物語がつまった宝箱
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  • 第三幕(序) 2023年9月1日更新
 城亜弓(じょうあゆみ)は、ステージ上の名倉(なぐら)から視線を外そうとしない。
 反感を露わにする彼女の顔には、わずかながらデリヘルで働いていたころの面影があった。アユミと名乗っていた彼女に、そのままの名前を与えたのは私だ。アユミ嬢から、城亜弓へ。さしたる考えもない安易な命名だったが、彼女は拒否しなかった。
 時が停止したかのように、名倉と城は一言も発さず睨(にら)みあっている。傍観者である私にはきわめて退屈だった。このままなし崩し的に解散するのはやめてほしい。文字通り、せっかくこれだけ「役者」が揃(そろ)ったんだから。
「……すみません」
 沈黙を破ったのは、中ほどに座る神山一喜(かみやまかずき)だった。
 皆の視線が一斉に集まる。声には震えが交ざっていた。緊張がじかに伝わってくる。この男は仮にも俳優のくせに、日常では自分を取り繕うことができない。もっとも、舞台の上で人格を切り替えられる器用さを備えている、という意味でもあるが。
「どうかしましたか?」
 名倉に促され、神山は咳(せき)払いをした。
「いや、あの、俺からも少しいいですか」
 ため息が漏れる。やっと発言する気になったらしい。本来なら、名倉の独白に対して、神山は真っ先に反応するべき人物だ。でもまあ、いい。三幕構成なら、ここがちょうど中間点
(ミッド・ポイント)になるだろう。
「さっき、城さんは事故だって言ってたけど……たぶん違う。あれは自殺ですよ。茉莉子(まりこ)は、自分から飛び降りたと思います」
 神山は精一杯、落ち着いた声で話していた。だが私には彼の葛藤が透けて見えた。私との関係をどこまで話すべきか、この期(ご)に及んで決めかねている。触れられそうなほど、生々しい迷いだった。
「なぜですか?」
 城が棘(とげ)のある声で問う。
「それは……」
「憶測ですか?」
 言いあぐねている神山に、城は容赦のない言葉を重ねる。
「私や名倉さんは真剣に話しているんです。ただの憶測で口を挟むのはやめてください。それとも神山さんは、自分の発言に責任も持てないんですか。茉莉子さんの何を知っているんですか?」
 神山が立ち上がった。その顔は露骨に歪(ゆが)んでいる。
 彼の風貌は、世間的に言えば端整ということになるのだろう。ややエラが張っているけれど、目や鼻は綺麗(きれい)な形をしている。その神山が幼児のように下唇を突き出し、今にも泣き出しそうに目尻を下げている。
 改めて思う。この人には、演技が必要ないんだ。私や城と違って、演技をしなくても生きていける人なんだ。男性だからか。それとも性格のせいか。彼は私を天才だと言ったけど、ある意味、彼のほうが私なんかよりよほど才能に恵まれている。
「知ってるんだよ」
 ようやく腹を決めたのか、神山の声はもう震えていなかった。
「俺は一時期、茉莉子と付き合っていた。その時から希死念慮を訴えていた」
 名倉の表情が曇り、城の顔が引きつった。その反応を見る限り、二人とも本当にそのことを知らなかったらしい。他の役者やスタッフも似たような反応だった。神山との関係はずっと隠していたけれど、どうやらうまくいっていたらしい。彼が別れてからも口外しなかったことに少しだけ感心する。
 神山は皆に聞こえるよう声を張る。
「二十代のころ、半年ほど付き合っていました。当時から茉莉子は精神科に通っていた。希死念慮に苦しんでいて、別れる時も治っていなかった。茉莉子はずっと、死にたがっていたんです」
 私の口の端に、自然と笑みが上った。
 そう。その調子でこの場を乱してくれ。三幕構成では、中間点で急激にストーリーが変転するのが定石だ。重苦しい空気をもっとかき回して、私というたった一人の観客を楽しませてほしい。
「演技のために身も心もボロボロだったんです。ゲネプロの最中、ふと奈落の暗闇が視界に入った。そこに飛びこめば死ねる。そう考えて、衝動的に身を投げた。それが真実だと思います」
 神山の目には涙が浮かんでいた。どういう涙なんだろう。私がいなくなった喪失感? 救えなかった後悔? それともただ興奮しただけ? 尋ねたところで答えは返ってこないだろう。だって彼は演技をしていないから。
