物語がつまった宝箱
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  • 序幕/第一幕(1) 2023年3月1日更新
 舞台には誰もいない。
 ステージの上の暗闇に、行き場のない視線がそそがれている。
 東京都渋谷(しぶや)区、宮下(みやした)劇場。開場はおよそ四十年前。客席数は四百弱。
 集められた十数人の男女は、全員が客席にいた。ある者は一人で静かに、ある者は周囲と話しながら、この場に呼び出した張本人が現れるのを待っていた。
 電源を入れたばかりとあって空調が十分に効いていない。そのせいか、場内は蒸し暑いようだった。みな、手で顔を扇(あお)いだり扇子(せんす)を使ったりしている。窓のない場内では、空気の密度がいやに高く感じられる。最後列の男性は重苦しさに耐えるようにうつむいていた。別の女性は、そんな空気を振り払うように声高(こわだか)に話している。
 私は劇場の隅でその様子を眺めていた。
 本来なら、この時刻にはある演目が上演されているはずだった。『幽人(ゆうじん)』と題された新作舞台。原作は、山本明日美(やまもとあすみ)という作家が書いた小説だ。
 ストーリーはこうである。二十七歳の今日子(きょうこ)は夫と二人暮らしの公務員で、休日にはたまに実家へ帰って母と会う。退屈だが平穏な毎日を過ごしていた今日子だが、ある日、見知らぬ女性の幽霊と出会ったことで徐々に日常を逸脱していく。
 実力派の俳優たちをそろえた、見ごたえのある舞台になる。そういう前評判だった。けれど上演前日、『幽人』は公演中止に追いこまれた。
 私のせいで。
「名倉(なぐら)さん、遅いですね」
 誰にともなく言ったのは最前列の城亜弓(じょうあゆみ)である。今日子を演じるはずだった俳優で、年齢も役と同じ二十七歳。前列に座っているのは城をはじめ、役者が多かった。
「色々、後始末もあるんだろ」
 ひとつ後ろの列に座っている神山一喜(かみやまかずき)がぽつりと応じた。陰気な表情は演技ではなさそうだ。神山は、今日子の夫を演じることになっていた。
「十八時にって言ったのは名倉さんですよ。もう十五分も過ぎてる」
「電車でも遅れてるんじゃないか」
「だったら、誰かに連絡くらいしてもいいのに」
 城と神山の会話に割りこむように、ふん、と鼻息が聞こえた。蒲池多恵(かまちたえ)だった。今日子の母親役で出演する予定だったベテラン俳優。彼女は神山と同じ列で、数席離れた場所に座っている。
「そういうタイプだからね、名倉さんは」
「どういう意味ですか」
 問いかけた城に、蒲池は目を細めた。
「わざと遅刻してきて、自分の多忙さを知らしめる傲慢なやつってこと。こんなに忙しい俺がわざわざ時間を取っているんだとアピールして、周囲にありがたがらせる。チンピラと同じ手口だ」
 蒲池は意識的に、ゆっくりした調子で話しているようだった。テンポは遅いのに、隙がない。自分がどう見えているか、熟知している人間にしかできない話し方だった。口をつぐんだ城がスマートフォンに視線を落としたことで、雑談は途切れた。
 待ち人が現れたのは、十八時二十分だった。
 場内の扉が開いた音は微(かす)かだったが、それを聞き逃す者はいなかった。みなが振り向いた視線の先には、名倉敏史(としふみ)がいた。紺色のジャケットにグレーのスラックスという出(い)で立ちは、先ほどまでフォーマルな場にいたことを物語っている。
 資金繰りの件かな、と私は想像した。
 名倉自身は名の知れた劇作家であり、演出家だ。だが彼が主宰する劇団はさほど金回りがいいわけではない。名倉がクオリティにこだわるあまり、予算を使いすぎるからだ。そのせいでしょっちゅう銀行やスポンサーに頭を下げている。
 顔には年相応の苦労が滲(にじ)んでいる。たるんだ頬や目尻の皺(しわ)を見ていると、老けたな、と何のひねりもない感想が浮かぶ。かつて気鋭の劇作家だった名倉も、来年で五十歳だ。老けて当然である。
「遅れてすみません。前の用事が押してしまって」
 名倉は言い訳を口にしながら、段差を上って暗いステージに立った。無人だった舞台の中央に、黒い人影が立つ。
 場内は静まりかえっていた。誰もが硬い面持(おもも)ちで、名倉が語りだすのを待っていた。なぜ、このタイミングなのか。なぜ、宮下劇場なのか。みなが同じ疑問を抱いているはずだった。たっぷりと間を取ってから、名倉は第一声を発した。
「はじめに、公演中止という判断に至ったことをあらためてお詫(わ)びします」
