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  • 第二幕(4) 2023年8月1日更新
 スタジオの一室に、落雷の音が響く。低い音。高い音。長く尾を引く音。断続的に鳴る音。さまざまな種類の雷が、鏡張りの部屋にこだまする。
 音は渡部(わたべ)が手にするスマホから発せられている。渡部が指先を動かすたび、新しい音が再生される。名倉(なぐら)は瞼(まぶた)を閉じ、集中して音を聞き分けていた。私は体育座りでその様子を眺めている。
「今の、もう一回聞かせて」
 名倉の指示に応じて、渡部が先ほどの音をまた再生する。パン、と破裂音に似た音の後に、唸(うな)るような雷鳴が続く。
「冒頭はこれでいこう」
 渡部が私に視線を送る。「いいと思います」と答えると、渡部は無言で手元の台本に何事かをメモする。
 私たち――というか実質名倉がしているのは、舞台で使う効果音の選定だった。
 毎度、名倉の舞台では効果音が生命線となる。たとえば『撃鉄』では、拳銃の撃鉄を起こす金属音が鍵だった。今回の『落雷』では雨音や雷鳴、そしてタイトルの通り落雷の音が重要な演出要素となっている。
 名倉のイメージに合う音を見つけるため、舞台監督の渡部は音響の担当者と協力して、雨や雷の音源サンプルを手に入る限り収集していた。なかには自分たちで直(じか)にサンプリングした音源もあるという。
 通常であれば、名倉はこういう場に役者を呼ばない。しかし今回に限っては私が同席することを求められた。理由を問うと、名倉は平然と言った。
 ――効果音も大事な共演者だろ。
 一人舞台では、効果音や衣装、小道具や大道具といった要素は、いつもの舞台に比べてさらに重要度を増す。複数名で舞台を作っていれば、ちょっとしたミスや違和感もフォローしあえる。しかし、単身で舞台に立つ場合そうはいかない。私の失態をカバーしてくれる人はいない。そのためにも、舞台上にあるすべての要素と呼吸をぴたりと合わせておかなければならない。
 舞台監督である渡部も、いつも以上に神経質になっているようだった。
「次、幕間(まくあい)にかける音です」
 渡部がまたスマホで音源を流し、名倉が選んでいく。私は横でその作業を見物しながら、たまに意見を求められた時だけ発言する。もっとも、名倉の意見に反対することは言わない。世界観を管理するのはあくまで名倉の仕事であり、それを現実に立ち上げるのが私の役目だ。
 休憩を挟みながら、二時間ほどかけて一応作業が終わった。それでも名倉はまだ納得していないらしく、別に日程を取ることになった。渡部は見るからに疲弊していたが、泣き言一つ口にせず名倉の指示に従う。
 私が劇団バンケットの実質的な所属俳優だとするなら、渡部は実質的な代表代行だった。名倉の公演の大半で舞台監督を務めているし、名倉がどうしても稽古に来られない時には渡部がメッセンジャーとなることもあった。いつかの打ち上げで、名倉とは大学の先輩後輩だと聞いたことがある。それが事実なら、二十年近く関係が続いていることになる。たぶん彼も、演劇の悪魔に魅入られてしまった一人なのだろう。
「じゃあ、場所が決まったらまた連絡しますんで」
 渡部は稽古場を去っていった。名倉は「よろしく」とその背中を見送る。ドアが閉じられ、部屋には私と名倉だけになる。
「やりますか」
 私はヘアゴムで髪をまとめ、立ち上がった。このまま流れで立ち稽古をやることになっている。七月に入り、すでに稽古は佳境だ。今日は動きや立ち位置を確認するのが主だった。しかし名倉はフローリングにあぐらをかいたまま動こうとしない。
「どうかしました?」
「……ちょっといいかな」
 促され、再び床に座る。名倉は自分の左耳の下あたりを指さした。