「身も、心も?」
 名倉が細かいところに目をつけた。
「今、そう言いましたよね?」
「ええ、まあ……」
「茉莉子にとっては、舞台に立つことが最優先事項だったはずだ。心は傷だらけだったかもしれないけれど、身体(からだ)まで傷ついていたとは思えない」
 城と交わしたのと同じ議論だった。そう。私は自傷をしない。首や腕や足に傷痕があれば、役者自身が前面に出てしまい、観客を醒(さ)めさせてしまう。だから私は身体に傷を残さないよう細心の注意を払っていたし、誰かが私を傷つけることも許さない。
 ただし、他人の目に見える範囲で、という条件付きだが。
 神山は「知らないんですね」と応じた。そこには、名倉に対して勝ち誇ったような色が滲(にじ)んでいた。
「茉莉子は腹や胸、太もも――そういう、服に隠れて見えない場所を繰り返し痛めつけてたんですよ。そうか。知らなかったんですね。実は少し疑ってたんですよ。名倉さんも、茉莉子の身体を見たことあるんじゃないか、って」
 もはや、神山は優越感を隠そうともしなかった。
 しかし神山の発言は、正確ではない。私は自ら身体を殴ったり、叩(たた)いたりしたことは一度もなかった。その役目を担ったのは、他でもない神山だ。私の要求に従い、彼は幾度となく、私の身体を痛めつけた。
 名倉はじっと神山を見返すだけだった。
「茉莉子が死んだのは、死にたかったから。他に理由なんてないです。芝居に全部捧げて死んじゃったんですよ」
 そこまで語った時、神山の顔に陰がさした。
「……俺には止められなかった。だって理解できないから。茉莉子にとっては全部、演技だった。飯を食うのも、眠るのも、笑うのも泣くのも、すべて演技だった。そんなこと、考えられますか?」
 神山の独白を聞いた城がひそかに唇を動かす。その口から転がり出た言葉は、誰の耳にも届かなかった。ただ一人、私を除いて。
 ――普通じゃん。
 城はそう言ったのだ。彼女はよくわかっている。
 私はずっと、〈遠野(とおの)茉莉子〉という仮面を被(かぶ)りつづけていた。その意味が、神山には死ぬまで理解できないだろう。けれど内心、そういう神山が羨ましくもあった。


第三幕(1)

 ドラムを叩く軽快な音が、鼓膜を揺らす。
 夏の終わりの店内には、心地よいざわめきが満ちていた。ここは生演奏が聞けるジャズクラブとして、吉祥寺(きちじょうじ)では有名な店だ。ロフト席から演奏を眺めていると、これまで一緒に来た男たちのことが頭をよぎる。
 吉祥寺に住んで、八年目になる。
 上京してから昨年まで住んでいた四万五千円のワンルームは、建て替えのため退去を余儀なくされた。今はその近くにある別のアパートに住んでいる。賃料は五万円になった。春ごろまで関係があった男からは、「もっといい家住めば」と笑われたけど、その必要は感じない。荷物が置けて眠ることができれば、自宅なんてどうでもいい。
 一人でオリーブをつまみにギネスを飲んでいた。スマホの時刻表示は、午後七時二十五分を示している。約束の時刻はとうに過ぎているけれど、待ち合わせの相手はまだ来ない。男に待たされるのは久しぶりだった。
 一応、台本は持ってきている。来月新宿(しんじゅく)の劇場で上演する舞台で、主催は大手の劇団。私は準主役を演じることになっている。台本の出来は悪くない。役者も実力派揃いだ。チケットはすでに八割以上売れ、完売も見えているらしい。客観的に考えて、これといった不満はないはずだった。
 けど、何かしっくりこない。
 二十四歳の時に『落雷』に出演して以後、色々な劇団から依頼が殺到するようになった。当初、バンケットの舞台以外は出ないつもりだった。名倉敏史(としふみ)という劇作家の作り上げる人格に染まる時、私はいちばん楽に呼吸ができるから。でも、予想外のことが起こった。
 名倉がスランプに陥ったのだ。
『落雷』で演劇の賞をもらった名倉は、重圧にさらされ、新作を書けなくなった。もともと凝り性の名倉だ。独自のこだわりに周囲の過剰な期待が重なれば、いずれ行き詰まることは必然だったのかもしれない。
 仕方なく、私は別の劇団からの依頼に応じることにした。義理を通すため、正式に受ける前に名倉に断りを入れた。下北沢(しもきたざわ)のカフェで会った名倉は、蝋(ろう)人形のように真っ白な顔だった。
 ――自由にしなよ。茉莉子はバンケットの所属俳優じゃないから。