 反応はない。咳(せき)払い一つ起こらない沈黙のなかで、やるせない空気だけが漂っていた。
 ここに集まっているのは『幽人』の関係者たちだった。出演する予定だった俳優たち、舞台監督、照明、美術、音響、その他舞台に関わるスタッフ。彼ら彼女らは、今頃この劇場で本番を迎えているはずだったのだ。
 私が死んでいなければ。
「今さらながら弁明させてもらえれば、彼女の死は演劇界の大きな損失である以前に、私個人にとっては長年の戦友を失ったことを意味するのです。ぼくの演劇人生の半分以上は、彼女と共にありました。あの時延期という選択肢を取らなかったのは、率直に言えば、ぼくの精神的ショックによるものです……」
「もういいですよ」
 割りこんだのは蒲池多恵だった。針の先のような、鋭い視線だった。
「そのことはもう納得しています。ゲネプロであんなことになって、それでも延期して上演しろなんて考えている人はいませんよ。あなたは詫びを入れるためにみんなを集めたんですか。違うでしょう?」
 名倉は蒲池の視線を正面から受け止め、「失礼しました」と言った。実際、ゲネプロ――本番直前に行う通し稽古(げいこ)――でのトラブル、それも死者が出る事態など前代未聞だ。公演中止はやむをえなかった。
「迂遠(うえん)な話し方であることは許してください。ただ、これからお話しすることは、一足飛びに結論だけ提示してもおそらく理解してもらえないと思います。ですから、回りくどいとは思いますが、事実の確認からはじめているんです」
 蒲池は腕を組み、背もたれに身体(からだ)を預けた。曲げられた口元は不満を表明しているが、もう言葉にはしなかった。名倉は、他に異論がないか確認するように客席を見渡してから、話を再開した。
「遠野茉莉子(とおのまりこ)は死んだ」
 自分の名前を呼ばれているはずなのに、自分のことだとは思えなかった。奇妙な感覚だ。まるで、遠野茉莉子という赤の他人についての話に聞こえた。
「ゲネプロの最中、茉莉子は奈落に転落して亡くなりました。ぼくを含め、このなかにいる大半の人が現場に居合わせたはずです」
 その通りだった。私は、奈落と呼ばれる舞台装置へ転落した。初日前日のゲネプロは佳境に差し掛かっていた。ステージ上の高揚が最高潮に達した瞬間、深さ三メートルの奈落の底へと落ちたのだ。
「彼女の死亡が確認された後、ぼくは長時間警察から聴取を受けました。警察の方は、最初から事故死だと決めつけていました。当然でしょう。自殺にしてはあまりに不確実な方法だし、ゲネプロの真っ最中に死ぬ意味がわからない。状況からしても、足を滑らせて転落したと考えるのが普通です」
 名倉が言葉を切ると、場内は静寂に支配された。黒い影と化した劇作家の表情は見えない。みな、顔のこわばりをごまかそうともせず、次の言葉を待っていた。
「しかし、ぼくだけは知っている」
 なにを?
 そう問い返したが、私の発言は誰の耳にも届かなかった。
「遠野茉莉子を殺したのは、ぼくです」
 名倉は暗いステージで両拳を握りしめ、正面を見据えていた。その姿は妙にさまになっている。劇作家が舞台に立ち、前列の俳優たちがそれを観ている。普段と逆転した構図を、私だけが客観的に眺めていた。
 客席には緊張の糸が張り巡らされている。誰かが一言でも口を開けば、この糸は切れる。それに気が付かないほど鈍感な人間はいないだろう。曲がりなりにも、演劇で食べている人たちなんだから。
 沈黙には二つある、と言ったのはハロルド・ピンターだ。
 一つは台詞(せりふ)がない静かな状態のこと。もう一つは滔々(とうとう)と台詞が語られている状態で、こちらはその饒舌(じょうぜつ)さの下に別の言葉が覆い隠されているという意味での〈沈黙〉を指している。
 名倉の独演は後者の〈沈黙〉だった。
 彼はまだ、語るべき事柄を十分に語っていない。これからそのすべてを明かすのか、あるいは自分に都合のいい事実だけを話すのか。いずれにせよ私には口出しできない。私はもう、彼らの世界にはいないから。
 名倉が再び口を開く。客席の面々は、固唾(かたず)を呑(の)んで次の言葉を待っていた。


 第一幕(1)

 高校三年の、一学期最後の日だった。
 最高気温は週を追うごとに高くなり、夏から真夏へと移行しつつあった七月下旬。一人で駅に降りた私は、蒸し暑さに閉口しながら家への道を歩いた。汗と一緒に気力を搾(しぼ)り取られていく人間と違って、蝉(せみ)の鳴く声は日に日に大きくなっていく。