「その痕はどうした?」
 私はとっさに左耳の下に触れる。壁の鏡で確認すると、その辺りに青黒い痣(あざ)が残っていた。先日、客に絞められた痕跡だ。多少薄くはなったが、まだくっきりと残っている。
「すみません。プライベートで揉(も)めて」
 それ以上は話せなかった。しばし互いに沈黙する。
「茉莉子(まりこ)の私生活に立ち入る気はない」
 やがて、名倉は淡々と語りはじめた。
「誰と付き合おうが、どう過ごそうが、それは茉莉子の自由だ。好きにすればいい。ただ、勝手に役への印象を変えてもらうのは困る。元からあったなら仕方ないが、その痣は最近できたものだろう。トワには、首に痣があったという設定はない。勝手に観客の印象を左右するような真似(まね)はしないでほしい」
 わかってはいたが、名倉のこだわりは尋常ではなかった。私だって、望んでこんな痣をつけたわけじゃない。
「舞台までには消えると思います」
「本当か? 何をしたのか知らないが、もし消えない痕だったらどうするんだ? 観客は舞台上の茉莉子の一挙手一投足に意味を見出(みいだ)そうとする。曖昧な表現は許してくれない。首に痣があれば、これは伏線じゃないか、何かのメタファーじゃないか、と深読みする観客もいるかもしれない。最悪、それは公演そのものの完成度を下げることになりかねない」
 私はうつむき、名倉の叱責に耐えるしかなかった。
「人に観られるってことはそういうことだ。観客はありのままの茉莉子じゃなくて、トワを観に来ている」
「……すみません」
「本番までには何とかしてくれ」
 区切りをつけるように、名倉は「さて」と手を叩(たた)いた。叱責はそれで終わった。
 そこから先は立ち稽古に入った。けれど名倉から言われたことが頭に残って集中力が途切れることが多かった。自意識の空隙を狙って、時おり素の私が顔を出す。
 ――文字通り役者の仕事に命懸けてるのに、それだけでケチつけられるの?
 ――作家とか演出家とか、どれだけ作品に魂捧げてるの?
 ――客の視線にさらされたこともないくせに。
 集中力が途切れると、あからさまに演技が悪くなる。三度目に台詞(せりふ)を間違えた瞬間、「ここまでにしよう」と名倉は稽古を止めた。
「なんで?」
「やっても意味ない。茉莉子もわかってるんじゃないか」
 悔しいけれど、反論できなかった。演技に適したコンディションでないことは、私自身がよくわかっている。
「名倉さんが悪いんですよ」
 つい口走っていた。いったん話しはじめると止まらない。
「稽古の前にあんなこと言うから。せめて終わってからにしてくれればよかったのに」
「役者の不注意を指摘せず、黙ってろってことか?」
 名倉の顔色は変わらない。まったく動じない相手を見ていると、余計に腹が立つ。
「少しくらい、役者のメンタルに配慮してくださいって話です」
「どうでもいいんだよ、そんなこと」
 強い語調ではなかった。諭すような、やわらかな声で名倉は言う。
「役者のメンタルなんてぼくには関係ない。そんなこと気にしていたら、ぬるい舞台しかできない。まして『落雷』は茉莉子の一人舞台だ。負荷がかかることは最初から予測できたはずだ。まさか、丁重に扱ってもらわないと芝居ができないとでも言うのか?」
「違う!」
 私は知らぬうちに、気色(けしき)ばんでいた。素の自分が暴走している。こんなことは久しぶりだった。落ち着け、と言い聞かせる。私は役者だ。冷静で落ち着いた女すら演じられないでどうする。
 名倉は帰り支度をはじめた。稽古を再開するのは無理だ。私も仕方なく台本やスマホをバッグに詰める。いたたまれない気分になって、先に稽古場を去ることにした。
「お疲れ様です」
「茉莉子」
 振り返ると、さっきまでスマホをいじっていた名倉が顔を上げている。
