小路幸也
「えっ」 学食で向かい側に座って一緒にカツカレーを食べていた敬介(けいすけ)がやたらびっくりした。一瞬固まって僕をじっと見ていたから、逆にこっちが驚いてしまった。 ひょっとしたら僕はたった今、人間が心底驚いた瞬間ってのを初めて目撃したのかもしれない。 「え、何でそんなに驚くの」 「いや驚くだろ! 結婚すんの? 春香(はるか)さん」 「するよ」 明日が結婚式。 姉さんの。 なので、新婦の弟である僕は明日は朝から夜までほぼ一日中動けない。家族としていろいろ式場でやることがあるからだ。大学の講義も全部休む。全部っていっても明日は概論とフランス語の二つしかないし、二つとも休んでも単位は全然大丈夫だ。 なので、敬介に明日は休むって言って「何で?」って訊(き)かれて、姉さんの結婚式なんだって言ったら、こうなった。 「どうして黙ってた」 「や、黙ってたわけじゃないけど」 別にお前はうちの親戚でも何でもないから教えなきゃならないってことはないし、たまたま言う機会がなかったっていうだけなんだけど。 え? 「まさか敬介、お前、姉さんのことが好きだったとか? ずっとそれを隠していたとかってこと?」 「ちげぇよ」 あ、違うんだな。その顔でわかった。そうだよな。お前、こないだから一年生の子と付き合ってんだもんな。 「いやもちろん嫌いじゃないよ? 春香さんはもちろん人として好きだよ。いやちょっとかなりマジでびっくりだわそれ。結婚式? 明日?」 「明日」 姉貴が結婚する。 「マジでか」 「マジでだ」 「小学校のときから知ってるのにさっさと教えてくれたっていいだろ」 何度も言うけど。 「別に隠していたわけじゃないし、今まで話題にならなかっただけだから」 そもそも姉とか兄弟の話を、普通は友達とはあんまりしないだろう。する人もいるかもしれないけど。 「実は姉ちゃんが結婚するんだ! って嬉々(きき)として友達に言うか?」 「や、まぁそりゃそうかもしれないけど、ついこないだ俺会ったじゃん春香さんに。久しぶりに。そのときにご結婚おめでとうございます! ぐらい言いたかったよ」 「あぁ」 まぁ、そうか。そうだね。確かに、お前は小学生のときからうちに遊びに来てて、姉さんには何度も何度も会ってるもんな。 会ってるっていうか、いろいろ話したりもするもんな。 「だってさ、俺、何ていうかそれなりにお世話になったぜ? ほら、春香さん動物園に連れてってくれたじゃん! 小学校のときに」 「あー、あったね。五年生ぐらいだったか」 姉貴は、五歳上だ。だから、俺らが小学五年、十一歳のときにはもう十六歳の高校生で。小学生にとっての高校生なんて、大人と同じだった。 そして姉貴は、何ていうか、世話好きだ。僕が友達を家に連れてくると、何かといろいろやってくれた。 「世話好きじゃねぇよ。いや確かに世話好きな人なんだろうけど、春香さんは弟のお前のこと大好きじゃん。溺愛って言ってもいいぐらいに。だからだよ」 「やめてくれ」 「事実じゃん。お前のおふくろさん言ってたぜ。『春香は小学校卒業するときに、秋郎のことが心配だからもう二、三年一緒に小学校に通いたいって泣いていた』って」 「いやそれはな」 事実だ。 いや事実らしい。 僕はそんな話を本人から直接聞いたことはないけれど、母さんや父さんは笑いながらよく話していた。 とにかく、姉さんは僕を構いたがる。 小さい頃一緒に外出するときにはいつも手を繋(つな)いできたし、朝起こしに来るのはともかくわざわざ部屋に入ってきておでこに手を当てて熱がないかどうかを確認したり、ご飯を食べていると僕の大好きなおかずを僕の方に少し寄越したり。 大きくなってからは男の子の身体に良いというおかずを自分で作って食べさせたり、社会人になってからは自分の給料で健康器具を買ってきて僕にやらせたり。