 私は客演という形で、次々に舞台に上がった。注目が集まっているうちに、遠野茉莉子の名声を少しでも高めておきたい。評価が高まれば高まるほど、実力のある劇作家に誘われる可能性が増える。名倉が機能しない現状、役者としての生命線を保つにはそれしか方法がなかった。ただし、出演する役は慎重に吟味した。喜びの演技はあいかわらず下手くそだったから、そういう芝居が求められる役は拒んだ。
 どの舞台に出る時も、根底にあるのはメソッド演技だった。私が得意なのは、怒り、悲しみ、後悔、慟哭(どうこく)といった、負の感情の表出だ。自然、選ぶのもそういう役柄ばかりになっていった。
 いつからか、遠野茉莉子は〈悲運の女優〉と呼ばれるようになった。役者として悲運という意味では、もちろんない。悲運の女性ばかりを演じることから、その二つ名がつけられたのだ。
 不慮の事故で夫を亡くした主婦。作品を燃やされる芸術家。通り魔につけ狙われる会社員。それらの役を演じるたび、私は過去の体験を想起し、再現してみせた。
 繰り返し思い返すうち、暗い過去ばかりが鮮明になっていった。いや。他のことは忘れてしまい、辛(つら)い記憶だけが残ってしまったと言ったほうがいいだろうか。瞼(まぶた)を閉じれば、瞬時に思い浮かべることができる。母に蔑(さげす)まれ、男に蹂躙(じゅうりん)される光景を。
 いつからか、私は演技で客が呼べる俳優として知られるようになった。一度、テレビ局のプロデューサーだという男から、地上波ドラマへの出演を打診されたこともあった。しかし結局は社内会議で賛同が得られなかったらしく、話は立ち消えになった。
 ――負のオーラが強すぎて、テレビ向きじゃないんだよね。
 電話で理由を尋ねると、そう返ってきた。お前が誘ったんだろ、と言いたいのをぎりぎりで堪(こら)えた。
『落雷』以降、両手で数えきれないほどの舞台に立った。けど、それを超える代表作には出会えていない。会う人会う人、話題にするのは『落雷』ばかりだ。やっぱり私は名倉の、バンケットの舞台じゃないと輝けないのかもしれない。
 二杯目のギネスを頼もうとしたころ、ようやく待ち人が来た。申し訳なさそうに眉をひそめ、背中を丸めて隣の席に座った。
「遅れてごめん。俺が呼んだのに」
 振り向いた神山一喜は、少年のような笑顔を見せた。年齢は私の二つ上だから、今年二十九のはずだ。年齢よりも見た目の印象は若い。
「いいですけど。普通に飲んで待ってたんで」
「ここ、いいね。よく来るの?」
「たまに」
 ギネスを二つ注文してとりあえず乾杯した。神山が食べたいというから、ソーセージのピザとピクルスを頼んだ。
「最近どう?」
「次、これに出るんで準備してます」
 手元にあった台本を見せると、神山は「へえ」と言ってグラスを勢いよく傾けた。ずいぶんおいしそうにビールを飲む人だ。神山と飲むのは今日が初めてだった。厳密には、半年前の打ち上げで同じ場にいたはずだけど、話した記憶はない。
 そもそも、今日神山に呼ばれた理由もよくわかっていなかった。共演したのは半年前の一度きり。その時も、例によって客演として出た。神山とは同じ出番が多かったから、稽古ではそれなりに話したけど、たいして仲が良かったわけでもない。
 なのに、神山は旧知の関係であるかのように振る舞っている。もしかしたら、この人と飲んだことがあっただろうか。そう勘違いしそうになるくらい、自然な空気だった。
「面白い?」
「そこそこ」
 劇団の名前を聞いた神山は「すごいじゃん」と感嘆した。
「いい感じにステップアップしてるね」
「そうですかね」
「事務所とか、入らないの」
「入ったらいいことあるんですか?」
 他愛のない話をしていると、食べ物が運ばれてきた。まずはピクルス。少し時間が空いて、ピザ。神山はピザを見ると「うまそう」と目を丸くした。先端にかぶりつく彼を、私は肘をついて観察していた。
 ――どこまでが計算なんだろう。
 話しやすい空気も、素直な反応も、すべて演技なのだろうか。でも、私の目には素にしか見えない。男性が少年らしさを演じる時は、たいてい嘘(うそ)くさく、臭みがあるけど、その匂いがまったくしない。
「神山さん」
「なに?」
「目的は何ですか?」
 店内はドラムの独壇場だった。フロアタムとスネアドラムが、高速で連打される。奏者がシンバルを叩くのと同時に、神山は答えた。