「いい芝居さえ見せてくれれば、ぼくは何も言わない」
 そのいい芝居ができないから苦しいんだよ。
 無言で、稽古場のドアを勢いよく閉めた。鏡に囲まれた部屋から暗い廊下へ。スタジオから表へ出ると、空は灰白色(かいはくしょく)の雲に覆われていた。天気予報ではこれから雨が降る。もしかすると、雷が落ちるかもしれない。
 落雷のように、人生は唐突に変わる。私は母が亡くなった夏を思い出していた。そう言えば、あれも七月のことだった。

 火曜の昼間、待機室にはけだるい空気が流れていた。
 デリバリーヘルスのかき入れ時は週末だ。金曜の夜から日曜の夜にかけてが、最も忙しくなる。待機室に戻ってきたと思ったら休憩する間もなく再出動、ということもざらだ。体力的にはしんどいが、私にはむしろ好都合だ。稼げるからではない。男に触れれば触れるほど傷が深くなるから。
 反面、月曜から木曜にかけては暇になる。特に日中は出番が少ない。
 だから火曜の午後二時現在、待機室は出勤しているデリヘル嬢たちが醸し出す空気で淀(よど)んでいる。
 私は台本を読むことにも疲れて、無料のスマホゲームをやっていた。何も生産しないし、何も得られないけど、退屈しのぎにはちょうどいい。生きることは所詮スマホゲームみたいなものだ。偉業を成し遂げなくたって、生きる権利はある。
 いっそ、人生全部がスマホゲームで埋め尽くされれば楽なのに。そうなれば将来への不安もない。ひたすら同じ毎日が三百六十五日続いていく。
 相変わらずお香の匂いが鼻につく。飲み物でも買いに行こうかと思いはじめたころ、どこからか悲鳴が上がった。
 待機室のなかだ。個室のどこかから声がした。カーテンを開けて出てみると、近くの個室から出てきた子たちと鉢合わせした。
「触んなよ! 泥棒!」
 叫び声が聞こえる。さっきの悲鳴と同じ声だ。様子を見に行くと、離れた個室の手前で知らない女が顔を真っ赤にしていた。向き合っているのは二十歳前後の若い子だ。ブラウスに丈の短いスカート、栗色(くりいろ)の髪。彼女は猛烈に怒る女を前にうろたえていた。
「すみません。部屋、間違えて……」
「カバン漁(あさ)ってただろ。出るとこ出んぞ、ボケ!」
 激怒する女の声を聞いて、ようやく男性スタッフがやってきた。「なんかあったんですか?」と他の子に事情を聞いている。
「違います。カバン、確認してください」
 若いほうの女は、怯(おび)えながらも室内を指さした。部屋の主らしき女は彼女を睨(にら)みつけ、レザーのバッグを引っ張り出して中身をごそごそといじりはじめた。そうこうしている間に男性スタッフが二人の間に入る。こういう事態にも慣れているのか、スタッフは双方から順に話を聞いていた。事態が収拾しつつあることを悟り、野次馬たちは各々の個室へと戻っていく。
 私は最後まで廊下に残っていた。
 先ほどの若い女の応対が引っかかっていた。うろたえる仕草も、怯える表情も、どこか意図が感じられた。はっきり言えば、嘘(うそ)臭かったのだ。たぶん、他の人は誰も気が付いていない。怒り狂う女やスタッフの男性では、微妙な嘘臭さを察知するのは困難だろう。けど、演じることで生き延びてきた私は違う。演技の匂いを瞬時に嗅ぎ取ることができる。
 仲裁によって二人はひとまず和解したようだった。男性スタッフはさっさと去り、レザーのバッグを胸に抱えた女は不満そうに自分の個室へ戻っていく。若い女はしおらしい表情で隣の部屋へ入ろうとした。その背中に声をかける。
「ちょっといい?」
 びくりと肩を震わせて振り返った彼女の目からは不審感が放たれていた。顔が小さく、手足が長い。舞台に立てば映える体形だ。無言で待機室の外を指さすと、怪訝(けげん)そうな顔をしながらもついてきた。
