遠慮なくしろよ」 亀山が言った。 コースの最初は、追加注文した生牡蠣とフランス風のガスパチョだった。 新鮮な生牡蠣は自らの殻の上にのってやってきた。それは海の匂いとミルクの味がした。レモンを搾(しぼ)っただけで他に何もいらない美味だった。ガスパチョはほのかにガーリックの匂いがする、トマトと夏野菜の冷たいスープで、小さなガラスの器に入っていた。 「ああ、おいしい。牡蠣もガスパチョも」 祥子が感に堪えぬように言った。 「身体中に、何か瑞々(みずみず)しいものが満ちあふれて、生き返る感じ」 その言葉に、恵麻も思わずうなずいた。 「祥子さん、うまいこと言う」 「確かに、祥子は食べ物に関することだけは的確だな」 亀山も同意した。 「どう? 最近は?」 祥子がガスパチョの器に小さなスプーンを差し入れながら恵麻に尋ねた。 「私生活ですか? 仕事ですか?」 「両方、と言いたいところだけど、そういうの、最近はあまり聞いたらいけないんでしょ? だから、仕事の方を聞きたいわ」 やっぱり、今日の祥子はどこかいつもと違う、と思った。 「……まあ、うまくいってる、と思いたいですが」 亀山の顔をちらっと見た。 「どうして? うまくいってるんじゃないのか」 彼は恵麻の視線に気づいたようだった。 「社長がそう思ってくれているならいいです」 「ああ、この間の客が怒ったことを気にしてるのか?」 「まあ、そうですね」 亀山が先月の話を、祥子に説明した。 恵麻は少し意外だった。亀山は見守り屋の仕事で起こったことはすべて祥子にも共有しているとばかり思っていたからだ。 「……だけど、朝にはお客さんの方から連絡してきて、謝ってくれたから」 「じゃあ、問題ないじゃない」 「そうでしょうか」 二人が優しいので、恵麻は少し甘えたくなった。 「お客さんを怒らせたのは確かですし、祥子さんならそんなことにはならなかったんじゃないかと思って……少し落ち込みました」 「いいのよ」 祥子が首を振った。 「最後には丸く収まったんだし……それにね」 彼女は亀山の方を見た。 「この仕事、基本的にはあまりリピートはされないものだから。仕事がうまくいけばいくほど、お客さんは私たちのことを二度と呼んでくれない。もちろん、幼い子供とか、老いたわんちゃんの見守りとかね、定期的に呼んでくれることもあるけど、それはごくまれ」 「なるほど」 「だから、リピートされないからってお客さんからNG出されたとも限らないのよ」 「勉強になります! というか、ちょっと元気が出ました」 「そう言えば、少し前に、パチンコ依存症の若い女がいたよな」 「あ、池袋(いけぶくろ)の」 「あれ、一度、祥子に回していいか?」 「え?」 恵麻が驚いて亀山の顔を見ると、こちらをうかがっている表情だった。 「……いいですけど……どうしてですか?」 「実は来週来て欲しいという連絡があったんだけど、話を聞いていたら、子供がいる祥子の方がいいような気がしてきた」 「そうなんですか」 ガスパチョの最後の一匙(ひとさじ)をすくうふりをして下を向き、平静を装ったが、本当は少し動揺していた。 「なんでも、来週、子供の保育園の行事があるそうなんだが、夫からそこには来ないで欲しいって言われたんだと。その日はもしかしたら、パチンコに行ってしまいそうな気がするって」 「……私も経験があるの。子供の行事に呼ばれないって結構、つらいものだから」 「祥子に行ってもらって経験談を話した方がいいような気がして」 確かに、そういう事情なら結婚もしてない自分より、彼女の方がずっと適任な気がした。 「わかりました」 今度ははっきりと顔を上げ、亀山の目を見てうなずいた。 「よかった」 彼ではなく、祥子がほっとしたような声をあげた。 「あ、すみません。気を遣わせてしまって」 恵麻は首を振った。 「そんなに気を遣わないでください。あたしがまだ経験が浅い……仕事の上でも人生でも……なのは明白なんですから」 「いいえ。恵麻ちゃんの若さが必要なこともたくさんある」 祥子が取り繕うように言ったが、恵麻はうまく答えられなかった。 「……さあ、次のお皿にまいりましょうか。