物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 第二幕(3) 2023年7月15日更新
 目の前のノートは、怨嗟(えんさ)の文字で埋め尽くされている。物騒な言葉はすべて私の筆跡で記されている。
 消えろ。やめろ。ふざけんな。どっか行け。殴る。叩(たた)く。潰す。殺す。
 私は亡くなった母との不快な記憶を呼び覚ましながら、一心不乱にボールペンを動かす。小学生のころに小遣いで買ったシールをつまらないと言われたこと。中学生のころに仲の良かった友達を育ちの悪い子だとけなされたこと。高校の入学式で、もっといい学校行けたはずなんだけどね、とため息をつかれたこと。
 この数日、同じことばかりを思い出している。
 すべては怒りのためだった。過去に体験した怒りの感情を刺激し、増幅させなければならない。そうしなければ、『落雷』に出演できない。私は母とのあらゆる記憶を想起し、その時感じたことを片端からノートに書きなぐった。些細(ささい)なことでもいい。身体(からだ)じゅうにある怒りをかき集めて、大きな感情に育てなければいけない。
 そのうち、手首が疲れて文字が書けなくなった。いったんボールペンを置く。荒く息をしながら、幾度も読んでぼろぼろになった『落雷』の初稿台本を開いた。
 舞台に登場するのは〈トワ〉という女性だけである。場所も、時代も、明確には示されていない。舞台は冒頭で、年老いたトワが独白する場面からはじまる。

穏やかな雨音が聞こえる。舞台の中央に老いたトワが立っている。粗末な衣服をまとったトワは、意を決した表情で客席に向かって語りかける。
  トワ  雨が降る。風が吹く。突風が髪をなびかせ、肌を濡(ぬ)らす。大通りを歩いている人々は足早に建物のなかへと去っていく。ついさっきまでたくさんの人がいた往来は無人になり、私だけが取り残される。とどろく雨音と雷鳴に右往左往しながら、身を隠す場所を探している。しかしすべての軒下には雨宿りの先客がいて、私が入る余地は残されていない。 さまよっていた私は、ある雑貨屋の軒下に一人分の空間が残されていることに気がつく。急いで雨から逃れ、ようやく一息つくことができる。
舞台が一瞬、稲光で覆われる。数秒遅れて雷鳴。トワは身をすくめる。
  トワ  軒下には先客がいる。仕立てのいい背広を着た男だ。彼はあわてて駆けこんだ私に微笑(ほほえ)みかける。私はぎこちない作り笑いを返す。他人に笑いかけるのは苦手だ。どんな表情をしても、どんな声を出しても作り物めいているから。 どこから来たのですか、と男は問う。私は答えに窮する。どこから来たのかわからないから。無言の私を見かねて、男は新しい問いを発する。ならばあなたはどこへ行こうとしているのですか。またも私は答えに窮する。どこへ行こうとしているのか、わからないから。 一向に答えない私に呆(あき)れて、男は会話を中断する。私は言い訳を口にしようとするが、諦める。話したところでわかってもらえるはずがない。私の人生はいつも唐突に断ち切られてきた。 雷が。雷が、私の人生を奪っていった。 誰にも制御できない力が、一人の人間を不幸の底へと突き落としていった。
一際(ひときわ)大きな落雷の音とともに、舞台は暗転する。 照明がつくと、そこには若き日のトワが立っている。
 十九歳のトワは学生だった。親元を離れて調理師学校に通うトワは、将来製菓店で働くことを夢見ていた。しかし雷が鳴る夜、外出先から帰宅する最中、暴漢に襲われて身体を穢(けが)される。事件がきっかけで人間不信に陥ったトワは、夢を断念して帰郷する。  生家で待っていたのは、誰かの妻になることを迫る周囲の圧力だった。トワは親類の紹介で年上の男と見合い結婚するが、夫は横暴な人物だった。家庭を顧みず、仕事と称して家を空け、外に女をつくる。トワが娘を産んでからもその態度は変わらず、妻子を蔑(ないがし)ろにし続ける。そして雷雨の夜。酔って帰宅した夫は些細なことで激高し、幼い娘に手をあげて死なせてしまう。  夫が警察に虚偽の証言をしたせいで、娘が死んだ責任はトワにあるとされてしまう。絶望に囚(とら)われたトワは従順に刑務所での日々を過ごし、刑期よりも早く出所するが、彼女の居場所はどこにも残されていなかった。