休みの日には一緒に映画を観に行こうと言うし、美味(おい)しいパン屋さんがあるから一緒に買いに行こうと言うし。 とにかく、どうしてカレシや友達と一緒に行かないのかってぐらいに、僕に構ってくる。 「それにはな、敬介。ちょっと理由があるんだよ」 「理由?」 たぶんだけど。 他人に話すようなことじゃないんだけど、敬介ならいいだろ。敬介のことも、姉さんはそれこそもう一人の弟みたいに可愛がっていた。 「もう一人、兄弟がいたんだよ。僕の上に」 「上?」 「流産しちゃったんだってさ。母さん。僕が生まれる前にもう一人子供ができる予定だったんだよ」 敬介が、少し顔を顰(しか)めた。 「初めて聞いたなそれ」 「それこそ友達に話すようなことじゃないしな」 「そうだな」 「そのとき、姉さんはまだ三歳だったんだ。でも、弟か妹ができるってものすごく喜んでいたってさ」 「早く出ておいで」って、一緒に遊ぼうって母さんのお腹に毎日話しかけていたらしい。 流産っていうものをその頃にちゃんと理解したかどうかはわからないけど、母さんが入院してお腹の赤ちゃんがいなくなったことを、自分が早く出ておいでって言ってたせいだって思ってしまったらしい。 「ものすごい落ち込みようだったってさ。ご飯も喉(のど)を通らなくなるぐらい」 「三歳の子がか」 「そう。子供を失った本人である母さんの方が逆に心配になってさ、元気なところを見せなきゃって毎日笑顔でいたぐらい、ずっと落ち込んでいたってさ」 顔を顰めて、敬介は少し息を吐いた。 「それでか。春香さんがお前のことを溺愛してるのは」 「まぁ、他人が姉さんと僕のことを見てそう思うんなら、たぶんそれが理由なんじゃないかなって」 僕が生まれてきたときには、姉さんはもう幼稚園に入っていた。 無事に生まれたときには感動的なシーンのはずなのに父さんや母さんがちょっと引くぐらいに、涙を流して倒れ込むほどに安堵(あんど)して、そして喜んでいたらしい。幼稚園の子が、だ。それぐらいに感受性の強い子だったって言えばいいのか。 そう言うとすごく繊細な女性に育ったようにも思えるけどそんなことはなくて、姉さんはめちゃくちゃハートが強くて元気で、むしろがさつなところもあるぐらいの女性になっている。 僕としては、溺愛されているとは思わない。いやそもそも溺愛っていうものの基準がわからないし人それぞれの部分があるだろうけど。 本当に溺愛されているんなら、犬のポンタの散歩をめんどくさいからって僕に押し付けないだろうし、暑いからコンビニ行ってアイス買ってきてってパシリさせないだろうし、まともにカノジョができない弟を「あなたはいろいろ細(こま)か過ぎるのよ。メンドクサイ男だからよ」なんていう心無い言葉で軽く傷つけたりしないだろう。 まぁでも、いつも笑っているような顔をして、そして本当に皆を笑わせたりして周りを明るくさせる、弟であろうと他人であろうと困っている人を見つけたら放っておけない面倒見のいい姉であることは、確かだ。 「明るくて、優しくていい人なんだよ春香さん」 そういう姉さんが、明日結婚する。 教会での、結婚式だ。 午後の講義をサボるという敬介に付き合って近くの商店街の奥にある喫茶店に来た。本当に昔ながらの商店街の喫茶店って感じの〈珈琲 さぼうれ〉。店名は文字通り〈サボれ〉ってことらしい。大学のすぐ近くの喫茶店でもあるから、学生にどんどんサボって来てほしいってことらしい。 ナイスなネーミングのせいか、いつ来てもここはうちの大学の学生たちでいっぱいだ。むしろここで勉強している奴(やつ)の方が多いんじゃないかってぐらいに、テーブルの上に本を広げたりノーパソでいろいろ打ち込んだりしているのも多い。 「で」 いつもここではアイスミルクを飲む敬介がオーダーした後に言った。