スープ代わりのとうもろこしのブランマンジェでございます」 まるで気まずい空気を見計らったかのように、白い大きな皿が運ばれてきて、デザートのような淡い黄色の円形のブランマンジェの上に、黄金色のゼリーと雲丹(うに)がのった料理に、祥子も恵麻も自然に歓声を上げた。一口頬張ると、確かにとうもろこしのゼリーが溶けて、スープのようだ。とうもろこしの甘味と旨味が口いっぱいに広がった。 「今朝の仕事はどうだったの?」 祥子が何事もなかったかのように尋ねた。 恵麻はふと、フレンチレストランの料理というのは、こういう時のためにあるのかと思った。こういう気まずい話をするために、一皿一皿、凝った料理を運んでくるのか、と。 なぜ、祥子が恵麻の今朝の仕事のことを知っているのかと言えば、昨夜は事務所に二件の依頼が入っており、二人で手分けしたからだ。一つは夏休み中の広尾(ひろお)の中学受験を控えた男の子の見守りで、もう一つは大宮(おおみや)の高齢者の仕事だった。普段、子供の見守りは祥子が行くことが多いが、どちらを選ぶか、と亀山に聞かれて、恵麻は広尾の小学生を選んだ。あまり歳が離れていると、時々、何を話したらいいのかわからなくなるからだ。 「いい子でした。聞き分けが良くて、優しくて。たぶん頭もすごくいい子だと思います」 「そう」 受験のこともあるし、普段は母親が付きっきりで付いているのだが、関西の方に単身赴任している父親の元に急に行かなくてはならない用事ができて、見守り屋が呼ばれたのだった。 「ただ……」 「ただ、どうした?」 「お母さんが家を空ける理由が、本当に彼女が言った通りの理由なのか、彼にもよくわからない……みたいでした」 「母親が嘘を言っているって? そんな話をしたのか⁉」 亀山が少し眉をひそめた。 「いえ、向こうが勝手に話し始めたんです」 母親に頼まれた通り、晩ご飯にピザを取って二人で食べ、彼が勉強をしている間は子供部屋の脇のダイニングキッチンで過ごし、彼が十一時に眠りにつくのを確かめた。 その会話は一緒に夕飯を食べている時のことだった。 「お母さん、いなくてさびしいね。だけど、お父さんのところで用事ができたんだからしょうがないよね」 彼は元気がないように見えた。 「さあ。本当にそうなんだか」 彼はほんの少し唇を歪めてつぶやいた。 「違うの?」 恵麻はピザを飲み込みながら尋ねた。 「さあ。僕にはわかりません」 不思議な感じがした。 恵麻が彼くらいの歳のころは、親が言うことを疑ったこともなかった。ずいぶん、大人びたことを言っているのに、一方で、どこかあやふやだった。 どうしてそんなことを言うんだろう。 なんだか、目の前の、ほっそりとしてさらさらの髪の、品の良い小学生がちょっと怖くなった。 そのあとはほとんどろくに話をせずにご飯を食べ終わり、彼が勉強しているのを見守った。 朝は、冷蔵庫に用意されていたスープとパンを温め直して食べた。パンも手作りだった。 「手作りのパンなんて、すごいね」 恵麻は、昨夜からの沈黙に耐えかねて言った。何を話せばいいのかうまく話題を見つけられなかったからだ。 彼は首をかしげた。さらさらした髪がきれいに流れた。 「さあ。僕にはわかりません。小さい頃からずっと母の手作りパンでしたから」 「君がどう考えているのかは知らないけど」 彼はパンを食べながら、上目遣いでこちらを見た。 「普通のお母さんはこんなふうにパンまで手作りはしてくれないんだよ。君のこと、大切に思っていると思うよ」 彼はかすかに笑った。 「ずいぶん、つっこんだ話をしたのね」 恵麻の話を聞いて、祥子は驚いたようだった。 「いけませんでしたか」 「いや、私ならそこまでは言わないかなあと思って」 「すみません」 「ううん。でも、笑ってくれたなら、よかったのかもしれない」 「それに、少し不思議なんです」 「不思議?」 「そんなふうに大人っぽい子なのに、帰ろうとしたらちょっと引き留められて」 「へえ」 母親からは朝ご飯を食べさせたあとは帰っていい、と言われていた。八時過ぎに帰りの支度をしていると、彼は窓の外を見て「雨が降りそうだね」と言った。 「そう?」 雨が降るどころか、カンカン照りの晴天だった。 「降るよ、絶対。僕、そういうのわかるんだもん。