娼婦(しょうふ)となった彼女は、生き延びるために犯罪に手を染めることになる――  以上が『落雷』の大まかなあらすじであった。  救いのない、暗く重い物語だった。これまで名倉が書いてきた戯曲も暗いものが多かったが、それでもサスペンスやミステリーといった娯楽要素があった。しかし『落雷』では、一人の女性の半生をひたすら克明に描き続ける。  そこにはスリルもどんでん返しもない。しかし理不尽に転落する半生には、どこか既視感がある。女性という生き物が長きにわたって舐(な)めてきた辛酸が、この台本にはくっきりと彫り込まれている。これまでのバンケットの舞台で、最も重く、苦しく、そして隙のない戯曲だった。  問題は、物語の深刻さに比して私の人生経験が乏しい点だった。とりわけ、名倉が口にしていた「怒り」だ。  劇中でトワは過酷な運命にさらされる。男に強姦(ごうかん)され、理不尽な結婚をさせられ、愛する子を失い、重罪をなすりつけられる。トワはラストシーンで、自らの運命に対する怒りを爆発させる。しかし、それらの絶望を一度も味わったことがない私が、トワの激烈な怒りを再現することができるだろうか?  役者として大成しないことへの、漠然とした怒りのようなものは毎日感じている。しかし全然足りない。涙が涸(か)れ、目の前が真っ暗になるほどの絶望には。  台本を受け取った日から、どうにか怒りを呼び覚まそうと、あらゆる腹立たしい記憶を掘り返した。思い出したくないトラウマもあったし、叫んでしまうほどの不快な出来事もあった。それでも、トワの怒りには及ばない。  続けて三度読んでから、冊子を伏せた。かさり、と紙の擦(こす)れる音がする。  ――どうしよう。  演劇の悪魔は甘くない。私が演じられないとわかれば、名倉は本当に公演を中止するだろう。そして、バンケットの舞台に呼ばれることは二度とない。  稽古は来月からはじめることになっていた。それまでに、どうにかして怒りの体験を蓄積しなければならない。生ぬるいやり方ではダメだ。もっと徹底的に、私自身を傷つけなければいけない。  頭をよぎるのは、自傷という手段だった。  手首を切ったり首を絞めたりすれば、傷ついたという過去ができる。私を傷つけた私自身への、強烈な怒りが湧くかもしれない。しかしそれは役者として許容できなかった。人前で演技をする私にとって、傷痕は夾雑物(きょうざつぶつ)でしかない。見た目に傷や痣(あざ)が残るようなやり方は選べない。  ならば、精神的自傷はどうか。  心の傷なら観客には見えない。深い傷を負えば、それだけ怒りも深くなる。  どうすれば私が最も傷つくのか、私はよく知っている。  もはやそれしか手段はなかった。震える指でスマホを手に取る。私は〈風俗 求人〉という言葉で検索をかけた。  デリヘル嬢たちが詰める待機室には、お香の匂いが漂っていた。  私にはアロマを焚(た)く習慣がないし、入浴剤も使わない。女にしては香りというものに鈍感な自覚はあったが、それはもしかすると人と違う嗅覚を持っているせいなのかもしれない。  待機室のお香は他の子たちには概(おおむ)ね好評らしく、「いい匂いだね」と話しているのを聞いた。けど、熟(う)れた果物にスパイスをまぶしたようなその匂いが、私は苦手だった。最初は鼻をつまんでいたくらいだ。次第に慣れてきて、一か月が経(た)った今では平気だけど、嫌いな匂いであることには変わりない。  着ているのは安物のワンピースだった。私服と分けたかったから、量販店で色違いのものを五着まとめて買った。メイクだけは念入りにするけど、アクセサリーはつけない。どうせ裸になるんだから、装飾品なんて最初から要らない。  名前を呼ばれるのを待ちながら、私は『落雷』の台本を読んでいた。  待機室は一応個室になっている。ネットカフェみたいに、仕切られたたくさんのブースのなかに、デスクとチェアが用意されている。一人一人のブースは背の高い衝立(ついたて)とカーテンで仕切られている。ただ、その気になれば簡単に外から覗(のぞ)けるし、カーテンを開けっぱなしで過ごしている子もいた。大半がスマホをいじっているか、デスクに突っ伏して寝ているみたいだ。  このデリバリーヘルスで働いているのは、十代後半から二十代の女性ばかりだと聞かされていた。