 待機中は短い時間であれば外出が許される。各々のバッグを持って外に出ると、彼女は堪えきれないように「なんですか」と言った。
「さっきの件は解決したんで。クレームとかだったらやめてください」
「名前は?」
 並んでコンビニへと歩き出す。彼女は〈アユミ〉と名乗ったが、まだ胡散(うさん)臭げな顔をしている。
「怖いんですけど。何の用ですか?」
「確認したくて。さっきの、演技だったよね」
アユミは「は?」と言った。
「意味がわからないです」
「おろおろしてたのも、怯えてたのも、演技に見えたんだけど。部屋を間違えたっていうのも。本当はカバンのなか見てみようって、少しくらいは思ってたんじゃない?」
 いつの間にか、アユミは足を止めている。私との間に一メートルほどの距離が生まれていた。彼女は敵意のこもった目で睨んでいた。やっぱりそうだ。こっちが、アユミの素の表情なのだ。
「店にチクるとかじゃないから。ただ、確認したかっただけ」
「……仮にそうだったとして、認める人いないですよ」
「そっか。そうだよね」
 本心から、私にはアユミを陥(おとしい)れる意図はなかった。ただ、同志を見つけたような気分にはなった。演じることで本心を隠し、この世の厄介事を乗り切ろうとしている女を見つけて、少しだけ嬉(うれ)しくなった。
 微妙な距離を保ったまま、私たちはコンビニに入った。ペットボトルの緑茶を手に取ってから、所在なさげにしているアユミに話しかける。
「ついてきてくれたお礼に何か奢(おご)るよ」
 先輩面したかったわけじゃない。私は純粋に、もう少しだけ彼女と話がしたかった。奢るのは会話のための料金だ。デリヘルを利用する客だって、金を前払いしてから目当ての行為にふける。
 アユミはぶっきらぼうに「煙草(たばこ)」と言い、銘柄を告げた。私は緑茶のペットボトルをレジに持っていき、指示された煙草と一緒に買う。コンビニの外で煙草を手渡すと、彼女は「どうも」と受け取った。その手首には、鋭利な刃物で切った傷痕があった。
「吸っていいですか?」
 うなずくと、アユミは買ったばかりの煙草を一本、口にくわえた。流れるような動作で安物のライターを取り出し、火をつける。たっぷりと時間をかけて煙を吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。灰皿に灰を落とす。私は隣でそれを黙って見ている。
「演技だったら、なんなんですか」
 煙草が三分の一ほど灰になったところでアユミは言った。
「演技なんて、みんなしてるじゃないですか。私らの仕事なんて全部演技だし。客のつまんない話に笑ったり、体臭がきつくても平気なふりしたり、気持ちよくないのに喘(あえ)ぎ声出したり。ていうか、仕事じゃなくても女ならみんなやってることでしょ」
「それはそうだね」
「だったら、いちいち演技してるかどうかなんて聞かないでください。質問するまでもない。全部、演技です」
 煙草を灰皿に落とし、アユミは二本目を吸いはじめた。まだ話していてもいいらしい。
「お金、欲しいの?」
「はい?」
「他の人のカバンに触ったのは、お金が欲しいから?」
 すぐには答えが返ってこなかった。アユミはしばらく煙草をふかしてから、やがて「違います」とはっきりした声で言った。
「だったらなんで?」
「うるさかったから」
 アユミは煙と一緒に言葉を吐き捨てた。
「隣の個室からずっと音楽が聞こえてたんです。うるさかったから、どうにかして消してやろうと思って」
「それだけ?」
 彼女はもう答えない。正直、拍子抜けした。それが事実なら、アユミが後ろめたさを感じる必要はない。
「直接言ってやればよかったのに」