天気の勉強したから」 「傘持ってこなかったな」 なんとなく話を合わせると、「じゃあ、もう少し、うちにいたら?」と言われた。もしかして、まだいてほしいのか、と思った。 「それからも、帰ろうとすると『雨が降るよ』って言うんです。そのたびになんとなく帰りそびれて……結局、お母さんが帰ってくる十時過ぎまでいちゃったんですけど」 「ふーん、で、お母さんはどんな感じだったの?」 「すごく恐縮してました。本当は二時間前に帰ってもよかったから」 「父親のところ以外の、どっか別の場所に行ってたような雰囲気はあったのか」 亀山が尋ねた。 「いえ、それはわかりませんけど……」 恵麻は今朝の記憶をたぐり寄せた。 「すごく丁寧にお化粧してるなと思いました」 「お化粧?」 「うーん。まあ、本人の言う通りなら、関西方面から帰ってくるわけで、十時に着くためにはかなり早朝、向こうを発ってますよね。それにしてはきっちりきれいにお化粧されてるなあって。まあ、人それぞれですけどね」 「どこなの?」 祥子が亀山に向かって言った。 「どこ?」 「その、お父さんの転勤先は?」 「さあ……どこだっけ? 大阪じゃなかったなあ」 亀山が首をかしげる。 「大阪なら、関西方面とは言わないよね、普通は大阪って言う」 祥子が刑事並みの鋭さで言い切る。 「ああ、確か、和歌山だった」 「和歌山か……」 祥子がスマートフォンを取り出して、何か調べた。 「……和歌山から出て、広尾に十時に着くには、始発の朝五時過ぎには和歌山駅を出ないといけない」 「なるほど」 「まあ、不可能ではないけどなかなか大変だよね。しかも、このアプリによると、広尾駅には九時半頃に着くことになってる、少し早いね」 「どういうことですか?」 そう尋ねる恵麻を軽く無視して、祥子はまたアプリを使った。 「逆に、一本遅くすると、十時まで広尾には着かない」 「え?」 「つまり」 祥子はスマホをテーブルに置いた。 「はっきりとは言えないけど、確かに、本当に和歌山に行っていたかは……」 「まあ、広尾に着いて、買い物とかどこかに寄ってから帰ってきたのかもしれないし」 亀山が祥子の発言を遮るように言った。 「もうやめよう。依頼人のあれこれを探るのは」 「……ごめん」 祥子はちょっと肩をすくめて謝った。 「でも、ミステリードラマみたいで少しおもしろかったです」 恵麻は答えながら、確かに、そう考えるとあの母親がはるばる和歌山から帰ってきた感じはしなかったなと思った。荷物も小さなバッグ一つだった。 しかし、限りなくグレーに近い母親が十時に帰ってきたおかげで、あの日、ちょっと気になっていた、チーズバーガーの店に行くことができたのだった。 全国展開しているハンバーガーチェーンが、広尾に、チーズバーガー専門店を出していると前にネットニュースで観たことがあった。 彼らのマンションを出て広尾駅方面に歩いて行くと、商店街の中の一角にその店はあった。自動ドアを使って中に入ると、冷房が効いていてほっとした。歩いてきたのは五分ほどだったのに、もう軽く汗をかいていた。 「いらっしゃいませ」 白い服を着た店員が二人、生真面目に声をかけてくれた。 まだ店内には客がいなかった。恵麻が最初の客だったらしい。 店内に入ってすぐのところに小さめのテレビモニターのようなタッチパネル式の注文用の端末があった。それで注文するのだな、と思って近づくと、男性店員が横に立った。 「こちら、お支払いはカードか電子マネー、QRコード決済のみですがよろしいでしょうか」 現金では買えないんだ、ずいぶん進んでいるなあと思いながらうなずく。 チーズハンバーガーの種類は三種類で、二種のチーズ、ふわとろチーズ(ホワイトソースを入れたもの)、クアトロ(四種の)チーズだった。どれも、パティは二枚はさまっている。 一瞬決めかねて、端末を見ていると、クアトロチーズを指し、「こちらはブルー系のチーズを使った、少しクセの強いものになります」と彼が説明してくれた。 その言葉を聞いて、食べたいものが決まった。ブルー系のチーズの香りと肉のパティをクラフトビールで流し込んだら、最高に違いない。ビールはブルックリンラガーとよなよなエールの二種類だった。 クアトロチーズバーガーとポテトフライ、ブルックリンラガーをタッチパネルで選ぶ。 