若年女性の専門店という触れ込みらしく、もう少し年齢が上だと別の店舗の所属になるらしい。  手元にある『落雷』の台本は、ボールペンの書き込みで余白が埋められている。名倉との稽古で話したこと、連想したこと、注意されたこと、思い出したこと。それらを忘れないよう、片っ端から記録していた。直接役に立つのはほんの一部だ。けれど意味不明な書き込みも、後で効いてくることがある。  稽古はこれまでで最もきつかった。  通常の舞台であれば、演出家は多くの役者へ目配りしなければならない。だから演者も自分の演技をじっくり見つめ直したり、休憩したりする余裕がある。しかし『落雷』では、演者は私しかいない。演出を担う名倉の視線は常に私一人にそそがれている。だから稽古の間は一瞬たりとも休めない。  稽古は名倉とマンツーマンの時もあったし、舞台監督の渡部(わたべ)と三人の時もあった。スタジオでやる時もあれば、喫茶店でただ会話するだけの時もあった。一回あたりの時間は最低でも二時間。その間、私と名倉はトワという女性が歩んできた苦難について、ひたすら対話する。  ――トワは、普通の女性なんだよ。  名倉は繰り返し、そう言った。  トワは特別な人間ではなく、ごく普通のどこにでもいる女性なのだと。私も同意見だった。トワは私であり、同級生の女子たちであり、共演した女優たちであり、私の母であった。その全員にトワの面影があった。  しかし、普通の女性を演じるということは、素をさらけ出すこととは違う。むしろ真逆だ。普通の女性は皆、必ず演じている。人格を作っている。だから、私も徹底的に作りこまなければならない。彼女の、無数の女性たちの、歩んできた地獄を経験しなければならない。 「すみません」  閉めきったカーテンの向こうから、男性スタッフに名前を呼ばれた。「はい」と答え、台本をバッグにしまって席を立つ。ほんの数分離れるだけでも、ここでは盗難防止のため持ち物を手放さないのが常識だ。  ワイシャツにスラックスという服装の男性スタッフから、指名が入ったことを伝えられる。コースは九十分。  建物の前に停まっていたミニバンの後部座席に乗りこむ。流れる街の風景をぼんやり見ながら、ホテルに到着するのを待つ。平日の昼だった。  まるで刑場へ引かれていく犯罪者の気分だった。大昔、重罪人は人々の前で打ち首にされたという。誰しも他人が罰せられる瞬間を目にするのは楽しいものだ。きっと私のような仕事をしている人間を見て、罰を下したいと願う人間もいるのだろう。  以前にも来たことがあるホテルの前で、ミニバンは停止した。運転手に礼を言って車を降り、伝えられた番号の部屋へ足を運ぶ。  ドアの前に立つと、自然と足が震えた。指先が冷たい。瞼(まぶた)を閉じ、深呼吸をして落ち着かせる。部屋に入る前はいつもこうだ。自尊心が傷つけられるとわかっていて、楽しい気分になるはずがない。  顔を上げた私は、表情を殺していた。呼吸は正常に戻り、激しかった動悸(どうき)が収まった。  勢いよくノックする。内側から開けられたドアの向こうから、スーツを着た男が顔を見せた。中肉中背、頭髪はワックスで整えられ、髭(ひげ)や眉は見苦しくない程度に手入れされている。普通のサラリーマンといった風情(ふぜい)だった。 「いいねえ」  男は相好を崩した。それに合わせて私も微笑みかける。 「指名してくださって、ありがとうございます」 「うん。かわいくてよかった」  部屋に入ってまず店に電話を入れた。部屋に到着したこと、これからサービスを開始することを伝える。それから会計。支払いは行為の前と決められている。  それから二人でシャワーを浴びる。男の前で裸になるのも最初はひどく抵抗があった。しかし、これはそういう芝居なんだと思えば、脱ぐのは簡単だった。デリヘル嬢として働いているという芝居。相手も役者であり、その言動は本心ではなく演技なのだ。だから、裸になることにも、サービスをすることにも特別な意味はない。自分の頭をそう騙(だま)すことで、いつからかこの仕事への抵抗は薄れていった。  狭い浴室で、男の身体に湯をかけてやる。どうということもない、たるんだ中年の肉体が目の前にある。男の身体だけでなく、自分の身体も洗う。泡立てたボディソープで胸や尻を洗っている間、客はじっと一部始終を見ている。