「あなたの音楽うるさいから消してください、って言えます? ただ待機室で隣同士ってだけで、何の関係もない相手に。そんなことのためにいちいちコスト払ってられない。だったら黙って消しちゃったほうがよっぽどいい」
 アユミは二本目の煙草を捨てた。三本目は取り出さない。
 彼女の言うことはまったくもって正しかった。とっさに私の頭に浮かんだ、迷惑行為は指摘すればいい、という考えは現実離れした理想論でしかない。そんな理想論を口にしてしまったことに、我ながら恥ずかしくなる。
 私たちは隣人の挙動にすら、口を出すことができない。いや、隣人だからだ。顔を合わせる可能性がある、近い距離にいる人間だからこそ、本音をさらけ出し衝突することを恐れる。結果、より大きな衝突を招くことになるとしても。
 歩き出した彼女の後を追って、横に並ぶ。
「私、待機室のお香の匂い、苦手なんだよね。あれ嗅いでると体調が悪くなる」
 試しに自分の本音をさらけ出してみる。演技をせずに答えてくれたアユミへの返礼のつもりだった。彼女は私を一瞥(いちべつ)する。
「私も嫌いです」
 彼女の意見もたぶん、本音だった。
 二十四年生きてきて私は初めて理解した。互いに演技していると自覚している者の間では、演技が通用しない。強制的に本心で話すことになる。私はアユミの本心を、アユミは私の本心を、真夏の空の下に引っ張り出していた。
「舞台とか観る?」
 私の問いかけに、アユミは「全然」と答えた。財布に入れていた『落雷』の前売りチケットをつまんで、目の前に差し出す。
「なんですか、これ」
「私が出演する舞台のチケット」
「役者さんなんですか」
 私は役者だけど、あなたも十分役者だよ。その一言は口に出さずにおいた。
 待機室に戻り、私たちは何事もなかったかのように各々(おのおの)の個室へ戻る。名前を呼ばれるまでの、いつ終わるとも知れない待機時間をひっそりと潰していく。空気は相変わらず淀んでいたが、鼻先を漂うお香の匂いはほんの少しましになった気がした。
 本音を吐き出してみるのも、たまには悪くないかもしれない。

 太田(おおた)劇場は、これまでに立ったどの劇場よりも広かった。
 実際の広さを言っているんじゃない。舞台に立った時、誰もいない客席が広々とした荒野に、あるいは果てのない海原(うなばら)に見えた。私はとてつもなく広大な場所に、一人放り出されたような寂しさを噛(か)みしめていた。
 今夜、ここで『落雷』の公演初日を迎える。
 太田劇場は下北沢(しもきたざわ)駅から歩いてすぐの場所にある。席数四百弱。設立からおよそ四十年が経(た)つ、演劇の街の象徴。これまで数々の名だたる劇団が公演を行ってきた。太田劇場の舞台に立つことは、劇団や役者にとって一つのステータスといっていい。
 周囲ではスタッフが忙しく立ち働いている。音響、照明、衣装、美術。皆、公演のために名倉が集めた腕利(き)きのスタッフばかりだった。舞台監督の名倉は彼ら彼女らとこまめに相談し、細かく指示を出している。
 この公演のために、これだけ大勢の人たちが動いている。それなのに、舞台に立つのはたった一人。役者は舞台を構成する一要素に過ぎない、ということはよくよくわかっている。思い上がるつもりはない。けれど本番が近づくにつれ、私だけのために申し訳ない、という思いが募る。
 間もなくゲネプロがはじまる。ゲネプロとは、公演前日または初日に行われる最終リハーサルを意味する。今回は公演期間しか劇場を押さえることができなかったため、本番直前でのゲネプロになった。
「茉莉子さん、お願いします」
 舞台袖から、衣装担当の女性スタッフに呼ばれた。誘導されるまま更衣室へ移動し、冒頭の衣装を身に着ける。『落雷』では、着替えの回数が普段と比べて異様に多い。一人で様々な年齢を演じ分けるのだから当然ではあるが、それにしたって七回は多すぎる。この舞台では、早着替えをいかにこなすかも重要だった。