「仲良くなりたいだけだよ」
 その言葉には力みがなかった。
「本当は稽古とかでもっと話したかったんだけど、遠野さん、オーラがあるから。話しかけにくくて。いや、怖いとかって意味じゃなくて、邪魔したら悪いから」
「オーラ、ありますか」
「ある、ある。役が憑依(ひょうい)してる感じだよね。陳腐な言い方だけど」
 確かに、役者が役者を褒めるにしては陳腐だ。まあでも、見当外れなことを言われるよりはずっとましだ。神山は次の一切れに手を伸ばす。
「俺はそういうタイプじゃないから、余計に憧れるんだよね。役を生きる、みたいな人に」
「ウタ・ハーゲンですか?」
 ウタは偉大な演劇教師として知られるアメリカ人女優だ。彼女の著作に『〝役を生きる〟演技レッスン』という本がある。そのことを言いたいのかと思ったけど、神山は苦笑するだけだった。
「そういうのがさらっと出てくるのも凄いよね」
 別に凄くはない。役者だから、演劇の本を読んでいる。ただそれだけだ。
「神山さんは器用ですよね」
「褒めてないでしょ」
「褒めてはないけど、けなしてもないです」
 事実、神山は私とまったく違う性質(たち)の役者だった。
 神山の舞台を幾度か観たことがあるけど、決して下手な役者ではない。所属する劇団は大手で、公演では常に主要なポジションにいる。それだけの実力はある。ただ物足りないのは、彼が毎回きっちり八十点を出してくるタイプの役者である点だ。芝居が手堅い、と言えば聞こえはいい。でもそれは、想定以上の驚きや興奮を体験することはない、ということでもある。器用なのは間違いない。彼はきっと、私のように五感を呼び覚ました演技をしていない。
「遠野さんは天才だよ」
 神山の言葉に気負いはなかった。
「『落雷』を観た時、マジで電流走った気分だった。演じてるっていうか、その人そのものだなと思って。あれだけ全部を賭けて芝居してる人、他に知らないよ。遠野さんは天才だと思う」
 私は返事をする代わりにピクルスを食べた。あえて否定はしない。そんなことないですよ、とか言うと、面倒な展開になるのが見えているから。
「遠野さんの芝居を観るたび、正解を出された、って感じがするんだよね」
 神山は一人で語り続ける。
「わかってる。演技に正解なんて存在しない。百人いたら百通りの演じ方があることくらいは知ってる。でも遠野さんの芝居はさ、圧倒的に芯を食ってる。そこにいる、って感じるんだよ。台詞(せりふ)の存在を忘れる。そういう役者は他にいない」
 舞台関係者が語る演技論は、総じて嫌いだ。劇作家は台本を書くことが、演出家は演出することが、役者は芝居をすることが仕事だ。主張は各々の仕事のなかでするべきであって、酒を飲みながら意見を戦わせても舞台のクオリティは上がらない。
 それなのに、神山の話は自然と受け入れられた。
「私に言わせれば、神山さんのほうがよっぽど芝居に向いていると思います」
「誤解だね。俺は遠野さんみたいに、正解は出せない」
「百点を取ることだけが才能じゃないですから」
 神山がぴたりと動きを止めた。
 何食わぬ顔でギネスを飲みながら、さすがに傲慢すぎたか、と思う。暗に、自分が神山より上だと認めたようなものではないか。でも、悔いはなかった。それで怒るなら、怒ればいい。〈遠野茉莉子〉なら、それくらいは言って当然なのだから。
 低いドラムの音が私たちの間に流れていた。
 やがて、神山は音も立てずに笑った。
「やっぱり楽しいね、遠野さんと話してると」
 彼の両頬に生まれた深いえくぼをぼんやりと見ながら、私は思った。たぶん、近いうちにこの人と寝ることになるんだろう。直感というより経験に基づく予感だった。男への不快感はもはや麻痺(まひ)しつつある。理由がなければ、私は拒否しない。
 神山が追加で二杯、ギネスを頼んだ。
 演奏は熱を帯び、店内を支配している。スティックがタムやスネアを乱打し、最後は盛大なシンバルで締めくくられる。神山が手を叩くのにつられて、私も拍手していた。誰かの挙動を意識せず真似(まね)するなんて、ずいぶん久しぶりだった。

(つづく) 次回は2023年9月15日更新です。

著者プロフィール

  • 岩井圭也

    1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。