二十四歳の裸体が這(は)うような視線にさらされている。  無遠慮なその目つきは、直視できないほどおぞましかった。人が持っている理性や装飾がすべて剥(は)がれ落ち、欲望が露出していた。  ベッドでサービスをしている間、客はおとなしくしていた。たまに声を出したり、鼻息が荒くなったりする。その声音が心底気持ち悪い。  あえて感情のスイッチは入れたままだ。性交渉という辛(つら)い現実を受け入れることで、自分の尊厳にずぶずぶと刃(やいば)を刺しこむ。傷が深ければ深いほど、私の演技も深い場所まで届く。汚く、臭く、醜いものが、私の心に焼き付けられる。中年男性の身体が苦いということを知ったのは、この仕事をはじめてからだった。嘔気(おうき)を我慢しながら、客が果てるように導いていく。  ふいに、顔をゆがめていた客が私の首に手を伸ばした。  あっ、と思う間もなく、男の両手が私の首を絞める。途端に呼吸が苦しくなり、顔が充血する感覚があった。あわてて男の手を引きはがそうとするけれど、首に食いこんだ指は離れてくれない。 「助けて……」 「綺麗(きれい)だね」  客は私の懇願に耳を貸すことなく、さらに強く力をこめた。指先が痺(しび)れる。酸素が足りず、頭がぼうっとする。視界が霞(かす)む。舌が出て、口の端から唾液が垂れる。乾いた眼球に涙が浮かぶ。  ――死ぬ。  ここで絶命するのだと確信した直後、身体に生温かい液体が付着した。それと同時にふっと力が緩められる。急に酸素が身体のなかに入ってくる。私はベッドから転げ落ち、激しく咳(せ)きこむ。血の味が口のなかに広がる。涙がこぼれ、全身ががたがたと震えていた。  私は痺れが収まるまで、カーペット敷きの床の上に横たわっていた。じき、男が飲料水のペットボトルを持ってきてくれた。 「平気?」  平気なわけがない。しばらく休んでいると、ようやく多少の生気が戻ってきた。ペットボトルに口をつけるが、うまく水が飲めずまた咳きこんでしまう。太ももに精液が付着していることに気が付き、反射的にティッシュで拭き取る。 「気持ちよかったよ」  裸のままスマホをいじっている男は、すでに興味を失っているようだった。 「……何するんですか」 「ごめん。上乗せして二万、払うから」 「お店に言います」  当たり前だが、無断で首を絞めるなどルール違反もはなはだしい。店に伝えればこの客はグループ店すべてで出禁になり、罰金を取られることになる。場合によっては警察に通報されることもある。  けれど男は顔色を変えない。無表情で私を見る。 「店に言ったら、殺すから」  背筋が寒くなる。ただの脅しだと一蹴することはできなかった。もし、この客が本当に殺意を抱いたとしても、誰も守ってはくれないのだ。男が本気で暴力をふるえば、きっと私は抵抗できない。  這いつくばって呼吸を整えている間、男は一人でシャワーを浴びて服を着ていた。 「先、出るわ」  時間はまだ残っていたが、何の未練も感じさせない足取りで男は部屋を去っていく。  観客がいなくなり、素の私が戻ってくる。心を守ってくれていた鎧(よろい)が剥がれ落ちる。デリヘル嬢でも役者でもない私が、精液の匂いが漂う部屋の真ん中に立っていた。  途端に、強烈な吐き気がこみ上げてくる。トイレに駆けこみ、便器に胃のなかのものをぶちまける。未消化の食べ物が、胃液に混ざって口から吐き出される。どれだけ吐いても、さっきまで口にふくんでいたものの感触が忘れられない。拒絶するように、喉が痙攣(けいれん)していた。  ふらつく身体で浴室まで歩き、鏡を覗きこんだ。首を絞められた痕がくっきりと残っている。舞台本番までには消えるだろうか。  ほとんど気力が残っていなかった。演技をしていない私は、こんなにも脆(もろ)いのか。かろうじて店に電話をかけ、サービスが終わったことを伝える。メイクも直さず、服だけ身につけて、待っていたミニバンに千鳥足で乗りこむ。 「大丈夫ですか?」  運転手が心配そうに言うが、「はい」と空元気で応じる。  ミニバンは待機室へと私を連れていく。そこでは、次の地獄への案内が待っている。

(つづく) 次回は2023年8月1日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。