 スタッフは化粧も直してくれた。大所帯の劇団であれば、メイクやヘアメイクの専任者がついていることもある。しかしバンケットは決して金回りのいい劇団ではない。そのため衣装担当がメイク担当を兼ねることもざらだった。
「本番前って緊張しませんか?」
 アイラインを引きながら、スタッフが尋ねた。
「しないですね」
「すごい。やっぱり茉莉子さん、大物ですね」
 そういうわけじゃない。私はトワだ、という一念に全身を浸しているうちに落ち着くだけだ。緊張するのは、芝居をしようという意識が強いからだ。トワとして舞台に立つだけだと思えば、台詞も感情も勝手に出てくる。
 幸い、客に絞められた首の痣は消えていた。役者の身体(からだ)に傷をつけるなんて、あり得ない。ただ、あの一件以来、死を少しだけ身近に感じられるようになったのも事実だった。
 着替えとメイクが終わり、白髪のウィッグを装着すると、すぐにゲネプロがはじまった。スタッフは皆、所定の位置につく。客席の最前列には渡部。最後に現れた名倉が二列目に座った。席につくなり、名倉は「茉莉子」と鋭い声で言った。
「どういうことだ」
 名倉は見るからに苛立っていた。理由はわかっているが、とぼけてみせる。
「なんですか」
「まだるっこしいことするなよ。ラストの台詞を変更したい、って正気か?」
 絶対、台本に文句をつけない。それが遠野(とおの)茉莉子の特徴だった。私は今回、初めてその法則を破ることにした。最終盤、どうしても台本の台詞に納得がいかなかった。だから今朝になって、名倉へ台詞の変更を申し出た。
「ゲネプロで変更するなんて無理だ」
 それが名倉の答えだった。だが、すんなり引くわけにはいかない。
「私は誰よりもトワを理解しています」
「作家はぼくだ。茉莉子に台詞を変更する権利はない」
「観てもらえればわかります」
 他人の演出にここまで反発したのは初めてだった。でもこの一点だけは、どうしても譲れない。
「観てみて、ぼくが受け入れなければどうする?」
「公演中止にしてください」
 明白に、空気が変わった。それまで私と名倉の間で交わされていた会話に、スタッフたちまで巻きこまれたからだ。この舞台のために多くの人が関わっている。数時間後には太田劇場に観客たちがやってくる。それを理解したうえでの発言だった。
 名倉はさすがに苛立っているのか、眉間に深い皺(しわ)を刻んだ。
「……簡単に言ってくれるね」
「『落雷』は、私じゃないと演じる意味がない。名倉さんもそう思ってますよね。もし私の芝居を拒絶するなら、それは名倉さんの見こみ違いだったってことです。私は私のなかにいるトワを演じるだけです」
 ここまで見栄を切った以上、後には退(ひ)けない。もしゲネプロの演技に名倉が納得しなければ、本当に降板するしかない。仮に公演が中止になっても、たぶん名倉は私に経済的な補償を求めたりはしないだろう。その代わり、バンケットとの関係は断絶する。私は名倉敏史(としふみ)とは別の道を行くことになる。
 ――いい芝居さえ見せてくれれば、ぼくは何も言わない。
 名倉は確かにそう言った。私は、自分がいい芝居ができる可能性に賭けたのだ。たとえ名倉の作品を変えたとしても。
 私が勝つか、名倉が勝つか。一度きりの勝負だった。
 名倉は数秒思案していたが、やがて葛藤を吹っ切るように勢いよく立ち上がった。振り返った前列の渡部に向かって、静かに告げる。
「はじめよう」
 その一言で、ゲネプロの幕は上がった。

(つづく) 次回は2023年8月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。