喫茶店でただの冷たい牛乳を飲むのが僕にはよくわからないけど、何でもここの牛乳がめっちゃ美味しいらしい。一度飲んだことがあるけれど、その辺で売ってる牛乳との違いがまったくわからなかった。 「春香さんの結婚相手ってのは?」 どうしてそんなに知りたいのか。 「細井真平(ほそいしんぺい)さん。年は三十一歳」 「春香さんとは五歳違いか」 「うん」 「何やってる人なんだ。仕事は」 花嫁の父かお前は。 「パン屋さん」 「パン屋さん? ほう」 何が、ほう、だ。 「正確にはパン屋さんの家に生まれた長男。で、本人の仕事はパン屋じゃなくて、イラストレーターやら装幀(そうてい)をやってるらしいよ」 「そうてい?」 「本のデザイナー」 「あぁ、そっちか。随分シャレた職業の人だな」 まぁそういう見方もあるだろうけど。 「パン屋さんの息子と結婚ってのは、じゃああれだ。春香さん、美味しいパン屋さんを探しているときにそこで出会ったとかっていうパターン?」 「その通り」 よく知ってるね姉さんのことを。 「やっぱりお前、姉さんのことを大好きだったんじゃないのか?」 「違うって。ほら、子供の頃にさ、近くにいるきれいなお姉さんのことを好きになるじゃん男の子って。そういうんだよ」 その気持ちはわかるけれど。 「姉さんをきれいというのは語弊(ごへい)があるだろう」 「それは、お前が弟だからだよ。春香さんは充分にきれいな女性だぞ? そりゃあアイドル並みにカワイイとは口が裂けても言えんけど」 「言ったらなめとんのかって怒られるぞ」 「少なくともドラマのヒロインの同級生役で出る脇役の女優さんぐらいにはきれいだぞ」 微妙だな褒(ほ)め方。 でも、まぁそれならわかる。少なくとも姉さんは、テレビに映ってもいいぐらいには顔形は整っていると思う。 「どこのパン屋さんなんだ」 「荻窪(おぎくぼ)だってさ。行ったことはないからそれ以上は知らない」 「会ってるんだろ? その真平さん」 「もちろん」 二回、顔を合わせた。 「ちゃんと結婚させてくださいって挨拶(あいさつ)に家に来たからね。それから会食っていうか、結納みたいなものなのかな。そこでも会った」 両家が集まって、ホテルで食事をした。 「向こうは三人兄妹でさ。妹が二人いた」 「どうなんだ? 真平さんは」 「何か、変な感じだったよ」 「変な感じ?」 「いや、いい人みたいだし、見た目もそこそこいい感じ」 変な感じっていうのは、初めて会ったときに感じた、まったく個人的な自分の感情だ。 あの姉さんを好きになって結婚しようと決めた人を、つまり、姉を女として見た人と生まれて初めて会ったからそんなふうに感じたんだ。 「弟としては、その辺の感覚がまったくわからないっていうかな」 「そんなもんかもな。俺は一人っ子だからわからんけど」 姉さんも、やっぱり女なのかって。そういうふうに感じるのは、なんか変な感じだったんだ。 「あれだな。結婚させてください、って挨拶はやっぱりするものなんだなー」 「するものなんだね」 自分にもそういうときが来るのかどうかさっぱりわからないけど。 たぶんだけど、あのときのあの空間の雰囲気って、滅多に味わえないものなんじゃないか。 一生に一度とか二度とか。(つづく) この続きは2021年7月刊行の単行本『明日は結婚式』でお読みになれます。
広告制作会社勤務などを経て、2002年『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞し、小説家デビュー。13年「東京バンドワゴン」シリーズがテレビドラマ化される。著書に『うたうひと』『さくらの丘で』『娘の結婚』『アシタノユキカタ』「マイ・ディア・ポリスマン」シリーズ(以上小社刊)など多数。