「地下の方が、冷房が効いていますよ。お品ものはビール以外は後ほどお運びいたします」 地下に下りると、本当に部屋がきんきんに冷えていて、誰もいなかった。一番奥の席で、ちょっと癖のあるチーズバーガーと一緒に飲むクラフトビールは最高の朝酒だった。 「母親を迎えた時、息子の様子はどうだったの?」 その時の味を思い出していると、魚料理を白ワインで食べながら、祥子が尋ねた。 亀山がちょっと咎めるような視線で祥子を見た。 「ごめんなさい。だけど、ちょっと気になって」 恵麻も、魚にナイフを入れながら考えた。魚は鯛(たい)の香草焼き。うろこが立っていて、ぱりぱりに焼き上げられている。 「ああ、お母さんが帰ってきて、『あら、まだいらっしゃったんですか? もうお帰りになってもよかったのに』とか言って、挨拶している間に――」 彼はいなくなっていたのだった。 「振り返ったら、自分の部屋に入ってしまっていて」 だから、息子の反応はわからなかった。母親が「見守り屋さん、帰るってよ! ご挨拶したら!」と呼びかけても、部屋から出てこなかった。 「そう」 祥子が小さくため息をついた。 「まあ、しかたないわね」 「はい」 「だから、依頼人を詮索しない」 亀山がきっぱりと言った。 「そう? ある程度、詮索……というか、相手の立場を推し量るのも仕事だと思うけど、私たちの」 「まあ、そういう一面もあるが、必要以上に、ということだ」 「当然よ」 祥子は最後の一切れを口に入れた。 「……私が聞きたかったのは、そういう時、子供はどういう反応するのかなってこと。興味本位ではなくて」 また、短い沈黙が訪れたが、恵麻は、それは食べ物に集中しているからだというふりをした。 魚料理の後、牛フィレ肉のソテーがやってきた。付け合わせにこんがり焼けた夏野菜とスライスしたトリュフがのっていた。驚いたのはラベンダーの花がパラパラと添えてあったことだ。それもお好みで肉と一緒にお召しあがりください、と言われる。 「……ラベンダー、意外と肉と合う。びっくり」 祥子がつぶやいたが、恵麻もまったく同感だった。 ふと、また、広尾のチーズバーガーのことを思い出した。挟まっていた二枚のパティは表面がこんがりと焼けていて、ゴルゴンゾーラチーズとの相性もよく美味しかった。 これも美味しいが、あれも美味しい。美味しいものがたくさんあり過ぎて困る。 「……実は、ちょっと副業というか、別の仕事もしたいな、と思ってまして」 「え?」 「ほんと?」 軽い気持ちで言ったのに、亀山と祥子がぎょっとしたように聞き返した。 「どういう仕事?」 「実は、今、一緒に住んでる……祥子さんのシェアハウスで……人に紹介されて、ネットのライターをすることに」 「あ、さよさん?」 祥子が言った。 「はい。彼女が最近、仕事をやめたので、その後釜ってほどじゃないんですけど、教えてもらって」 「そうなんだ……」 祥子はちょっと戸惑ったように、残った白ワインを飲み干した。 亀山は勧められたワインを断って、一人、ビールを飲んでいた。 「……それ、結構、時間を使うのか? というか、稼げるのか」 「まあ、それ専業でってなると、一日中、しっちゃかめっちゃか書かないと生活できないみたいなんですけど、でも、まあ、副業ですから……とにかく、始めてみないことには、自分に合っているかどうかもわかりませんし」 「確かにそうだよな」 二人の様子にちょっと驚いた。余った時間を使って、ちょっとしたお小遣い稼ぎに始めようと思っただけだったから、こんなに反応されるとは思わなかった。 「それなら、いいが」 亀山が言った。 「実はまだ水沢(みずさわ)には話すかどうか迷っていたんだが」 亀山が祥子の方を見て、うなずいた。祥子がそれに合わせたように口を開いた。 「……私、仕事をやめるかもしれないの。この見守り屋の仕事を」 「え?」 恵麻はしげしげと祥子を見つめた。すると彼女は下を向いてしまって、何を考えているのかはわからなかった。(つづく) 次回は2023年10月1日更新予定です。
1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。