 空に浮かぶ雲はアクセント程度しかなく、日差しを遮ってはくれない。正午の太陽が放つ光は、都会にも田舎(いなか)にも同じように降りそそぐ。群馬県の南東にある、この片田舎にも。
 ハンカチで額(ひたい)の汗を拭いながら、住宅街のフェンスの間を歩く。
 じー、じー、じー。
 蝉は勤勉に鳴き続けている。
 蝉が鳴くのは義務なのか、それとも趣味なのか。以前、テレビ番組か何かで蝉が鳴く理由を紹介していた記憶がある。たしか、オスの求愛行動ではなかったか。大きな音を発することで、自分はここにいるぞ、と知らせるため。
 なんて自己顕示欲が強いんだろう。
 もしかしたら、求愛のために鳴く虫は蝉に限らないのかもしれない。だとしても感想は変わらない。対象が蝉だけでなく、虫全体に広がるだけだ。
 大声で鳴けば求愛になると思っている蝉のオスはバカだが、メスも大概だ。その大声につられてふらふらとオスに近づき、交尾をして子孫を残す。蝉の社会ではきっちり役割が分かれているのだろう。求愛するのはオスで、されるのはメス。常にそう決まっている。
 ――人間とたいして変わんないな。
 物心ついたころから、母はよく言っている。
 あんたは女であることを自覚して生きろ。気遣いさえ完璧にできていれば、あとはちょっと抜けているくらいのほうがいい。そこそこ真面目に働いて、あんたを養ってくれる相手なら、多少のことには目をつぶれ。どうしてもやりたいことがあるなら、うまく手綱(たづな)を引いて男をコントロールしろ。それが女の役割だ。
 暗唱できるくらい、何度も何度も、同じようなことを言い聞かされていた。女は賢くあれ。しかし賢くありすぎるな。男は甲斐性(かいしょう)、女は愛嬌(あいきょう)。夫を操縦するのも妻の務め。
 母の考え方が全面的に間違っているとは思わない。高校の同級生も、三分の一は同じ類(たぐい)の思想の持ち主だ。そういうタイプは漏れなく地元に残る。他の三分の一は、漠然とした憧れを抱いて都会へ飛び出す。
 私はどちらでもない。都会への憧れを抱きながら、しがらみに囚(とら)われて地元に残留する、最後の三分の一。
 それにしても暑い。ただ歩いているだけなのに、汗が止まらない。
 べたついた肌が不快だ。制服の生地が背中に張り付いている。
 学校を出る前に制汗剤を使わなかったことを悔やんだ。家に帰るだけだし、少し我慢すればいいと思ったのが間違いだった。カバンには制汗スプレーが入っているが、路上で使うわけにもいかない。以前、陸上部の女子が人前で腋(わき)に思いきりスプレーを吹きかけているのを見たが、とても真似(まね)できない。女を捨てているとしか思えない。
 小学生のころから、私はモテる。かなりモテると言っていいと思う。母の言いつけを守ってきたおかげかどうかはわからないが、とにかく、私に求愛行動を示す男は少なくない。
 かわいい系よりは美人系、とよく言われる。でも私自身はかわいいと美人の境界がよくわからない。切れ長の二重瞼(ふたえまぶた)とか、小さめの小鼻とか、とがった顎(あご)とか、私の顔のそういった要素を指していることは理解できる。でも私だって、小学生のころはかわいいとしか言われなかった。それなのにいつからか美人系と呼ばれ、高校生になってからは、近寄りにくい、と非難すらされるようになった。
 私はいつ、かわいくなくなってしまったのだろう。そして私はいつ、美人でなくなってしまうんだろう。
 こういうことを普通の人は考えないらしい。中学二年くらいまでは、考えていることを友達や母に話すことも稀(まれ)にあった。たとえば、大人と子どもの境目はどこか、男と女の違いは身体だけなのか、今ここにいる自分は自分と言えるのか。
 友達に話すと怪訝(けげん)そうな顔をされ、天然の烙印(らくいん)を押された。母は端(はな)から聞こうとすらしなかった。
 ――そんなこと、考える必要ない。
 吐き捨てるように言われると、それ以上は話す気になれなかった。いつからか、私は自分の考えを一切口にしなくなった。本心を押し殺すのは得意だ。昔から、母にはそうすることを要請されてきたから。
 ――そういう言葉遣いは女らしくない。
 ――そんな服装じゃ恥をかく。
 ――あんたの選んだ柄はセンスがない。
 あらゆる場面で母から投げかけられた言葉たちが、今も私を縛っている。常に母の顔色を窺(うかが)い、母に文句を言われないよう行動するようになった。結局、思考停止がいちばん傷つかずに済む。

(つづく) 次回は2023年3月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。